7. “客”を送り出したアルビトロは、足早に自らの執務室へと戻った。 革張りの椅子に深く身を沈めて、胸を占める不安と高揚とを抑えるつもりで息を吐く。次いで視線を上げれば、執務用のデスクの上に無造作に置かれたナイフとタグの束が目に入った。 もとは今し方送り出した客が持っていたものだ。 「おやおや、忘れものとは…」 本人に無断でそれらを没収したことは棚に上げ、アルビトロはわざとらしく困ったように呟いてから笑みを浮かべる。けれど、次の瞬間にはナイフもタグも無いもののように普段の表情に戻り、デスクの引き出しを開けて数枚の書類を取り出した。 書類は先程アルビトロが見送った客に関するものだ。 イグラ登録時の名は“ケイジ”。だが、本人は“”と名乗った。どちらが本名か共に偽名か判然としないが、イグラ参加者は通り名などを好き勝手に名乗るので別に奇妙なことでもない。登録は3ヶ月前になので、まだまだ新人といえる。 参加者としての彼は、特にどうというところもない。強くも弱くもなく、適度にバトルでタグを稼いで生き延びていた。 ただ、時折トシマの外れの旧ニホン軍の研究施設であった廃墟付近をうろついている、という報告が上がってきた。研究所はいつしか難民などが入り込んで、治安の悪いトシマの中でもとりわけ危険な場所となっている。そこに所蔵されている資料などはアルビトロも欲しいと思うほどだが、危険すぎて手が出せない。そんな場所を徘徊していたことが、疑惑を生んだ。 折りしもアルビトロは“CFCで<ヴィスキオ>殲滅のため工作員を送り込む動きがある”という情報を受け取ったところで、彼が工作員である可能性を疑って監視を始めた。 <ヴィスキオ>は、トシマの至る所に密かに監視カメラを設置している。イグラを管理するための処置であるが、他に<ヴィスキオ>の脅威となるかもしれない数名の行動を追ってもいる。監視対象リストの上位には自称情報屋の源泉の名があるのだが、その一番下にケイジという彼の名が加わった。 監視を始めて1ヶ月。彼の行動に異変はなかったが、ある日突然姿を消した。 失踪3日後の昨晩、再び彼は現れたそれから別人のように従来とは違う行動をし、今まで全く面識の無かった人物と会い、さらにはトシマを逃げ出そうとした。 その不審な行動に、もしや本当に工作員で活動を始めたかと浮き足立って捕らえたのが今日のこと。けれど、実際に拘束して彼の所持品を取り上げて調べ、密かに採取した血液も解析したが、何も出てこなかった。 何か出たというならば、あのロザリオくらいのものだ。 工作員でないことが分かった時点で、彼は最早用済みだ。ルール違反者としてすぐに処分しても構わなかったのだが、彼が男にしてはやや繊細な容姿であったために欲が出た。アルビトロは、彼を殺さず奴隷に改造して賞品にするつもりになった。 それが。 (あの男!一体どれほど私を愚弄すれば気が済むのだ!!) あの男が身に着けていたはずのロザリオを、絶好の“素材”の胸元に見出したときの苛立ちといったら他にない。 けれど、そこでアルビトロはふと気付いた。 どんな関係かは知らないが、あの愛の無い男が僅かなりとも心に掛けた存在が自分の手の中にある(実際心に掛けたか否か不明だが、持ち物を預けたということは、そうである可能性が高い)。――これは、いつもいつも自分に屈辱を与え、嘲笑いながら去っていくあの男へ意趣返しをする機会ではないのか。 恐らく、この件に関して意趣返しをしたところで、あの男は何も言わない。他人を愛し執着することを極端に嫌っている風があるので、たとえ内心不快感を覚えたとしても表に出すことはないだろう…。 <ヴィスキオ>創設以来の決して短くもない付き合いであるから、シキの反応もそれなりに予測はできる。 本当なら、を奴隷に改造してシキに見せ付けるくらいのことはしたかった。