外形上、男性同士の性描写を含みます。


10.



 冷たい指先が、柔らかな唇が、熱い舌先が皮膚の上を滑る。シキは耳朶から首筋、肩と降りていきながら、時折吸い付いて痕を残し、或いは歯を立てて甘噛みをする。更に降りて胸の突起に軽く歯を当てながらスラックスに手を掛けてきたので、私はぎょっとした。
 取りあえず待ってほしいと訴えるが、「時間が経てば構わないのか」と眉を上げて面白そうに言い返されて言葉に詰まった。戸惑ううちにシキは手際よくスラックスを下着ごと引き下げてしまう。
 私は居たたまれない気分になって、目を閉じた上に顔を背けた。
 身に纏うものもなく素肌が外気に晒される状態はひどく心許ないものに思えたが、寒くはなかった。むしろ羞恥のため全身が熱い。そのせいで、シキの手の冷たさがはっきりと感じられた。
 冷たい手が脇腹から腰骨の辺りへと滑り降りていく。その下の核心部分には触れずそのまま更に降りて足の内側に触れた。私は何だかほっとして力を抜きかけたが、途端、冷たい指が不意打ちのように性器に絡みついた。先程の愛撫のせいで薄く熱を帯び始めたその箇所に、シキの手の冷たさはぞくぞくするほど鮮烈な感覚を残す。
 「――っ…ぁ…んっ…」
 上下に擦られるとすぐに直截な快楽が押し寄せてきて、抑え切れなかった熱を帯びた吐息が零れ落ちてくる。油断すると妙な声まで発しそうで、私は唇を噛んだまま与えられる感覚に耐えようとした。が。
 ふと熱を刺激される感覚が中断したかと思うと、とんとんと軽く頬を叩かれる。うっすらと目を開けると、シキの顔が間近にあった。双眸に愉しげな光を宿したシキに「目を逸らすな」と命じられる。

 「全てを見ていろ…お前も望んだ行為がどういうものであるかを」

 そんなの無理だ、と私は思ったし言おうとしたが、口に出す前にシキがまた熱を擦りあげ出したのでそんな場合ではなくなってしまった。そして、別に命令を受け入れたつもりもないのに、私は暗示に掛かったかのように目を閉じて視界を遮断することができない。
 やがて限界に達した熱が弾けて先端から溢れ出した白濁を手の中に受け止めきってから、シキは濡れそぼった手で私の膝を押し開いた。シキの前に全てを曝け出すような格好になってひどく抵抗を感じたが、達した直後では抗う気力はなかった。
 次第に諦めがついてきたということもある。
 シキは私の足の間に身体を割り込ませて閉じられないようにしてから、ふと思案するように視線をさまよわせる。それから、少し身を乗り出すようにしてベッドの傍の脇机に手を伸ばした。目でその動きを追えば、戻ってくるシキの手の中にハンドクリームの小さな容器が収まっているのがちらりと見えた。
 ハンドクリーム??
 ここで働いていたとき水で手荒れしやすいからとマスターが私に取り分けてくれたものだ。容器の蓋を取ったシキは中身を指先に取って――その指先を私の足の間の更に奥へと持っていった。
 ひやりとした感覚が後孔に触れる。クリームを少し周囲に塗り広げてから、内部に入ろうとする指の感触に痛みや快不快を感じるよりも先に、私は思わず「もったいない…」と呟いていた。このトシマでは、医薬品は非常に貴重なのだ。
 「随分余裕があるな。だが、それも今のうちだ。媚薬の効果がない分、苦痛は並大抵ではないだろう。――といって、手加減はせんが」
 「そこは…普通、手加減…するところっ…」
 軽口を返そうとするとシキが挿し入れた指で内部を掻き回すので、それ以上話せなくなった。
 受け入れるのが指1本ならばまだ異物感だけで済む。けれど、ハンドクリームクリームの助けがあっても指を増やされると苦しくなって、私は身を強張らせて痛みに耐えようとした。力を抜いた方が楽とは分かっていたが、慣れない身では実行に移すのは難しい。なるほど、媚薬というのは案外凄いものだったのだなと頭の片隅で思いながら、私は苦痛の喘ぎを噛み殺す。
 そうやって耐えていると、シキはもう片方の手で先程達したばかりの熱に触れ、緩やかに擦り始める。すると、苦痛と快楽が同時に押し寄せてきて、その感覚に混乱した私は喘ぎの下から嫌だから止めて欲しいと頼んだ。
 「そうは見えんな」
 シキは憎らしいほどあっさりとこちらの頼みを蹴って、熱を擦り続けた。
 そうして、私の苦痛がある程度抜け、また熱が再び先走りを零すほどに育った頃、シキは内側から指を抜き取って私を引き起こした。為されるままに起き上がろうとすると、滲んだ視界に電灯の白い光の輪が幾重にも重なっている。
 一瞬その光の輪に目を奪われていると、更に腕を引かれて間近に紅い瞳と対面することになった。
 「余所見をしている間はないだろう。あとは自分でやってみろ」
 「――自分でって、言われても…」
 「自分でここに受け入れてみせろ」
 濡れた手がするりと私の背中を伝い下り、先程解された箇所の表面を一撫でして離れていく。その感覚に一瞬身を震わせてから、私は呆然とシキの愉しげな瞳を見た。どこまで本気なのか、或いはこちらの反応を楽しんでいるのか。きっと出来ないと高をくくってからかっているのだろう。
 少しの間私は反応に困って動けないでいたが、やがて意を決して躊躇いがちにシキのベルトに手を掛ける。途端、「随分と積極的だな」と驚きを装った声音で羞恥を煽るような言葉をかけられた。そこで無性に悔しくなって俯きがちに、けれど挑むように言い返した。

