9.



 ゆっくりと遠ざかるアキラの背を見ながら、私は静かに息を吐いた。アキラは気を失ったリンを抱えている。いくらリンが華奢とはいえアキラも細身な方であるから、その足取りは見ていて危うい。こうして見守る間にもアキラがぐらりとよろめいて、私は一瞬駆け寄りかける。
 すると、「手を出すな」と静かな声が動きかけた私を叱咤した。
 「お前はアレを生かしにきたのだろう。もう目的は果たしたはず。これ以上の手出しは余計だ」シキはアキラたちに向けていた視線を一瞬だけこちらに向け、また戻してから呟く。「それに、アレはお前と顔を合わせては平静になれんだろう」
 「それは…」

 私とあなたに特別なつながりがあると思い込んでいるからですか。
 それとも、私があなたの母親に少しだけでも似ているからですか。

 そんな疑問が浮かんだが、自意識過剰のようで口に出すことはできなかった。他のことならば構わないが、この件に関して嘲笑されれば何となく立ち直れない深手を負いそうな気がする。
 だから、私は質問する代わりに「ありがとうございます」と言った。リンとアキラを行かせてくれたことに対する感謝の言葉だ。それに対してシキは特に何を言うでもなく、淡々と抜き身の刃を鞘に仕舞った。そうしてシキが視線を向けた先を辿れば、路地の出口あたりにいたアキラとリンの姿はいつしか見えなくなっていた。
 「お前は馬鹿だ。今回救われようとアレは何度でも挑んでくるだろう。お前のしたことは必ず無駄になる。俺にはそれが分かる」

 「“弟だから”?」

 畳み掛けるように尋ねると、シキはこちらを見て僅かに目を細めた。その威圧とも不審とも受け取れる視線を受け流して、私は好き勝手な言葉を続ける。
 「リンから聞いたんです、あなたと兄弟だってこと。それから…あなたがリンの仲間を殺した、とも」
 「そこまで聞いているなら分かるだろう。アレは自分か俺が死ぬまでは諦めん。…屈辱を受けたことを容易く水に流せるようには出来ていないからな、あの家の人間は」
 ついでのように付け加えられた“あの家”という言葉に、私はシキがリンを弟として認識しているのだと理解する。すると、そこまでリンの性格を分かっていてなぜ、という疑問が強くなった。
 「どうして恨まれると分かっていて、弟の仲間を殺したんですか」
 「目障りだった、それだけのことだ」
 「そんな理由のはずない」
 言った途端、シキの手が伸びてきて私の首を掴んだ。少し力を込めて咽喉を圧迫され、俄かにこの前の苦痛の記憶が蘇る。思わずきつく目を閉じて身を強張らせると、しかしシキはそれ以上のことはせずに私を突き放した。
 「何の権利があって詮索する?俺がアレと殺し合おうと、お前には関係はないことだろう」
 納得してしまって何も言えずにいると、シキは私に背を向けた。確かに、私が口出しする根拠はない。2人が殺しあうのは嫌だと思うのは私の勝手な感情でしかない。けれど――。


 ぽつり。頬に小さな雨粒が落ちてくる。
 その冷たい感覚に背を押されるように、私は声を発する。
 「それでも、2人が殺しあうのは嫌なんです。“私”は2人とも好きだから、別々にであってもいいから、生きていて欲しい」憎しみはなくとも、相手のために殺しあう覚悟をした人を知っているから。別々の道であっても、それぞれ生きていけるのならば。
 黙殺されると思ったが、シキは意外にも足を止めて振り返った。「お前は子どもか」とため息を吐く。その反応にほっとして、私は思わず少し笑った。
 まだ、シキは話を聞いてくれる。そう思いながら、言葉を続ける。
 「あなたがこの前<城>で言っていた“枷”とは、nだけでなくリンのこともなのでしょう?そうでなければ、“あの家の人間”なんて血縁を認める言い方はしない」
 「だとしたら、何だ?」それは多分、肯定の言葉だった。

 “枷”を壊して自由になって。そうまでして、シキが望むもの。
 “感情を斬り捨てなければ強さは得られない”“お前では俺に勝てない”
 先日、nがシキに言っていたではないか。シキが望むのは多分――。

