4.
「何も持たずに、そこで何をしている」 現れるなりシキはそう言って、右手に携えていた“何か”を無造作に放って寄越す。慌てて手を差し伸べて気がつけば、奇跡的にも“何か”は数メートルの距離を経て私の手の中に収まっていた(私の生来の運動神経からすれば、それは奇跡と言うしかない)。 私が受け取ったのは、あの部屋で手に取ったナイフだった。 部屋を出る際に護身用に持っていくべきかとも思ったのだが、結局私はそれを置いてきた。というのも、今まで刃物の使用目的は専ら料理や工作であって、殺傷はもちろんのこと護身にさえ使ったことはない。だから止むを得ない場合を除いては殺傷や護身に使いたいとも思えなかったのだ。 それと同時に、ナイフがシキの持ち物ではないかと思ったこともまた、置いてきた理由のひとつだった。 「――あの、これはあなたのナイフでは…?」 「それは元々お前が持っていたものだ」 「わた、――俺が持っていた…?」 慣れない一人称を言い直しながら、私は首を傾げた。この身体の元の持ち主が所有していたナイフということなのだろう。とすれば、シキはこの身体を助けた際に、律儀に拾って取っておいてくれたということになるのだろうか。 その辺りを突っ込むと昨夜のように藪蛇になるかもしれないので、私は話を変える事にした。 「そういえば、あなたはいつからその建物にいたんですか?さっき、俺が出てきたときは会わなかったのに」 尋ねると、シキは何か言う替わりに眉をひそめた。 「その不自然な言葉遣いは何だ」 「え、…えぇと、あの、やっぱり不自然ですか?――でも…こんな風に男の姿をしているのに、普段と同じように“私”なんて言って女言葉を使うのは、変に見えるんじゃないかと思って…」 「それでその可笑しな物言いか。お前が何であろうと関係ないと昨夜言ったはずだが?」 「それはシキさんが偏見の少ない人だからです。他の人が聞いたら大抵驚くし、もしかしたら気持ち悪いと思うかも、」 「“他人が”?――つまり、逃げようとしたということか」 「逃げるなんて…俺は、そんなつもりは」 「拾ったときから、お前は俺の獲物だ。俺の目の届かぬうちに去ることは、許さん」 シキの声の冷たさは私を怯ませるのには十分だったが、それよりも言われた内容に驚いた。 確かにシキが私を殺す気なら、私は“逃げようとした”ことになるのかもしれない。が、彼は先程まで私を拘束せずに独り放置していたのだ。それなのに、なぜ今になって固執を見せるのか分からない。 第一、私は逃げる気などない。 「逃げるつもりはありません。あなたが留まるように言うなら、そうします。ただ、起きたときあなたがいなくて、もう戻ってこないんじゃないかと思ったから…」 何とか説明しようとするが、言葉を重ねれば重ねるほどに自分の思考が子どものようで勝手に頬が熱くなってくる。 「…それに、ここにいてもあなたに迷惑をかけそうで――ならいっそのこと出て行こうと思ったんです」 「ネズミのようにこそこそ這い回っていたかと思えば、丸腰で外へ出る。その上、下らんことをぐだぐだと考えながら逃げようとする。雑魚は放置すると碌なことをせんな」冷笑を含んだ声で独り言のように言って、シキは私にきつい視線を向けた。 「――ナイフを抜け。抵抗する機会程度は与えてやろう」 そう言うシキの手には日本刀が携えられている。常識で言えば銃刀法違反だが、私は驚くことはなかった。日本刀よりも、それを持つシキ自身のほうが余程危険なのだ。 昨夜一度経験したはずなのに、シキの殺気を含んだ眼差しを、声を私はやはり恐ろしく感じた。けれども、そこで竦んでは本当に仕舞いだと昨夜理解しているので、何とか顔を上げてシキを見る。 「嫌です。ナイフなんか使いたくない」 「無抵抗で死ぬか。雑魚にはそれが相応しい」 「いやだ――“私”は死にたくない!あなたと戦いたくもない!!」 思わず叫んだとき、シキの姿は視界から消えた。翻るコートの裾の残像だけが、鮮やかに私の目に焼きついた。 *** いない。 視覚的にそれを悟ったが、頭の中で言葉に変換する間はなかった。 「今ならお前は自分の死にすら気付かんだろうな」 低い声が耳元に落ちて初めて、首筋ある刃に気付いた。シキは私の背後にいる。多分体勢としては抱きすくめるような格好で、私の喉元に刃を突きつけているのだろう。それを理解すると私は身動きもままならず、ただ息を潜めることしかできない。 私が硬直していると、刃は戯れるように軽く皮膚に触れて離れていく。あとには、冷たい感覚と微かな痛みが残った。何か薄い刃で作った傷のように、些細なくせにピリピリと存在を主張し続けるような不快な痛みだ。 「どうした?恐ろしくて声も出せないか」 明らかに挑発的な声が耳元に吹き込まれて、次の瞬間には私は大きく突き放されていた。体勢を崩しながら私は転倒を予測したが、結局されるがままみっともなくアスファルトの上に倒れこんだ。 「…っ」 倒れた際に肘や膝を打ち付ける。とっさに息を呑むが、痛みを顔には出さずに私はすぐに起き上がった。シキは私をいたぶることを楽しんでいるようだが、そんな相手に対して痛がる様子を見せることは意地でも嫌だ。だから、何でもない風を装ってシキに向き直った。 シキは抜き身の刀を手にしたまま、こちらを見ている。今は楽しそうな様子はなく無表情で、“観察している”――そんな様子だ。私が顔を上げると視線が合い、シキはわずかに目を細めた。 そして動いた。 地を蹴り、私との距離を瞬く間に縮める。その動きは確かに速いのだが、最初と比べれば格段に遅い。手加減していることは明白だ。 と、不意に金属同士のぶつかり合う音がする。私は自分がシキの振り下ろした刀を反射的にナイフの鞘を払って受け止めていたことに気付いた。それは“私の”条件反射というより、“この身体の”条件反射だった。 刃を合わせたのはほんの一瞬で、再びシキに突き放される。 私は抵抗せずにアスファルトの上に倒れこむ。ただ今度は地面に背中を打ち付けそうだったので、とっさに少し身を捩って無防備に倒れることは避けた。 *** 顔を上げてシキを窺うと、彼は黙ってこちらを見ていた。 (もしかして、待っていた?) 一向に私に止めを刺そうとはしないシキの様子に、ふと思う。先程の攻撃は私を試すようでもあり、闘いを教えようとするようでもあった。けれども、シキの意図がどこにあるのか分からない。 惑いながら立ち上がって、シキの顔を見る。私に何が求められているのか、彼の無表情からは一向に読めはしない。読めはしないが、 (このまま、) 『――とび込めばいい』 自分が何をしようとしているのか理解しないうちに、自然と身体が動いた。 攻撃するにしては緩やかな速さでシキとの距離を詰め、ナイフを繰り出す。シキは予測していたように落ち着いて、刀で私のナイフを受け止めた。その一連の流れは――やはり私が戦闘を“習わされている”印象があった。 シキが私を押し返そうとするので、私は今度はナイフを持つ手に力を込めて抗った。多分シキは容易に私を突き放せたのだろうが、敢えてそうしなかったために私たちはしばらく刃を合わせ続けた。 そうしながらふと気付けば予想外の近さにシキの顔がある。その黒と見紛う程の暗い紅の瞳と視線が交わり、 (あかい…?) とっさに動揺してしまう。刀を受け止める力が足りず、ナイフが刀の上を滑った。 隙を付いてシキは刀を持つ手に力を込め、大きく私を突き放した。 「っ…!」 今回は衝撃を逸らす努力さえ忘れていた。ただいつになく転倒を踏み止まろうとして足掻く。そのせいで、みっともなく仰向けに倒れた私は強かに背中を打ちつけた。 息を詰めて痛みの波をやりすごしてから上体を起こす。シキの方を見ると、彼はまた目を細めて見定めるようにこちらを見ていた。そして私が起き上がったのを見ると、示すように綺麗な動作で刀を鞘に戻した。 “これで終わり”ということだろうか。