5.
気を失ったのだろう、の身体からがくりと力が抜ける。 “知り合いだから”というの返答に呆然としていたアキラは、そこではっと我に返った。とにかく、手当てしなければならない。先程のグンジの蹴りは多少なりとも威力が抑えられていたようだが(というのも、グンジの本気の蹴りであの程度しか吹っ飛ばないはずはない)、それでも結構なダメージであったはず。 けれど、果たして動かしてもいいものか。 アキラが一瞬考えあぐねていると、傍で突っ立っていたグンジが横から手を出し、あっという間にの身体を抱き上げてしまう。「おい、をどうする気だ…」困惑してアキラが尋ねると、グンジは小さく舌打ちをした。 「ここに放っておくわけにいかねーだろ。店に連れて入る。――おい、ぼーっとすんな。オメェも来るんだよ」 「なっ…」 確かにを放置するわけにもいかないが、当然のように言われるものだから、アキラは一瞬言葉を失った。その反応を拒絶と解釈したのか、グンジは顔をしかめた。 「あったりまえだろ。俺は看病の仕方なんか知らねーし」 確かに、目の前の男はそうした知識には無縁に見える。アキラも医療どころか介抱の知識すら碌にない。昔ケイスケが熱を出したとき、傍についていたくらいのものだ。けれど、それでもグンジよりはまだマシな気がしたので、「分かった」と応じる。 を横抱きにしたグンジの後に従って、アキラは“Meal of Duty”へ向かって歩き始めた。 *** 幾つかの記憶が、泡のように浮かんでは消え、また浮かんでくる。私は、ぼんやりとその様を見ていた。 いい思い出、悪い思い出。職場でのこと、友人とのこと、家族とのこと。断片的に再生される記憶に、喜んでいる自分や悲しんでいる自分、怒っている自分などが存在する。その中に、時折記憶にない場面が混じっている。 鉄格子代わりに硝子のはめ込まれた監獄。 檻の中にいるのは紛れもない人間だが、彼らの目は悉く正気の色を失っている。 『いつか、おれもあんな風になるのかな…』ひどく乾いた、子どもの声が呟く。 手を引かれ、走っている。前を行く少年は時折後ろを振り返ったが、あるときぴたりと足を止めた。 ――ちょっと別行動にしよう。2人では目立ちすぎる。 ――少しの間だけだ。その間、お守り代わりに俺のナイフを貸してやるから。 そう言い含められて、少年の合図と同時に2人で相談して決めた方へそれぞれ走りだす。途中でふと振り返ると、俄かに引き返して追っ手のいる方へ向かって行く少年の背中が見えた。 『兄さんっ…』つい零れ落ちた声は、変声期を迎えて不安定な少年のものだ。 すっかり廃墟になった研究所。玄関から中に入ろうとした瞬間、何者かが中から飛び出してくる。こちらがナイフを構えるのも気にせず、素手で獣じみた動作で攻撃を繰り出す相手。 正気を失って濁りきった目。だが、この面差しには覚えがある。これは――。 『うああああぁぁぁぁぁぁ…!!』 *** 「ああぁっ…!!」 叫びながら飛び起きた瞬間、腹部や背に激痛が走る。「いっ…」身体を丸くして傷みを遣り過ごしてから、出来る限り静かな動作でゆっくりと顔を上げた。 見れば、私はすっかり見慣れた“Meal of Duty”の店内で長椅子の上に横になっていた。傍らには、ひとり掛けの丸椅子が2脚置いてある。動かせる椅子やテーブルの類はすべて私が午前中に端に寄せて片付けたのだから、これはまた出してきたものに違いない。ということは使った人間がいるはずだが、フロアを見渡しても今はその姿を見つけることはできなかった。 フロアの中央へぼんやりと視線を投げかけながら、私は深く息を吐いた。夢現に見た記憶の中の光景に、まだ心臓がどきどきしている。あの研究所の記憶は、明らかに私のものではない。あれは。 “俺と兄貴は、そうやって利用されたプロジェクトの副産物だ” “終戦の混乱に紛れて逃げ出したはいいが、結局離れ離れになった” “トシマに来たのは――” 正気を失った目と、覚えのある面差し。 