けれど、どうしても存在するシキへの畏怖が先立ってに外傷を負わせることはできない。結局、に無理やり薬を与え、城の外へと送り出した。 薬は、トシマに出回る媚薬の一種。 呑めば身体は飢え、感覚は熱に侵されたようになる。 アルビトロは意趣返しといっても嫌がらせ程のことしか出来ない自分に最も強い苛立ちを覚えた。が、一方で媚薬の熱に侵されたままトシマの路上を歩くの身が無事では有り得ないことを思うと、少し慰められる気もする。 少し気持ちを落ち着けようとして、アルビトロは書類を手にしたまま目を閉じた。 けれど、そんな束の間の安らぎは、蹴り倒すような勢いで開いた扉の音によって終止符を打たれた。 *** 扉の音があまりにも大きかったため、アルビトロは驚いて手にした書類を取り落とした。 とっさに受け止めようとしたが、間に合わない。床に散った書類を拾うために身を屈めるが、入室者の足音が聞こえて彼は動きを止めた。 入室者は、扉を開けたときの粗暴さなど感じさせない乱れの無い足取りで歩いてきて、デスクの前に立った。 姿を見なくともそれが誰かアルビトロには分かっている。自分を愚弄する天敵、ラインの原液の在り処を知る唯一の者、ヴィスキオの無敗の<王>――シキ以外ではあり得ない。そう悟ると条件反射のように反発心と畏怖が込み上げるが、全て抑えてアルビトロはぎくしゃくと顔を上げた。 その目の前で、デスクの上に黒いブリーフケースが乱暴に投げ出された。 「っ!何をする!ラインが…ラインが割れるではないか!!」 思わずブリーフケースに取り縋って確認するが、中身のライン原液入りの試験管は全て無傷のようだった。アルビトロはほっと安堵の息を吐いて、静かにケースの蓋を閉じた。 「ラインが割れて流通量が減ることは、我々だけでなく君の意にも副わないはずだ。もう少し気をつけてもらわねば」 恨みを込めた口調でアルビトロは訴えるが、シキは黙っていた。その視線を辿れば、デスクの端に追いやられたナイフとタグの束に行き着く。アルビトロはそうと気付いたが、知らぬ振りでわざとらしい説教を続けた。 「…聞いているのか、君は!」 最後にそう締めくくると、シキは視線だけをアルビトロへと流し、ナイフとタグを手に取った。そうすると鎖だけで吊り上げられる形になったタグの束が擦れ合って、チャリチャリと音をたてる。 「――珍しいものを持っているな。己の手は汚さない貴様がナイフとは珍しい」 「私も護身用の銃くらいは持つさ。もっとも、それは客人の忘れ物だがね」ここで初めて優越感を覚え、アルビトロは自然と唇を吊り上げていた。「首輪を嵌めた飼い猫だったよ。ひどく弱っていたのを保護して薬を呑ませてやったが、出て行ってしまった。私としてはもうしばらく保護するつもりだったのだが…残念だ」 「どうせ碌でもない薬でも呑ませたのだろう」 「とんでもない。素晴らしい薬だよ…痛みも快楽に変わるほどに」 「貴様のその下衆の臭いに耐えられず出て行ったんだろう」 言い捨てて、シキは扉へと向かう。その手にまだナイフとタグの束があるのを見て、アルビトロは笑みを深くした。 「ずいぶんと早いお帰りだな。ゆっくりしていけばいいのに」上機嫌になって、つい相手を挑発するような言葉も出る。 「用も済んだのに下衆の顔など見ていたくもない。下らない遊びにうつつを抜かす間があるのなら、足下を掬われないように己の役目に専念することだな。俺はヴィスキオがどうなろうが興味はない」 別にラインの原液の提供先はアルビトロでなくても良いのだという、これは言下の脅しだ。そして、シキのこういった言葉に屈辱を覚えるのが常だが、今日ばかりはちがう。 シキが退出して執務室に取り残されたアルビトロは、すぐに低く喉を震わせ始めた。 「…間に合うはずがない。即効性の媚薬だぞ?