 「以前nが言っていたようにあなたが強さを求めているとしたら、枷となるものや感情を切り捨てることが強さだとは俺は思いません」
 「――そう言うなら、お前の言う強さとは何だ」
 降り出した雨の音に紛れてしまいそうな低いシキの声。思いつくままに口をついたことを改めて問われて、私は困惑した。感情として私なりの答えはあるらしいのだが、言葉で説明できる程整理できてはいない。またその答えも私なりのものであって、正答といえるようなものではないだろう。
 それでも、シキの視線が口に出した以上は説明しろと促しているかのようで、私はつっかえつっかえ言葉にした。
 「上手くは言えませんけど。本当の強さっていうのは、必要なときに守ると決めたものを守り通せることだと思います。力はただの道具で、きっとそれだけでは意味がない。責任でも大切な人でも物でも、切り捨てずに持っていられることこそ、強いってことだと思うんです。きっと、」

 「あなたにはそれが出来る力がある。だから、何も捨てる必要はないと思う」

 雨音に負けぬよう、少し声を大きくして告げる。少ししても、それに対するシキの返答はなかった。辺りはもう暗くなって街灯もないので、元々変化の少ないシキの表情を読み取ることは出来ない。
 さぁさぁという雨の音だけが沈黙を埋めていく。
 しばらくすると、私は返答がないことよりも雨の方が気になり始めた。会話が止まっているからといって、2人雨の中に立ち尽くす義務などないではないか。このまま無為に濡れネズミになるのも如何なものか、と私は思い切って動かないシキの手を取る。「取り合えず、雨宿りでもしませんか」と口では意思を尋ねつつ、答えを待たずに歩き出した。


***


 シキは手を振り払わなかったので、私はそのまま “Meal of Duty”の裏口へ導いた。殺人事件の現場で雨宿りというのも不謹慎だが、咄嗟に足が向いたのはどうしても勝手知ったる場所だったのだ。距離が近かったということもある。
 閉店した“Meal of Duty”の裏口は施錠してあるが、ドアの傍に積まれたビールケースの陰に鍵が隠してあることは分かっている。その鍵で扉を開け、中へと入った。
 裏口を入った部屋は、倉庫になっている。内部は当然真っ暗で、駄目もとで壁際の電源スイッチを手探りしているとガチャリと背後で音がする。一瞬ホラー映画で扉が勝手に閉まる場面が浮かんで跳び上がる勢いで振り返ると、扉の前にいるらしいシキがため息を吐いた。
 「何を怯えている。万が一の時間稼ぎのために鍵を閉めただけだろう」
 「時間稼ぎ…?」
 「今、この建物に他の人間の気配はない。時間稼ぎは、外から襲撃しようとした場合のことだ。この店では実際にあっただろう」
 淡々としたシキの声音はいつも通りだった。先程までの物思いに沈んだような、戸惑うような様子は感じられない。そのことに何となくほっとした私だが、シキがドアの前から傍に来ると今度は妙に緊張し始めて自分の方に戸惑いを覚える。そこでふと傍に来たシキから微かに漂ってくる雨の匂いに気付き、「そういえば、奥に行けばタオルくらい残ってるかもしれないから、取ってきます」と口実にしてぎこちなさを誤魔化そうとした。
 そのまま奥へ進んで廊下に出ようとするが、灯りもなくて方向が分からない。散々その辺にある棚やら壁やら箱にぶつかっているとに「お前は何がしたい」と見るに見かねたらしいシキが私の手を取った。尋ねられるままに自分の間借りしていた部屋を答えると、シキは見えるかのように迷いのない足取りで私の手を引いて闇の中を進んでいく。
 そして、あっさりと目的の部屋へ辿り着いた。