よく分からないまま私は立ち上がり、先程払い落とした鞘を拾うと、シキに倣ってナイフを鞘に収めた。 「行け」 突然シキが言いながら何かを投げて寄越した。私は言葉のほうに気をとられて投げられた物を受け止められなかったので、それはアスファルトの上に落ちて耳障りな音を立てた。 見れば、それはあの部屋にあった金属製のタグだった。なぜタグなど投げて寄越すのかと一瞬訝しんだが、今はそれを尋ねるどころではない。 「あの、行け、とはどういうことです?殺すのではなかったんですか?」 「ネズミの分際で牙を剥いて見せた褒美だ。見逃してやる。そのタグを持ってトシマへ行け」 シキは視線で林立するビルの群れを示す。その視線につられて、私は同じ方角へ顔を向けた。 その辺りをトシマというのだろう。トシマの辺りはもう夜がすぐそこまで来ていて、雲の切れ間から覗く空が紅から紺へと変わり始めている。それを背景にビルが立ち並ぶ様子はどこかおどろおどろしく、得体の知れない印象があった。 「あそこへ…?」思わず尋ねると、意図しない情けない声音になった。 「先に言っておくが、旧祖地区は案内なしでは抜けられん。お前はトシマに行くしかない。さもなくば、<難民>どもに食われるか野垂れ死ぬかのどちらかだな」 「トシマへ行きます!!」私は勢い込んで答えてから、さり気なくシキの様子を窺った。「――わ、俺は…行っても…いいんですか…?」 「褒美だと言っただろう。――だが、忘れるな。お前は俺の獲物だ。いずれは殺す。そのときまでに、」 ――俺を楽しませる程度には抗えるようになっておけ。 そう言って、シキは楽しげに唇に笑みを乗せる。 肉食獣のような笑み。中々酷いことを言われているのだが、私をいたぶることを楽しんでいたときのような嫌な感じはしない表情だったので、私はごく自然に見惚れていた。 数秒後、はっと我に返る。 男が男に見惚れる図は、私はともかく相手は結構気持ち悪いのではないだろうか。急に心配になって、私は足元のタグを拾うふりを装って視線を逸らした。そして、タグを拾おうと手を伸ばしかけて、傍に落ちているものに気付いた。 銀色の十字架のロザリオ――私はそれをタグと一緒に拾い上げた。 「あの…これは、シキさんのものでは?」 手のひらにロザリオを乗せて、シキに向けて示す。シキはロザリオを一瞥したが、次いで私を見て眉をひそめた。 「…その鬱陶しい呼び方は止めろ」 「でも、」反論しかけたが、シキに睨まれたので中止する。「――シキ…」 「それでいい。――そのロザリオは預けておく。せいぜい、迷子札程度にはなるだろうからな」 「迷子札って…」 どういう意味で言っているのか、私は理解しかねた。子どもではないと反論すべきなのかもしれないが、そういう次元の話でない気もする。 けれども考え込んでいると、 「行け。じきに日が暮れるぞ」 言われて私はぎくりとした。早く、トシマという場所に行かなければならない…。 焦りながらも私はシキに向き直って、 「あなたにはお世話になりました。ありがとうございます。ロザリオは必ず返します」 先程シキが言った言葉の魔力に支配されたような勢いで言い、一礼する。そのまま回れ右をして、立ち並ぶビル目指して駆け出す。 傷んだ舗装に足を取られて転びそうになる度に後ろを振り向きたい思いに囚われる。けれど、振り返ることは自分の甘えを見せるかのように思えてできなかった。 私は何かに背を押されるようにトシマへ向かって走った。 *** 走って走って息も絶え絶えになった頃、足元の道路に入った一際大きな亀裂に足を取られて転倒してしまう。一度止まると動き出す気力も沸かず、ひび割れて瓦礫の散在する路面に手を付き、ぜえぜえと呼吸を繰り返した。 体温が上昇してカッと暑くなる。急激に走ったために痛む胸を片手で押さえて俯いていると、とくとくと身体の中に響く自分の鼓動を感じる。じっと息を整えていると、気遣わしげな声が耳に届いた。 「――ねぇ、大丈夫?」 