 「…“私”も望んだことですから」

 すると、シキは少し驚いたような表情になった。



 俯きがちに、私は膝立ちになった姿勢でシキの肩に右手を置き、勃ち上がった熱の上に身体を下ろしていく。指とは比べ物にならない質量に内側を押し開かれる苦痛と不快感は並大抵のものではなく、途中で何度か息を継ぎ直さなければならなかった。
 最後まで熱を受け入れるのには時間がかかったが、シキは別に急かさなかった。
 ようやく全部受け入れきって苦痛が僅かに落ち着いたところで、いつもとは逆に見下ろす位置にある紅い瞳と視線が合う。すると、シキは腰を支えてくれていた手の一方を私の首の後ろまで移動させ、自分の方へ引き寄せようとする。
 されるがままに顔を寄せていきながら、私はふと視界に入った彼の表情が気になって口を開いた。
 「シキ、も…痛い…?」
 「…痛い?」
 「ちょっと、顔顰めてるから…」狭い箇所に受け入れる側の苦痛も結構なものなのだ。挿入する側も痛みを感じているかもしれない。
 「――…他人の心配ができるような状況か、お前は」
 ちょっと怪訝そうな表情をしていたシキは、そう言って低く嗤った。普段と変わらない表情、けれど額も触れ合いそうな近さでは瞳が僅かに熱を帯びてやけに艶めかしいように見える。そんな風に感じた自分が恥ずかしくて、私は誤魔化すように同じ話題に食い下がった。
 「でも、やっぱり…」
 何の気もなしに頬に触れようと左手を持ち上げると、シキは素早く私の左手を掴んで止める。拒絶というより、それは攻撃を回避しようとする咄嗟の反応のようだった。私もびっくりしたが、自分でも予想外だったのかシキ自身も目を見張っている。その表情に申し訳なくなって、私は少し身を引いてから「ごめんなさい」と謝った。
 シキは何か言いかけて止め、掴んだままの私の手首に視線を落として苛立たしげに舌打ちした。それから、私の手首を口元へと持っていってそこに唇を押し当てる。そうして先日の手錠の痕を辿るように舌を這わせた。
 皮膚の表面を舐められた。ただそれだけのことなのに、ぞくりとした感触が腰の辺りから駆け上がってくる。熱に触れられたときに感じる直截な快感とは異なる、燠火のように緩やかな快楽が体内に点る。

 「――っ、はぁ…」

 思わず零れた吐息に、シキは顔を上げた。目を細めて私を見、淡々とした声で言う。
 「やはりお前は傷を舐められて感じるらしいな」
 「そんなことは…」
 「そうか?」
 シキは私を引き寄せて首筋に顔を埋めると、まだそこに残る指の痕の辺りに舌を這わせ始めた。別にもたらされる感覚自体は行為の最初と変わりない。きっとそのはずなのだが、妙な指摘をされているせいか、緊張した身体が些細な感覚を大げさに受け取って勝手に反応してしまう。
 すると、シキは否定できないだろうという言いたげな愉しげな視線を投げかける。そして、ゆっくりと腰を動かし始めた。私はシキの肩にしがみついて、動きに合わせて訪れる苦痛と圧迫感に耐えながら、頭の片隅で思った。