お前のペットは今頃誰彼構わず縋りついて強請っている頃だ」 *** あぁ、どうしてこうなっているのだろう? 廃ビルの壁に背を預けながら、私は目の前の3人の男を見て思う。男たちは一様に嗜虐的な笑みを浮かべて私を取り囲んでいるが、一体何が原因でこうなったのか思い出せなかった。 どうも発熱しているようで、頭がぼんやりする。 ヴィスキオの<城>で呑まされた薬…あれは有害なものだったのかもしれない。そう思うと恐ろしい気がするが、あのままアルビトロに好き勝手にされるよりはまだましだろうという気もする。というのも、今の体調は辛いには辛いが、死ぬほどではないからだ。 それでも、何かを思い出そうとしたり、考えをまとめようとしたりしようとすると、思考がするりと解けてしまう。今も男たちが盛んに何事かを喚いている。それを聞かなければと思うのだが、声は音声として耳に入るのに、話の内容は一向に頭に入ってこなかった。 熱を帯びた身体はふわふわと浮ついた感じで、立っているのが辛い。それでも目を閉じて視界を遮断すると、少し安らかな気分にはなる。背を預けている壁は冷たく衣服越しに体温を奪うが、熱を帯びた身体にはむしろそのほうが心地よかった。 唐突に、男たちの1人が私を強く壁に押し付けながら身体を密着させてくる。その中途半端な体温とべたべた触れてくる手が不快で身を捩ったが、力の入らない抵抗は何の意味も持たなかった。身長差を利用して男が圧し掛かってくるものだから、私は支えきれず壁に背を預けたままずるずるへたり込む。 (――まったく、最近の若者は。自分がされて嫌なことは他人にしてはいけないって、教えてもらわなかったの?) 自分でも的外れな気がすることをぼんやりと考えながら、立って愉しげに見下ろす残り2人の顔を見上げていると、男たちは急に恐怖の表情を浮かべて背後を振り返った。 (何だろう?) 不思議に思っていると、不自然に静止した2人の身体が大きく傾いで、アスファルトの上に倒れこむのが見えた。大きな物音に私に圧し掛かっていた男が怪訝そうに顔を上げる。 明るい月の下、その男の背後に夜の闇が凝ったような黒い影が見えた気がした。 「…シキ」 きちんとその顔を見たわけでもないのに、私は吐息だけでその名を紡ぐ。 まさか、こんなところにいるはずもない。けれど、いてくれたなら、どれほど安堵することだろう。 私の呟きを聞きつけて、男は驚いたように私を突き放し逃げようとする。そのとき、白銀の輝きが闇の中で閃いた。刃が中途半端に振り返った姿勢の男を貫通してから抜き取られる。途端、その後ろにいた私に温かな飛沫が降りかかった。 暗くて色までは分からない。けれど見るまでもない。 (血だ…) シキは男たちを殺したのか。次は私の番なのか。 胸を満たす熱を息に換えて吐き出しながら、私は“そのとき”を待つ。けれど、予想に反して影は刀を一振りして鞘に仕舞ってから近付いてきた。 「いい様だな」 右の腕を取って無理に引き上げられる。立っているというよりも吊り下げられるような状態であの美貌と対面し、私は漸くこれはやはりシキなのだと実感した。 途端に何故かひどく――安堵する。 今し方の彼の所業を思えば、私は安堵しては駄目だ。彼を恐れ忌み嫌うか、その所業を怒り非難するか、そこまでしなくとも死者対して神妙な気持ちにならなければいけないのだ。それらの感情は全て私の中にあるのに、熱のせいか私がもう壊れているのか、やけに遠いように思える。 ぼんやりしているとシキが私の手を掴んだまま歩き始めた。手を引くというよりは引き摺られるような形になったところで、私は声を掛けた。 「――どうして、殺さないんですか…?」 「そんな価値が貴様にあると思うのか?死の代わりに恥辱を与えてやろうか。貴様には、それが似合いだ」 私は緩く首を横に振った。シキの言葉は先程の男たちよりは頭に入ってくる。