とっさに声が出ず、頷く動作をして返答に代えた。 それから顔を上げると、厚底ブーツのつま先が視界に入る。視線を動かすにつれて半ズボンの裾から覗く膝、次いで細い肩、最後に幼さの残る顔が見えてきた。少女めいて整った顔立ちではあるが、目の前に立つ人物は声から判断して男だ。 少年は少し身を屈め、こちらを覗き込むような姿勢になった。 「ニーサン、大丈夫?」 (…にいさん?) 言われて微かな違和感を覚えてから、自分の状態について思い出す。 確かにこの身体では“にいさん”と呼びかけるのが正しい。つい先程、男として過ごす心積もりもしたはずなのに、いまだにうろたえている部分がある――“にいさん”と呼ばれたことよりもむしろそちらのために、衝撃を受けた。 が、そんなこちらの狼狽を少年が知るはずもない。 「もしかして、ニーサン誰かに追われてるの?」 「…っ、…ちが、…トシマへ、行けって…言われて…」 「トシマはここだよ。っていうか、ニーサンもここの人でしょ?タグ持ってるし、イグラ参加者なんでしょ?参加者は外に出られないのに、一体どうして…」 少年の言葉には意味を知らない単語が多く、理解できなかった。 ただ“タグ”と言う言葉に、自分の手の中にあるものを思い出す。アパートの廃墟の前でシキが投げて寄越した金属プレートの束とナイフだけ掴んだままここまで走ってきたのだ。 私は鎖の部分を持ち、タグを自分の顔の前まで吊り上げてみた。 「タグ、ってこれ…?…何に使うんだ?…」 「ちょっと!何に使うんだって、」と驚きの声を上げた少年は、そこで表情を変える。何かを見極めようとするかのように大きな瞳を細めた。「そのロザリオは…」 言われて見てみると、吊り下げたタグにシキから預かったロザリオが混じっている。ここへ来るときに一緒に握り締めてきたのだ。 けれど、シキの持ち物であったロザリオにどうしてこの少年が反応するのだろう? 少年は考え込むようにロザリオを見つめる。何か言葉の続きがあるかと思い、私は少年が口を開くのを黙って待った。けれど少年はそれ以上言葉を続けることはせず、唐突に空に視線を向けてからこちらを見た。 「とりあえず、移動しない?もう夜だから道端にいるのは危険だよ。ニーサンもそんな様子だし、落ち着ける場所へ行こうよ。ここから近いからバーでいい?」 これは、少年も一緒に行くということなのだろう。 私はこの時代に関して無知であるから、知識を得るいい機会かもしれない。けれども、体格はこちらの方が少し勝っているとはいえ、見知らぬ人間についていくのは危険なことだ。 一瞬迷いはしたが、結局私は少年の誘いに乗ることにした。 この時代にはシキより他に知り合いもない。右も左も分からない。だから、とにかく手の着けられる部分から知識を得なければならない。 そう自分に言い聞かせた。 「よく分からないから――場所は任せる」 そう返事すると少年は“あれ?”という表情をしたが、すぐに「分かった」と頷く。 私は立ち上がってタグとロザリオをジーンズのポケットにしまうと、案内してくれようと先に立つ少年を追いかけた。 *** すっかり暗くなった空の下、少年は迷うことなく僅かな明かりしか点いていない街に分け入っていく。それからしばらくして、彼は派手な看板の前で立ち止まった。 “Meal of Duty” 装飾用なのか有刺鉄線を巻きつけた看板の文字は、そのように読める。周囲の建物が廃墟らしい佇まいであるのに比べると、毒々しい色彩の電飾に彩られた看板は痛ましいほどに悪目立ちしていた。 その看板の横に、地下へ続く階段がある。少年はごく気軽に階段を降りようとするが、私はあることに気付いて立ち止まった。すると、付いてこない気配に気付いたのか少年も振り返ってこちらを見上げる。 「どうしたの?」 「君は…未成年だろ?バーなんかに入って、」 私が言うと、少年は驚いたどころか珍獣に遭遇したような表情になった。そのままたっぷり数秒固まっていたかと思えば、弾けるように笑い出す。 