6.



 「おらァ!」
 気合と共にピアスの男がナイフを繰り出す。それをかわして男の懐に飛び込み、伸びき右腕を取って殆ど力も掛けないままに勢いだけで男の身体を投げ飛ばす。
 全ては私がしたことでなく、この身体が対処したことだ。私は映画の観客のように、ただぼんやりとアクションを見守るしかない。
 どさり、と重い音を立てて男はアスファルトの上に落ちる。その男の頭を飛び越えて腹の上に乗り、腰に下げたホルダーからナイフを引き抜いた。もがく男を握り締めたナイフの柄で2度3度と殴る。拳で人を殴るのは初めてで、私はその感覚に我に返って怖くなる。
 けれど、身体の方は一向に躊躇いを覚えないようで、殴って男を押さえつけてナイフを高くかざす。その先端が向けられているのは――男の左胸。

 「おい!」仲間の緑の髪の男が狼狽しきった声を上げる。
 ピアスの男は恐怖に目を見開いたまま、ナイフを振り上げる私を見ている。
 私は、多分ひどく怯えた顔で、ピアスの男と見詰め合っていた。
 そして、ナイフが振り下ろされる。その動きを私は止めることができず――。


 ガキン。耳障りな音と共に、地面に仰向けに転がった男の左肩すれすれに、ナイフがアスファルトを抉る。
 ナイフを振り下ろした姿勢のまま、私は数秒間動けなかった。自分が誰かを殺すところだった――その事実が恐ろしくて仕方がない。自分の身体が震えている気がしたが、それはもしかしたら私の下で恐怖に呆然と目を見開いたままでいるピアスの男の震えかもしれない。
 私はピアスの男を見下ろしたまま呆然としていたが、

 「――た、すけて、くれ…生命だけは…」

 唐突にピアスの男が言葉を発する。恐怖のせいか、まるで壊れた機械のように奇妙な抑揚だ。その恐怖が向けられられているのが自分だと悟った瞬間、私は衝動的にその場から逃げ出していた。倒した男に止めを刺さず、タグも奪わず、どちらが敗者か分からないような有様である。
 無我夢中で走りながら、私は他の何よりも今は自分が怖いと思った。


***


 逃げ込む当ても無いままに息の続く限り走る。そして、もう限界というところで、ようやく私は手近な廃ビルへと潜り込んだ。
 廃ビルの奥は暗く、入り口からでは様子を見て取ることができない。
 内部を確認しないまま奥へ進むのは危険だ。何が潜んでいるか分かったものではない。昨夜リンから教わっていたので、私は入り口付近の壁際を選んで崩れ落ちるように座り込んだ。
 埃の積もったリノリウムの床に身体を投げ出すようにして息を整える。次第に呼吸が楽になると、今度は悪夢のような先程の光景が脳裏に蘇ってきた。

 人を殴った拳の感触。ナイフがアスファルトを抉る衝撃。
 この身体は私のものではないのに、感覚は生々しく今も手に残る。

 痛みも苦しさも寒暖も全て私が感じるのだということは、自分の本来の身体で慣れ親しんだ普通の感覚であるから受け容れることができた。けれど、あんな風に暴力を振るった経験などないので、手に残る暴力の感触にひどく違和感を覚えた。
 「誰かを傷つけたくなんかないのに…」
 膝に顔を埋めて呟く。泣けば気も紛れるだろうが、被害者でなく加害者である私は泣いてはいけない気がした。
 子どもの頃いじめられっ子だったことのある私は、自分が他人に暴力を振るうことはないのだと思って生きてきた。いつか何倍にもなって返ってくるかもしれないと恐れて避けてきた。それなのに、突然他人を殺せる力を得てしまい、その力に頼らなければ生きていけない環境に放り出されてしまうなんて。
 もとの時代に帰りたい。それができないなら、いっそここから消えてしまいたい。一度は自分の時代に帰るために頑張ると決心したのに、その気持ちが早くも挫けそうになる。

