5.



 “オッサン”――リンの大声に反応を見せたのは、カウンターの前にいた男だった。
 男は、この店の常連であるのか、店主らしきスキンヘッドの男と親しげに立ち話をしていたのだが、リンの声にこちらを振り返った。外見から察するに、年齢は30代後半から40代初めくらいだろうか。やれやれと頭をかく仕草をしながら、ゆったりとこちらへ歩いてくる。
 「オッサン、この子はっていうんだ」リンは近付いてきた男に言ってから、私に男を示して見せる。「それで、、これがさっき言ってたオッサン!」
 さすがに本人を前にそれは失礼なのでは。――私は勝手にハラハラしたが、男は怒ることも否定することもしなかった。ただ苦笑しながら、リンに「きちんと名前で紹介してくれよ」とボヤくだけだ。それからこちらに左手を差し出す。
 「源泉だ。トシマで一応情報屋をやってる。よろしくな」
 「あ…といいます。こちらこそよろしくお願いします…源泉さん」
 握手の習慣がないことに重ねて自分の仮名が未だ馴染まないため、しどろもどろになりながら私は左手を出す。戸惑いながら源泉の手を握って見上げると、彼はなぜか驚いたような表情をしていた。
 「源泉、“さん”…!」リンが調子っ外れの声を上げる。
 また気付かないうちに変なことをしたのだろうか、と私はギクリと硬直する。と、不意に楽しそうな笑い声が割り込んできた。

 「敬語に敬称だなんて、まぁ、トシマには珍しいようなお行儀のいい子ね」

 いつの間にかカウンターにいたスキンヘッドの男が源泉の隣まで来ている。黙って見ていると、男は突然源泉の右の耳をギュッと摘んだ。
 「いでででで…何しやがる!」
 「鼻の下伸ばしてデレデレしちゃって、見っともない。そんなだからオヤジオヤジ言われるのよ。やっぱりオヤジになるとお淑やかな子がいいのかしらね」
 「誰がデレデレなんかするか!――お前さんこそ店放って何しにきた」
 先程までの大人らしい余裕もどこへやら。子どものように噛み付く源泉に、スキンヘッドの男は「カウンターに忘れ物」と手に持っていた上着を押し付ける。それから、急に身を乗り出して私に顔を近づけてきた。
 「へぇ…リンが新しい友達を連れてきたからどんな子かと思ったら、なかなかカワイイじゃない。ねぇ、あなた名前は?アタシこの店でマスターやってるんだけど、どう、ウチでバイトしない?バイト代弾むから、」
 「ちょっとマスター!が思いっきり退いてるでしょ!?話の邪魔だからあっち行ってよ」
 リンがまるで野良犬を追い払うような仕草をすると、マスターは憤慨しながらもカウンターへと戻っていく。その去り際、こちらに向かってウィンクを一つして見せたので、私はそれに微笑を返した。
 (怖くはないけど…色々強烈な人だ…)
 「驚いただろ?あれはあれで悪い奴じゃないんだが」
 私がマスターへ抱いた印象を察したらしい源泉が苦笑する。
 改めて見ると、彼は決して線が細いのではないが、どこか知的な印象を与える容貌をしていた。笑うと穏やかな目に少し悪戯っぽい色が浮かんで、ずっと若々しく見える。何だか急に“おっさん”呼ばわりが少し可哀想なようにも思えてくる。

 「――それで、お前さんたちは俺に用があったんじゃないのか?」
 「あ、そうそう、おっさんに訊きたいことがあってさ」

 私が記憶を失ったという(架空の)状況と求めている情報について、リンが簡潔に源泉に説明してくれる。が、返ってきた答えはあまり果々しいものではなかった。源泉もイグラ参加者全てを把握しているわけではなく、今手持ちの情報に該当するようなものはないのだという。
 それでも、それらしき情報が見つかれば報せると彼は約束してくれた。
 情報探しにあまり進展がないことを、リンは自分の事のように気落ちしてくれた。けれど、私自身はさほどでもない。今日の夕方までトシマのことも全く知らず、尋ねて相談できるような相手もいなかったことからすれば、大きな進歩だ。


