8.


 1週間後――私はいまだトシマにいて、バー“Meal Of Duty”で働いている。ようやく少しは馴染んできたというところだろうか。
 “Meal Of Duty”の客は大半がイグラ参加者だが、そうでない者も何割かは存在する。源泉のような情報屋、ヴィスキオの構成員、ラインに惹かれて来た麻薬中毒者などその内訳は様々だが、皆裏社会に属する人間であることは共通している。当初ウェイターのような仕事は初めてで上手く接客できるかと緊張する私に、マスターは店員の態度を世間一般の水準で評価するような客はいないと請合った程である。働いて見ると実際マスターの言葉通りであったが、私は働くからには世間一般から見てもきちんとしたウェイターであると言われるような仕事がしたかった。
 そのため、目下ウェイターらしさを出せるように奮闘中である。


 働いてみて分かったことだが、“Meal Of Duty”は非常に流行っている。
 トシマには中立地帯と指定された施設が3つあるが、“Meal Of Duty”は最も繁盛しているのだという。街の中心部にある上に、タグ交換のレートがお得なために客が寄り付き易いのだ。昼間はまだ客も少なく暇なときもあるが、夜ともなれば一気に人が増えて忙しくなる。初めて私がバーを訪れた際にマスターがバイトを欲しがっていたのも、深く納得のいく状況だ。
 確かにこれでは猫の手も借りたい。そんなことを思いながら、私は空いたグラスをトレーに乗せ、客の間を縫うようにしてカウンターへと戻る。ちょうど一人の客がマスターに声を掛けているところだった。
 「赤いカクテルを」
 「赤でいいのね。分かったわ」
 「頼んだよ」
 注文だけして、客はカウンターを離れていく。その男は30代くらいの真面目そうな――それこそトシマには珍しいような――容貌をしていたので、私は何となくその後姿を目で追った。男は迷いのない足取りでフロアの片隅、赤い照明に照らされた一角へ向かっていった。
 そういえば、店内であの場所だけどうして照明が赤いのだろう。ふとそんなことを思っていると、「おい」と肩を掴まれて私はぎくりと硬直した。慌てて振り返れば、イグラ参加者のタグを首から下げた若い男が立っている。濁った目と首から頬にかけて浮き出した静脈から、一目でライン常習者であることが知れた。
 「ラインくれよ…濃度は25、いや30だ」
 「俺はバイトなので、ラインはマスターでないと…」さり気ない動作で男の手から逃れながら言う。
 イグラは麻薬組織が主催しているから、当然、ヴィスキオの息の掛かった中立地帯の施設ではラインが扱われている。ここ“Meal Of Duty”でもラインの取り扱いはタグ交換全体の3分の1程度を占めるようだ。そして、そのラインとタグの交換に関しては専らマスターが対応することになっている。というのも、ラインは貴重品であるし、“前途ある若者”に麻薬の売人などさせるわけにはいかないというのがマスターの意思だった。
 「少々お待ちください」と言いながらマスターに視線を向けると、視線が合った。こちらの状況を察してくれたらしく、運びかけていたカクテルをカウンターの上に置いて近付いてくる。
 「――あたしが伺いましょう。ご注文は?」
 「ライン…30度を頼む」
 「30度…」一瞬顔を曇らせてから、マスターはすぐにそれを打ち消して頷く。「分かったわ。すぐにお出しするから、どうぞあちらへ」
 男を促してマスターが立ち去る。カウンターの上に赤いカクテル入りのグラスだけが、ぽつんと取り残される形になった。先程の、赤い照明の席に座った客の注文したカクテルなのだろう。
 少し迷ってから、私はグラスを取り上げて手にしていたトレーの上に乗せる。

 『――それ、持って行くのか?』
 唐突にケイジの声がする。

 (え?あ、うん…マスターも忙しいし…)
 『そうか…そうだな、そうした方がいい』
 (…?)
 どうも妙な会話に私は内心首を傾げる。
 ケイジとは時折会話を交わすことがが、もともと親しい仲でない上、ケイジが無口な性質なので、こんな風に気安く話などしたことなどない。更に、私は2日前に帰る方法を探さずバイトしていることに関してケイジと喧嘩をして以来碌に言葉を交わしていなかった。
 そのため、どうも中途半端なタイミングで、普段言わないことを言ったケイジを奇妙に思う。が、すぐに仲直りしてくれる気になったかと思い直し、私は赤いカクテルを運んでいった。


