10.



 閉店間近の明け方近く、空のボトルの詰まったケースを抱えて、私は裏口から外へ出た。
 以前の女の身体では苦労する重量の荷物も、軽々と持てるのはこの身体の良いところだ。裏口脇に既に積まれていた同じ種類のケースの上に持ってきたケースを置く。衝撃で空のボトルがガチャンと揺れて、アルコールのにおいが鼻についた。この空ボトルのケースは、いずれ<ヴィスキオ>の人間が回収に来る。
 トシマにある中立地帯を運営しているのは<ヴィスキオ>なのだ。
 その証拠として、中立地帯で提供される物資やラインは全て<ヴィスキオ>から卸されてくるし、中立地帯での争いごとには処刑人の制裁が加えられる。何より、中立地帯の経営者は<ヴィスキオ>に属している(そう教えてくれたのはマスターだった)。
 ケースを置いた私は、大きく伸びをして、そのついでに天を仰いだ。見上げた空は昼間とは違って、すっきりと晴れて月が出ている。月を見上げたまま、胸に溜まっている気懸かり――昼間の出来事だとか、数時間前の猛のことだとか――を吐き出すように溜め息をついた。
 と、そこで乱れがちな足音が聞こえて、私ははっと振り返った。路地の奥からこちらへ歩いてくる誰か。危なっかしい足取りは…ライン中毒者か。とっさに腰のナイフホルダーに手を伸ばしたとき、その人物が丁度古びてチラチラと明滅する街灯の明かりの下に差し掛かった。

 「君は…ケイスケ?」青いツナギと人の好さそうな顔立ちに見覚えがある。

 私が声を掛けると、ケイスケはゆっくりと顔を上げた。
 「…さん、でしたよね。こんばんは」
 「こんばんは。じゃなくて、一人でどうしたんだ?アキラやリンは?夜のトシマは昼の何倍も危険なんだから、出歩いては駄目だよ。」
 「――ちょっと、色々あって」
 今にも泣き出しそうな顔を歪めてケイスケが笑う。アキラかリンと喧嘩でもしたから、一人なのだろうか。そう思って私はバーに入るように勧めたが、彼は作り笑いを保ったまま首を横に振った。
 「ありがとうございます。でも平気です。もう戻るつもりだから…」
 それじゃあ、と無理のある笑顔で会釈してケイスケは大通りの方へ歩いて行ってしまった。


***


 ケイスケと別れて店に戻る。倉庫や厨房を抜けて店内に通じるドアを開けた途端、悲鳴が聞こえた。
 …何だろう?私は一瞬首を傾げたが、後は不審に思うでもなく店内に足を踏み入れる。というのも、この店では悲鳴自体は珍しいこともないからだ。殺し合いこそないものの、殴り合い寸前の言い合いやライン不適合者の呻きなど“Meal Of Duty”の店内は常に何かと騒がしい。
 それでも、少しすると私も事態の異様さを感じ始めた。静かすぎる。
 フロアにはBGMの重低音が鳴り響いて、無音というわけではない。そうではなくて、人の話し声が全く聞こえてこない。その上、フロアにひしめく客たちは皆動くことを忘れたかのように立ち尽くしている。

 何があったというのだろう。

 そう思いながらフロアを見回したとき、狂ったような笑い声が聞こえた。はっと気がつき声の聞こえた方向を見れば、フロアの真ん中で黒いライダース姿の青年がいる――猛だ。彼は大振りのナイフを手にし、刃と顔に血を付けたまま笑みの形に顔を歪めていた。
 「…思い知らせてやる」
 猛が低く呟いて右手を大きく振ると、新たな悲鳴と共に血飛沫が宙に待った。 


 新たな犠牲者が出ると、辺りは先程と打って変わって騒然となった。
 皆、驚愕から我に返って行動を始めた。
 逃げ出す者、立ち尽くす者、猛への抵抗を試みる者。様々な動きが交錯して互いの動きを阻み、余計に混沌としてくる。抵抗を試みた者は、悉くナイフで切り裂かれた。咽喉を掻き切られて絶命する者も、手足などを失って生命のあるまま床に転がる者もあった。立ち尽くしていたり、逃げようとして遅れた場合も、同じ運命を辿った。
 私も早く逃げれば良かったのだが、マスターのことが気になっていた。このトシマで拾って仕事と居場所を与えてくれたマスターは、大切な恩人だ。その安否も見届けず自分だけ逃げるのは嫌だった。辺りを見渡せば、マスターはカウンターではなくフロアにいて、混乱する客を誘導しようとしていた。
 何の考えも無く、ただマスターのところへ行こうと私は歩き出す。そのとき、ナイフを手に猛がマスターへ近付くのが見えた。猛が血まみれのナイフを高く振り上げる。その動作がスローモーションのようにはっきりと目に焼きつく。

 ――駄目だ…!