***


 もう夜遅いこともあって、私はリンと共にその日休む場所を探すことになった。
 その際、基本的にイグラ参加者はトシマの廃墟に身を潜めて休むのだとリンは教えてくれた。幾つかある中立地帯の中には、眠ることができるような施設もあるのだそうだ。けれど、中立地帯の中はバトル禁止でも、一歩外に出れば何の保護もない。中立地帯の中で目をつけられ、外に出た途端襲われることもあるから、中立といっても無防備に寛げるものではないのだという。
 安心できる場所が殆どないなんて、よくもまぁ皆そんなゲームに参加するものだ。私は聞いて呆れてしまう。
 「ちゃん、バイトの件考えておいてね〜」
 まだ仕事があるという源泉はその場に残り、私とリンはマスターの声に見送られてバーの外へ出た。


 外は先程のバーの喧騒が嘘のように静まりかえっていた。
 休めるような場所に心当たりがあるというリンが、案内する形で先を行く。私は土地勘のない街の様子を物珍しく見回しながら、少し遅れてその後に続いた。
 夜である上に街灯や照明など殆ど見かけないのに、歩きながら視線を落とすと足元に薄く影が伸びている。あれ?と思い見上げれば、昼間かかっていた雲は晴れたようで、背の高いビルの廃墟の隙間から覗く夜空に月が見える。月は満月に近く、ひんやりと冷たく明るい光を地上に投げかけていた。
 穏やかな月の光に照らされた廃墟の街は、まるで造りもののように現実感がない。人々が盛んに行き交う大通り、立ち並ぶビルに点る明かり――そういったものを日常的に見ていた私からすれば、ここはその外観に等しく“死んだ街”のように思える。
 本当に、こんな静かなところでイグラが行われているのだろうか。そんなことを考えるともなく考えていると、先を行くリンが私の名を呼んだ。
 「が持ってるロザリオなんだけど」
 言いながらもリンは立ち止まり振り返りもせず、歩いていく。私は隣に行くべきか迷ったが、リンの背と声が少し緊張を帯びている気がして、そのままの距離を保って従いていくことにする。代わりにジーンズのポケットをまさぐって、シキから預かったロザリオに触れた。
 失くしたりしないように、いっそ首から架けておこうかとも思ったけれど、ロザリオの鎖は切れていた。今は余分のタグと一緒にポケットにしまってあって、私の首からは“A”のタグが一枚下がっている。

 「ロザリオがどうかしたのか?」
 「そのロザリオっての?」
 「いや、これはただ預かってるだけだ。俺のものじゃない」

 唐突に立ち止まり、リンは振り返った。その顔からはくるくるとよく変わる表情が一切取り払われて、初めて見る無表情だけが残っている。明るい青の瞳は凍り付いたような硬質の光を放っていた。リンのそんな表情は初めて見るはずなのに、見覚えがある気がする。不思議に思いながら記憶を探れば――そう、殺気こそ伴わないが、シキが浮かべた表情に似てはいないか。
 (…そんなの、きっと勝手な思い込みだ)
 思いつきはしたが、リンとシキにあまりにも接点が見出せず、自分で自分の思い付きを否定する。けれど、私の思考など知る由もないリンは、なおもシキに似た無表情のまま言葉を発した。
 「預かりもの…それって、もしかして、」

 “ぎゃぁああああああぁぁぁ…”

 不意に静寂を割って響く絶叫。
 昨夜アパートの廃墟で聞いた、獣の遠吠えじみたものとは異なる。明らかに人間が発しているのだと分かる、恐怖にタガが外れた声音だ。
 「何だ…」
 声に次いで、何やら乱闘のような物音が聞こえてくる。
 それも決して遠くはない。きっとすぐ近く。立ち並ぶビルの合間に伸びる小径のどれかを入った辺りに、その現場はあるはず。
 「、駄目だ。行っちゃいけない」とっさに動きかけた私をリンが制止する。 