それでも熱に浮かされた頭では、何を言われているか半分も理解できない。ただ、響きの良い声だけはじわりと頭に浸透してきて、意識を支配されそうな気にさえなった。 シキに引き摺られながら、私はアスファルトの上に倒れる3人の傍を通った。 間近でそれを見ても、怖いとか悲しいとかいう感情より何より安堵が強い。昨夜と今日の昼間と、あれほどイグラのあり方について反発を覚えた自分が夢のように遠い。あれこそ正常な反応だというのに。 (迷いを捨てたいと思ったけれど、) それは自分の人格を壊すということではないのか。 腕を引く力の強さに身を任せながら、私は頭の隅で思った。 *** 連れて行かれた先は数十メートルほど離れた場所にある廃墟だった。もとは喫茶店か何かだったらしく、大して広くない内部の壁際には幾つものテーブルや椅子が重ねられていた。 誰もいないと知っているのか迷いなくシキは店の奥へと進み、唐突に投げ捨てるように私の腕を離す。そうすると、力が抜けて立っていられなくなり、私は壁に背を預けながらずるずると崩れ落ちた。ただ座り込むだけでは足らず、そのまま身体を倒して木製の素材の床に横になる。床には厚く埃が溜まっているが、気に掛けるような余力も無く目を閉じた。 「誰が眠れと言った」 頭上から響きの良い声が降ってくる。それを聞きながら眠れたらどんなにいいだろうと微かに思ったが、そういうわけにもいかず私は瞼を上げる。 「すみません…。熱があるみたいで、ぼーっとしてて…」 「熱だと?」 シキは手にしていた日本刀を手近にあるテーブルの上に置き、私の傍で跪いた。革の手袋を外した手で私の額に触れてくる。その指先の冷たさが発熱した身体には心地よく、気付けば私はシキの手に擦り寄るような動作をしていた。 何てことをしたのだろう。 いくら知り合いとはいえ、シキと親しいわけでもない。 そんな相手に子どものように甘えるなんて、一体私はどうしたのだ。 自分の行動に愕然としていると、シキは私の肩を押さえながら淡々とシャツの裾から手を差し入れてくる。腹の辺りを掠った手の冷たさに我に返って、シキに制止の言葉を言おうとしたとき胸の突起を摘まれた。 「っ…」摘まれた部分で生まれた感覚に、息を詰める。じわりと滲むようなその感覚は、多分、快楽だった。 「この反応が熱によるものだと思うのか?」 何だかいろいろ不味い気がして私はシキの手から逃れようとしたが、背後は壁である上に身体を押さえ込まれて身動きがとれなかった。 シキは私のシャツの釦を外し、露わにした胸に手を滑らせる。先程路上で男にされたのと同じ行為であるのに、嫌悪感がないのが奇妙だ。ただ冷たい感触がくすぐったくて笑い出しそうで返事ができない。とうとう笑い出すと、再び突起を摘まれて息を止めた。 「アルビトロに媚薬を呑まされたにしては色気の無い反応だな。先程といい今といい、貴様に危機感はないのか」 「…媚薬?」私はシキを見上げた。シキの声は微かに呆れているようでもあったが、その顔には特に感情が見出せない。 媚薬の意味が分からないわけではないが、私は今一つ危機感を感じなかった。 元の時代では媚薬など縁遠い代物だ。まさか自分がそれを服用することがあるとは思っていなかったし、効果についても程度や詳細は知らなかった。それに、私はシキを、はっきり言えば信用している。生命の恩人で、この時代で最初に出会った人間で、同じ部屋で一夜眠ったこともある。頼りに思いこそすれ、身体は同性ということもあって危機感を抱く対象にはならない。 「…まだ分からないようだな」 言葉と共にシキは手を下へと滑らせる。 あっという間に着衣を乱してその内側に差し込まれる手に、さすがに私も慌てて拘束を解こうと身じろぎをする。それも、シキに危害を加えたくないという気持ちが先立って暴れるところまではいかない。そんなささやかな抵抗は、容易に押さえ込まれる。 