あの研究所の廃墟で見えた<難民>らしい男は、もしかして――。 『…』 不意に頭の中から声が響いて、私は思考を中断した。 『あんた、何度も何度もいい加減にしろよな。一応俺の身体なんだから、大事に扱えよ』 (あれは、その…ごめんなさい…) 『ごめんで済むかっ。何でわざわざ怪我するタイミングで跳びこんでいくんだよ!』 (本当にごめんなさい…あのときは、どうしてもグンジを止めないとと思って…ごめんなさい) 『もう、いい。それより…』ふとケイジの声が暗く陰りを帯びる。『あんた、さっき何か“見た”か?』 (さっきって、) 返事をしかけたとき、店の奥へ続くドアが軋みながら開く音が聞こえて、私ははっと顔を上げた。ドアを開けて入ってきたのはアキラで、私の顔を見て目を丸くする。 「――起きた、のか…」 「アキラ…が、俺をここまで運んでくれたのか…?」 「運んだのはグンジだ。アイツが手当ての仕方が分からないって言うから、俺もついてきた。俺も医療とか看病とか素人だから、何もできなかったけど」 「グンジはどこに…?」 「横で邪魔ばっかりするから邪魔だって言ったら、じゃぁ仕事するって。さっき見たら、倉庫で掃除か何かしてた」 掃除?余計散らかっているんじゃないだろうかと店の奥の様子を想像し、私は少し顔をしかめた。 そうするうちに歩いてきたアキラは、手にしたプラスチックの洗い桶(店で皿洗いに使っていたものだ)を丸椅子の上に置くと、もう一方の椅子に腰を下ろす。さり気なく桶の中を覗き込むと、水を張った中にタオルが一枚浸してあるのが見えた。私の視線に気づいたアキラは、「これは」と洗い桶の淵に手を掛ける。 「頭を打ったみたいだから、冷やすのに使ってたんだ。さっき温くなった水を替えてきたけど、もう要らないみたいだな。あんたは20分ほど眠ってた」 「そうか。ありがとう、アキラ。迷惑を掛けてすまない」 「いや。昨日あんたの伝言を聞いて、会いに来るつもりでいたし…――話したいことって、何だったんだ?」 「――ケイスケの、ことなんだけど」 言った途端、アキラの顔が強張るのが分かった。その反応に私は一瞬、悪い報せばかり告げることを申し訳なく思いながらも、伝えることがアキラにとってもいいだろうと思い直す。そして先日夜中にケイスケと会ったこととマスターの話を告げると、予想に反して、アキラは「知っている」と答えた。 「ここに来る途中で、俺も会ったんだ。ケイスケは、自分がバーを襲ったって言ってた。俺が言うのは筋違いだろうけど、すまない。あいつのせいで、あんたや店の客は死にかけた。実際、何人も死んだ。――だけど、あいつは本当はそんな奴じゃないんだ!俺が八つ当たりしたから、ケイスケは強くなろうとして、」 「それはアキラが謝ることじゃないよ。俺もあの日店にいなくて、運よく助かった口だから。――でも、せっかく来てもらったのに、役に立たない情報でごめん」 「いや。俺も最初はあんたに会ったら、ケイスケを見かけなかったか訊こうと思ってたんだ。教えてくれて、感謝してる…それから、さっき庇ってくれたことも。ありがとう」 そう言ったアキラは、決して明るい面持ちではないものの、案外落ち着いた様子に見えた。ケイスケのことを知ったらもっと取り乱すかと思ったのだが、私が告げる前から知っていたからだろうか。 それから少しリンや源泉のことを話した後で、アキラはそろそろ帰ると言って椅子を立つ。私はせめて入り口の扉まででも見送ろうとしたのだが、彼はそれを断った。 「あんたはもう少し安静にしてる方がいいと思う。脳震盪まで起こしたんだし。本当は医者に診てもらう方がいいかもしれないけど、ここはトシマだから…無いものは仕方ない。けど、脳震盪かと思ったら脳が傷ついてて障害が出ることもあるから、気をつけたほうがいい」 「分かったよ。――って、アキラ、知らないっていう割には結構知識あるじゃないか」 「Bl@sterに出てた頃、怪我は大体自分で手当てしてたから、少しだけ。でも所詮素人だから、あんまり信用しないでくれ」 じゃあ、と短く別れを告げてアキラは店の出入り口へ向かう。