9.



 夜のうちにマスターの許可を得て、翌朝早く私はひとり外出した。
 止められると困るのでマスターには内緒だが、目的地は源泉から教わった旧ニホン軍の研究施設であったという廃墟である。源泉はその位置について方角程度しか言わなかったが、それでも迷わずにたどり着けたのはケイジのおかげだった。
 今回、珍しく(といえば失礼だろうか)ケイジは私の行動に協力的だった。私が施設を見に行くことを彼は歓迎しなかったものの、迷えば余計な危険に遭うだけだからと研究施設への道を教えてくれた。それに、いつもの皮肉な口調も朝からなりを潜めている。
 もしかしたら、彼はその施設へ行きたいのかもしれない。行きたがっているけれど、何らかの理由で躊躇ってもいる。それで、私の行動を肯定も否定もできずにいるのではないか。
 幸いにも誰かと遭遇することは無く、私はトシマとはいえ朝は妙に清々しい空気の中を歩きながらぼんやりと考える。そうするうちに周囲の景色は派手な看板の目立つ繁華街から装飾の少ないビルの立ち並ぶオフィス街へ、更には高層の廃墟が少なくなって住宅地らしき廃墟の群れへと移り変わっていく。

 『違う。そっちじゃなくて、今のところを右だ』

 うっかり通り過ぎかけたところを指摘されて、私は慌てて方向を修正する。言われるままに角を右に曲がって進むうちに、建物は疎らになり、錆びたフェンスの残骸が囲う広い敷地が現れた。そこは、もとは庭園か公園か何かであったのだろう。コンクリートの残骸は他の場所より少なく、倒木や伸び放題の雑草、芝生が剥がれてむき出しになった地面が見える。
 「トシマ兎園――OR…お、おるふぁ…??」
 『ORPHANAGE…ここは孤児院なんだ』
 足を止めて傾いたフェンスに引っ掛かっている金属のプレートの文字を読もうとしたが、大学受験以来手をつけていない英単語で引っ掛かる。それをすかさずケイジが補足してくれるので、私はちょっと恥ずかしくなった。
 (孤児院か…この辺のことに詳しいんだね)
 『当たり前だろ。俺はあんたよりもトシマは長いんだ、いい加減詳しくもなる。――それより、ぼんやり突っ立ってると襲われるぞ』
 (え?あ、あぁ…うん)
 促されて先程より早足で歩き出すが、先に進むうちにすぐに歩調はゆっくりになっていった。というのも、道路のアスファルトの状態が一気に悪化したからだ。トシマの街中よりもこの周辺の方を集中的に破壊したのではないかと思えるほど、アスファルトは穴が開き、ひび割れ、剥がれて捲れ上がり、歩きにくいことこの上ない。ちょっとしたアスレチックでもしているかのようだ。


 障害物競走のような道路と格闘しながら進むこと数分で、唐突に私はゴールの前にいることに気付いた。道路はふつりと途切れ、真正面に背の高い門が現れたのである。奥の建物は崩れかけて幽霊のようにぼんやりとした姿を晒しているのに、門は偶々攻撃が逸れたのか意外にしっかりと残っている。門の中央には鉄格子の扉が取り付けられていたが、その扉自体は格子が歪んで人一人通れそうな隙間ができていた。
 刑務所、もしくは強制収容所。
 ふっと意識の底から浮上してきた不気味なイメージを打ち消して、私は門に近付いた。そして、丁度大人の視線の高さの位置に取り付けられている金属プレートの文字を読む。