「あははははは…ニイサン、何時代のひと!?それにここは中立地帯だから。イグラに参加登録するとき、変態が説明してたでしょ?」 またしても、分からない単語ばかりが出てくる。 “してたでしょ?”と聞かれても、上手く返答を取り繕うだけの知識もない。かといって、少年に事情を言ってしまうのは躊躇われた。成り行きで明かしたシキは何事にも動じることのない人物であったからよかった。が、普通の人間に説明すれば、嘘と笑われるか精神に変調を来たしたと見なされるか――そういう反応になるだろう。 返答に困った私は、とっさに思いついた言い訳を口にした。 「分からない。記憶を失くしてしまったんだ。過去のことは覚えてない」 「…それって、記憶喪失ってやつ?」少年は大きな目を更に大きく見開いたまま尋ねる。 「多分そうだと思う。専門家に診てもらったわけじゃないけど…」 「そっか、記憶喪失かぁ――って、ぇええええええええええ!!?」 心持ち後ろに身を引いて少年が叫ぶ。その動作に少年が階段から落ちてしまうのではないかと私は気が気ではなくて、手を伸ばして少年の腕を掴んだ。 途端、少年がぎくりと身体を緊張させた。 「あ、ごめん…後ろが階段で危ないと思ったから」 「あ、そっか、ありがとう」 先程の反応のわりに、少年は私が無造作に触れたことに嫌悪を示さずに言う。 そのとき。 「どけよ。こんなとこでいちゃついてんじゃねぇよ」 背後から声が飛んできて、私は振り返った。見れば、今来たばかりらしい若い男が3人私たちの後ろに立っている。先頭の男は始め苛立った様子だったが、やがて嫌な視線をこちらに這わせてニヤリと笑みを浮かべた。 「お嬢ちゃんたち、二人でいちゃついてないで俺たちと来いよ。相手してやるぜ」 (お、おじょうちゃん…?) 男の言葉に違和感を覚えて首を傾げていると、不意に少年が私の腕を掴んだ。 「悪いけどそんな暇ないから」 少年は突き放すように言ってから、「もう行こう」と私の手を引いた。 *** 店内に入ると、少年は勝手知ったる様子で奥のボックス席へと向かった。 「ちょっと座ってて。すぐ戻るから」 言い置いて離れていった少年は、言葉通りすぐに戻ってきた。その腕にペットボトルとあの“Solid”という食べ物の袋を幾つか抱えている。それをばらりとテーブルの上に投げ出してから、私の向かいの席に座った。 「タグ交換してきたんだ。俺のおごり。どんどん食べて。俺が誘ったんだし、遠慮しないでね。――そうだ!取りあえず水飲んどいた方がいいんじゃない?あれだけぜえぜえ言ってたんだし、声掠れてるし」 少年はたたみかけるように言って、ペットボトルを押し付けてくる。確かに喉か渇いていたのは事実で、私は素直にそれを受け取って礼を言い、口を付けた。 「自己紹介、まだだったよね」こちらが一心地ついたのを見計らったように少年は切り出す。「俺はリンっていうんだけど、ニーサンは自分の名前覚えてる?」 あぁ、そう言えば少年――リンには記憶喪失と説明したのだと思い出す(何だか自分ででっち上げた内容を忘れてしまいそうだ)。実際には記憶はあり私には という名前があるが、 というのは女性名であるから使えそうもない。 「…覚えてないの?なら、仮の名前でも考える?名前が分からないのは話にくいし、これからしばらく不便でしょ」 リンの言うことは尤もなので、私は「そうだな…」と天井を仰いで仮名を考える。すると案外あっさりと名前が一つ浮かんできた。“これしかない!”と思ったわけではないが、変に凝った仮名というのもおかしいので思い浮かんだ名前を口に出す。 「“”にしようかと思う…変かな」 「別に変じゃないけど、意外に無造作だね。普通ならもっと迷うんじゃない?まぁ、決まったんだし別にいいんだけど」 無造作というならリンだって他人のことは言えない、と私は思う。 記憶喪失なんて言われて、そう簡単に受け容れられるだろうか。