 思考は真っ白だったが、身体の方が勝手に動いていた。気がつけば、私はカウンターの上からステンレスのトレーを引っ掴んで駆け寄り、思い切り猛を殴りつけていた。トレーの一撃は見事にヒットし、猛は呆気なく体勢を崩してよろめいた。
 「てめぇっ…!!」床に片膝をついた猛が、こちらへ憎悪の眼差しを投げて寄越す。
 「…!」マスターの叫ぶ声。
 『馬鹿っ!突っ立ってないで逃げろよ!!』頭の中で響くケイジの声。
 はっと我に返った私は、手にしたトレーを猛の顔面に投げつけて身を翻した。目指すは店の奥へ通じる扉、近くて人気がない格好の逃げ道だ。店の奥に逃げ込んだ私は、厨房を抜け、廊下を通って倉庫へ入る。倉庫には裏口に出る金属製のドアがある。そこから外へ出ることを思いついたのだ。
 「…隠れてないで出てこいよ」
 こちらを追うことにしたらしい猛の声が聞こえてくる。取り逃がさない自信があるのか緩やかな足音を聞きながら、私は金属製のドアから店裏の細い路地へと転がり出た。


***


 路地はしんと静まり返って人はいない様子だった。私は取りあえず路地を大通りの方へ抜けようと駆け出した。
 が、数メートルも行かないうちに何か、否、何者かに思い切りぶつかってしまった。「っ…!」勢いがつきすぎていたせいで体勢を立て直すことが出来ず、転倒して尻もちをつく。そうして見上げると、目の前には男が一人立っていた。昼間に研究施設の廃墟で会った男――今日は本当に顔見知りに縁のある日だ。
 「あなたは、昼間の」
 『こんなところまで…』
 「怯えている」男は不意にぽつりと呟いた。不審に思い見上げれば、感情のない紫の瞳がこちらを見下ろしている。「怖がっている。悔いている…余計なことをせず逃げれば、危機に晒されることもなかった」
 まるで今の私の状況を言い当てるような言葉だ。通りがかったこの男に私の考えなど分かるはずはないのだが、まるでこちらの思考を読んでいるかのような…。
 『引き込まれるな』
 (…ケイジ、分かるの?)この男が私の感情を言い当てる理由が。
 『引き込まれるな』疑問には答えず、ケイジはただ繰り返した。『この男が言ってるのは、多分あんたの感情と似て違うものだ。それを自分の感情だと思い込ませる。――他人を操るためには有効な手段だ』
 有効な手段だとしても、普通に出来ることではない。ケイジの言う手段を使うには、ある程度操る他人の本当の感情を把握しておかなければならないからだ。ずっと傍にいるならともかく、通りすがりでそんなことは不可能なはずで、『考えてる暇はないだろ!とにかくこの男から意識を逸らせ』
 「悔いる自分を恥じている。逃げる自分を嫌悪している。強ければ、情けない姿で逃げずに立ち向かえるのに」すぃと男がこちらへ手を差し伸べてくる。「強くなりたいだろう?」
 私は男の手に自分の手を伸ばし――払い除けた。
 「あなたの言葉は7割くらい当たってる。だけど、これ以上の精神分析はお断りだ。人に知られてもいいような内面をしてないんでね」
 手を払われた男は、不思議なものを見るように私を眺めている。私も逃げ出すタイミングを計って男を見上げていたが、『…追いつかれた』唐突にケイジが声を上げる。

 「――鬼ごっこはもうお終いか?」

 不意に聞こえた猛の声で、永遠にその機会を失ったことを知った。


 「機会を与えてやったのに、自分から逃げるのを止めるなんてな。勇敢なのか無謀なのかどっちだ。あぁ、勇敢ってのは当てはまらないな。俺に勝つ実力ってのはないよな」
 こちらに聞かせるようにゆったりと足音を響かせて歩いてきた猛は、私たちに近付くとふと足を止めた。視線が真っ直ぐに私の目の前に立つ男に当てられる。「てめぇは、さっきの…」どうやら2人には面識があるらしかった。
 「もしかして、そこで這いつくばってるネズミにもラインをやる気なのか?てめぇのその手にあるトランクの中は、ラインなんだろ?」
 「俺は完全な空虚で、与えも奪いもしない。望む者が自ら力を得る、それだけだ」
 男はあっさりとトランクを路上に置く。
 「それは、望む奴なら誰でもラインをくれるってことか」猛は呟くと、不意に私を見て凶悪に笑った。「なら、競争率は下げないとな」
 競争率も何も。私は麻薬なんてお金を貰ってでも使う気はない。麻薬の取引なら2人で好き勝手にやってくれ、と訴えてみたが、猛は私の言葉を信じようとはしない。一度ラインを使ったら、禁断症状を避けるためにはラインを使い続けるしかない。最早自分は麻薬なしでは生きられない。お前にこのラインをやるわけにはいかないのだ、と憑かれたような目をした猛は大振りのナイフを振りかざした。


