12.
「ばーか、何でもクソもあるかよ」 短く吐き捨てたキリヲが、呆然と立ち尽くすグンジを乱暴に押しのけた。いつもの凶悪な笑みを浮かべたその顔は、真っ直ぐにnへと向けられている。「そのお嬢ちゃんは所詮“あっち”側の人間なんだよ。この間もそう言ったばかりじゃねぇか」グンジにそう言いながらも、キリヲは腰を落として臨戦態勢に入る。 息を潜めて私はその出方を伺おうとする。が、傍にいたnは相手の様子など意に介さず動いて、ごく無造作にキリヲの元へ跳びこんでいく。そのnの動きも予測していたかのように、キリヲは巨体に似合わぬ素早さで身を引きつつ鉄パイプで迎え撃った。 ガッ。鈍い音が響く。 次の瞬間、nの頭上に振り下ろされた鉄パイプは左手だけで受け止められていた。しかも、互いの力が拮抗しているのか、宙で押し留められた鉄パイプが小刻みに震えているのが分かる。その振動にあわせて先端に吊るされた幾枚かのタグがぶつかり合い、チャリチャリと微かな奇妙に軽やかな音を立てた。 「――住む世界が違うんだよ…ハナっからなぁ…!」 グンジに向けた言葉の続きを唸るように吐き出して、キリヲは一気に鉄パイプに力を込める。nはやや押され気味にそれを受け止めつつ、右腕で真横に薙いだ。 「ちっ…!」小さく舌打ちながらキリヲが跳びのいたため、nの腕は空を切る。互いに体勢が崩れたのも束の間、じきに立て直した2人は再び対峙する格好になった。 私はグンジと向き合いながらも落ち着かない気分で、ついnとキリヲに意識を向けずにはいられない。今までの経緯を思えばどちらも完全に気を許せる相手ではないが、それでも、受けた厚意や垣間見た憎めない一面のことを思えば、nにもキリヲにも傷ついて欲しくなかった。 「“あっち”側か…」 ぽつりと零された呟きに意識を引き戻されて、私はグンジに視線を向ける。すると、それは茫然自失の様子であった彼の表情が、狂気を含んだ笑みに塗り変わっていく瞬間だった。 「ジジに言われんのはムカつくけど、きっとその通りなんだろうな。オメエは“あっち”側の人間で、“こっち”に来ることはねぇんだ」 「?“こっち”って…それが<ヴィスキオ>側ってことなら、俺は」 「“こっち”は“こっち”。要は、俺たちと同類になれるかってことで、<ヴィスキオ>は関係ねぇよ。まぁ、ネズミには無理だって分かってたけど。――ビトロとあのハゲが煩いから手ぇ出さなかったけど、実は俺、オメェを啼かせて壊してみたかったんだよな」 ちょうどいい機会だと嗤って、グンジは右手に嵌めた鉤爪にゆっくりと舌を這わせる。その言葉通り私を切り裂く予告なのだろう。そう思うと恐ろしく、同時に寂しく感じながら私はじりじりと後退する。 「さぁ、イイ声で啼けよなァ…ネズミ!!」 嗤いながら、グンジが一歩こちらへ踏み出した。 無理だ。敵うはずがない。 咄嗟に私はグンジに背を向け、元いた茂みの方へ走る。逃げるだけでは研究棟に辿り着くことはできないということは分かっている。けれども、真正面からぶつかり合うには、処刑人はこちらの分が悪すぎるのだ。何とかグンジの脇をすり抜けられないか――隙を窺うために、私は何度も振り返りながら逃げる。 けれど、私が逃げてもグンジは余裕を崩さなかった。最初はゆっくりと、次第にその感情の昂ぶりを表すかのように大股で近づいてくるが、決して走ることはない。そして、時折こちらに向かって鉤爪を振るい、私に触れるか触れないかの空間を切り裂いた。 「ネズミは所詮逃げるしか能がないのかよ!?」 しばらくまるで肉食獣が追い詰めた獲物で遊ぶかのような行為を続けた後、潮時だというようにグンジは一気に距離を詰めて鉤爪を振るう。私は身体ごと向き直りながら何とかそれを避けた。が、グンジの目を見た瞬間いよいよ殺されると実感してしまい、足が竦んでしまう。 もう一度グンジの鉤爪が振り上げられるその動作を絶望的な気分で見守ったとき、 『今だ、退がれ!』 ケイジが鋭く叱咤した。 その声に我に返って、私は反射的にその指示に従って動く。少し身体をずらした直後、胸の数センチ手前を鉤爪の先端が空を切っていった。恐怖のあまり声も出せず、私は鉤爪の軌跡を凝視するしかない。 