テーブルも椅子も取り払ったフロアを横切って、彼が中央の辺りに差し掛かったときだった。 「――待てよ。そのネコは帰せねー」 と声ががらんとしたフロアに投げかけられ、私とアキラははっと声のした方向を振り返った。店の奥につながるドアを開けっ放しにして、グンジが立っている。気配もなければドアを開ける音も聞こえなかったはずで、一体いつからそこにいたのだろうと私は驚いた。アキラも同じだったようで、呆然とグンジを見ている。 「お前、いつから…」アキラは掠れた声で呟いた。 「ちょっと前だよ。気配殺してたら、オメェらドア開けても全然気づかねーのな」 そう嗤いつつ、グンジはフロアの中央へ向かって歩みだす。アキラはびくりと肩を揺らして身を引く素振りを見せるが、逃げ出しはしない。いや、多分逃げ出せないのだろう。“Meal of Duty”の店内は逃げるには狭すぎて、どこへ行ってもグンジに追いつかれてしまうことは明白だ。 「やめろ、グンジ」 とにかくアキラを逃がさなければ、と私は痛む身体を叱咤して、長椅子から立ち上がった。そんな私をちらりと見て、グンジは再びアキラに視線を戻す。 「悪ぃけど、こっちもシゴトなんだ。このネコを<城>に連れて来いって、ビトロのお達しだからよ」 「アルビトロだと…」訝しげにアキラが眉をひそめる。 「アキラは、敗者でも違反者でもないだろう?どうしてアルビトロが」 「俺は知らねーよ。単に気に入ったんじゃねーの。こいつ結構キレーな顔してるし、改造して奴隷にするのかもな」 私は以前<城>でアルビトロから受けた仕打ちを思い、唇を噛んだ。奴隷だの改造だの、人を玩具にして遊んでいるのか。強い怒りを覚えながら、2人の傍まで歩いていく。すると、グンジは苛立ち込めた眼差しでこちらを見た。 「またこのネコを庇う気かよ。今度はどうなっても知らねーぞ」 「…俺はアルビトロに“改造”されかけたことがあるから、少しだけ、どういうことか分かる。自分の意思も無視されて、玩具にされて…誰かが、特に自分の知り合いがそんな目に遭うのは嫌なんだ。どうか、アキラを見逃してやってほしい。俺がお前を止められるとは思わないけど――」 「お願いします」 頭を下げて再び上げると、呆然とした表情のグンジと目があった。そこではっと我に返ったのか、グンジは明後日の方向を向いてしまう。そして、「ちっ、…ネコはネコらしく、さっさと逃げちまえ」と低く吐き捨てた。 「いい、のか…?」 びっくりして尋ねるアキラを、グンジは無視した。それで見逃してもらえたのだと確信したらしいアキラは、1歩2歩後退するとぱっと身を翻して出入り口へ駆けていく。扉を開けて外へ出る直前、彼は一度だけこちらを振り返った。 「ありがとう、…――それから、グンジも」 しばらくの間、私たちは何も言わずに階段を駆け上がる足音に耳を澄ませていた。やがて、それも遠ざかり聞こえなくなった頃、グンジははーっと大きく息を吐いた。そのため息に、どんな心情が込められているのかは分からない。 分からないが、構わずに私は口を開いた。 「ありがとう」 「何が」 「アキラを見逃してくれたし、俺を運んで介抱してくれた」 「別に感謝されるようなことじゃねー。オメェが死んだらビトロがヒスるし、介抱つっても俺は何もしてねぇし。大体あのネコのことだって、ビトロの玩具が増えようが減ろうが俺の給料変わんねーのに、労力使っても損するだけじゃん」 「でも、グンジのおかげで助かったのは事実だから。ありがとう」 早口の説明は単なる照れ隠しのように思えて可笑しかったので、笑いながらもう一度感謝の言葉を繰り返した。それから、私は果たしてグンジがちゃんと“掃除”してくれていたのか(というか逆に散らかされたのではないか)確認しようと、店の奥へ向かいかけた。そのとき、「なぁ、ネズミ…」 「オメェはさ、もし俺が危なかったら、さっきネコにしたみたいに庇うか?」 呼びかけられた私は一旦振り返ったものの、投げかけられた質問が予想外すぎて言葉を失った。