***


 ナイフはすぐにでも振り下ろされるかに見えたが、そうはならなかった。咄嗟に閉じてしまった目を開いて見れば、猛は全身を緊張させて路地の奥を見ている。紫の瞳の男も、緊張はしていないものの同じ方向に視線を向けていた。
 一体何だというのだろう?不思議に思う私の耳に、カツカツとアスファルトを刻むように規則正しい靴音が届く。反射的に靴音の聞こえてくる方向を見ようとした瞬間、カッと一際高く響いた靴音と同時に猛が私の傍から飛び退いた。
 何が起こったのかは分からない。
 ただ一瞬、銀色の輝きが視界の端で閃くのが分かった。

 「コレは俺の拾い物だ。生かすも殺すも俺が決める。他人にどうこうする権利は無い」

 聞き覚えのある響きのいい声。私は恐る恐る猛と入れ替わりに傍に立ったシルエットを見上げるが、自分が目にしたものが俄かには信じられなかった。抜き身の刀を手にしたシキが、猛と紫の瞳の男へ冷えた眼差しを向けながら立っていた。


 「黒ずくめに日本刀…あんた、あの“シキ”か」呆然と呟いた猛は、ゆっくりと禍々しい笑みを顔に広げる。「あんたもラインを使ってるのか?だからそんなに強いんだろ?…だけど、このラインは譲れない!」
 猛は路上に置かれたトランクを手に身を翻す。大通りの方向へ抜ける気なのだ。あ、と思うよりも先に頬に空気の動きを感じて、次の瞬間、私は猛の後を追うシキの背を目にしていた。
 瞬く間にシキは立ち尽くす紫の瞳の男の脇を抜け、猛との距離を詰める。シキの手にあった刀が、そこで銀色の軌跡を描いて振われる。「っ…」私が息を呑んだ瞬間、
 ガキッ。
 耳障りな音と共に、刀はその軌道の途中で停止した。猛はとっさに振り返って、振り下ろされた刃を手に持ったトランクで受け止めたのだ。その動作自体は驚くべきものであったけれど、シキを相手にするには姿勢が悪い。猛はすぐに体勢を崩し、路上に突き倒される。
 シキは倒れた猛の正面に立ち、その真上で刀をかざした。生命まで奪う気だ――「駄目だ、シキっ!!」思い至った瞬間には叫んでいた。
 猛は、恐ろしいことをした。このままでは更に続けるだろう。それでも止めずにいられない。綺麗ごとを言うつもりはない。それは、身を売って辛い思いをし続けてきた猛への同情であり、シキに人を殺して欲しくないというエゴにすぎない。…とにかく、私はシキに猛を殺して欲しくなかった。
 シキが手を止めてこちらを振り返る。赤い瞳が、底冷えするような光を湛えて私を射抜いた。
 「俺に指図する気か」

 「――お前の負けだ」

 唐突に、今まで幽霊のように立ち尽くしていた男が声を発する。シキはその言葉に眉を跳ね上げて男を見た。
 「何だと」
 「お前の負けだ。手を止めた時点で、否、執着した時点で。感情を切り捨てなければ強さは得られない。お前では、俺は殺せない。お前は感情のため弱き者のために死ぬ」
 男はふと私に顔を向けた。底なしの淵のような紫の瞳と視線が交わる。

 「弱き者がお前を殺す」

 私が、シキを殺す?逆ならまだしも、そのようなこと起こるはずがない。起こすつもりもない。私は呆然としながら何度も首を横に振った。「しない。そんなこと…“私”がシキを殺すなんて…」
 呟く私に、それでもシキは苛烈な視線を向けてきた。さっき一度は冷たいと感じたはずのそれを、今度は灼熱のように感じた。私は視線に含まれる憎悪を感じて、恐ろしさと…泣きたいような感覚を覚える。
 「貴様…n…ソレが俺を殺すだと?戯言だな」シキが男に向き直る。
 「戯言と思うがいい。だが、お前が切り捨てられない存在は、お前が考えているようなものではない。お前が憎む者の同胞だ」男――nは動じる様子もなく、唐突に、それこそ人間離れした跳躍力で傍にあった廃ビルの非常階段の2階部分に立った。そこですっと腕を持ち上げて大通りの方角を指す。「余所見をしている間はあるのか?あれが持ち去られてしまう」
 nの指の示す先、いつの間に立ち上がったのか走り去ろうとする猛の背中がある。猛はnの声で再び追ってくるシキに気付き、とうとうシキに向かってトランクを投げつけた。中身に拘りがないのか、シキはあっさりとトランクを避ける。トランクはアスファルトにぶつかり、ガチャンと中で何かが(ラインのアンプルが?)砕けるような音がした。
 落下の勢いで少し路面を滑って、結局トランクは私の目の前で停止した。私はどうしようかと少し悩んだ末、トランクを持ち上げた。別に持ち去る気はないが、シキがこれを欲しいと思っているのなら確認すべきことがある。
 シキは、もう猛を追ってはいなかった。ちらりと逃げ去る猛の背を物でも見るような無関心さと共に一瞥した後、憎悪を込めてnという男がいた非常階段を睨んだ。けれど、いつの間に去ったのかそこにnの姿は無かった。