普通疑うような気がするのだが、それは私が嘘だと知っているからそう思うだけだろうか。 「…記憶喪失って、信じてくれるのか」 「ん?嘘なの?」 「嘘じゃない。でも、あまりぱっと言われて信じられるようなことじゃないような気がして」 不安になってそう言うと、「そんなこと」とリンは笑った。 「だって、を見てたら分かるよ。タグも中立地帯も知らないし、外で声を掛けられたときもあんな反応だし。それに、信じたからって損するようなこと今はないし。――でも、よく右も左も分からない状態で生きてられたねー」 リンがしきりに感心するので、私は自分がこの時代で目覚めてからのことを少し加工して、 廃墟で目を醒ましたら記憶がなくなっていた。 親切な人が助けて介抱してくれたので、何とか生きている。 その人物が旧祖地区は危険だからトシマへ行けと助言してくれたので、トシマへ向かうことにした。 と説明した。 脚色を加えたはずが、口に出すと殆ど事実と変わらないことに気付いて私は急に恥ずかしくなった。まるで私は考えなしの行き当たりばったりで行動しているようではないか(というかその通りなのだが)。実際リンも同じことを感じたようで、呆れ顔で息を吐いた。 「ほんっっっとに、それでよく無事でいられたよね。その助けてくれた人はイグラのこととかタグのこととか教えてくれなかったの?が記憶喪失だって分かってたのに?」 「ああ…まぁ、結構無口な人だったから…」 聞ける状況でもなかった。それ以上に、聞いたとしても親切に教えてくれる気がしないし。――などとシキのことを思い出していると、リンが大きくため息を吐いた。 「仕方ないなぁ。俺が説明してあげる」 *** リンは自らの言葉通り、トシマやイグラ、タグなどについて丁寧に説明してくれた。おかげで私は自分の置かれた状況をおぼろげに掴むことができた。 殺人さえ許されるバトルゲーム、四方を廃墟の迷宮に囲まれた都市。 私は闘い方など知らないし、闘いたいとも思わない。 それなのに、逃げ出すことさえかなわないなんて…。 「大丈夫?」こちらを覗き込んで、リンは言った。「具合が悪い?それとも怖い?」 問われて私は「平気だから」と首を横に振る。 様々なことを教えてくれたリンには感謝しているし、いい子だとも思う。けれど、自分が今抱えている不安を告白する気にはなれなかった。本来こういうことはあまり他人に言うことでもないのだと思う。シキに取り乱した様子を見せたのは混乱していたからで、意図してのことではなかったのだ。 だから私は重ねて「大丈夫」とだけ言った。 「ならいいけど。――それで、これからどうするの?」 「どうするって…取りあえず、助けてくれた人にもう一度会ってからトシマを出て安全な所に行きたいな」私はそこで少し考えてから付け足した。「それに、出来るなら自分がどういう人間だったのか知りたい」 そう。 この身体は今は私が占領しているが、本来の持ち主がいるはずだ。もし知人がいたら、記憶喪失という免罪符があるにせよ何の情報もなしに対応するのは苦しい。それに、本来の持ち主にこの身体を返すべきだ。そのために、多少なりともこの身体の持ち主についての知識が欲しい。 「つまり記憶を取り戻す手がかりが欲しいってことだよね?」 「え?…あぁ、うん。そういうことになるかな」 私が答えると、リンはぱっと笑顔になった。 「なら俺の知り合いにそういうこと知ってそうなのがいるよ。情報屋でもうだいぶ年なんだけど、イグラ参加の新人のチェックはちゃんとしてて…って、」 そこで言葉を切って、リンは目を丸くする。その視線は私を通り越した背後に注がれているようだ。視線が気になって私も後ろを振り返ってみるが、薄暗い明かりの中幾人もの人間が行き交っているだけにしか見えない。 しばらくリンは同じ方向を注視し続けたが、唐突にすっとソファから立ち上がる。 「いた…――オッサン!!」 店内にリンの声が響き、少なくとも3メートル四方にいた人間がこちらに注目した。 目次 |