 別に傷を舐められて感じるわけじゃない。
 舐める行為ではなくシキが傅くみたいにそうしたことに、驚いただけだ。
 まるで本当に大切に想われているかのようで、錯覚しそうになる。

 不意に苦痛の中で強い快楽を感じて、私は思わず声を上げた。シキが苦痛で萎えていた熱に触れ、擦り上げたのだ。
 内側を突き上げる動きに合わせて熱を刺激されると、苦痛も快楽も他の感覚も交じり合って、自分がどう感じているのか分からなくなってくる。痛みも確かにあるはずなのに、意識が強くなる快楽ばかり追って“いっそ傷ついてもいいから”と先を先をと望み始めている。
 箍が外れたような欲求を、むしろ煽るように律動が大きくなる。私はずり落ちないようにしっかりしがみついて、インナーの布地を握る手に力を込めた。すると、シキが手の中の雫を溢れさせる熱を一際強く擦り上げた。
 「っ…や、……あ、ああぁ……」
 嫌だと訴えようとした言葉が、伝える前に喘ぎに変わって、気がつけば達していた。それでもなお断続的に訪れる余韻にびくびくと不規則に身体が強張り、身の内にあるシキの熱を締め付けてしまう。
 「――っ…」
 耳元を低く抑えた吐息が掠めた直後、シキは腰を強く引き寄せて上りつめた。
 身体の最奥に注ぎ込まれたものの温度を意識しながら、私はシキの肩に身体を預けた。すると、シキが乱れた息を整えようとする気配が伝わってくる。その息遣いと体温がもたらす無条件の安堵に泣きたい気分になりながら、私は衝動的にシキの耳元に唇を寄せた。

 “あなたがすき

 囁こうと口を開いて、結局止める。
 告げようとした言葉は、肌を合わせたがための気の迷いに他ならない。
 伝えかけた言葉も、胸に渦巻く温かな感情も悲しみも喜びも全て自分の中に留め置いて、無かったことにしてしまえばいい。そうすれば、他人から見れば何も無かったことが事実となるだろうから。
 私は何も言わず、代わりにシキの耳朶の下辺りに唇を触れさせてから、再びシキの肩に顔を伏せて目を閉じた。




***


 彼は絶望していた。
 5年前の大戦末期に生き別れた兄の行方を捜して訪れたトシマ。そこで、まさかヒトであることを止めた兄と出会うことになるなんて。
 自分たち兄弟のような能力は、精神に負荷が掛かりやすいことは分かっていた。2人とも<獣>のようになって生き続けることがどれほど悲惨なことか知っていたから、死よりもむしろ精神が壊れることを恐れた。彼など、その恐怖に耐え切れずに自殺しようとしたことがあったほどだ。
 そのとき、兄は彼を止めて言ったのだ。“お前は絶対あんな風にはさせない”と。全部ではないにしろ、その言葉は彼の不安を幾らか取り除いたのだった。

 そして兄は約束を守った。自分を犠牲にして。

 5年経った今ようやくそのことを知って、彼は後悔していた。どうして自分は5年もの間知らなかったとはいえ兄をひとり放っておいたのだろう、と。知ってしまえば、もう兄のことを放ってひとり生き続ける気にはならなかった。
 とはいえ、彼程度の力量では<難民>1人さえ相手にできるはずもない。最悪でも兄と相打ちに持ち込めるのなら、と彼はラインを呑んだ。研究所の廃墟へ向かう途中、トシマの裏路地の奥でひっそりと。
 舌先にラインの雫が落ちて、そこから熱が広がる。瞼の裏で炎が揺らめく光景を幻視する。
あぁ、古い世界が燃えているのだと思ったとき、カツンとアスファルトを刻むような硬質の足音が聞こえた。彼は振り返り――月明かりの下に浮かび上がる黒い影を目にした。
 月光を浴びた白刃と、離れていても漂ってくる血臭。

 「シキ…」

 彼は思わず逃げ出した。カツカツカツと規則正しい足音が追ってくる。やがて追い詰められて、逃げ切れなくなって、そして――。
 胸元を貫いた刃を、彼は信じられない思いで見た。こんなところで、兄を置いたまま死ぬことはできないのに。こんなところで、ひとりで、何も出来ないままに。身を切るような絶望が、彼の心に広がっていく。