 程なくして、シキは刀を鞘に仕舞うと、無言でこちらへと歩いてきた。
 「あの…えぇと…ありがとうございました。あなたが来て下さらなかったら、危なかっ、」
 「助けた覚えはない」
 威圧感を覚えるほど間近まで近付いて、シキは私を見下ろした。その眼差しは再び熱を失って冷えていたが、奥のほうに憎悪の燠火が感じられる。怖くなった私は、思わずじりじりと後退さった、が。
 「貴様が俺を殺す、だと?」
 不意にシキが私の肩を容赦ない力で掴んだ。その痛みに顔をしかめたとき、
 「――…どこなの、…!?」
 大通りの方から、マスターの呼び声が近付いてくる。シキはちらりと声のする方を一瞥すると、肩から手を離して今度は私の左手を掴んだ。

 「話がある…来い」
 

***


 客を外へ誘導していたら、すっかり時間が経ってしまった。マスターは焦りを抑えながら、“Meal Of Duty”唯一のウェイターの姿を捜し始めた。
 先程、猛の囮になった。普段から争いを好まない優しい子であったのに…否、優しい子であるからこそ囮を買って出たのだろう。どうか無事でと願いながら、マスターは名を呼ぶ。そうしながら、裏口のある路地を覗き込んだとき、

 「マスター」

 答える声があった。
 見れば路地の奥に白いシャツと黒のスラックス、上から黒無地のエプロンを掛けたの姿がある。「っ」安堵して駆け寄りかけたマスターは、そこで気がついて足を止めた。 の隣に立つ男。はっとする程の美貌の持ち主だが、客にはいなかったはずだ。男は闇に溶けそうな黒すくめの衣服で、日本刀を携えている。日本刀――それを特徴として語られるのは、このトシマでは只一人。
 「…シキ」
 その存在を見たことがないわけではなかった。
 中立地帯の運営者は<ヴィスキオ>の所属。アルビトロの悪趣味な城に長くいれば、形ばかりの<王>の姿くらい目にする機会もある。参加者には極秘でも、<ヴィスキオ>はその構成員にまで<王>の正体を隠してはいないのだ。
 だが、こうもはっきりとその姿を見かけたのは初めてだ。シキが投げて寄越した一瞥に、マスターは背筋が粟立つのを感じた。何だかよく分からないが、ひどい威圧感がある。けれど、見ればは間近にいてシキを全く恐れる風がなかった。店で客に絡まれたときの方が余程怯えていたくらいだ。
 (あの子って…っていうか、あの2人って…)

 「来い」
 シキはマスターなどそこに無いもののように構わず、踵を返す。その右手がの腕を掴んでいる。「うわっ、ちょっと待っ…」は咄嗟に歩き出したシキに歩調を合わせられず、手を引かれるというよりは引きずられるような格好で連れて行かれようとしていた。
 「待ちなさい、シキ!うちの子をどうする気なの!?」
 恐れよりも心配が上回って、マスターは立ち去ろうとするシキの背中に言葉を投げていた。だが、シキは振り返らない。代わりのようにが肩越しに振り向いて――僅かに困惑の混じった笑顔を見せた。恐怖や辛さを押し隠した作り笑いではなく、本当の笑顔だった。
 「大丈夫です。マスター、ごめんなさい、ちょっと行ってきます」


 人気のない小径へ去る2人を見送った後、夜が明けて明るみ始めた空の下でマスターは溜め息を吐いた。
 一週間前、を拾った夜からあの子に想う相手がいることは何となく分かっていた。あの夜俯いて泣く首の付け根に見えた赤い痕。いつも手放さなかったロザリオ。時折言い寄って来る客を拒んでいたときの頑なさ。――けれど、その想いの向かう先が選りにも選って。
 「嘘でしょ…?」
 溜め息と共に呟いて、マスターは天を仰いだ。








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