 今ここにいる私だけが唯一現実の存在なのではないか。
 2007年の平和な時代で生きていた、“ ”など空想なのではないか。
 ここにあるのは若い男の身体であり、“ ”の身体は存在しないのだから。
 そんな思考が気力を蝕み始める。

 「もう嫌だ。どうしたらいいのか分からないよ…」
 『泣き言吐いてんじゃねぇよ、生きていて、動くことが出来る癖に』

 不意に鋭い声がして、私ははっと顔を上げた。慌てて周囲を見回すが、辺りに誰かいる様子は無い。
 『そんなところにいるわけねぇだろ』
 「…!?」誰だ?どこにいる?
 『俺はここにいる、この身体の中に。――あんたが俺なんだよ』
 その言葉にぎくりとして、私は両手を目の前にかざす。次いで視線を落とし、座り込んだ膝の辺りを見た。

 『はじめまして“”、いや、“”。俺はケイジ…あんたが乗っ取ったこの身体の、正当な持ち主だ』

 この身体に、私と本来の持ち主の意識が同居している?そんなことが有り得るのか。
 そう思ったけれど、確かにケイジと名乗る男の言葉は声としてではなく、言葉そのものとして私に伝わってきているのだった。周囲は先程私が見て確かめたように人の気配は無く、しんと静まり返っている。
 (どうして私はあなたの身体にいるの?あなたは今までどこにいたの?)試しに声に出さず、ケイジに伝わるようにと思いながら言葉を思い浮かべる。すると、すぐに返事が返ってきた。
 『知るか。あんたは俺がシキに斬られた瞬間、勝手に入り込んできた。それから俺は何もできなくなって、内側であんたがすることを見ているしかなかった。――あんたムカつくんだよ。俺と違って自分で行動できるくせに、躊躇って泣き言吐いて。“誰も傷つけたくない”なんて善人振りには反吐が出る。大した偽善者だな』
 (偽善者…それは悪いこと?)不意にケイジの言い様に反発を覚えて言い返す。私は情けない性格ではあるが、20年余り生きて多少の言葉では傷つかない程度に面の皮は厚くなっている。(私は前を向いて生きていたいだけ。そのために、自分の気持ちが下を向くようなことはしたくないだけ。偽善者というならそれでもいい)
 『偽善者のあんたがあのピアスの男に情けを掛けても、敗者には死がイグラのルールだ、今頃処刑人に処分されてるころさ。誰も傷つけたくないなら、あんたが死ねばいい。そうすれば、あんたのために傷つく人間はいなくなる』
 (…そう、だね)

 あのピアスの男も、結局敗けたために殺されてしまう。そのことに今更衝撃を覚えて、私は言葉を切った。
 ケイジの言うとおりだ。ここでは誰とも闘わず、傷つけず生きていくことはできない。そんな場所にはいたくない。
 だとしたら、私は――。


***


 『まさか、本当に死ぬ気か?やめろ、俺の身体だぞ!?』

 黙って埃の積もった床から立ち上がってジーンズを叩くと、ケイジが焦ったような声を上げる。どうやら彼はこの身体の中にいて声を使わず私と会話できても、私の思考まで読むことはできないらしい。ケイジは何度となく私の真意を問い質したが、私が一向に応じないのでやがて言葉を発することを止めた。
 私は廃ビルを出て、歩き始めた。向かうのは、先日シキの元で過ごしたアパートのある方角だ。トシマの街の終わりが近付くにつれて、ケイジは私の意図を理解した。
 『あんた、トシマを出るつもりか!?旧祖は迷路みたいになってる上に、難民もいるんだぞ!?生きて出られるわけがない。自棄でも起こしたのかよ』
 (出来ないと決まったわけじゃない。イグラ参加者が旧祖地区を通って来るなら、戻ることもできるはず)
 『案内が要るんだよ!シキも言ってただろ!』
 (道を知る人なら旧祖地区にもいるかもしれないでしょう?それこそ難民の中にでも)
 『無茶だ、やめろ』
 「やめない!…元の時代に戻ることも、イグラを続けることも、トシマを出ることも全部無理だとしたら、一番マシな無理を選ぶしかないでしょう!?」
 感情をぶつける相手が傍にできたことで、私はつい苛立ちをぶちまけてしまう。
 『トシマを出るなんて許さない!!』ケイジも同じように感情を露わにする。彼の場合声になることはないが、言葉がいつになく強く伝わってきて、叫んでいるのだと理解する。