 “――ぅ…、たすけ…”
 タスケテクレ。

 呻くような声が耳に届いて、今度こそ本当に私は走り出した。
 分かっている。
 私も20年余り生きてきたのだから、関わるべきでないことが世間にあることくらい弁えている。大体、闘い方どころか護身術すら知らない私が行って、暴漢を制止できるわけがない。分かっている、けれど――助けを求める人を放っておいていいはずはない。


***


 制止しようとするリンの声を背に、物音がすると思しい路地裏に入る。
 そこはほんの数メートルも進むと行き止まりになっていて、行き止まりの壁の前に大柄な男が立っていた。その足下にはぐったりと力を失った人間が倒れている。大柄な男は、それをボロきれか何かのように繰り返し蹴り続ける。蹴る動作の度に、男が肩に担いだ鉄パイプに巻かれた鎖が揺れる。すると、その先にぶら下がった幾枚ものタグがぶつかり合って、チャリチャリと音を立てた。
 倒れている人物は、もはや抵抗の気力もないようで、男のなすがままになっている。気力もない?いや、もしかして彼はもう…。

 ビルの合間の路地。そこに転がる人間の身体。息絶えてもなお、触れれば温かさが残っていることが分かって。――夢で見た光景と目の前の現実が同調して、かつて感じた恐怖感が蘇った。あの時と同じ、無意識のうちに叫ぼうとしたが果たせず、喉から空気だけが漏れる。その拍子に、収めるべきホルダーがなく手に持ったままでいたナイフがアスファルトに落ち、カランと高い音を立てた。
 そのとき倒れている人物が微かに呻いて、私は少し落ち着きを取り戻す。生きているのなら、あの夢みたいにさせないように助けださなくてはならない、とそう思って。
 「やめろ!その人はもう抵抗もできないだろう!?」
 「あぁ?何だぁ?」
 大柄な男は蹴る動作を止めてこちらを振り返る。そのとき、別の声が割り込んできた。

 「――待てよ。それ、俺のエモノだからな!ジジはもう一人ヤッただろ」

 ビルの壁際、電気が通わず用途を果たさないままに存在する街頭の影からぬっと別の男が姿を現す。暗くて判然としないが濃い色のパーカーを素肌の上に羽織り、両の手には長い鉤爪。大柄な鉄パイプの男の仲間であるらしいが、どう見てもまともな人間ではない。
 鉤爪の男は大股で数メートルあった距離を詰める。私は逃げ出したいと思っていたし、一人なら実際そうしただろうが、息絶え絶えの人間を放っておくことに躊躇いを覚えて逃げ遅れた。気が付けば、男が鉤爪のついた右手をこちらに差し伸べてくるところだった。
 「っ…」
 攻撃するような動作ではなかった。
 それでも、下手に動くことなど出来はしない。目を固く閉じて息を潜めていると、肩に手が触れるのが分かった。鉤爪の男は、私を傷つけないまま器用にも鉤爪の下の手で私の肩を掴んでいた。
 目を開ければ、息が触れるほど間近に男の顔があった。その目は異様な光を放っている。視線のキツさで言えばシキには及ばないが、そこに宿る狂気が私を恐怖感で縛り上げる。怖いのに――逃げられない。
 「オマエ、イイ目してんじゃん。ぞくぞくする。正気で、怖がってる癖して反抗的で…やっぱマトモなのはクソラインやってる奴とは違うわ」
 身長差を利用して顔を覗き込むように見下ろしながら、男は言う。
 あまりに距離が近すぎて、男の長い髪の先が私の首や顔に落ちかかり、思わず身じろぐ。すると、逃れることは許さないとでも言うように、肩を掴む手に痛いほどの力が込められた。
 「、った…」
 「なぁ、オマエ、引き裂かせろよ?」
 猛獣が舌なめずりするようにぺろりと自分の唇を舐め、男は声に奇妙な甘さを滲ませる。
 その目に満ちた狂気の中に、酷薄な愉悦が閃くのが見えた。