『無理して反撃しようとしなくていい、俺の指示するから…だから、何があっても目を開けてろ。でないと見えない』 (分かった) 前を見据えつつ頷いた。その動作も終わらないうちに、グンジの鉤爪が横薙ぎに襲ってくる。私は逃げかけたが、『まだ動くな』とケイジが制止するので必死でその場に踏みとどまった。そして、切り裂かれるかという瞬間。 ガッ。 鈍い音がして、私の身体に達しないまま鉤爪が止まった。私の背後に会った庭木に、刃が食い込んでしまったらしい。余程驚いたのか、鉤爪を木に取られたままのグンジの顔からするりと狂気に満ちた笑みが滑り落ちる。 『――今だ』 ケイジの指示が聞こえた。 何をどうしろと具体的な指示はない。その代わり、一連の動作がイメージとして頭に浮かんでくる。そのイメージが、ケイジから伝えられたものか私自身の考えか分からない。けれど、考えている暇はなかった。 僅かに腰を沈め、次の瞬間、思い切り拳を突き上げた。辛うじてアッパーの態を為しているかもしれない拳を顎に受け、グンジが軽くよろめく。すかさず私は背後の庭木に背を預けつつ、上げた右足で突き放すようにグンジに向かって蹴りを放つ。 気が咎めたが、遠慮は一切しなかった。 私の<城>への侵入は、<ヴィスキオ>に属するグンジにとっては、きっと裏切りでしかないだろう。一時とはいえ親しく接した彼を傷付けたくはないが、ケイジの兄の解放が私の最も優先すべき事柄である以上、ぶつかることは避けられない。グンジは手加減して闘える相手ではないし、何よりそんな状況で手加減などするのは卑怯だと思った。手加減をすることで、グンジへの裏切りの程度も軽くなるだろうと自己満足したがっているのだ、私は。 とはいえ、私の加減なしの蹴りでグンジが吹っ飛ぶなどということはない。蹴りの反動で庭木に取られた鉤爪が外れ、よろめいたグンジが尻餅をついた程度である。それでさえ信じられなくて、私は肩で息をしながら呆然と座り込んだグンジを見下ろす。 「ネズミ…オメェ…」グンジはこちらを見上げ、呆然と呟く。 「――ネズミにも牙はあるんだ…弱くても噛み付くことはできる」 ごめんと謝りそうになるのを堪えてそれだけ言い、グンジの横を通って研究棟の方へ向かう。それでも、グンジが追ってくる気配はない。見れば入り口の数メートル手前でnはまだキリヲと闘っていたが、私が駆けつけようとするのを認めると目で研究棟を示した。行け、というように。 私はnに目礼し、研究棟の入り口へ走る。 “――ようやく己に牙があることを思い出したか” いつかケイジに向けられたシキの言葉が、あの響きのいい声を伴ってふっと浮かぶ。 それは僅かに愉しそうな――ともすれば満足そうとも言えるような声音だった気がした。 *** 軽やかな足音が遠ざかっていく。 次第に消えていくそれを無視し通すことはできず、グンジは最後の最後で思わず振り返った。ちょうど、男としては華奢な部類に入る背中が研究棟へ消えていくのが見えた。 が何故<城>へ乗り込んできたのか、グンジは知らない。 ただ、外でもない自身が決めたことであり、その決意が翻されることはないのだろうということは何となく感じた。というのも、先程のの眼差しが先日アキラを庇ったときのように決然としていたからだ。 今は何のために、何を守るために、あんな眼差しをしているというのか。 その対象に、果たしてが身を投げ出す程の価値があるものだろうか。 自分にさえ“庇う”と約束しなかった癖に。 「――っだあぁぁぁぁ、分っかんねぇ!!」 じわじわと深みに嵌っていく思考を振り払うように頭を振って叫ぶ。の考えも一向に読めないが、それ以上に手加減してしまった自分が分からない。けれど、最早深く考える気にはならず、グンジは勢いよく起き上がった。 見れば、キリヲはまだの連れの幽霊みたいな男とやり合っている最中だった。ぼんやりと捉えどころのない男ではあるが、実力は相当なようで、少しばかりキリヲが押され気味になっている。男の攻撃は機械じみた的確さで、急所ばかりを狙って繰り出されていた。 あの男は、強い。本能的にそのことを理解して肌が粟立つ。 魅入られるように、グンジは死闘を演じる2人の間に割って入った。 「俺とも遊んでくれよ!」 