***


 「お待たせしました、ご注文のカクテルです」
 テーブルの上にグラスを置けば、例の客はこちらを見上げて「ありがとう」と一瞬微笑んで見せる。穏やかそうなその容貌は、やはりイグラ参加者には見えない。もしかすると、源泉のような情報屋なのかもしれなかった。
 「君は、最近入ったのかな?」
 「あ、はい、そうです」
 「そうか。――…すまない、少し気分が悪いのでお手洗いの場所を教えてもらえないか」
 「すぐ近くです。そちらの方の…、歩けますか?」
 頷いて男が席を立つ。その途端上体がくらりと傾いだので、私は慌てて手を差し伸べた。薄暗くて顔色まで見えないが、ふらつく身体から察するに具合が悪いのは本当なのだろう。
 「ご案内します」
 そう告げて、ふらつく男を時折支えながら客用のトイレの入り口まで案内した。入り口の前まで来たところで、私はもう少し男に付き添うべきだろうかと迷う。と、唐突にぐいと強く腕を引かれてトイレへ引き込まれた。
 トイレの中に他に人はいなかった。
 ぐいぐいと私の腕を引きながら、男は奥へ進んでいく。
 「一体何なんですか!?」
 引きずられながらも、私は叫んで男の手を振り払おうとする。すると、振り返った男が無造作に私を殴りつけた。まるで喧嘩をしたことのない者が、加減も威力も考えずに振るったような暴力。予想外のそれを、避け切れず頬に受ける。ダメージは、きっと然程でもない。痛みよりもむしろ男の豹変振りへの驚きが大きくて、私は束の間呆然とした。
 その間にも男は私を奥の個室に押し込んで、壁に押し付けて覆い被さってきた。両手首が掴まれ、壁に縫いとめられる。その直後、男の膝が両足の間を割るようにして押し付けられる。
 どうにも身動きの取れない状態で、私は男の顔を間近に見た。
 穏やかな容貌は跡形もなく消え失せ、血走った目がライン中毒者のような混濁こそないものの狂気を宿している。嗜虐的な笑みに歪んだ口元から荒い息が吐き出される度、生温い温度のそれが私に届く。数秒視線が交わった後に、おもむろに男は顔を近づける素振りを見せた。
 ――口付けられる。
 「嫌だっ!誰か、…来てくれ!!」
 触れられる直前で思い切り顔を背けて叫ぶと、男はふと嘲笑のような息を零しながら私の頬に唇を押し当てた。そのまま差し出された舌が頬を這って耳へ達する。生暖かく濡れた感触が耳の内側へ侵入してくる感触のあまりの不快さに、私はギュッと目を瞑り身を固くした。
 「っ…」

 気持ちが悪い。  けれども、男は私の反応を別の意味合いで解釈したようだった。

 「感じているのかい?」顔を離し、笑みを含んだ声で男が囁く。「ここはトシマだ。誰が襲われようと気にする者はいないさ。それより、君も愉しんだらどうだ?大人しくするなら痛い目には遭わせない」
 何を勝手なことを。怯えと嫌悪で萎縮していた私は、不意に強い怒りを覚えた。脅しつければ従わせられる気でいるのだろう。けれど、殴られようが殺されようが――こんな男に好き勝手にされることは嫌だ。
 「…本当に?」怒りを抑えながら、私はしおらしい声で男に調子を合わせる。「本当に、大人しくしていれば酷いことをしませんか?」
 言いながら、私は顔を上げて男と視線を合わせ――渾身の力で頭突きを食らわせた。
 ごん、と鈍い音の直後に男の呻き声が上がる。そのまま男が不意打ちに怯んで拘束が緩んだ隙を衝いて、私は男に体当たりする。体当たりは見事に決まり、男はよろめいて個室の扉に凭れ掛かる。けれども鍵が掛かっていなかったために扉は重みを支えきれずに開き、男は背中から床に転倒する格好になった。
 これ幸いとばかりに、私は男の上を跨いで個室を出た。何とか切り抜けはしたが、男が反撃してきた場合に対応できる自信はない。さっさと逃げてしまおうと後ろも見ずにトイレの入り口へ向かった途端、私は勢いよく入ってきた人物にぶつかった。
 「あ…」
 しまった、と思ったときにはもう遅い。ぶつかった衝撃で背中から転びそうになる。このまま逃げ損ねたら、男に捕まることは確実だ。そうなったらどんな目に遭うか…考えたくも無い。勿論、今トイレに入ってきた人物の助けは期待できない。
 絶望しながら転倒の痛みに備えて身を固くしたとき――唐突に大きな手が私の背を支えた。

