11.
身支度を終えた私は裏口のある倉庫へ行き、そこで夜明けを待った。一時程には店内を彷徨っているかもしれない死者の霊への恐れはなくなっていたが、だからといって安穏とベッドで眠ることは気が咎めて出来なかったのである。 倉庫は半地下になっていて、壁の高い位置に細長い窓がある。換気か、或いは外交を取り入れる目的で造られたのだろう。いずれにせよ、電灯を点ければそこから外に光が漏れ、人がいることが分かってしまう。それはあまりに無用心なので、私は灯りは点けずに裏口のドアへ続く階段へと腰を下ろした。 真っ暗な倉庫の中にいると、次第に夜明けが来ても気付けないのではないかと不安になってくる。じっと座っているだけでは時間が経つのが遅く、その分余計なことを考えてしまうのだ。そこで、あまりものを考えないように注意しながら膝を抱え、眠ろうとする。 幸いにもしばらくすると浅い眠りが訪れてくれた。そのまま私はうつらうつらと短い眠りと目覚めを繰り返しながら、目覚める度に細い窓を見上げた。 そうやって、何度確認しただろうか。 あるときふと顔を上げると、窓を黒々と塗り潰していた闇がぐっと薄くなり青い色に変わっていた。夜明けが来たのだろう。ちゃんと朝が来たことにほっとしながら、私は立ち上がって裏口から外へ出た。 外の空気は日中より幾分かひんやりとしている。肌寒さに身を竦めそうになるが、敢えて背筋を伸ばして私は裏通りに立った。東の空を眺めれば、夜が明けたばかりで太陽はまだ低い位置にあるようだった。 「さぁ…そろそろ行こうか」自分に言い聞かせようと声に出せば、 『あぁ、そうだな』とすぐに応えがあった。 頭の中に響いたケイジの声を聞いて、私はふと自分が気負いすぎていたことに気付いた。 シキに背を向けたときからいつの間にか、自分の選んだ道を歩くのだという自負ばかり先立っていた。でも、それは間違っている。ケイジが選んだ道を、私は共に行きたいと思ったからここにいるというのが正しい。 ここからは、私ばかりが先走ったり、一人で全て受け止めようとするのは無意味だ。ケイジと共に進まなければ意味がない。そうすれば、私には何も出来ないとしても、夢に見たケイジの絶望を少しでも一緒に背負うくらいはできるかもしれない。 一人になってはいけない。一人だと思ってはいけない。 緊張している自分を宥めながら、私はふと職場の先輩のことを思い出していた。 仕事を抱えすぎることになった私に、一人で抱えこむのではなく手伝いを求めるようにと教えてくれた人だ。あのときは、それでも手伝いを求めることが甘えのようにも思えて、結局忠告を生かすことは出来なかった。そして、ミスをしてしまったのだ。 あのときの先輩の忠告を、今は少しくらい理解して生かせているだろうか。 そんなことを考えながら、私は大通りの方へと歩き始めた。 *** トシマの外れにある研究施設へ向かう前に、私は中立のホテルへと立ち寄った。昨日はお遣いを放り出して跳び出してしまったので、マスターにその謝罪と別れの挨拶をしておこうと思ったのである。 本来ならば、バーは閉店していてしかるべき時間。店の片付けや下準備の具合にもよるが、マスターも<城>へ戻ってしまっていてもおかしくはない。その場合は不義理をするより仕方ないかもしれない、と思いつつ玄関を入っていくと、1階のタグ交換所に昨日と同じ男の姿が見える。大柄で髭を生やして少しばかり熊に似た感じの容貌で、昨日私が小包を預けたのもこの男だった。 交換所の男は私の姿を見ると一瞬目を丸くしてから、「昨日はお前ンとこのマスターがひどく心配してたぞ」と咎める面持ちになった。 「お前はあのマスターに世話になってる身分なんだ。俺はお前が成人してるかしてないか知らんが、どっちだろうと他人に世話になってる以上、通すべき筋ってのがあるだろう。無断外泊なんざぁ以ての外だ」 まさに自分の親なら言うであろうことを男に言われ、「心配をお掛けしてすみません」と私は素直に謝る。