鉤爪を横薙ぎに繰り出せば、男は組み合っていたキリヲを突き放して危ういところで斬撃をかわした。 「ちっ…ヒヨ、テメェの相手はお嬢ちゃんだろーが」 「だってーネズミ弱ぇし、つまんねーんだもん」 「その弱ぇお嬢ちゃんに手抜きして噛み付かれてたのは、一体どこのどいつだよ。阿呆面晒しやがって。俺のデート相手を取りに来られる筋合いじゃねーだろ」 「いいじゃん、別に。俺もこいつとヤってみてー」 グンジが言い張ると、キリヲは呆れたように肩を竦めた。けれども、駄目だとは言わなかった。 そうだ。相手が強ければ殺し合い、弱ければ一方的に引き裂く。 その瞬間の血と苦痛と悲鳴だけが快楽であり、生を実感させてくれる何かだった。 理性や正気は退屈だし無用だ。もしかすると、あの“玩具”が手に入れば少しはそういったものも有意義に思えたのかもしれないけれど。 自分を怖がるでもなく大真面目な説教していたを思い出し、グンジは笑った。人を虐めるなとか、物を壊すなとか、肉ばかり食べるなとか、そういえばは本当にどうでもいいことを真面目に注意していたものだ。 あれが“あっち”側――理性や正気や常識の世界だとしたら、 「やっぱ俺は“こっち”側の人間だよなァ」 にやりと狂ったような笑みを浮かべ、グンジは鉤爪を振り上げた。 *** 見張りが待ち構えていはしないかという不安は、すぐに杞憂だということが分かった。建物に入った瞬間から私は慎重になって、一歩進んでは辺りを窺い、また進むといったことを繰り返した。けれど、それも5メートルほど歩くと無駄な気がしてきて、そこからは早足で進んだ。 研究棟には地上1階と他に地階があるらしかったが、私は一先ず1階から探すことに決めた。内装はいかにも何かの研究所らしく、機能的で無機質な感じがする。こんなに現代的な設備が、解熱剤など本当にちょっとした医薬品にさえ困るトシマにあるのが信じられない。しかし、こんなに立派な施設も郊外にある例の研究所跡と比較すると規模が小さいのだから、Nicolプロジェクトは相当な規模であったのだろう。 そうして足音を殺しつつ廊下を歩いていくうちに、話し声が聞こえた。 どうやら研究員か誰かが立ち話をしているらしい。 うっかり遭遇しては不味いと思い、私は手近にあった部屋へ身を隠すことに決めた。そこは研究員用の更衣室で、ロッカーが並び、テーブルと椅子が置かれていた。人のいない室内に入ってドアを閉めてしまうと、気密性が高くできているのか廊下の物音が聞こえなくなる。しかし、廊下の様子が全く分からないのは不便なので細くドアを開けたまま、私は入り口脇の壁に張りついて待った。 立ち話の2人は会話から察するに、やはり研究員らしい。朝方から搬入された資料類についての話題の合間に警備の人手が足りないことを不安がっている。侵入者がいることも伝わっているようだが、2人は“処刑人がいるから平気だろう”とあくまで楽観的な様子で笑い合い、別れた。 研究員の処刑人に対する評価は、きっと正当なものなのだ。だって、シキと対等に渡り合う程の実力者が私程度を取り逃がすことなど、普通に考えてあり得ない。改めてそう思って、後ろめたさを感じた。 “なんで”と傷ついたような表情をしていたのに。 “壊したい”なんて言っていた癖に。 それでも、結局グンジは私を見逃してくれたのだ。 と、思い出したように右の拳に鈍い痛みを覚えた。きっとグンジを殴るとき下手な殴り方をしてしまったのだろう。じんと疼く右手の指の辺りを左手で撫でかけたとき、足音が一つ近づいてくるのが聞こえた。 廊下で立ち話をしていた研究員の片方が、こちらへ歩いてきているのだ。 何事もなく通り過ぎるよう、にと私は息を潜めて念じた。が、希望に反して足音はすぐそこでぴたりと止まり、次いで苛立たしげな舌打ちが聞こえた。 「――ったく、誰だよ、ちゃんと閉めておかないのは」 神経質そうな呟き。その直後にドアが押し開けられる。 このままでは、私も見つかって騒がれることは目に見えている。混乱の極みに達しながらも、私は相手が更衣室に足を踏み入れるより先に行動を起こした。ドアを押し開けた相手の腕を掴んで強引に引き摺り込んでから、素早くドアを閉めてしまう。そして、私は反撃を恐れて跳びあがるような勢いで相手を振り返った。 