 「おっと、危なねぇな」

 入ってきた人物が背を支えながら私を引き寄せる。少し高い位置から響くその声音には、聞き覚えがあった。引き寄せられた勢いでその人物の胸に押し付ける形になっていた顔を上げれば、どこか人を食ったような微笑が視界に入ってくる。
 「源泉さん…」
 「お前さんの姿が見えないもんだから、マスターが心配してたよ。…それにしても、客に探させるとは何考えてるんだか。俺はこれでもお得意様だぞ」
 「それは…すみません」
 「いやいや、別にお前さんを責めてるわけじゃないさ。マスターの常識を疑うだけでな」
 慰めるような笑顔を見せておいてから、源泉はすぐに表情を険しくして床に倒れている男に視線を向ける。同時に私の背に回した腕に力が込められた。抱き寄せられたような今の自分の格好に気が引けるものの、身体を包み込む腕に性的な意味合いは全くなく――むしろ庇うかのようで、私は大人しくしていることに決める。
 源泉の腕の中で顔だけ振り向いて見れば、男は憎しみに燃える目でこちらを見ていた。その顔の下半分が血で染まっている。どうやら、私の頭突きは鼻の辺りに入ったようで、正直少しだけ気が晴れた。
 「あんた、自分のしたことが分かってるんだろうな?中立地帯で揉めれば、イグラ参加者でなくとも取り締まりの対象になる。今ここで手を引けばヴィスキオには黙っててやるが、どうする?」
 「くそっ」
 短く悪態を吐いて、男は起き上がった。そのまま、少しふらつきながらも歩いて出て行こうとする。出入り口で擦れ違う瞬間、源泉はさらに言葉を掛けた。

 「…そうそう、この子はここのマスターの秘蔵っ子なんだ。今後この子に手出しするようなことがあれば出入り禁止は確実だと思っておいた方がいい。バーに来られなくなったら、あんた相手探しに困るんじゃないか?」

 「余計な世話だっ!!」ヒステリックに叫んで、男は去って行った。


***


 源泉に連れられてカウンターへ戻ると、こちらに気付いたマスターが慌てた様子で走ってくる。
 「、大丈夫だった?どこも怪我してない?」ガクガクと両肩を掴んで揺さぶるマスターの剣幕に圧倒されながら頷くと、唐突にがばっと抱き締められる。「良かったぁ〜心配したのよ?」
 「心配させてすみません…」
 抱きつかれて何だか面映いような気分になる。心配させたことは痛いほど感じたので、私はおずおずとマスターを抱き返した。
 そのまま私は仕事に戻った。
 大変な目に遭ったのだから休んでいてもいいとマスターは言ってくれていたのだ。けれど、油断した私にも非があるような気がしたし、閉店まで1時間ほどだったので私は結局休息を取らなかった。


 一時間後、夜が明けて客が皆帰った後、私は源泉に声を掛けた。客といえば客なのだが、マスターの親友であるためか源泉は閉店後も帰らずに留まっていることがある。このときも、源泉はいつものカウンターの席で煙草を吸っているところだった。
 「源泉さん」
 「お、お前さん今日はもう上がるのか?」
 「はい。マスターが、片付けはいいから早く休めと言ってくれるので。今日はありがとうございました」
 礼を言って頭を下げると、「いや、無事で良かったよ」と源泉は私の髪を掻き回すようにして頭を撫でる。そして、ふと真顔になった。
 「疲れてるときで悪いが、頼まれてたお前さんの過去のことが少し分かった。今日はその件でここに来たんだ」
 過去のこと…ケイジのこと。ケイジは何一つ自分のことを話はしないから、まさかこんなに早く知ることができるとは思ってもみなかった。嬉しさよりは緊張を覚えながら、私は源泉に聞かせて欲しいとせがんだ。
 「…お前さんのイグラ参加登録の名は“ケイジ”という。3ヶ月ほど前にトシマへ来たらしいが…出身は分からない。まぁそこそこ強かったらしい」
 「そうですか」
 頷きながら、私は密かに落胆した。
 そういった情報からは、ケイジの過去も何も掴む手がかりはない。私がトシマを出ようとしたときケイジが言った言葉――“トシマでやることがある”というそのすべきことが、私は何だか気になっているのだが…。
 「あー、そんな落ち込みなさんな」源泉は決まり悪そうに頭を掻く。「これはお前さんには言わないでおこうと思ったんだが――お前さんが以前よく行ってた場所があるらしい」
 「それは、どこです!?」勢い込んで尋ねる。