 マスターが私という居候のために用意してくれたのは元は物置として使われていた部屋で、廊下の一番奥にある。部屋のドアを開けると、私は真っ先に入り口付近の壁にあるスイッチを手探りして灯りを点けた(ここへの電力供給はまだ生きているらしい)。明かるくなると、シキは3分の1程は使われない道具や棚・テーブルなどで占められている部屋を見て、僅かに眉をひそめた。
 「ここで寝起きしていたのか」とシキはどこか納得のいかないような声を出す。
 「そうです。ベッドなんかの必要なものはマスターが用意してくれたし、その辺を漁ったら色々出てきて面白いんです。子どもの秘密基地みたいで。――あ、今、タオル出しますから座れそうなところにでも座ってて下さい」
 そう勧めると、シキは壁際に幾つも置かれている店の予備の椅子を一瞥してから、そのうちの手近な1脚に日本刀を立てかける。更に彼がコートを脱ぎかけるのを見てから、私は少し奥まったところにあるスチール棚の前に歩いていく。ここで寝起きしている間箪笥代わりにしていた棚で、私は引き出しを開けてタオルや替えの衣類をその中から取り出して戻った。
 戻るとシキはちょうどコートと手袋を脱いで椅子の上に置いたところだった。私は着替えをベッド脇のサイドテーブル代わりに使っていた事務用の脇机の上に置いてから、シキの傍まで行ってタオルを差し出した。
 「どうぞ。良ければ着替えもありますけど。シャツくらいなら、同じサイズでも大丈夫そうだから」
 「いい。それほど濡れてはいない」
 見ればシキの言う通りだった。私はシャツが身体に纏わりつくほど濡れているに対し、彼はコートを着ていたせいかインナーは然程湿っているようでもない。そこで、私は自分だけ着替えることを一言断って、着替えを置いた脇机の方へ歩いていく。が、「待て」とシキに呼び止められた。
 「お前は最初に自分は本来女だと言っただろう。俺の前で着替える気か」
 「今のこの身体は男だから、問題ないはずです。まぁ、男の着替えなんか見てもあなたは楽しくないでしょうけど…勘弁して下さい。濡れたままだとやっぱり気持ち悪くて」
 苦笑交じりに言って、私はシキに背を向けて脇机の上にナイフやポケットにあったタグ、ロザリオなどを置く。次いでシャツを半ばまで脱いだとき、前方の壁に自分のもの以外に新たな影が映るのが見えた。
 「シキ?」名を呼びながら、背後の気配を振り返りかける。

 が、そうするよりも先に背中から抱きすくめられて、私はぎくりと動きを止めた。

 どうしたんです、と軽い調子で尋ねることはできそうにない。
 ただ身を強張らせて殆ど息も止めたまま、私は突っ立っていた。と、背後からシキの右手が伸びて脇机の上のロザリオに触れた。
 「相変わらず、持っているのだな」
 咄嗟に声を発することができず、耳元に降ってくる言葉にきごちなく頷く。それに対して更に何か言うでもなく、シキはロザリオから手を引くと右腕を私の身体に回した。
 「お前が言ったことを考えていた」
 「言ったことというと…?」
 「何かを切り捨てることが強さではない、と言っただろう。お前の言う強さがどういうことなのか、やはり俺には分からん。だから…本当にそんなものがあるというのなら、俺の傍にいて指し示してみせろ。以前“勤めて、結婚して、子を産んで”そうして老いていくのだと言っていたな?そんな下らない生のために戻るくらいなら、ここに残れ」

 そして、俺のものになれ。

 その言葉を聞いた瞬間、ざわりと感情が波打った。驚きだけではない。胸にじわりと温かな感情が広がるのを感じて、俄かに後悔の気持ちが沸いてくる。
 いっそ聞かなければよかったと温かな感情を打ち消すように強く思いながら、私は首を横に振った。せめて相手の目を見て話すのが礼儀だろうと思い、身体を拘束する腕の中で反転してシキに向き直る。
 「それはできません。俺…いえ、“私”にはするべきことがあるから」
 間近で真っ直ぐに紅い瞳を見上げながら答えると、シキが軽く目を見張るのが分かる。が、それも一瞬のことでシキは目を細めると、そこに剣呑な光を閃かせた。


***


 次の瞬間、私は突き放され、傍にあったベッドの上に背中から投げ出されていた。
 その拍子に昨夜打ち身を作った身体が鈍い痛みを訴え、下敷きにされた古いベッドが耳障りな悲鳴を上げる。リンのときのことを思い出してすぐさま跳ね起きようとしたが、途端に頬を張られてベッドへ逆戻りすることになった。
 そこへ、シキが覆い被さってくる。
 先日のアパートでの脅しとは違う、理由もない暴力。私は覆い被さってくるシキを睨みすえた。
 「何するんです」
 「躾に決まっている。お前の生命を握っているは俺だ。いつからお前は俺に背いてもいいことになった?以前、弱者が我を通すならそれなりの代償を覚悟しろと教えたはずだが…払ってみるか?」
 脅しのようにシキの指先が咽喉もとに触れる。それだけで以前首を絞められた苦痛が蘇り、身体が勝手に強張っていく。そんな反応をシキは「違う、そっちじゃない」と嗤って、いきなり私の首筋に顔を埋めた。
 温かな吐息と唇の感触を咽喉もとに触れ、次いで濡れた舌先が皮膚の上を滑る。この間アパートで首を絞められた痕を辿るように、ゆっくりと真横に移動する。濡れて冷えた身体にその舌先はいっそ熱いと感じるほどだった。シキは右から左へと舌先を滑らせて、一区切りとでもいうようにその終点を軽く吸い上げてから離れる。途端に緊張が解けて、私はいつの間にか止めていた息を吐き出した。まるで啜り泣きを堪えているかのように、熱を帯びて震える吐息になった。
 それを聞いて、シキは「この程度で感じたのか」とまた密やかに嗤う。
 私はふるふると首を横に振った。
 「自分が今どんな顔をしているか分かっているのか?嘘をつくな」嗤いながらそう言ったシキは、けれど、そこでふと真面目な表情になった。「いっそ、このまま気が狂うまで犯してやろうか。心が堕ちて、俺に従い、俺だけを求めるようになるまで」
 「――それで、いいんですか」
 「何だと」シキは軽く目を見張って、一瞬動きを止める。