改めて見ると、相手は30代くらいの神経質そうな男だった。細い銀色のフレームの眼鏡をかけて白衣をまとった姿はいかにも研究者といった様子で、あまり荒事に向くタイプではないように見える。また、実際その通りなのだろう。私が振り返ったときにはまだ床に身を投げ出した状態から起き上がろうとする最中で、視線が合うと眼鏡の研究員はぴたりと動きを止めた。 見合うこと数秒、やがて眼鏡の研究員は思い出したかのように騒ぎ始める。おそらく私が強そうに見えないものだから、抵抗の余地ありと判断したのだろう。彼は<ヴィスキオ>の権力を笠に着た態度で私を宥めたり脅したりが、やがて無駄だと分かると口汚く罵った。 それでも、反撃してくる様子はない。 「さっき試したけど、この部屋は閉め切ると音が外に漏れなくなるみたいだな。今、ドアは完全に閉めてあるから、あなたが騒いでも誰も気付かない。思う存分騒げばいいよ。だけど…暴れるようならそれなりの対応はさせてもらう」 念のために腰のホルダーからナイフを抜きながら、私は眼鏡の研究員を牽制するための言葉を告げる。すると、彼は悔しそうな面持ちになりながらも、ぴたりと騒ぐのを止めた。 「お前は…しばらく<城>にいたガキじゃないか。よく処刑人つるんでたのは、懐柔してここに忍び込むためだったんだろ?あの処刑人を上手く手懐けられたもんだ…余程お前の身体が良かったのかな。狙いはラインなんだろ?だが、お前なんかがラインの情報を手に入れたところで、」 「ラインなんかどうでもいい」研究員の言葉が不快で、私は切り捨てるように言った。「あなたに聞きたいのは、今日ここへ連れてこられた<難民>のことだけだ。他はいらない」 私はナイフで眼鏡の研究員を脅して<難民>の居場所や状況について聞き出し、その上で彼のIDカードを奪い取った。<難民>が監禁されている区画へ立ち入るときに、IDの認証があるらしいのだ。 用が済むと、私は鍵が残されている空のロッカーを見つけ、研究員にそこへ入るように言った。立ち去ってすぐに人を呼ばれては困るので、しばらく彼を閉じ込めるべきだと思ったのだ。怪我をしたくないと思ったのだろう、彼は渋々ながらもロッカーの中に収まる。その身体が入りきったのを確認して、私は問答無用でロッカーの扉を閉め、鍵を掛けた。 『――なぁ、あんた怒ってないか…?』 恐る恐るといった感じでケイジが言う。 (別に、そんなことはないけど?) 軽い調子で否定しながら、私は部屋にあったテーブルを運んできて横倒しにした。テーブルの平面の部分を眼鏡の研究員のいるロッカーに当てるようにして、扉を塞ぐ。というのも、研究員が内部で暴れ出していて、すぐにロッカーを蹴り開けてしまいそうだったからだ。 理知的な外見とは裏腹に彼は案外口が悪く、絶えず扉を叩く音と一緒に私を男娼だとか何だとか罵倒する声が響いていた。 『何か、あんた、やけにこういうこと手馴れてる気がするんだけど』 (そんなこともないけど、映画やドラマでこういうシーンがあるでしょう?それを参考にしてるだけ) 『…ちなみに、よく観るジャンルは?』 (アクションとサスペンス、それにSFなんかも少し) 『少なくとも恋愛物じゃないことは、聞く前から分かってたよ』 ケイジは疲れたようなため息を吐いた。 その反応に私は何となく肩を竦めてから、ガンガンと煩いロッカーに向き直った。内部で眼鏡の研究員が暴れていることが分かるが、構わずに扉を軽くノックして声を掛ける。 「俺はもう出て行くから安心して欲しい。それと、中で暴れるのは構わないけど、ロッカーの扉は開かないようにテーブルで塞いである」 *** 眼鏡の研究員から聞きだした情報に従って、私は1階の奥にある一角へと進む。そして、廊下の奥まったところで目的の部屋を見つけた。 第2実験室。入り口の真横、ちょうどIDカードのカードリーダーの真上にそんなプレートが取り付けられている。眼鏡の研究員の話では、今日搬入された資料類は資料室に、サンプル――つまり<難民>たちは第2実験室に入れられたらしい。 <難民>たちは檻に入れられた上で、第2実験室に閉じ込められている。だが、実は檻を開ける操作は隣接する操作室からしか出来ない。