 「旧ニホン軍の、研究施設跡だ」
 『…っ、』


 一瞬、源泉の言葉にケイジが息を呑んだような気がした。


***


 翌日、昼過ぎになって1本の電話が入った。
 “Meal Of Duty”で働くうちに知ったことだが、この時代の主な連絡手段は携帯電話ではなく有線電話なのだ。第三次大戦で設備が破壊されたため携帯電話は使えず、代わりに有線電話が連絡手段の主流になっていた。大戦から5年経った今も技術の復旧は遅々として進まず、携帯電話はまだ軍で使われる程度なのだという。
 2007年より未来で有線電話だなんて冗談みたいだ。けれど、それは冗談みたいな本当の話で、“Meal Of Duty”にも毎日何本もの電話が掛かってくる。それを受けるのは、主に私の役目だ。
 「はい、“Meal Of Duty”です」「いつもお世話になっております」
 カウンターの端にある電話に出て言うと、相手の9割方は驚き黙る。1割くらいには感動される。“まさかトシマでこんなまともな応対をされるとはなぁ”とは、その1割に当てはまった源泉の言葉である。
 けれど、このときの電話の相手の反応はそのどちらでもなかった。
 『、注文取るんだよね?俺も一緒行って決めようかな」
 んっと伸びをしたリンが勢いをつけて椅子を立った。それをきっかけに源泉がビール、ケイスケが何でもいいと言ったので、私はリンと共にカウンターへ向かう。


***


 「、何だかウェイターが様になってきたよね」
 マスターが注文した飲み物を用意するのを待つ間、ふとリンは零した。
 「そうかな」
 「うん。最初ここでバイトするって聞いたときはどうなるかと思ったけどさ、上手くやってるみたいで良かった。でも、大丈夫?マスターにこき使われたりしてない?」
 そんなことないよと答えようとするが、それよりも先にマスターが反応した。出来上がった飲み物を荒々しくテーブルに置き、カウンターから身を乗り出す。
 「ちょっと、聞いてればあたしを鬼みたいに言って!そんなことするはずないでしょ。トシマでこの子みたいによく働いてくれる子はそうそういないんだから。手を出した奴は皆ウチへの出入り禁止にしてやったわ。――はい、これ注文の飲みものね。、源泉に飲み過ぎないようにって伝えておいて。昨日は遅くまで飲んでたから」
 「分かりました」
 カウンターに置かれた飲み物を銀のトレーに載せ、リンを促してテーブルへと戻る。後からリンが追ってくる軽い足音が続く。
 「…手を出してきた奴がいるの?」隣に並んだリンが心配そうにこちらを覗き込んでくる。「まぁ、分からないでもないけど。、最初に会った頃とちょっと雰囲気変わったもん。何か綺麗になった」
 「綺麗って…そういう言葉は好きな子のために大切に取って置いた方がいい」
 リンの言葉に苦笑してみせる。
 昨夜の不快な出来事を思い出さないでもなかったが、不思議なほど気持ちは落ち着いていた。トシマでの危険への慣れと、殆ど自力で窮地を脱したことからくる自信のためだろうか。あんな下らないことで萎縮して怯えてやるものか、という気になる。
 「やっぱり、、変わったよね」リンが呟くのが聞こえた。