「待っ、…止め…っ…」 私の制止を無視して、シキの手が性器を掴む。触れられただけで襲う直接的な快楽に、私は一瞬息を呑んで身を震わせた。 この身体で生活するようになって数日経つが、私は日常生活での必要最低限しか身体に触れないように配慮している。あまりこの身体のことは知らない。それなのに、他人に触れられて敢えて知らないようにしているものを引き出され、目の前に示されるのは怖かった。 けれど、私の心情など知るはずもないシキは繰り返しそれを擦り上げる。 「嫌がっている割にこちらは悦んでいるようだが?」 冷笑を含んだ声に、シキの様子が気になって私は目を開けた。その弾みでうっかりシキの言うところの“こちら”まで視界に入る。夜で明かりもないというのに、壁の高い位置にある窓から月光が差し込むせいで室内はそれなりに明るく、その様子ははっきりと見えてしまった。 シキの手の中で昂ぶっている、それ。 私が本来持ち得ない器官であるのに、シキの指摘どおり確かに快楽を感じている。浅ましいと、今すぐここから消えたいと思う、けれど。 まだだ、足りない、もっと欲しい。――飢えのようにそんなことも思い浮かぶ。媚薬のせいなのか、理性の堰を越えてどろどろした何かがあふれ出してくる。 嫌悪や羞恥からというよりもその“何か”に危機感を覚えて、私は逃げようとしたが、 「あっ…ぅ……」過敏なその器官を掴む手に力が込められ、私は痛みに声を上げる。 「この状況で逃げ出せると思うのか」 冷えた声で問われる。私は痛みに喘ぎながら首を横に振った。 「承知の上で逃げるとはどこまでも愚かだな」 「っ、こんな、こと…してたら…駄目、だっ…」 「貴様は俺が拾ったものだ。貴様に決める権利などない。だが、大人しくすれば痛みは与えないでおいてやろう。…先程の輩には大人しく身を委ねたのだから、できないことはあるまい?」 最後の一言は低く、より一層冷えた声音で私の耳元へ吹き込まれ、一瞬悪寒すら覚えて身を震わせた。シキが怒っているような気がしたが、その理由が分からない。今のように思考や自制が飛びかけた状態で考えると、途方もない理由を勝手にこじつけてしまいそうで、私は考えることを止める。 それでも身を任せたと思われるのは心外なので、反論しようと口を開く。 「違う、あれは、っあ……」 口ごたえは許さないとばかりに、緩められた力が再び加えられた。反論を諦め、私は必死で痛みに竦む身体の力を抜く。その様子を見たシキは、私の下肢に残る着衣を引き下げに掛かった。 束の間身体に加えられる刺激が止んで、安堵する。 途端に、自分への嫌悪感や先程のシキの言葉と行動への衝撃、さらに様々な感情が渦巻いて、理由も分からないのに涙が溢れてくる。それでも、頭はいまだ熱に浮かされて、泣いている自分が妙に他人事に思えた。 つ、と再びシキの手が昂ぶっているその部分に触れる。先程とは違う触れ方で、先端から溢れる滴りを掬い取るような動きをする。今度は一体何なのだ、と視線を上げるとシキと目が合った。何だか微妙そうな表情をしているように見えた。 (………?) その表情を微かに不思議に思った直後、ぬめりをまとった指先が後孔に触れた。 男同士の行為についての知識くらいは私でも持っているので、何をされるのかは分かった。逃げて無駄な苦痛を味わうのは嫌だと思い、命じられた通り大人しく身体の内側に差し込まれる指を受け入れる。媚薬のせいか、異物感はあるが覚悟した痛みは殆どなかった。 内部を解し掻き回す指の動きに合わせて時折吐息が零れる。異物感に混じって微かに快楽のようなものを感じ始めたとき、指先が内部のどこかに触れて身体が跳ねた。 「…あっ…」 前に触れられるのとは違う、奥深い快楽。 これは危険だ。これを引き出されたら、きっと戻れなくなる。感覚的にそう思う。 