すると、交換所の男は苦々しそうに舌打ちした。 「クソっ…トシマに流れてくるチンピラに説教するなんざ、俺もヤキが回ったもんだ」 「そんなことはないと思います。あなたは正しいことを言ってる」 「あぁ、お前がそんなだから調子狂って説教なんかしちまうんだ。…もういい、早くマスターに顔見せてちゃんと謝れ。まだ上にいるよ」 追い払うように交換所の男がパタパタと手を振る。そこで、私は昨日お遣いの荷物をマスターに渡してくれたことに対する礼を言ってから、階段を上っていった。 バーは閉店しており、店内の灯りは消えていた。 けれど入り口は特に戸締りされておらず、中へ入っていくとカウンターの奥にある調理場から細い明かりが漏れてきている。そっと中を覗いて見ると、マスターは帳簿をつけているところだった。 私が入っていくと、マスターはすぐに気付いて近づいてきた。昨日のことを謝るよりも先に、ぎゅっと抱きしめられる。「…もう会えないかと思ったわ」僅かに湿った声で言って、マスターは身体を離した。 昨日私がしたことは、言ってしまえば仕事の放棄と無断欠勤に他ならない。真っ先にそのことを謝罪したけれど、マスターは源泉から事情を聞いているからと責めなかった。マスターが怒らなかったことを却って心苦しく思いながら、私は源泉にケイスケを預けたこととリンがアキラに保護されていることを話す。そして、最後に店を辞めさせて欲しいと切り出した。 マスターは私の言葉に少し困った表情をして、それでも何も聞かずに頷いた。 「手が足りなくなるし、何より寂しいけど、仕方ないわね。雇ったときから、この子はいずれ余所へ行く子だって分かってたもの。それがこんなに急になるとは思わなかったけど」 「――俺は…そんなにすぐに辞めそうないい加減な仕事をしてたんですね…」 確かに人見知りする性質の私は接客には不向きだろうが、その分を補おうと真面目に働いてきたつもりだった。けれど、努力したというのは単なる思い込みで、実際にはすぐ辞めそうないい加減な仕事振りであったのかもしれない。 そう思って自分の仕事振りを後悔していると、「そうじゃないわ」とマスターは笑った。 「じきにこの子を欲しがる人間が出てきて嫁に行っちゃうんだろうな、って思ったのよ。あなたはマトモな感性を持っててマトモなことを言える子だもの。トシマに流れ着くような連中はそういうことを馬鹿にするけど…心のどこかで日常や常識を求めてる。シキもそうなのかは、分からないけど。――あいつと一緒に行くんでしょう?」 まるで女の子に対する言葉だと思うと可笑しくて、私は少し笑った。それから、首を横に振った。 「シキとは行きません。ちょっと用事があって、トシマを離れることになりそうなんで。マスターとももう会えなくなるかもしれないから、お礼を言いに来たんです。――今までありがとうございました」 *** マスターに挨拶して、ついでにアキラへの伝言を託してから私はその場を後にした。 伝言はアキラへのもので、アルビトロが探しているので注意するようにといった内容である。昨夜伝えておけば良かったのだが、あのときはまともに話す余裕などなかったのだから仕方がない。 ホテルの外へ出ると、然程長く中にいたわけでもないのに、辺りはかなり明るくなっていた。だが、<難民>の生態は夜行性に近いらしいから、危険を覚悟でその領域へ踏み込むのには丁度いい頃合と言えるかもしれない。そんなことを思いながら玄関から通りへと降りる5段程の短い階段を降りかけていると、ふと聞き覚えのある物音が耳に届いた。 鼓膜を低く震わす唸り。この時代では初めて耳にした車のエンジン音だ。 私は階段の半ばで足を止め、耳を澄ませてみる。トシマの街中を東西に走る大通りの東の方から、エンジン音は聞こえてくるらしかった。 目を凝らせば、悪路に車体を大きく揺らしながら走ってくる大型車の姿がぼんやりと見え始める。