 (大丈夫、手伝うから。何もできなくても、一緒に行くから。だって、)
 だって、私は。


***




 目を開けると、夢に見たトシマの路地ではなくコンクリートが剥き出しになった天井が見えた。
 肌寒さに身を竦めながら起き上がる。何だか重だるい腰を庇いつつ、またシキに置き去られたかと視線を廻らすと、ベッドから降りて衣服を整えているシキの姿が見えた。眠っていた(もしくは気を失っていた)時間は、ごく短かったらしい。
 他人の身支度を見守るのも失礼だろうと目を逸らし、私は脇机に手を伸ばして着替えとタオルを引き寄せる。それから、シキに背を向けてシャツを肩から羽織り、タオルで腹部についた精液を拭った。体内にも残っているものがあるはずだが、この場で処理するような真似はできない。
 そうやって身体を拭いて間を持たせていると、ギシリと音を立ててベッドのマットレスが少し沈んだ。私が密かに身構えていると、また背後から伸びてきた腕に抱きすくめられる。

 「もう一度言う。俺のものになれ」

 静かに耳元に下りてきた言葉に、私は首を横に振った。
 「自分のすべきこととか、必要としてくれる人とか…そういうものを捨てたら、“私”はきっと胸を張っていられなくなる。だから、全てを捨ててあなたのところへ行くことはできません。きっと、会うのもこれが最後になると思います」
 そう言って、私は着替えの衣類の上にあったロザリオを手に取った。裏面の擦り切れた文字を一撫でしてから、私を抱くシキの手にロザリオを触れさせる。

 「だから、預かったものをお返しします。受け取ってください」

 「最後、か」
 呟いて、シキは指先でロザリオを摘んだ。が、すぐに放してしまう。
 受け取り手を失ったロザリオは重力に従って落下し、私の膝に当たってチャリンと小さな音を立てた。
 「何で…」
 「こちらの目を見て話すこともできない相手など信用できん。そんな相手からものを受け取れるわけがない」
 静かで鋭い言葉に私は息を呑んだ。けれど、振り向けば決心が揺らぎそうな気がして、振り向く気にはなれない。そこで、振り向く代わりに別の言い訳をする。
 「でも、これはあなたのお母さんの形見だって聞きました。大切なものですから、どうか返させて下さい」
 「それがどうした。確かにこれはあの女の持ち物で、偶然俺のところへ回ってくることになった。だが、だからといって形見や母親に縛られる気はない。俺にとっては他の取るに足らないものと変わらん」
 にべもなく言われると、もう何と説得すればいいのか分からなくなってくる。少し考えてから、私は自分の行き先を伝えておくことにした。そうすれば、もしシキがロザリオを取り戻したいと思ったとき探す手がかりになるかもしれないからだ。といっても、シキがそういう気分になることも、探して見つけ出せる確立も非常に低そうではあるが。
 「――これから、“私”は…多分、ケイジのお兄さんに会いに行くことになると思います」
 「見つかったのか」
 「はい。見つかったというのは少し違いますけど」
 私はケイジの兄の事情を説明する。シキは一通り聞き終えると、「つまりお前は他人に付き合って死ぬ気か」と低い声で言った。私は「いいえ」と首を横に振った。
 「死にたいわけじゃありません。でも、ケイジにはこの身体を使わせてくれた借りがあるし、それ以上に友達として放っておけない。――それに、“私”にも妹がいるんです。普段は下らない喧嘩ばかりだけど、苦しむことがあるなら守りたいと思う。ケイジのお兄さんがケイジを逃がした気持ちは分かる気がするから…どういう結末になろうとケイジに付き合いたい」
 話し終えると、沈黙が落ちた。互いに黙ったまま時が経つにつれて、勝手に目の縁に溜まってきた涙が瞬きの拍子に頬を伝い落ちる。嗚咽になりそうな息をそうならないように慎重に吐き出したとき、ふ、と耳元にため息が落ちてきた。

 「お前は強情だな…だが、それでいい」
 それは、今まで聞いた彼の声の中で最も柔らかなものであったような気がした。
 
 腕を解いて身体を離すと、シキは部屋の入り口の方へ向かったようだった。続いて、コートや日本刀を手に取っているのか衣擦れの音がする。最後に、静かにドアを開けてシキは部屋を出て行く気配があった。
 私は最後まで背を向けていた。



 ドアの閉まる音が聞こえた直後、私は手で顔を覆った。決壊したかのように涙が溢れてくる。
 『…追いかけろ』
 名前を声に出したのを呼んだと思ったのだろうか、頭の中に響いたケイジの声に私は首を横に振る。
 『泣くくらいなら追えよ!』
 (いや)私はもう一度首を横に振った。
 『俺のために諦めて…そんなことして俺が有難がるとでも思うのか!?』
 (違う。ケイジがシキを追いかけろって言ってくれたのと多分同じ気持ちで、私は自分が一番すべきと思うことを選んだんだよ。――ケイジが追いかけろって言ってくれたのは、恩を売りたかったから?同情したから?…きっと、そうじゃないでしょう?)