「…シキっ…もぅ…やめ…」 力の入らない腕を伸ばし、私はなんとかシキの袖の辺りを掴んだ。 すると、シキはこちらに視線を向ける。僅かに目を細めて見透かそうとするような表情は、以前廃アパートの前で刃を交えたとき見せたものに似ている。その表情に、一瞬ぞくりと疼きにも似た感覚が背筋を抜けていく。その感覚を堪えるため身を固くして目を閉じると、目の縁に溜まっていた涙が滑り落ちていく感触があった。 気を紛らわそうと滑り落ちていく涙の感触を追ってると、不意に後孔から指が引き抜かれるのが分かった。 *** 一先ず中断してもらえたことに安堵しながら息を整えていると、唐突に腕をつかまれて引き起こされた。次いで後頭部にシキの手が移動し、ぐいと私の頭を引き寄せる。 頭が導かれた先に、まだ少しの着衣の乱れもないシキの下肢がある。まさか、と思い見上げれば、冷笑を湛えたシキの顔が見えた。 「口でしろ。それで終わらせることができれば止めてやろう」 言われた内容のせいで、これ以上熱が上がることはないと思っていたのに瞬時に顔が熱くなる。絶対できるわけがない。私はふるふる首を振りながら後退りかけたが、髪をつかまれて頭を引き戻された。 「止めて欲しいのだろう?逃げるならば逆らう気力も失うまで犯してやろう」 一瞬、その言葉に呑まれかける。 が、すぐに我に返って、私はシキのベルトに手を掛けた。避ける術がない以上、戸惑ううちに羞恥が増してくるような気がして、私は猛然と手を動かした。自分がされたのと同じ手順でシキのそれを取り出す。間近に見て口にするのには躊躇いがあったが、顔を背けた途端に髪をつかまれ引き戻された。 こんなに居たたまれない気分なのは、見える距離があるからだ。 よく見えないくらい近付いたらきっと何てことはない、はず。 自棄のように自分に言い聞かせ、思い切って目の前のそれを口に含む。やり方も何も知らず目を閉じてひたすら舌を使っていると、いつの間にか髪をつかんでいたシキの手が時折宥めるように髪を梳いていた。 (…!)何となく動揺して、私は口の中にあるものに歯を当ててしまう。 すると、シキは私の肩をつかんで自分から引き離した。そのまま、とても行為に及ぶとは思えない冷静な面持ちではあるが、私を床に押し倒し、覆い被さってくる素振りを見せる。 ――駄目だ。 シキも自分も今の状態でこの行為を終えられないことは分かっている。 大人しくしろと命じられている。 けれど、生理現象からの必要性やシキへの恐れ以上に、この後に続くであろう行為は避けたかった。行為に伴う痛みが怖いわけではない。私はもとは男性ではないから、男のプライドがどうという話でもない。ただ無性に、これ以上進めば戻れなくなる気がする。自分の中にあるどろどろとした感情があふれ出して、自分が何か違うものになってしまう気がした。 そうしたら、今とは比べ物にならない醜態を晒すことになる。 そんな確信に突き動かされ、シキの下から逃げ出そうとする。けれども、あっけなく腰を捕らえられ背後から一気に貫かれ――感覚が弾けた。 *** 窓から差し込む僅かな明かりの中、シキは着衣を整えながら傍らに横たわる男を見下ろした。媚薬に煽られて行為の最中に幾度となく達したため、男は最後に意識を飛ばしてしまった。今は身体の汚れもそのままに、力なく目を閉じている。その穏やかな呼吸に上下する胸の上に、イグラ参加を示すタグと共にロザリオが乗っていた。 シキは男の傍に膝をついて、そのロザリオに触れる。 ほんの数日前までシキの手元にあったもの。 アルビトロの言葉から男がまだ持っていることは予想していたが、肌蹴た着衣の奥にそれを見つけたときには思わず呆れた。――この短期間にきれた鎖を直してまで持っているとは一体どれだけ律儀なのだ、と。 けれど、その律儀さ故に男はアルビトロの手から逃れたのだ。 “首輪を嵌めた飼い猫だったよ” ふとアルビトロの得意顔を思い出し、シキは顔をしかめる。一時の気紛れが深読みされ、どうも自分がこの男に執着しているように思われているのが不快ではあった。その微かな苛立ちに任せ、ロザリオの鎖を引きちぎろうと軽く力を込めたところで手を止める。 態々取り戻すほど、執着のあるものでもない。 “必ず返します” 男がそう言ったからには、好きにさせておけばいい気もした。返って来るなら来るで、来ないなら来ないで構わない――所詮は、その程度のものだ。 シキはロザリオを離し、立ち上がってテーブルの上に置いた日本刀を取り上げた。その傍にアルビトロのデスクから持ち去ったナイフとタグの束が置いていたが、それらも取り上げて気を失った男の隣へ投げ出す。 ナイフとタグは床にぶつかり、思いの外派手な音を立てた。その音で目覚めたのか、男が薄く目を開けて視線を彷徨わせ、シキの上で止める。普段の男の様子からは伺えないような、僅かに快楽の燠火を宿した瞳がぼんやりとシキを見上げた。 「――お前は俺の獲物だ。俺が殺すまでに他の輩に喰い散らかされることは許さん」 低く告げれば、男は目を閉じて肯定とも否定ともつかない程微かに首を振った。 それを潮にシキも踵を返して戸口へと向かう。と、不意に背後で男が身動きする気配があった。 「――この身体、そんなに悦かったか?ずいぶんと気に入ったみたいだけど」 背を追ってきた男の声に、シキは戸口で振り返る。すると、上体を起こした男が冷笑を浮かべている様が見えた。全く別人のような口調、表情、そして気配。シキは目を細め、刀の鍔を親指で僅かに押し上げる。 「貴様は――何だ」 誰だ、とは問わない。 「へぇ、分かるのか。俺はケイジ。“”の――あぁ、あんたはこっちの名前は知らないんだったな――“”の身体の、本来の持ち主さ。あんたに斬られたときが入り込んで以来、内側に閉じ込められてる」 「それで、貴様は何の用があって表に出てきた」 「用…あぁ、あんたに訊きたいことがあってさ。あんたはどうして人を斬る?何故俺を斬ってを斬らない?その違いは何だ?」 「違い…興味が持てるか持てないかくらいだな。面白ければ生かしておく」 シキが答えると、“ケイジ”は肩を震わせシキを睨んだ。やはり、見慣れた頼りなげな様子とは全く異なる。 「そんな程度で俺は斬られたのか?するべきことがあったのに。それで、身体があって動ける癖に争いは嫌だといつまでもぐずぐず悩んでいるは、面白いから斬らない?――ムカつくんだよ、あんたもも!この身体を使ってあんたが言うように他の輩に“喰い散らかされて”みようか」 「好きにすればいい。俺は興味がない」 「見え透いた嘘だ。どうでもいいなら、何故助けた?何故抱いた?あんたがに執着しているからだろう?この身体を使って他の男に抱かれれば、あんたにもにも嫌がらせくらいにはなるかな」 興味がない、とシキは静かに繰り返した。嘘でも何でもなく事実その通りだった。 たしかに、あの存在は弱い。けれど、それだけでもない。 “いやだ――死にたくない、あなたと戦いたくもない”先日、戯れに刃を合わせたときに見せた眼差し。 弱いだけかと深く爪を立てれば、柔らかな皮膚の下でカチリと硬い芯に当たるような、何かがある。 だからこそ、面白い。 「貴様のように吠えるしか能のない負け犬風情、自力でどうにか出来ない者など、生きようが死のうが俺は興味がない」 そう告げたとき、ケイジの表情が揺らいだ。きつくシキを睨んでいた瞳がぼんやりとかすみ、ふらりと上体が揺れる。恐らく、意識が表層に出て身体を支配できる限界が訪れたのだろう。 「後悔、させてやる…あんたも、も…」 最後に呪詛のような言葉を吐き出して、ケイジは床に倒れこむ。 その一連の様子を見守っていたシキは、やがて興味を失ったように廃墟の外へ出た。 目次 |