普通の乗用車ともトラックとも異なる外見は、いつか映画で見た護送車に似ているかもしれない。 私の目の前を、護送車に似たその車が通過しようとする。 そのとき、エンジン音に混じって異様な物音が聞こえてきた。がたがたと何かが暴れるような物音、金属同士を打ち合わせるような音、そして、獣じみた遠吠え。聞いたことのあるその声に、私ははっと息を詰めた。 動物の鳴き声のようでいて、どんな動物にも似つかない箍が外れたような絶叫。この時代で目覚めた当初、シキと共に聞いた。シキはあの絶叫を<難民>のものだと説明したではないか。 つまり、これは本物の護送車で、中にいるのは――。 私が動けないでいるうちにも、護送車は目の前を通過していく。座席に座っているのは<ヴィスキオ>の黒服だった。護送車の後には警備するかのように、武装した黒服が乗ったジープが続いている。 2台の車はそのままホテルの前を過ぎて、<城>の方角へと走っていく。 『<ヴィスキオ>の奴ら一体何やってるんだ』 頭の中にケイジの焦れた声が頭の中に響く。私ははっと我に帰って護送車を追おうと動きかけるが、すぐにケイジに止められた。 『止めとけよ。走って車に追いつけるわけがない』 (でも…あの車、研究施設の方から来たのよ?もしかして、あの中にいたのは、)研究施設にいた<難民>ではないのか。 『落ち着け。<難民>なんて旧祖地区にはいくらでもいる、他の場所から連れてきたのかもしれない。とにかく研究施設の跡へ行こう。今はまず、あそこが無事なのか確認したい』 ケイジの声は焦っていたが、それでも判断は慎重だった。 予想外の<ヴィスキオ>の動きを私も不安に思いはしたが、浮き足立ってばかりもいられない。ケイジの言葉に頷くと、大通りを避けるようにしてトシマの郊外へと向かった。 トシマの街中を抜け、瓦礫の原と化した郊外へ。走れば走る程に私の不安は膨れ上がっていく。時折響く銃声のような破裂音や何かが崩れるような破壊音が、どんどん近づいて来ているのだ。 それでも状況を把握するのが先決と進み続け、研究施設に近い孤児院の前に差し掛かったときだった。ガン、と一際大きな崩落音が響き渡り、私ははっと足を止める。更なる物音を聞き逃すまいとして音のした方向――建物や庭木などの間に僅かに垣間見える研究施設の廃墟に顔を向けると、そこからゆっくりと黒い煙が立ち上っていくのが見えた。 『――あいつらなんで今更あそこを…』 ケイジが呻くのを聞きながら、私は再び走り出そうと1歩踏み出した、が。 「研究所へ行くのか」 静かな声が耳に届いて、ぎくりと足を止める。振り返れば、公園のようにも広い孤児院の庭にぼんやりと幽霊のように佇むnの姿があった。nは長い間手入れされずに伸びきった植え込みの間を歩いてきて、敷地を囲う錆びたフェンスに指を掛けた。 「あそこにはもう何もないだろう…それでも行くのか」 「何もないって…あなたは何が起こったか知っているのか?知ってるのなら、どうか教えて欲しい。一体何が起こってるんだ?」 この予想外の状況を把握している人間がいる。だとしたら、何としても聞き出さなければならない。そんな意気込みが沸いてきて、私は両手で錆びたフェンスを掴んだ。掌や指にさらりとした感触があり錆の色が付くが、構ってはいられなかった。 nは必死になる私に静かな眼差しを向けたていたが、やがて目で数メートル先を示した。 「すぐそこに入り口がある。入って来い」 *** 状況を知りたい一心で、言われるままに半開きの門から孤児院の敷地へと滑り込んだ。門からは敷地の奥の建物へと舗道が延びていたが、私はそこから逸れて土が剥き出しになった庭へと踏み込んでいく。 もとはささやかな庭であったはずのそこは、手入れされずに庭木や植え込みが伸び放題になって小さな林のようでさえあった。