 「ちょっと!その子は敗者でも違反者でもないよ!?」


 よく通る声が路地に響き渡る。リンの声だと分かったが、声には出せなかった。
 「いいの、こんなトコで油売ってて。アンタ達がいつも連れてるアルビトロのイヌ、あっちの通りをうろうろしてたけど?」
 「何だと!タマの奴勝手に散歩しやがって!!」
 鉤爪の男がリンの言葉に反応し、間近で耳が痛いほど怒鳴る。それから唐突に私を突き放すと、タマぁと叫びながら路地の出口へと走って行った。
 わけが分からず、突き飛ばされて尻餅をついたままでいると、リンが傍まで歩いてきた。ちょっと身を屈めて私を見下ろして「大丈夫?」と尋ねる。人を助けることが間違いとは思わないが、彼の制止を無視したので、そんな風に心配されるとは予想していなかった。驚きと感謝と申し訳なさとで言葉が出ず、私は大きく頷くことで返事に代える。
 「そう…良かった」リンは僅かに笑みを見せたが、行き止まりの方に視線を向けると急に真顔になって、いきなり地面に膝をつくと私の頭を抱きしめた。「ちょっとゴメンね」
 「リン!?一体何を、」
 「うん、だからゴメン。ちょっとだけこうしてて」
 理由を尋ねてもそう繰り返すだけ。痛くはないが強い力でリンはひたすら私の頭を抱え込んで自分の胸に押し付ける。そうして視界が遮断された中、トクトクと一定のリズムを刻むリンの鼓動に重なって、ずるずると何かを引き摺るような奇妙な音が聞こえた。
 「何の音だ?」尋ねると、
 「何でもないよ」いつになく低い声で返答が返ってくる。
 でも、と反論しかけたとき、あの大柄な男のものらしい声がした。

 「ヒュウ〜お熱いことで」
 「そんなんじゃないよ。こっちに構ってないで、さっさと相棒のところへ行けば?暇じゃないんでしょ?」
 「へぇへぇ。邪魔者はさっさと消えるとしますか」
 
 ずるずるという音は次第に遠くなっていく。
 チャリチャリと同時にタグが触れ合う音も混じって聞こえるということは、あの大柄な男が何か引き摺っているのだろうか。そんなことを思っているうちに音は消え去って、リンは私を解放した。