 株式会社Rabbit 第3研究開発所ENED

 (ここって民間企業の土地じゃないのかなぁ…)
 『極秘の研究所を“ここが政府の極秘研究所です”なんて看板出して宣伝するわけないだろ。Rabbitは民間の製薬会社だが、軍の研究に協力してたんだ。あの時代は挙国体制だったから、協力しない企業なんて企業として存在できなかったらしいけど。――ともかく、ここは表向きは見ての通り民間の施設だ』
 (――そうだとしたら、おかしいよ。源泉さんみたいな情報屋ならともかく、あなたみたいな普通の若い子がどうしてそんな極秘情報を知ってるの?ただこの辺りを歩き回るだけで分かることじゃないでしょ?)
 『――……』返答は無い。
 まだ1週間ほどの付き合いではあるものの、ケイジの反応はなんとなく掴めてきていた。都合が悪いとき、彼は結構な頻度でこちらの言うことを黙殺するのである。せめて拒絶でもしてくれれば説得なり何なりできるのだが、こう無反応では取り付く島もない。
 そういえば、元の時代にいるうちの妹もよくこんな反応をしていた気がする。もしかしてケイジは上に兄弟がいて2番目なのだろうか。私は疲労感と共に非常に下らないことを考えながら、門に近付いた。鉄格子の合わせ目に出来た隙間に身体を滑り込ませる。
 『中へ入るのか』ちょっと慌てたようなケイジの声。
 (勿論。こんなところからでは何も分からないもの)
 『――危険だぞ』
 脅しも聞かずに敷地へ入ると、ケイジはもう何も言わなくなった。ただ、それでも言おうか言うまいかと迷うような微妙な気配が僅かに伝わってくる。やはり何か迷いがあるらしかった。


***


 敷地に入った私は、取りあえず目の前に立つ廃墟に歩み寄った。その建物はかつてそれなりに立派だったこのかもしれないが、極秘の研究が行われたというにしては規模が小じんまりしているように見える。が、ケイジが言うには建物の地下にシェルターの機能を持つフロアが幾層かあり、研究は主にそこで行われていたらしかった。それならば問題ないのかもしれないが、地上の上層部は殆ど吹っ飛ばされて今は骨組みしか残っていなかった。また、比較的状態が保たれているといえる1階部分もあちこち壁が崩れている。
 踏み込んだ途端崩落するのではないかと思い至り、私は足を止めて扉が無くなった入り口からそっと内部の様子を窺った。内部は薄暗くて、怨念たっぷりの幽霊でも出てきそうな不気味さがある。けれど、やはり覗くだけでは何の情報も得られず、意を決した私は――トシマの街中だって幽霊など見たことはないからきっと平気だと思うことにして――建物の中へ一歩踏み出した。

 『駄目だっ!』

 ぴしりと頭の中で声が響いて、私は立ち止まった。ここへ来て始めてのケイジのはっきりした意思表示だ。無視するわけにもいかない。
 (でも、中に入らないと何も分からないよ)
 『ここにあんたの欲しがる情報は無い。あんたが俺の身体に入ったのはトシマの路上で、ラインを使った後だった。こことは関係ない。分かってって、あんたがここに来るのを止めなかったんだ。俺はここの関係者で、もう一度見たいものがここにあるからあんたを利用した。――だけど、駄目だ。中は難民たちが棲み付いて危険だ。やっぱり戻ろう』
 (…戻らない。ケイジが前にトシマですることがあるって言ったのは、そのことなんでしょう?内戦になればここに来られなくなるし、身体だっていつ返せるか分からない。迷ってる時間は、きっとあんまり無いよ)
 取りあえず入ってみよう、と告げて私は奥へ進もうとするが、

 『嫌だ!俺は――俺は見たくないっ!!』

 ケイジの必死の声と同時に、唐突に息が詰まりそうな程の感情が私の中で膨れ上がる。
 恐怖、躊躇い、嫌悪、悲哀――それから、懐かしさ…?
 それらは多分私の感情ではなかった。私の感情であるにしては、あまりに脈絡が無さ過ぎる。自分がどうしてそう感じるのか説明がつかないのだ。ケイジの感情がこちらに流れ込んで感染したとしか思えない。私は理由不明の感情の波を抱えて呆然としながら、頭の隅で微かにこの現象に対して恐れを抱いた。