今が夏でないことに感謝しながら、横に枝を伸ばした山茶花の脇を抜けてnがいたはずの場所へ出る。けれど、そこには既に誰もいなかった。「n…?」小声で呼んでみるが、返事はない。 まさか、逃げられてしまったのだろうか。 私は唇を噛んで目の前にあるフェンスに手を掛ける。この錆びたフェンスに大人の男の体重を支える強度があるとは思えないから、フェンスを越えて去ったということはないだろう。とすると、敷地内のどこかへ移動したか、或いは逃げたか。 「な…んん…!」 最後にもう一度呼ぼうとした瞬間、横から伸びてきた手に口を塞がれ、茂みの中へと引き摺られる。驚いて必死で暴れるが、背後から痛いほどの力で抑え込まれる。その力の強さに恐れを感じると、叫ぼうとした声が引っ込んでしまった。 「声を出すな…見つかる…」 ぽつりと静かなnの声が耳元に降ってくる。自分を拘束した相手が分かって少し落ち着いた私は、もがくのを止めて了解したというように一つ頷く。すると、nはゆっくりと私の口を覆った手を除け、身体を離した。 その直後、エンジン音が聞こえてくる。私はぎくりとして、庭木の陰から道路を覗いた。<ヴィスキオ>の黒服が運転する車が、先程まで私が立っていたフェンスの傍を通過していくのが見える。nが引っ張り込んで隠してくれなければ、確実に見咎められていたのだと気付くと、どっと力が抜けた。 「助けてくれてありがとう。こっちに来たのにいなくなってるから、逃げられたかと思ったけど…通りから見えないところにいたんだな」私はnを振り返り、小声で言った。 「俺は特に移動しなかった…呼ばれて来たら、お前があの場所にいた」 「…えぇと、その…見つけてくれて助かったよ。――それで、<ヴィスキオ>は一体何をしようとしてるんだ?」 すると、nは研究施設の方へ顔を向けて目を細める。建物自体というより、もっと遠い何かを見ようとするかのような表情だった。 「…あの研究施設はNicolウィルスが造られ、研究されてきた場所だ。第三次大戦後、機密のままに放棄されてずっと手をつける者もなかった。研究データも臨床サンプルも、全て碌に処分されないまま残された」 「つまり、<ヴィスキオ>はその資料を持ち出していると…?」 私の言葉にnは頷く。 しかし、だとしたら何故今になって<ヴィスキオ>はそんなことを始めたのだろう。トシマに本拠地を置いてから、幾らでも時間はあったはずだ。何故内戦間近のこの時期まで、研究施設を放っておいたのだろう。半ば独り言のようにその疑問を内心呟くと、『放っておいたんじゃない』とケイジは否定した。『軍事政権時代の機密の残りなんかに手を出せば、確実にCFCや日興連を刺激することになる。内戦間近でどちらも<ヴィスキオ>に構っていられない、潰しに動けない状況だからこそ手を出したんだ』 <ヴィスキオ>の遣り口に怒りが収まらないのだろう。更にケイジは昨日のように実際に声を発して吐き捨てる。 「『――貴重な研究データとNicolウィルスを投与された被験者…つまり、あそこにいた<難民>を手に入れて、トシマからはハイサヨウナラ。あとは夜逃げ先で開発を続けるか、資料ごと売り込むかする気なんだろ、あいつらは』」 「そのようだな」nはごく冷静に頷いている。「あそこにいた<難民>は既に連れて行かれた。恐らくは、お前の兄も。――お前はどう動く?獣と変わらない、殺すしかない兄を助けに行くのか、見放すのか。このまま何もしなければ、お前は手を汚さなくても済むが」 「『手を汚すとか汚さないとか、あんたに心配される筋合いじゃない。――俺は昨日あんたに兄貴をあの研究所から解放したいと言った。それは何も場所がどうということじゃない…兄貴を人間として死なせてやりたいんだ。だから、後で殺しあうことになるとしても、<ヴィスキオ>から解放し行く』」 あんたもそれで納得してくれるか?とこちらは声に出さずにケイジは私に尋ねる。最初からそのつもりであったので、私は異論を唱えなかった。 