***


 視界が戻ると、無人の路地裏が目の前に広がっていた。
 暗い小径にはリンと私しかいない。あの大柄な男も負傷者も煙のように消え失せて、ビルの壁だけが素知らぬ顔でそびえ立っている。嫌な予感を覚えながら、私は立ち上がってリンの横をすり抜け、先程暴行が行われていたはずの行き止まりの壁際へと歩いていく。
 大柄な男の方はリンに目隠しされた中でも立ち去るような気配を感じたが、負傷者はどこへいってしまったのか。あの怪我では、自力で動けるはずもないのに。
 そう思いながら、私は少しの間壁際のゴミの散乱した地面を見つめた。けれど、辺りが暗いために何も痕跡を見出すことはできない。月明かりがあればまた違うかもしれないが、この辺りはちょうどビルの陰になって月の光も望めそうにない。
 しかし、“どこへ行ったのだろう?”と思いながらも、私は既に辿り着きたくない結論を出していた。自力で動けないなら、連れて行かれたに決まっている。
 「さっきの奴なら、処刑人が引きずって行ったよ」
 背後でリンの声がする。
 処刑人という単語は分からないが、あの大柄な男のことだろう。先程のリンの行為は、その場面を見せないための目隠しだったと今更気付く。
 「君は、俺にそれを見せないようにしたのか?」そう言った私の声には、隠し切れない非難めいた響きがあった。
 「…だって、は見たら助けようとするでしょ?処刑人は、ルール違反を取り締まったり、敗者を“片付け”たりするのが仕事だけど、結局誰彼関係なく噛み付く狂犬みたいなものだから関わらない方がいい。現にだって危ないとこだったんだよ」
 そうだ。私はあのときリンの制止を振り切った。
 為す術無く暴行を受けていた負傷者、大柄な男の楽しげな声、鉤爪の男の眼差し…今なら、私の行動は無謀なのだと分かる。そして、リンは自分も危険なのに私を助けに来てくれた。彼を責めるのは全く見当違いで、非難されるのは自分で助けようと決めたのにできなかった私自身であるべきなのだ。
 「――ありがとう」
 「え?」
 「リンが来てくれたから俺はまだ無事でいる。だから、ありがとう。止めてくれたのに聞かなくてすまない」
 リンはしばらく目を丸くしていたが、やがて笑顔を見せた。「いいよ、そんなこと」と言いながら地面に取り落とした私のナイフを拾って渡してくれる。
 「は記憶を取り戻すんでしょ?なら、生き延びないと。――そのうち、ああいうのにも慣れるよ」
 慰めのように、リンは言った。


***


 その夜、リンと共に身を落ち着けた廃墟の片隅で、私は眠れなかった。
 廃墟はもとは事務所として利用されていたらしく、ガランと広く開けられたフロアの端に事務用の机や椅子などが雑然と積み上げられている。さらに余所の部屋から持ってきたのかソファやテーブルもあり、私たちはそのソファを借りて身体を休めた。
 けれど、疲れているのに先程目にした光景のせいか、気持ちの方が落ち着かない。

 “――ぅ…、たすけ…”
 最早動くこともできない負傷者。誰も助けようとしない<殺人可のバトルゲーム>。ゲームという軽い言葉の裏にあるのは、あの悲惨な現実でしかない。その悲惨さから目を逸らして、逃げ出してしまいたい。係わり合いにはなりたくない。
 それでも、またあんな光景を目の前にして何もせずにいられるだろうか。。或いは、リンの言うようにいつかは慣れて、何も感じなくなるだろうか。そんな風に慣れるのは、2007年の平和な環境に生きていた私がいなくなるようで、無性に恐ろしい気がした。

 『――偽善者』

 誰かが何事かを囁いたような気がして、私ははっと起き上がり周囲を見回す。あれは、リンの声ではなかったはずだ。けれど、真っ暗で何も分からない。
 「――どうしたの?」
 私が動いた気配を察したのか、リンが尋ねる。思いの外しっかりした声なので、まだ眠っていなかったのかもしれない。
 「起こしたか、すまない。誰かいる気がしたんだ」
 「気配はないから大丈夫だよ。あぁ、でも足の無い人かもね。俺、そっちの気配は分からないから何とも言えないけど」
 「俺も霊感なんかないよ」大概怖がりな方なのだが、今なら幽霊などより人間の方が怖い気がする。苦笑しながらリンの軽口に応じると少し気分が上向いて、私はリンが起きているのならばと話題を変えた。「ところで、あのときリンはロザリオのことで何か言いかけてなかったか?」
 「――あれ、そうだった?何だったかな…思い出せないや」
 あのときのリンの雰囲気では、何かリンにとって重大な事柄を確認しようとしていたように思う。けれど、本人が忘れたと言う以上あまり立ち入ったことを訊く訳にもいかないので、こちらもそれ以上追求はできない。その後、リンと他愛もない会話をするうちにいつの間にか私は眠りに引き込まれていった。