 『たとえこの身体を支配しているのがあんたでも、トシマを出るなんて許さない!――俺は、まだトシマでやることがあるんだ』

 そうだ。これは彼の身体なのに、従うのは私の意思だけで、彼はやりたいこともできないのだ。
 そう思い出すと急速に怒りが引いて申し訳ない気持ちになり、私は立ち止まった。
 (…あなたがトシマでやることって、何?)
 ひっそりと問いかけてみる。返事は中々返ってこないが、彼が話すまで待っていようと思った。 そのとき、


 「ルール違反はっけぇ〜〜ん!」


 狂ったような明るい声が降ってきて、私は慌てて周囲を見回す。『上だ』短く告げるケイジの声に天を仰ぐと、低いビルの屋上から曇り空に跳躍するシルエットが視界に飛び込んできた。
 ダンッ!!
 派手な音を立て目に痛いようなショッキングピンクが通りの地面に着地する。それは男が羽織っているパーカーの色だった。ビルの上から飛び降りた衝撃などなかったもののようにすっと背を伸ばす男の両手には長い鉤爪が嵌められていて、昨夜の処刑人の片割れだと思い至る。
 『グンジ…!もう片割れ、キリヲも近くにいる筈だ…逃げられねぇ』
 恐怖を湛えたケイジの呟きが届く。先程の闘いから推測するに中々の遣い手らしいケイジも恐れる程の相手だ。すぐに逃げ出すべきであったのに、処刑人が目の前にいるというだけで私は竦んしまって逃げる機会を失った。もしかすると、永遠に。
 「あっれぇ〜昨日のネズミちゃんじゃねぇの。ダメだろ違反は!」
 「――違反なんか」してない、と言うつもりが声が掠れて出てこない。
 「“棄権は禁止”即処分ってビトロから聞いてんだろ〜。まぁ、違反してくれて俺はウレシイけどさぁ。いっぺんお前をヤってみたかったんだよねぇ」
 言いながら鉤爪を顔の前にかざし、見せ付けるように刃の部分に舌を這わせる。
 逃げる余裕など残されていなかったが、少しでも距離を置きたくて私はふらふらと2、3歩後退した。けれど、すぐにアスファルトの亀裂に足を取られて仰向けに転倒しそうになる。その肩を、誰かが抱きとめてくれた。

 「おっと…危ねぇな、お嬢ちゃん」

 聞き覚えのある声に見上げれば、もう一人の処刑人――キリヲの顔が頭上にある。前方にも後方にも処刑人、しかも既に身体は拘束されているとなれば、逃げ出せる望みは一片もない。
 動くに動けず硬直する私の前で、グンジが喚きたてる。
 「あー!こら、ソレは俺の獲物だぞ!ジジは昨日楽しんだだろ」
 「あぁ?残念だがこいつとは遊べねぇんだよ。ビトロがテイクアウトして来いって喚いてただろうが」
 「ゲッ!そんなのありかよ?…あ!じゃあさ、じゃあさ、端の方をちょっとだけ刻んでもいいだろ?いいじゃん、減るモンじゃなし」
 名案を発見したと言わんばかりに目を輝かせ、グンジが身を乗り出す。
 刻まれるなんて冗談じゃない。私は無理でも何でも逃げ出そうとしきりに身を捩る。と、肩を掴むキリヲの手に痛いほどの力が込められた。
 「っ…」
 痛みに息を呑んだとき、頭上からキリヲの溜め息が降ってくる。
 「ばぁーか、刻んだら減るだろうが、確実に。とにかくダメなもんはダメなんだよ」子どもを諭すようにグンジに言って聞かせ、次いで私の耳元に声を吹き込む。「…つうわけで、ちょっと眠っててくれや」