nは黙ってケイジの言葉を聞いていたが、やがて「そうか」と一つ頷いた。 「ならば、俺も手を貸そう」 無表情のまま、ごく無造作に告げられたnの言葉に私は混乱する。ケイジも驚いたのは同じらしく、2人とも咄嗟に返事ができない。しかし、nはそんなこちらの動揺にはお構いなしだった。 「昨日、俺はお前にラインを勧めた。そのことの償いをしたい。それに、俺はお前とお前の兄が辿り着く結末に興味がある。今回の<ヴィスキオ>の動きは、俺にとっても邪魔だ」 「昨日のことは、あのとき謝ってもらって済んだことだ。手を貸そうと言ってくれるのは有難いけど、あなたまで危険な目に遭わせるわけにはいかない」 私が言うと、nは僅かに目を見張ってから瞬きをする。そして、人形めいて整った面に微かに笑みのようなものを閃かせた。 「俺の心配をするとは、お前は変わっている。最後にそんな風に言われたのは、もうずっと昔のことだ」nはまたあの遠い目をして今度は孤児院の建物を見遣る。そして、何かを振り切るように視線を戻し、きっぱりと言った。「俺は道具だ。闘うだけの、道具。お前は心配などせずに、必要なだけ使えばいい」 まるで、自分から道具になりきろうとしているかのようだった。そんな風には思えないと首を横に振って言おうとする。けれど、先に言葉を発したのは私ではなくケイジだった。 「『それは違うだろ。道具は手を貸してやろうなんて考えないし、自分のしたことを省みて償おうともしない。あんたは道具じゃなくて人だ』」 「――…」今度こそ驚きの表情になって、nは何か言いかける。けれど、結局黙っていた。 「『それで、道具としてじゃなく、人としてのあんたに頼みがある。もしまだ手助けしてやってもいいと思ってくれるのなら、兄貴を<ヴィスキオ>から解放するまでだけ手伝いをして欲しい。正直なところ、俺では<ヴィスキオ>を相手に回すのは分が悪すぎる。その後は、俺ひとりでやるから』」 「分かった…手を貸そう」 無表情に、けれどもどこか意思を感じさせる面持ちでnははっきりと頷いた。 <ヴィスキオ>が回収した資料を運び込むのは<城>以外にはない、というのがnとケイジの一致した意見だった。旧祖地区で他に<難民>も含めた資料類を安全に保管しておけるような施設はないし、<城>を襲撃してそれらを奪うような勢力もトシマには存在しないからというのがその理由である。 すぐに、私たちは<城>へ忍び込むことになった。 今なら<ヴィスキオ>の黒服たちが研究施設跡で資料を漁り、<城>の内部は幾らか手薄になっている。忍び込んで<難民>を解放したとなれば確実に騒ぎになるのだから、手薄になったこの機会を逃すわけにはいかない。 そうして行き先が決まると、nは私の先に立ってトシマへと戻り始めた。表通りを避け、建物と建物の合間の道なき道をも通り、時には下水道に降りさえした。人目につかないといえばその通りだが、本当に<城>へ行けるのだろうかと何度目かの不安が頭を過ぎったとき、nが「こっちだ」と私を呼ぶ。 それは枯れた下水道を歩いている最中のことで、呼ばれて寄っていくとnは壁面に取り付けられた梯子を上って天井を押し上げているところだった。確かマンホールの蓋は非常に重く、人が簡単に動かせるものではなかったはずだ。無理だろうと私はひやひやしたが、nはあっさり蓋を動かしてしまった。 外れた蓋の隙間から、外の光が差し込んできて目を射る。 眩しさに顔をしかめていると、nはさっさと外へ出てしまい、上から私を呼んだ。そこで私も慌てて梯子を上って外へ出る。すると、そこは<城>の裏庭にある花壇の真っ只中だった。 何だか不自然な位置にマンホールがあるところを見ると、この場に花壇を造るときに使わないからと強引に埋めてしまったのだろう。nは蓋と一緒に上に被さってい土も一緒に押しのけたようで、マンホールの位置は周囲の地面より15センチほど下にあった。