どう答えたらいいのかと困惑しながら見れば、グンジは――普段はへらへらしているか、処刑人としての残忍そのものの態度であるのに――珍しく真面目な顔をしている。 いよいよ返答に困って、「えっと…でも、グンジが危ないときってあるのか?むしろ、お前は誰かを危なくする側だと思うんだけど」と私は当たり障りのない返答でお茶を濁そうと試みた。結果は失敗に終わったが。 「だから、もしもっつってるじゃねーか!」 「そう言われても、そういう状況が想像できないし、」 「…じゃあ、たとえば俺が今まで殺した奴らとかに化けて出られたら!オメェ、助けに来れるか?」 何なんだろう、この変なたとえ話。とはいえ、処刑人として参加者を甚振り続けてきたグンジには、案外有り得そうな展開かもしれない。けれど、化けて出られるのは自業自得じゃないのか。それに、処刑人として死体回収も行っている彼が、幽霊を怖がるとも思えない。そういった点を指摘しようとしたのだが、グンジが依然として真剣な目をしているので、私は話題を混ぜっ返すことができなくなった。 それにしても、何故こんなことを訊くのだろう。そう思って、私は内心首を傾げる。 現実的に見て、私程度が助けられるような窮地であれば、グンジはとっくに自力で脱しているだろう。子どもっぽいところがあるとはいえ、戦闘センスに関してはシキと渡り合うことが出来るこの男のことだから、その程度のことは分かるはずだ。もしかしたら、グンジは実際に助けて欲しいのではなくて、助けると言って欲しいだけなのかもしれない。その理由は分からないが。 とはいえ、簡単に“助ける”とは答えにくかった。マスターのときもアキラのときも、私は考えて行動したわけでなく、単純にその瞬間するべきだと思った行動を取っただけなのだから。万に一つグンジが窮地にあるのを見かけたとして、そのときの行動は自分でも予測できない。 けれど。 「――もし、グンジが殺した人たちの幽霊に化けて出られてたら…そのときは、一緒に謝ってやるよ。“許してもらえるとは思いませんが、酷いことをしてすみませんでした”って」 「助けるんじゃねーのかよ」 「だって、この場合恨みがあるから化けて出るんだろ?自業自得じゃないか」 「ちぇっ、つまんねー答え」 すねた口調で言うと、グンジは大股で長椅子の方へ歩いていき、乱暴に腰を下ろした。そのまま昼寝する気なのか、ずるずると身体を横たえる。まるで不貞腐れた子どもみたいな態度だと密かに苦笑してから、私は店の奥へ続くドアを開けて廊下へ出た。 ドアを閉める間際、一瞬、微かな呟きのようなものが聞こえた気がした。 「…さっき言ったこと、忘れるなよな」 *** “Meal of Duty”を後にしたアキラは、ホテルへ戻ろうとして足を止めた。左手でジャケットのポケットに触れれば、相変わらず紙がそこにあることが分かる。 (リンとの約束…) まだ、間に合うだろう。 迷ったものの、結局行くことに決めた。先日シキを追っていったリンのことが、気になるのだ。シキの名を聞いたときの表情の冷たさも引っ掛かってはいるが、それだけでなく、リンの安否を確かめたかった。リンは外見に似ず強いが、それでもここ数日で治安の悪化したトシマでは何があるか分からない。 “見てくれた?中立地帯のバー…記念すべき俺の初舞台だ” 初舞台、ということは続きがあるかもしれない。 このところトシマで起こっている無差別殺人に、幼馴染が関係していないだろうかと嫌な考えまで浮かんでくる。まだケイスケに対する感情は混沌としているが、ケイスケに再会した直後よりは冷静に考えられることに気づいて、アキラは少し驚いた。に後悔の言葉を吐き出したから、落ち着いたのだろうか。 いずれにせよ、リンもケイスケを探すと言ってくれたのだ。今日のことを話しておく方がいいのだろう。――今なら、少しは落ち着いてケイスケと再会したことを話せる気もする。 アキラは地図を取り出すと、北区に向かって歩き始めた。 目次 |