 言葉の後に首筋にとんと軽い衝撃が落ち、視界が暗転する。
 急速に零れ落ちていく意識の最後の一片で、私は次に目覚める場所は地獄だろうかなどと他愛もないことを思った。


***


 次に目覚めたとき、私は地獄ではなく中世風の拷問部屋にいた。
 両の手足に重い枷が嵌められて、身動きの自由がひどく制限されている。枷の分重く感じる腕を持ち上げると、じゃらりと金属音がした。手枷には、鎖が取り付けられているのだ。
 どこに繋がっているのかと思い、私は鎖の反対側を探してみた。が、部屋に置かれているテーブルやら拷問道具やらが邪魔で、鎖の逆の端は見つからなかった。けれど、手繰ると手応えがあるので、何かに繋ぎ止められていることは確実のようである。
 (どうしよう…)
 私は途方に暮れ、冷たい石の床の上で膝を抱えて丸くなった。
 囚われの身だということも不安ではあった。そこへ急速に囚われた部屋の内装から今度は中世の昔に迷い込んだのではないかという疑念が込み上げて、思わず私は自分の身の回りを確認してみる。
 身体には外傷はない。
 薄暗い照明の下なので判然ともしないが、衣服も処刑人に捕らえられた時と変わりないようだ。ナイフやポケットのタグの束はなくなっていたが、直に身に着けていたAのタグとロザリオは残されていた。ロザリオに関しては、鎖を付け替えた後失くさぬようにと首から掛けたことが幸運だった。衣服も持ち物も意識が途切れる直前とほぼ同じだから、ここはまだ20XX年なのだろう…。

 そこで、私はふとケイジのことを思い出した。
 処刑人を目の前にしたとき、ケイジはひどく怖がっていた。それに、目覚めてから一度も彼の存在を感じていない。存在が感じられないからと言って、ケイジの存在を疑うことはしない。何が非現実的といって、他人の身体の中にタイムスリップした私こそ非現実的なのだ。ただ一体どうしたのだろうと心配になって、私は声に出さずに呼びかけた。
 (ケイジ…ケイジ、そこにいる…?)
 返事はない。
 何度となく呼びかけたが結果は同じで、私は諦めることにした。無視なのか取り込み中なのか、或いは存在が消滅したのか――真相は分からないが、この拷問部屋でどんな目に遭うか想像できるからには、ケイジは外部の状況を知らない方が幸せだろう。
 再び腕を持ち上げて、私は手首に嵌められた枷を見た。その枷を透かしてこの先我が身に降りかかる恐怖と苦痛をつい想像してしまう。この時代で目覚めてから幾度となく死にそうな目に遭って来たが、次こそ本当の死から免れえないだろう。そう思うと込み上げてきた不安と心細さで息が詰まりそうで、私は胸の辺りに手を置いた。
 と、衣服の生地越しに固い感触。
 布地の上から身に着けたロザリオの形を辿る。

 “俺を楽しませる程度には抗えるようになっておけ”別れ際のシキの言葉が蘇り、
 (そんなの無理…)と密かに反論してみる。
 本人にを目の前にしたらあの日本刀で斬られそうで、うっかり口に出せそうにもない。そうでなくとも何れ殺すとまで宣告されている。でも、どうせ死ぬのならば、最期に見るのはあの美貌の方がいい。むしろ、あの美貌がいい。――そんなことを思うなんて、一体どこまで面食いなのだと私は自分に苦笑する。笑いながら、
 「ロザリオを返す約束も、無理みたいだし…」
 呟く。笑っているはずなのに、泣き笑いの情けない声音になった。