 感情の感染とでも言うべき現象は、始まりと同じように唐突に終わった。
 恐怖や嫌悪その他の諸々の感情は幻のように消え去り、私はぐったりと手近な壁に寄りかかった。どこにも不調は無かったが、強烈な感情に緊張した身体がほっと弛緩したのだ。
 『――どうした?』こちらの異変を感じなかったのか、ケイジの声が訝しげだ。
 (何でもないから――)
 と、不意に肩を掴まれて私は思わず悲鳴を上げそうになった。何とかそれを押し留めて振り向けば、背後に男が1人立っている。20代半ばくらいだろうか。茶色の髪と青い瞳で、顔立ちは整っているというのにぼんやりした表情のために一目ではそれが分からない。
 だが、顔より何よりも重要なのは彼が幽霊でも怪物でもなく、生きた人間であるということだ。肩に触れた手の温もりはそれをはっきり証明しており、私はほっと肩の力を抜いた。
 「あの、あなたは?」
 男に向き直って尋ねるが、返答は無い。焦点の曖昧な眼差しで男は私をじっと見続けるものだから、何だか見透かされるようで不安になってくる。と、しばらくして男は口を開いた。

 「――お前の中に異なる2色の色が見える。ぴたりと重なり合っているのに、決して混じることの無い色が」

 「え…?」意味が分からなくて、ただ男を見つめ返す。
 この男は正気を失っているのかもしれない。ふとその可能性に思い至った途端、じわりと恐怖が込み上げてくる。私は動くことも出来ないまま男を見上げ、息を呑んだ。青色をしていたはずの男の瞳は、光の加減のせいか今は紫がかって見える。
 (紫…?)
 『クソッ。まだ同類が残っていやがったか』ケイジが謎の言葉を吐き捨てる。
 「対の色を求めて古巣に戻ったか。だがお前の対は――」
 ふと言葉を切って男は建物の奥に視線を向ける。思わず息を潜めてその動作を見守った私の耳に、微かな物音が届いた。瓦礫の破片が砕ける音と獣の唸り声に似た低い響き。これは…。
 『見つかった!難民どもが来る…走れっ!!』
 ケイジの声で我に返った私は、佇む男の脇をすり抜けて走った。またもや理由も知れない恐怖が湧き上がってきて、先へ先へと背中を押す。振り返る余裕もなく鉄格子の隙間を通り抜けながら、私は頭の片隅で思った。

 ――この怖さは、一体どちらのものだったのだろうか。


***


 バーへ帰り着く頃には昼前になっていた。
 私はすぐに仕事に戻る気でいたのだが、マスターがそれを禁じた。「少し休んだ方がいいわ。まるで死人が生き返るのでも見てきたような顔色してるもの」…自分のことながら、どんな顔をしていたのか気になるところだ。ともかく、マスターの言葉に甘えた私は休息を取り、忙しくなり始める夕方から店に立った。