 友達として、放っておけないと思うからこそではないのか。

 話しているうちに涙は止まっており、私は目の縁や頬に残る雫を腕で拭い取った。耳を済ませてももう足音は聞こえず、辺りはしんと静まり返っている。
 ほんの少し前まで幽霊を恐れていた癖に、今はひとりきりになっても不安がないのが不思議だった。身体が一つであっても、ケイジがいてくれるという意識があるせいか。そんなことを考えながら違和感の残る下肢を庇いつつ身支度を始めかける。すると、ケイジがぽつりと呟いた。
 『本当は、あんたがシキを選ばなくてほっとしてる。――巻き込むことになるけど…一緒に兄貴と会ってくれるか…?』
 (勿論よ)私は即答した。


***


 一晩降り続いた雨は明け方近くになって止んだようで、マスターがホテルの玄関へ出たときには東の空が白み始めていた。雨に洗われた空気はにやりとして、清々しいが肌寒く、マスターは思わず身を竦めた。
 寒いと感じるのは、何も気温のせいばかりではない。リンもも源泉も、昨夜は誰一人バーへ戻らなかった。普段ならただの不在で済む話だが、内戦間近の上に更に物騒になった今のトシマでは、これが本当の別れともなりかねない。そういう予感めいた感覚が、奇妙な空虚感をもたらしているのだった。
 玄関に立って人気のない大通りを眺めていると、タグ交換所の男も出てきて隣に立った。
 「待ってるのか、あんたのとこのウェイターを」交換所の男が言うので
 「いいえ、あの子を待ってるんじゃない」とマスターは首を振った。
 待っていても、は戻らないかもしれない。
 昨夜遅くに源泉から電話での行き先を伝えられたときから、そんな予感がしている。はシキを追っていったリンを止めに行ったのだというが、結局のところ面倒見が良く情に厚いリンがを傷つけるとは考えにくい。むしろ、内戦間近であるからシキと共にトシマを去るのかもしれないとマスターは思っていた。
 「あの子は、もう帰って来ないかもしれないもの」
 「…じゃぁ、何を待ってるんだ?」
 交換所の男が意外そうな声を発したとき、低いエンジン音が微かに響いてきた。それに気付き、男ははっと顔を上げる。「<ヴィスキオ>が動くのか?」このトシマの粗悪な路面でも走行可能な車を所有しているのは<ヴィスキオ>だけであるから、男がそう思うのも当然だった。
 エンジン音が近づいてくる。男の疑問には答えないまま、マスターは大通りを見据える。
 薄暗い中を走ってくる車の姿が、次第にはっきりしてくる。1台、2台とホテルの前を通過していったが、3台目のジープは玄関の前でぴたりと停止した。その運転席にいるのはキリヲであり、助手席ではグンジがだらしない格好で座っている。
 「ちょっと、ここは駐車禁止よ」マスターが言うと、
 「あー、どうせすぐ移動すっからよ」とキリヲは肩を竦めた。
 「それにしても、アルビトロの奴やたら武器を集めてると思ったら…一体何をやらかす気なの?アタシ程度の窓際にばれるくらい形振り構わずで内戦間近に派手なことやって…CFCと日興連を刺激しかねないわよ」
 「別にいーじゃん。ビトロは儲けたらすぐにでも逃げる気満々なんだぜ?そんなことより、俺ぁ、久々の本格的な“狩り”が楽しめりゃあそれでいいしー」
 そう嗤って、グンジは自身の手に嵌めた鉤爪に愛しむように舌を這わせる。そして、運転席のキリヲに出発を急かした。排気ガスを噴出して再び走り出すジープに、マスターは慌てて玄関から降りて叫んだ。
 「待ちなさい、“狩り”って何をする気なのよっ…!?」
 「化け物を狩りに行くんだよ!」窓から身を乗り出したグンジが叫び返す。



 その日の早朝<城>を発した<ヴィスキオ>所有車両の列は、程なくしてトシマの外れにある研究所の廃墟へと到着した。








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