 「あなたが傍に置きたいと言ったのは、自分の意思を持たず従うだけのモノですか…?」

 「“私”は…そんなのは嫌だ。何も考えず、行動しないのは楽だけど…そんな人間としてあなたの前には立ちたくなかった。自分で考えて、動いて…他の人には情けない行動と見えてもいい、出来ることはしたと胸を張れる自分を見てもらいたいと思ってた」
 シキはやや驚いた様子のまま話を聞き終え、一旦何か言いかけたが結局やめてしまう。そして、ふと呆れたような表情でため息をついてから、もう一度口を開いた。
 「馬鹿か。こんなときの戯言をまともに受け取るな」
 「え…?」
 冗談だったと今更分かって、私は急激に恥ずかしくなる。一瞬で頬に血が上り、顔が熱くなった。真面目な顔で冗談を言う方も悪いのではないかと思いながらも、黙っていては気まずいので「えっと、その…すみません」と素直に謝る。
 しかし、それも的外れな反応であったのか、シキは呆れたように鼻を鳴らすと私の肩口に顔を埋めた。再び首筋に唇が押し当てられ、今度は強く皮膚を吸われる。その感覚に戸惑いながら、私は焦って控えめにもがいた。
 「っ…待っ…そういう、冗談は…よくな、」
 「煽ったのはお前だろう。何が冗談なものか。――嫌だというなら生命がけで抵抗してみるか、この間のように」
 愛撫を止め、肩の辺りに顔を伏せたままでシキが話すので、ややくぐもった感じの声が耳に届く。そこには嘲笑も挑発も、傲慢でさえある自信さえも含まれていないように思えた。ただ淡々としている。
 いつもと少し違う気がする彼の様子に、私は何と応じるべきかと言葉に詰まった。どんな表情をしているのか見えたらいいのだが、シキは顔を上げようとしない。だから、自分の感情に尋ねてみる。

 傍にいろという言葉は本当は嬉しかったのだ。従うわけにはいかないけれど。
 触れられるのも嫌じゃない。こうして体温を分け合うだけの接触は、何だか安堵する。
 そして、今後シキとこうして共にいる機会はないだろうと思った。 

 ケイジがどういう道を選ぶにせよ、自分がどうなるにせよ、きっとこれが最後になる。
 だとしたら。


 ほんの少し身体を捩って、私はまだ脱ぎきっていないシャツから右腕を抜き取りながら、声には出さずに呼びかける。
 (ケイジ…ごめんなさい、私、)
 『分かってるよ』すぐに返ってきた声は、少し不機嫌そうだった。好きでもない相手との行為に身体を使われるケイジの気持ちを考えれば、当然だろう。もっと怒ってもいい立場だが、ケイジはそうしなかった。『こうなることは大体予想してた。あんたの好きにしたらいい。これから俺は何も見ないし聞かない、全部終わってあんたが呼ぶまでは出てこない』
 (ごめんなさい)
 『俺も長い間身体を使ってないから、実は他人事のような気がしてるんだ。文句は言いたいけど、まぁ、それは後でいい』
 ケイジの気配がすっと消えていくのを感じながら、私は身体を捩ってもう片方の腕もシャツから抜き取った。自由になった両腕をシキの背に回し、そして口を開いた。
 「…嫌じゃ、ないです」
 すると、シキは手で背に回した私の腕を解いて身体を起こしながら笑う。
 「誰がお前の意向を聞いた。お前の意思がどうであろうと、俺は好きなようにする」


 いっそ潔いほどの宣言を聞いて、私は真面目に答えたことを心から悔やんだ。 








前項/次項
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