 私たちが戻ると、3人はやけに深刻な面持ちをしていた。
 「ただいまー。皆してどうしたの?…分かった。オッサン、また青臭いお説教でもしたんでしょ?」
 「ん?よく分かるな。そっちの…ケイスケがイグラに参加するって言うんでな、オイチャンが色々忠告してたんだ」
 「またそんなお節介焼いて。初対面で真面目に語られても、普通ドン引きだって前教えてあげたのに」
 リンと源泉の話を聞きながら、私はいつの間にか綺麗に片付けられたテーブルの上にグラスを置いていく。源泉の前にビール、ケイスケにはウーロン茶、リンは私が聞いたこともないメーカーの炭酸飲料。最後に残ったグラスをアキラの前に下ろすと、アキラは怪訝そうに私を見上げた。
 「…これは?」
 「それはウーロン茶。うちのマスターからのサービス。トシマでは色々あって碌に食事ができないこともあるから、摂れるときに摂っておく方がいい」
 「俺は別にいい」
 「心配しなくても毒も麻薬も入ってないから」
 そう説明するもののアキラはまだ不審そうな表情を保っている。もしかして、疑われているのだろうか…。私は仕方なく「ちょっとだけ貰う」と断ってグラスを取り上げる。飲むためではなく見せるため、やや芝居がかった仕草でグラスを傾けて中身を少しだけ喉に流し込んでから、目を丸くしているアキラに笑いかけた。
 「ほら、何も入ってない」
 元の場所にグラスを置こうとすると、急にアキラの手が伸びてきてグラスを持ち去ってしまう。一体何だろうと見守っていると、アキラは憮然とした表情でグラスに口を付けた。「これでいいんだろ。…俺は別にあんたを疑ったわけじゃない」愛想のない口振りで言うのがどうやら照れ隠しらしく、何だか可愛いなと私は少し笑った。
 「うん、それでいい」アキラに頷く間にも、視界の端に源泉がビールのグラスに手を伸ばす様が映る。「あ、源泉さん!マスターが飲みすぎには注意するようにって」
 ぴしりと言えば、源泉は慌ててグラスから手を離し、軽く両手を掲げた。ホールドアップの仕草である。そのまま彼は煙草の煙と共に溜め息を吐いた。
 「お前さん、ちょっとマスターに似てきてないか…」


 私はそろそろ仕事に戻ろうかと思っていたのだが、ふと源泉が零した言葉でその場から動けなくなった。
 「しかし、いよいよCFCと日興連の統一問題も深みに嵌ってきてるからな。内戦が始まるのもそう遠くない。もう少し待てばこの狂ったお祭り騒ぎも終わりになる。…そんなときにわざわざ参加するような価値が、イグラにあるとは思えんがねぇ」
 「――ここで内戦が起きるんですか」
 思わず尋ねると、源泉は驚いて私を見返してから急に納得した表情になった。
 「そうか、お前さんは記憶が…あぁ、確実にここが内戦の戦場になるだろう。何せ2大勢力の中間だし、<ヴィスキオ>さえなければ権力の空白地帯だからな。内戦が始まれば<ヴィスキオ>はトシマを捨てるだろう」そこで源泉はアキラとケイスケを順に見た。「今はそんな状況だ。イグラに参加しても、勝ち上がって<王>を倒す前に終わるかもしれん。仮に<王>まで辿り着いて“全て”手に入れたとして、その後どうする?金も権力も欲しそうには見えんが、それでもイグラ参加以外に選択肢はないのか?」
 「あぁ」短く答えるアキラ。
 「でも、それでも…俺は」言いよどむケイスケ。
 「理由なんかどうでもいいじゃん。したいから参加してんの」食って掛かるリン。
 3人の返答を聞きながら、私はその場に立ち尽くす。そうだ、イグラ参加者であるということは、<王>に挑戦する権利をもつということなのだ。

 “<王>よ、らしくないことをするではないか”

 あのときアルビトロは確かにシキのことを<王>と言った。シキは噂のように権力を握っている風ではなかったし、あの<城>もアルビトロの領域だった。<ヴィスキオ>の事実上の支配者はアルビトロなのだろうが、それでもアルビトロもシキのことを知り畏れている様子だった。――やはり、シキは<王>なのだろう。
 知らない誰かではなくリンやアキラ、ケイスケがシキに挑戦するかもしれない。その結果シキを殺すか、逆に殺されるかもしれない。シキが<王>であると知ってから何日も経つのに今更のように思い至って、すっと身体の芯が冷えていくような感覚に襲われた。