 生命の保障もないときに、一体どこにあの他愛もない約束を気に掛ける余裕があるというのか。自分自身でも、何だか変な気がする。
 けれど、私は約束を守りたいと律儀に思っているわけではなくて、多分もう一度シキに会いたいだけなのだ。
 彼は強くて迷いがない。決して長時間共にいたわけではなく、ほんの一時過ごしただけにもかかわらず、その特性だけは強く感じた。もう一度、あの強い意志を宿す瞳を目にすることができたなら、不安も迷いも全て断たれて帰るという目標だけに専念することができるのではないか――そんな幻想を抱く。

 けれど、それももう無理な願いだと溜め息をついて、私は立てた膝に顔を埋める。
 囚われたこの場所から救い出してくれる者があるはずもない。独りきりで不安と恐怖に耐えるしかないのだと自分に言い聞かせた。


***


 「もうお目覚めかね?」

 しばらくすると微かな軋む音を立てて扉が開き、拷問部屋に入ってきた男はそんなことを言った。
 男は白いスーツの肩に紫色のファーを掛け、仮面で顔の上半分を覆うという、何だか奇妙な格好をしている。ただ、それでも男の格好が中世の服装でないことは確実で、私はまたタイムスリップしたのではないのだと改めて安堵した。
 「お客様をお待たせしたようで申し訳ない。私はアルビトロ…<王>から<ヴィスキオ>の管理を一任されている。イグラの参加登録をしたなら既に承知のこととは思うが…私は礼儀に拘る方でね。君の名を教えてくれないか?」
 「…
 名乗ってから、私ははっとした。イグラの参加登録はケイジの名でしているはずだ。けれど、つい言い慣れた方を口にしてしまった。私は矛盾を指摘されるのではないかと不安に思ったが、聞いたアルビトロはよく出来ましたと言わんばかりの上機嫌さで唇を吊り上げた。
 「君はなかなか素直な性質のようだ。イグラ参加者には珍しい。私の好みより少し年をとりすぎているが…改造によく耐えそうな素材だ」
 「…あなたは先程俺を“客”だと言った。何か用があって、俺をここへ連れて来させたんじゃないのか?」
 このままこの男のペースに呑まれていては、何か最終的にとんでもない事になりそうな気がして、私は自分から用件を切り出す。アルビトロが私を拘束した目的を知れば、それを盾にこの状況を切り抜けられるかもしれないと思ったのだ。拘束された状況でこれほど冷静に振舞えたのは、アルビトロが気味は悪くとも処刑人やシキのように恐ろしげでないからだろう。

 が、私の考えは甘かった。
 アルビトロもまた<ヴィスキオ>を担う人間であり、恐ろしげではなくとも歪みようでいえば他の者と同等であることをすぐに思い知らされることになったのである。

 「私の用…そう、君は私が捜し求める存在ではないかと思ったのだがね、どうやら違うことが分かった。ただ、先程も言うように君は興味深い素材だ。本来ならルール違反として処分するところだが、少し改造してみようかと思ったのだよ」
 「断る。改造なんかされたくない」
 「まぁ、そう言わないでくれたまえ。君にも悪い話ではないはずだ。本来ならば死ぬところを生き永らえられるのだから。何も心配することはない、快楽も苦痛も残らず全て引き出してあげよう…」
 陶然と語るアルビトロの様子に、悪寒が背筋を這い上がってくる。目の前の男が言っていることは、つまり、安らかな死を与えられないままに苦痛と恥辱を味わい続けろということに他ならない。
 そんなこと、御免だ。
 私は立ち上がって、アルビトロに跳び掛ろうとした。ここでアルビトロに危害を加えれば警備員か誰かが殺してくれるかもしれない。もしくは、アルビトロ一人くらいなら殴り倒して逃げ出せるかもしれない。
 そんな淡い期待を抱いていたのだが、立ち上がった途端に手足の枷の重さにふらつき、床にとぐろ巻く鎖に足を取られ、情けなく転倒した。
 「…っつ…」
 転んだ拍子に石の床に背を打ちつけ、一瞬息が詰まる。すぐには動けず、蹲って痛みをやり過ごしていると、こちらを見下ろすアルビトロと目が合った。
 驚きに目を瞠っていたアルビトロは、私と目が合うと先程にも増して愉しげに唇を吊り上げた。そして壁際へと歩いていき、そこにある装置を操作する。