***


 翌朝、早いうちにリンと別れて廃墟を出た。
 トシマから出る。身体のもとの持ち主のことを知る。シキにロザリオを返す。――考えて見ればそのためにするべきことは結構ある。
 けれど、差し当たっての目的地は雑貨屋だ。私はナイフを持っているが、ホルダーに収めてすぐ出せる状態にしておく方がいい、とリンに忠告されたのだ。“だって、手に持ってて失くしたら困るでしょ?闘う以外にも結構使うんだし。雑貨屋の場所、俺知ってるよ?”
 そして、教えてもらった雑貨屋へと向かう。
 最初リンは案内してくれようとしたのだが、それは固辞した。トシマは危険な街であるからリンがいてくれれば心強いが、逆に昨夜のように私のためにリンを危険に巻き込みたくはない。私は一人早朝の街を歩いていくが、まだトシマの住人の活動時間でないのか、廃墟の街に人の姿はない。誰かと遭遇すればイグラを吹っ掛けられる危険性もあるから、私にとっては幸いだと言えた。


 雑貨屋は、中立地帯のバーと同じように廃墟のビルの中にあった。小さな看板が入り口の壁に出ているだけの、本当に営業中かと疑いたくなるような様子だ。それでもちゃんと営業中であるらしく、中に入ろうとしたところで扉を開けて出てきた二人連れとすれ違った。
 2人は、タグを身に付けていることから判断して、イグラ参加者であるらしい。片方は唇にピアスをして、もう片方は髪を緑色に染めている。外見は何だか怖そうだが、年はまだ若く10代後半か20になったあたりで、私よりも年下のようだ。そういえば高校時代に同じような格好をした同級生がいたな、とふと思い出した。
 正直、私はすれ違いながらいつ闘いを挑まれるかとビクビクしていた。けれど、男たちは特にこちらの存在を気にする様子もなく去っていく。
 ほっとしながら中に入ると、商品も無いガランとしたフロアの奥のカウンターに若い男がいた。
 「いらっしゃい。お客さん、早いね」
 「もしかして準備中でしたか?さっきお客さんが出てきたから大丈夫かと思ったけど」
 「準備中…?」雑貨屋の男はぱちぱちとまばたきをしてから、弾けるように笑った。「あぁ、ウチは一応24時間営業だし、盗難防止で店の中に商品を展示することはないんだ。そんなこと気にしたの、アンタが初めてだよ」
 トシマにある商店は皆こんな様子なのか、と物珍しく思いながら私はナイフホルダーのことについて話し、雑貨屋に適当なものを見繕ってもらう。その代金としてタグを払おうとジーンズのポケットをまさぐったところで、ロザリオが指先に触れた。

 “――そのロザリオは預けておく”
 (返すのなら、鎖は直しておく方がいいか…)

 ふと思いついて鎖の替えがあるかを尋ねてみると、雑貨屋は難しい顔をして呻る。
 「武器とか食料とかはわりとと手に入るけど、嗜好品や余分なものは中々ねぇ…あぁ、でもこの前仕入れた残りがあったな」一旦奥に引っ込んだ雑貨屋は、しばらくしてペンダント用の鎖を手に現れた。「でも、高くなるよ?ホルダーと合わせてタグ10枚」
 タグ10枚。
 手持ちのタグを数えて足りないと諦めの溜め息を吐くと、私の手の中を見た雑貨屋がJなどのレアタグはブタタグ10枚と同等だと教えてくれた。それならば、とJタグを支払うと、雑貨屋は感嘆交じりの溜め息を吐く。
 「うわ、ホントにJ使うんだぁ。アンタそんな風には見えないのに」
 「そんな風って…?」
 「殺人可とか、勝者は何しても許されるとか、そういうのが良くてイグラに参加してるってことだよ」
 雑貨屋が言うには、イグラ参加者は2種類に分かれるのだそうだ。
 片方は、麻薬王の地位や賞金目当て。こちらは<王>に挑戦する必要があるので、買い物に有効なタグを使うことはない。もう片方は、スリルを求める輩。こちらは他人と争うこと自体を楽しみ、長くトシマに滞在しようとする。<王>に挑戦することはあまりなく、稼いだタグはレアタグもブタタグも関係なく交換に使う。中には、タグを溜めて“奴隷”を手に入れる者もいるらしい。
 「――あぁ、でもこれを知らないってことは、違うのか。レアタグをはたいてまでそのロザリオの鎖を直そうとするのは、大切なものだから?」
 「大切というか…預かりものだから丁寧に扱ってるだけで、」
 「へぇ、預かりものにそこまで気を使うんだ」雑貨屋はにやりと面白いものを見つけたような笑みを浮かべた。