Nicolウィルスは身体能力を高めるらしいが、一体どれほどの怪力なのだろうと呆れを通り越して感心する。それにしても。 「すごい…本当に<城>についた…」私が思わず呟くと、 「当然だ。<城>へ向かうと決めただろう」nは真面目な顔でどこかずれた返事をした。 侵入経路がばれないようにと、私たちは下水道の入り口を上から土や葉などを被せて隠す。それから、姿を隠しながら<城>の敷地内にある研究棟へ向かった。資料類を運び込むなら研究棟だろうと見当をつけてのことだが、その予想は正しかったらしい。正門から敷地に乗り入れた車が2台程研究棟の前に停まっていて、周辺を時折黒服たちが行き来している。 正面の入り口の前にはライフルを手にした黒服が立っているが、搬入のために扉自体は開け放たれており、ラインを扱う場所としては無防備な様子だった。あの神経質なアルビトロが監督しているのだ、これが常態というのではなく、資料類を運び込むので慌しくて警備まで手が回りきらないのかもしれない。 「あそこから中に入る。俺が見張りを倒したら来い」 短く告げて、庭木の陰からnが跳び出していく。黒服たちがnに気付きライフルを構えるが、間に合わない。片方は発砲するよりも先にライフルを蹴り落とされ、nの拳をまともに顎に食らって倒れる。 もう片方の黒服はその間に体勢を整え、発砲した。銃声が辺りに鋭く響き渡って、思わず身を竦める。が、外れたのだろう、nは澱みない動きで黒服との距離を詰め、こちらもあっさりと倒してしまった。 『おい、行くぞ』 ケイジの声で我に返った私は、思い切ってnのもとへ走った。恐れも躊躇いもあったが、危険を冒して先に跳び出してまで道を作ろうとしてくれるnのことを思うと、立ち止まっているわけにもいかない。 「怪我はなかったか?」駆け寄って、倒した黒服を見下ろすnに尋ねる。 「平気だ」とnは小さく首を横に振った。 「こいつらは、死んだのか…?」 「殺してはいない、まだ」 「出来るだけ、殺すのは無しにしよう。こっちが危険にならない範囲でいいから」 甘いことを言っている場合でもないのだがついそう提案してしまう。けれど、nは怒るでもなく静かに頷いた。「俺はどちらでも構わない。お前がそうしろというなら、それでいい」ごく無造作にそんなことを言うが、次の瞬間、nははっと顔を上げて研究棟の入り口を見た。 「――来る…」 一体何が。nに尋ねようと口を開きかけたところで、荒々しい靴音とチャリチャリと金属が擦れ合う音、そして調子っ外れの鼻歌が耳に届く。最早問うまでもなくやって来るものが分かってしまい、唇を噛んだ。 彼らが来る。そして、上手く逃げ隠れする程の時間はない。無防備な背中を攻撃されたくなければ、留まって迎えるしかない。 地面を蹴りつけるような激しい足音と、ゆっくりと重々しい足音。決して重ならない2種類の音は、それぞれの性格や戦闘スタイルを如実に現している。 擦れ合って音を立てるのは、彼らが身に帯びた幾枚ものレアタグ。彼らを倒して<王>に挑もうとする無謀な挑戦者を釣るための餌だと言っていた。 調子外れの鼻歌は、彼らのうちの片方がよく歌っているもの。明るく華やかなメロディを、低い声が地を這うように辿る。好きな映画の主題歌なのだと、いつか凶悪そうな笑みと共に教えてくれた。 「処刑人…」 数十秒の間をスローモーションのように感じながら、私は研究棟の中から出てくる彼らを見守る。出てくると、キリヲはまずnを、次いで私を見てからヒュウと甲高く口笛を吹いた。 「何だぁ…カメラに侵入者が映ったっつーから来てみれば、随分面白ぇことになってるじゃねぇか。なぁ、ヒヨ?」 キリヲは隣のグンジに話を振るが、グンジは答えなかった。ただ、目を丸くして私を見ていた。本当に驚いたみたいに。どこか裏切られたみたいに。 「――ネズミ…お前ぇ…」 なんで、とひどく掠れた声が聞こえた。 目次 |