そして、眼鏡の研究員のIDカードでは第2実験室へ入ることは出来るが、操作室への立ち入りはできないということだった。 非常に厄介な事態だが、ケイジは取りあえず奪ったIDで可能な限り進もうと言った。操作室の付近まで行ったら、そこで別の人間からIDカードを奪おうというのがその方針だった。行き当たりばったりな上に物騒な方針だが、迷っている暇はない(外ではnが時間稼ぎをしてくれているのだから)。 しかし、周辺に人がいなかったので、結局私は第2実験室へ入ることにした。 カードリーダーにIDカードを読み取らせ、ロックの外れたドアを押し開ける。 初めて目にした実験室の内部は、現代的で清潔なのに何故かおどろおどろしい感じがした。室内は厚いガラスのシャッターで2つのスペースに仕切られていた。手前では研究員が一人机に向かって書きものをしているのだが、ガラスを隔てた奥のスペースには四角い檻が幾つも置かれてその一つ一つに<難民>と思しき姿が蹲っていた。猛獣を入れるような檻に人間が閉じ込められている光景は、異様だった。 入っていくと、机に向かっていた研究員が少し遅れて私に気付いて、席を立ちかけた。面倒になる前に対処した方がいい。反射的にそう思った私は研究員に跳びかかって床に押し倒し、手近にあったプラスチック製のゴミ箱を引っ掴んで殴った。 ポコーンと気の抜けるような音がして、捨てられていた紙くずが宙を舞った。 すぐに気絶した研究員の簡単な身体検査をしたが、IDカードはなかった。私も職場で身に覚えのあることだが、置き忘れたか仕事中は別の場所に置いているのかもしれない。 机を物色すべく立ちながらふと顔を上げると、壁の少し高い位置にある窓に人の姿があった。隣接する操作室から、実験室の様子を見るためにある窓だ。中年の研究員らしい男がこちらをちらちらと窺いながら、電話で何か必死で訴えているのが見える。恐らく、警備の人間を呼んでいるのだろう。 (どうしよう…)私は慌てたが 『気にするな、どうせ<ヴィスキオ>はとっくに俺たちに気付いている』ケイジは落ち着き払っていた。『それより、あの操作室の男と目を合わせていてくれ。あいつを“使って”檻を開ける』 私は頷いて中年の研究員を見据えた。“使う”という意味が分からないが、ある程度勝算のないことでなければ、ケイジも言いはしないだろう。 そうするうちに、中年の研究員とまともに目が合った。その途端、頭の奥に鈍い痛みが生じた。 ノイズのような、イメージのような何かが目まぐるしい数と速さで浮かんでくる。 浮かんでくるものを頭が処理しきれず、いっそ息苦しくなってくる。 気持ち悪い。 自然と鼓動が速くなり、私は浅い呼吸を繰り返した。それでも、ケイジに言われたので研究員から目を逸らしはしない。必死で身体を支えていると、ケイジの苦しげな声が聞こえた。 『――あんた、に、負荷…掛けない、つもりだった、けど…ごめ…無理っぽい…』 大丈夫だから、と返そうとしたが、いつもような話しかけるように言葉を思い浮かべるやり方をする余裕はない。ちょっと気を抜くと倒れるか嘔吐するかしてしまいそうで、私は小さく首を横に振る。 と、強張った表情で立ち竦んでいた研究員の手の中から、電話の受話器が滑り落ちるのが見えた。その瞬間、息苦しい程自分の中に蓄積されたノイズとイメージが、堰を切ったようにどこかへ流れていくのを感じる。緊張が緩んで傍にあった机に寄りかかって脱力していると、しばらくしてガシャンと音がした。 <難民>たちの檻が開いた音だった。 私は重い頭を何とか動かして、操作室の窓を見上げる。すると、ひどく強張った表情であの中年の研究員が機械を操作しているのが見えた。続いて始まったモーター音のようなものを聞きながら、私はうっすらと何が起こったのか理解した。 他人の感情を受け取り、或いは、自分の感情を他人に感染させる。 ケイジと彼の兄が、Nicolプロジェクトの実験の結果持つようになった能力。 何度かケイジの感情を受け取ったときとは比べ物にならない苦しさだったけれど、きっと先程のこともその能力を使った結果なのだ。苦痛の有無は状況の違いのせいなのかもしれないが、“精神が破壊される可能性が高い能力”とされるのも納得のいく話だった。 目次 |