 ジャラジャラジャラ。

 重い鎖が巻かれる音が部屋に響き、私の足下で折り重なる鎖も巻き取られていく。痛みの波が過ぎて動けるようになる頃には、鎖の余裕が減ってその場から半径1メートル以内にしか動けなくなっていた。
 「っ、何だ、これ…やめろ…」
 次第に自由に動ける範囲が狭まることに強い不安を覚え、思わず私は弱気を声に出す。
 ジャラジャラという音は依然として続き、手枷に繋がる鎖が天井にある滑車に巻き取られ私が腕を持ち上げた姿勢を取らざるを得ないようになったところで漸く巻き取りは終わった。
 「すぐに外せ」
 アルビトロのような輩に恐怖を見せてはつけ込まれるだけだ。不安で飽和しそうな頭の隅で微かにそう思い、気力を振り絞って睨む。しかし、それも意味の無い行為でしかなかった。
 「勇ましいな…だが、少し震えているね」微かに笑いながら、アルビトロが歩み寄って肩に手を掛けた。「そういう健気さは、嫌いではないよ」
 間近で囁くように告げられる言葉に、不快感で背筋が粟立つ。顔を背けると、アルビトロの手がむしろ神経を逆撫でするような優しさで頬から顎にかけてを辿り、そのまま下りてシャツの胸元に掛かった。
 これから何が行われるかは最早明白だ。
 絶望しながら、私は不自由な姿勢のまま可能な限り身を捩って抵抗を試みる。その拍子にアルビトロが手を掛けていた胸元で釦が1つ2つ弾けとび、シャツの内側にしまっていたタグとロザリオが零れ出た。

 「これは…、」

 驚く、というよりは怯むような仕草でアルビトロが手を引く。少し後退して、何かを見極めようとするようにこちらを凝視する。その視線は私の胸元――シャツの合わせ目から零れ出た、ロザリオとタグに注がれていた。
 これが、一体何だというのか。不審に思っていると、アルビトロが口を開く。
 「見覚えがある…これは確かあの男の、<王>の…」
 「<王>…?」
 「何故これがここに…一体あの男は何を考えて…」先程の余裕は失われ、最早私の存在も目に入らない様子でアルビトロは呟く。何故何故とうわ言のように何度か繰り返していたが、突然かっと目を見開いて私の胸倉を掴み揺さぶった。「何故だ!何故お前がこれ持っている!?」
 「っ、これって…ロザリオのことか」
 「他に何がある!言え!!」
 癇癪じみた喚き声と共に、アルビトロはさらに激しく私を揺さぶる。その振動に吊り上げられた手首が手枷に擦れたが、その痛みよりもむしろアルビトロの剣幕に怯み、私はリンにも告げなかった名を口にした。
 「預かっただけだ…シキという男から」
 「預かった…?」
 答えた途端、アルビトロは脱力したかのように私を離し、数歩後退する。呆けた顔でこちらを見ていたが、やがて前触れもなく肩を振るわせ始めた。くつくつと漏れ始めるくぐもった声に泣いているのかと私が思っていると、アルビトロは声を上げて哄笑を始める。

 「<王>よ、らしくないことをするではないか。本当に、らしくない…」

 笑いで息も絶え絶えになりながら呟き、アルビトロは酔いつぶれたような足取りで壁際の机へと歩み寄る。机に凭れ掛かりながらその上にある小瓶を取り上げ、アルビトロは私に視線を向けた。
 顔は笑っているのに、目には何か暗い感情が宿っている。
 処刑人と種類も質も全く違えどそれは狂気に近いもので、私はその場に竦んだままアルビトロの行動を見守るしかなかった。


 「ちょうどいい素材が手に入ったのだ、我らが<王>に贈り物をしなければ。そう、贈り物をね…」







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