 宵の始め頃、その客は今日も店に来た。
 昨日赤いカクテルを注文した青年。相変わらずの黒いライダースと黄色いスカーフという格好で、しかしその表情は昨日よりも尚暗い。単に憂鬱そうであったのが、今日はもっと禍々しい何かを含んでいる。
 青年はBGMの重低音と照明の光が乱舞するフロアを横切って、真っ直ぐにカウンターへと歩いてきた。
 「カクテルをくれ。色は…」
 青だ、と彼は呪詛のように吐き出す。私はその言葉にギクリと動きを止めた。
 カクテルの青――この店でサインとして使われるそれは、“人体破壊の嗜好を持つパートナーを探している”という意味を持つ。自身の嗜好であるならば口出しする筋合いもないがそうでもないのに――というのも、この青年の場合は売春なのだ――一晩付き合うのは厳しすぎる。下手をすると、五体どころか生命すら危ないではないか。
 「…青の意味を承知の上で仰ってるんですか」
 「当たり前だ」低い声で答えた青年は、そこで苛立ちが頂点に達したらしく声を張り上げる「早くしろっつってんだよ!!」
 突然の怒声に付近の客が何人かこちらを振り返るが、一瞥しただけで興味を失って視線を戻す。トシマでは諍いなど見飽きるほどであるから、皆、野次馬するほど興味を引かれないのだ。
 しかし、マスターだけは大声を聞きつけてカウンターの端からこちらへ来てくれた。
 「何があったの?」
 「ちょうどいい。マスター、カクテルの青をくれ」私では駄目だと判断した青年が、マスターを仰ぎ見る。
 「猛…あんたももうトシマは長いんだから、青いカクテルを持ってるのがどういう連中か分かるでしょう?本当にいいの?」
 「いいから頼んでるに決まってるだろ」
 「ならこっちも止めないけど…」
 マスターは複雑な表情になりながらも、青年の注文通りにカクテルを用意した。そうして出来上がったカクテルをカウンターの上に置きながら、身を乗り出して声を潜める。
 「でも、程々になさい。いつも上手く相手の隙を突けると思ったら間違いですからね。あまり続けてると処刑人に目を付けられるわよ」
 「処刑人?不正?…下らねぇな。どんなやり方だろうと<王>に挑んで勝てば帳消しだ。――俺は遊ぶためにここにいるんじゃねぇ。全てを手に入れるためだ。のんびりプロレスごっこなんかやってられるかよ」
 青年――猛は奪うようにカクテルのグラスを取り上げ、赤い照明の一角へと歩き出した。途中、立ち尽くす私とすれ違い際に一瞬憎悪を込めた視線をこちらへ向ける。けれど、他に何か言うでもなく、彼は歩いて行ってしまった。


 …10分ほど後、私は昨夜と同じように紳士風の男と共に店を後にする猛の背中を見送った。








***


 …明け方が近付くころ、彼は暗い路上で意識を取り戻した。

 生きている。
 闇に閉ざされた感覚が戻ってきて最初に浮かんだのは、そんな陳腐な言葉だった。けれど、他に言い様がない。
 辺りを見れば、そこは相変わらずトシマの薄汚れた人気のない路地裏で、彼は一人座り込んでいた。先程、意識を失う前にラインのアンプルを手に握らせてきた男はもういない。夢か幻のように消えてしまっている。
 彼はゆっくりと身体を庇いながら立ち上がった。けれど、動いても身体は全く不調を訴えない。高濃度のラインを摂取したにも関わらず、生きている。体調不良もない。――“適合”したのだ。生命を賭した賭けに勝ったのだ。――ようやく訪れた実感に、彼は自然と気分が高揚するのを感じた。

 力を得た。もう誰も自分を侮り、貶め、踏みつけることはできない。
 そうさせないだけの力が、この手の中にある。だから、

 「思い知らせてやる…殺してやる」
 イグラ参加者も、自分を買った変態共も。
 自分を見下しているLOSTも、処刑人も、<王>も、皆。

 彼はいつの間にか唇を歪めて笑みを浮かべていた。こんな風に笑いたくて笑ったのは、気が遠くなるくらい久し振りだ。イグラに参加してからは勿論のこと、トシマに来る以前から笑いたいと思えることなど、もうずっと無かったのだから。
 思い知らせてやる。殺してやる。皆殺して、勝って全てを手に入れる。
 そして――家族を迎えに行く。
 彼は右手を持ち上げ、手の中にある十字架を頬に当てた。「もうすぐ、迎えに行くから」まるで誰かを抱き締めて頬ずりをしながら告げるように十字架に囁いて、彼はそれを大事に衣服のポケットに仕舞う。鎖が千切れてしまった十字架は、もう首から掛けておくことができなかったのだ。
 それから、空いた右手を腰のナイフホルダーに伸ばした。鉈のような大振りのナイフを引き抜きながら、浮かべた笑みを深くして歩き出す。

 「そうだ、皆、殺してやる」

 歩き出した彼の視線の先には、“Meal Of Duty”という派手派手しいネオンの看板があった。







前項/次項
目次