 嫌だ――シキが死ぬのも、リンやアキラやケイスケが死ぬのも。
 見知らぬ他人のことまで気にするほど善良でもないけれど、知り合いが死ぬのはとにかく嫌だ。

 ふと気付くと手の中に固い感触があった。見れば、私はいつの間にか首に掛けてシャツの中に仕舞っているロザリオを布越しにきつく握り締めている。


***


 その日の夜。
 バーに入ってきたその客は、何故か私の意識に引っ掛かった。
 青く染めた髪に、黄色のスカーフ、黒のライダース。どこかで仲間とたむろしていそうな青年で、別段他のイグラ参加者とかけ離れたところはない。ただ重荷を背負ったような足取りと、どこか追い詰められたような表情が気になったといえば気になった。
 「いらっしゃいませ」
 「カクテルをくれ。赤だ」
 赤。
 こんな風にカクテル自体の名前ではなく色で注文するのは、店の一角の赤いランプの下に集まる連中しかいない。そして、昨日の一件以来私も赤いランプの下で行われていることを理解するようになっていた。特殊な嗜好を持つ者たちが相手探しをする――そのための場所だ。カクテルの色は各自の嗜好を示しており、その色を参考に一夜の相手を探す。
 他人が口出しする筋合いではない、が…。
 「――おい、聞こえなかったか?赤のカクテルだ」青年は苛立った声を発する。
 「あ、すみません。すぐに用意いたします」
 私は慌ててカクテルの準備に掛かる。そうして手を動かしながら、そっとその青年の様子を窺った。何か違和感があるのだ。
 普通、赤いランプの下で相手探しをする連中はもっと嬉々とした面持ちをしている。この青年のようにいかにも憂鬱そうに、それこそ気分が重くて呼吸することすら面倒だなんて表情はしない。
 この青年は、本当は赤いランプの下になど行きたくないのではないか…。
 ぐるぐると思い惑ううちにカクテルは出来上がり、私はグラスをカウンターの上に置こうとした。そして、置く寸前で我慢できなくなった。
 「あの、」
 『――やめておけ』不意に頭の中でケイジの声が響く。『こいつはあんたの推測どおりウリをやろうとしてるんだろう。けど、それはそうしなければここで生きられないからだ。あんたが止めたって何の解決にもならないし、逆に惨めになるだけだ』
 まさにその通りだ。そう気付いて私は言いかけた言葉を引っ込める。
 「…お待たせして申し訳ありません」
 「あぁ」
 カウンターにグラスを置くと、青年はそれを手にして赤いランプの下へと歩いて行く。私はただその背を見送った。


 10分ほど後。あの青い髪の青年は、大柄な男と共に店を出て行こうとしている。テーブルの片づけをしながら、私はその様子を見ていた。青年はさすがに憂鬱そうな表情ではなく、男に笑いかけていたが――あれは本当に心からの笑みだったろうか。無理に笑うのはとても苦しいことだろうに。
 唇を噛みながら執拗にテーブルを拭いていると、
 『部外者が半泣きでどうするんだよ』とケイジの声が聞こえた。
 (泣いてない)私は否定した。(…でも、したくもない相手とセックスしなければならないのは、すごく辛いことだね)
 『だが、生きていくために必要に迫られればするしかない。――あんただって、多分そうだ。嫌だ嫌だと思っても、そのうち慣れる』
 そんな状況にはなりたくない。想像したくもない。けれど、きっとケイジの言う通りもしも“そのとき”が来たならば私も受け入れるのだろう。あれほど人が死ぬのは嫌だと言いながら、シキが目の前で人を斬ったとき何も感じなかったように。
 テーブルを拭く手を止めて、私は微かに頷いた。
 (私は、すごく恵まれてるんだね。強くないし人を殺す覚悟もないのに、身体を売ることもなく、まだトシマで生きていられる。シキが拾ってくれて、リンや源泉さんが助けてくれて、マスターが守ってくれて――本当に恵まれてる)
 『あぁ、あんたは運がいい』
 (処刑人に捕まる前にケイジがムカつくって言った気持ち、今少し分かったかもしれない。でも、もう出来るだけ逃げないつもりだから。バーでのバイトとか、あなたから見れば遊んでるように見えるかもしれないけど、許して欲しい。私は逃げ出さないためにはこういうやり方しかできない)
 答えは無い。ただし、拒絶の気配もない。
 返事を待つ間に私は顔を上げ、光と重低音の音が乱舞するフロアを見回した。イグラ参加者やトシマの住人で、今日も“Meal Of Duty”は混雑している。源泉の言ったとおり、まさに“お祭り騒ぎ”だ。内戦が始まれば幻のように消える。この光景も、イグラも、トシマも。
 (…明日、源泉さんの言ってた旧ニホン軍の施設を見に行こうと思う。帰る方法を探すためには、私はケイジの行動を辿ってみるしかないから)
 『無茶だ!あそこは難民共も入り込んでトシマの中でも特に危険な場所だぞ!?』
 (それでも行かないと。大丈夫、とりあえず遠くで見るだけだから。もうじき内戦が始まるらしいの。トシマが破壊されたらそれもできなくなるから、今のうちに行くつもり)
 ケイジは言葉ではなく、仕方がないというように溜め息だけを返してきた。
 諦めと嘆きを混ぜて溶かしたような溜め息だった。








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