 「アンタ、気をつけなよ。そんな可愛いトコ見せてると喰われちゃうよ?」


***


 (喰われるって、やっぱり“そっち”の意味かなぁ…)
 今更“人が人を食べるなんて共食いだ!”などとボケるほど、世間知らずではない。
 けれど、一応現在私は男の身体をしているわけで、雑貨屋の言葉は男が男に向けて言ったわけで。男女に限らず男同士でも女同士でも性行為ができるという知識はあるが、自分に対して言われると全く現実感が無い。
 (大体、この顔は男から見ると“可愛い”ことになるんだろうか…?結構いい顔立ちだとは思うけど、“可愛い”は何か違う気が…)

 雑貨屋の言葉にぐるぐると思い悩みながら、店の外へ出る。太陽はそろそろ高くなっていく頃だが、今日も今日とて空はべったり曇っているので、周囲はあまり明るくなっていなかった。
 目標はあるし、そのためにするべきことも多くある。けれども一人で何をどうしたらいいのか、と途方に暮れてしまう。曇り空と相余ってどんよりした気分になりながら、私は一先ず道を思い出しながらバーまで行こうと歩き出した。
 そのとき、

 『…来る』

 ぞくりと警戒にも怯えにも期待にも似た奇妙な感覚が背筋を駆け上がる。一体何だと戸惑っているうちに、身体が勝手に動いた。
 振り向きながら飛び退いた後の空間に、銀色の閃き。無骨なサバイバルナイフの刃が、実際見たのは一瞬の筈なのに妙にはっきり目に焼きつく。
 突き出されたナイフが、今度は薙ぎ払うように横に動いて、私は何とかそれを交わした。が、交わす動きが大きすぎて姿勢を崩してしまう。ドン、と激しく廃ビルの壁に背中がぶつかり、辛うじて転倒を免れる。
 (もう、逃げ場が無い)
 闘うことに関して素人の私にも分かる。襲撃者は、もう一度ナイフを振り上げるだけで、私を殺すことができる。けれど、襲撃者――先程擦れ違った唇にピアスを嵌めた男はすぐにはそうしなかった。私の喉元にサバイバルナイフを突きつけながら、顔を寄せてくる。
 「新人の癖に頑張るじゃねぇか。あぁ、可哀想にこんなに震えて」
 「そう言うなら、あんまり苛めてやるなよ」
 笑いを含んだ声と共に、細い路地から緑色の髪の男が現れる。そこで雑貨屋で擦れ違った後待ち伏せされたらしい、と今更のように気付く。
 「あんた、新参者だろ?バトルは初めてか?ルールは聞いてる筈だ。一対一で立会人がいれば成立する。――さぁ、タグを奪り合おうぜ」
 ピアスの男は嗜虐的な笑みを浮かべながら、ナイフを下ろして再び私との間に距離をとる。どうやらゲームの仕切り直しをしようというつもりらしいが、仕切り直したところで結果は目に見えている。私がまともに闘えるはずがない。ピアスの男もそれが分かっているからこそ、このように余裕を見せているのに違いなかった。


 このまま、ここで死ぬ。
 もとの時代に帰れないままに。もう家族にも会えないなんて。
 (――そんなの、嫌だ)
 『そう、まだ死ぬわけにはいかない』
 そう思った瞬間、身体が勝手に動いていた。








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