6.





 夕方<城>へ戻るとすぐに、私はグンジの手で医務室へと放り込まれた。昼間彼の蹴りをまともに受けてしまったことから、念のためどこか異常がないか診察してもらえというのだ。
 医務室にはちょうど初老の医師がいて、私はすぐに診てもらうことができた。結果は異常なし。腹や背などに打ち身はあるものの、そちらも然程酷いものではないと医師は保障してくれた。


 診察は問題なく終わったが、そこからが問題だった。唐突に室内に入ってきたアルビトロが、「彼に話があるから」と医師を追い出してしまったのである。マスターはもう起き上がれるようになって自室に戻ったらしいので、ここには私とアルビトロだけがいることになる。
 嫌な状況だ。
 先程まで医師が座っていた椅子に腰を下ろしたアルビトロに警戒しながら向き合うと、彼は出し抜けに苦笑した。
 「…あぁ、失礼。そんなに警戒しないでくれたまえ」
 「警戒しているわけではありません。人見知りする性質なので、そう見えるんでしょう。それで、お話とは何です」
 「今日、君は“Meal of Duty”でアキラという青年と会っていたらしいね。彼は君の友人かな?私はある事情から見つけ次第彼を保護するように部下に命じているのだよ…その中には、グンジも含まれている」
 私は黙ってアルビトロの先の言葉を待った。
 この男にアキラのことが伝わったのは、グンジが報告したからなのだろうか。私は一瞬少し裏切られた気分になり、すぐにそれを打ち消した。好き勝手しているようでいて、グンジはアルビトロに雇われてその契約の下で働いている。雇い主への報告は義務なのだ。昼間アキラを見逃してくれただけも破格のことであるのに、それ以上何かを期待するのは甘えに他ならない。
 そんな風に自分に言い聞かせたのだが、じきに告げ口というのが私の勘違いであることが明らかになった。
 「グンジは、君がアキラと会った場面に立ち会っている。なのに、彼を連れ帰らなかった。――君がグンジを止めたんだろう?私が気付かないと思ったのだろうが、グンジが報告を上げなくとも、監視カメラの映像には映っているのだよ」
 「カメラ…」そんなものがあったのか。
 「君は優しいからアキラの身を案じて逃したんだろう。だが、我々も彼の身を案じるからこそ、保護しようとしている。――彼は特殊な体質の持ち主である可能性が高くてね、もしも我々の研究に協力してくれたなら、たとえば、ラインの副作用や依存性を従来より抑えたものを精製することができる。そうすれば、ラインで人生を棒に振る人間も減る。<ヴィスキオ>も別に人間を堕落させるものを売りたいわけではない。改良については常に研究を重ねているのだよ」
 それでも、麻薬は麻薬だ。医療に使う場合はともかく、素人が好き勝手に服用しては碌なことになるまい。少なくとも私は安全でもラインなんか使わない。
 それより、解せないのは、なぜアルビトロが私にそんな事情を説明するかということだった。何か裏があるのだろうが下手に口を挟んでは藪蛇になりそうで、私は黙っていた。
 「事情を説明したのは、君にアキラを説得してほしいからだ。私は事を穏便に済ませたいと考えている。君が説得してくれれば穏便に済むが、そうでなければ今度はキリヲを差し向けるつもりだ。――穏便に済ませたいという私の願いを無碍にしないで欲しい」
 ライン改良の展望について陶酔気味に一頻り語り終えると、アルビトロはそんな脅しめいた言葉で締めくくって席を立った。そのまま部屋を出て行くかに見えたがそうではなく、アルビトロは私の横まで来ると思い出したように足を止める。

 「そうそう、グンジのことだがね、」

 「彼を責めないでやって下さい。アキラを連れて行くなと言ったのは俺ですから、」
 私はとっさにそう言ったが、アルビトロはそれには答えず、やけに平坦な声音で先を続ける。
 「あれは精神が子どものまま大人になったような男だ。やり方は無造作で乱暴だが、言いつけは守るし疑問を挟むこともない。命令無視は今回が初めてだよ」そこで言葉を切ると、アルビトロはいきなり私の肩を強い力で掴んだ。自ら闘うことはなさそうなこの男の一体どこに、と疑うほどの力だ。思わず見上げると、その目は異様な光を湛えていた。「一体どうやって手懐けたのか、教えて欲しいものだね」
 この男も、どこか狂っている。改めてそう感じるが、肩をつかまれて逃げ出すことも出来ない。やがて、アルビトロは肩から手を離すと、「失礼」と何事もなかったように部屋を出て行った。


 ドアの閉まる音と同時に、息を吐く。途端に『妙だな』と自分が感じていたことをそのまま口に出されて、私は顔を上げた。
 (ケイジ…やっぱりそう思う?)
 『あぁ。アキラを拘束する目的は言葉通り善意とは思えないが、ライン開発は多分<ヴィスキオ>の機密にも絡む話だろ。たとえ表現をぼかしても、部外者のあんたに話すことじゃない。たぶんさっきのは、安全なラインを作るって話であんたの心証を良くして、協力させようとしてる』
 だが、アキラを拘束したいだけなら、<ヴィスキオ>の黒服を動員して街中を探せばいい話だ。その方が私に頼むよりも余程早い。それをしないのは――。
 (アルビトロは、目立ちたくないと思ってる…?)
 『だろうな。旧祖地区を挟んで日興連とCFCが睨みあってる現在じゃ、トシマに密偵くらい入ってるだろうし、下手に騒げばどちらの陣営にも動きが筒抜けになる』
 そうなのだろうか。この時代の政治がどうなっているのか私は今ひとつ理解しきれていないが、ケイジの推測には微かな違和感を覚えた。
 いくら<ヴィスキオ>がラインで儲かっているとはいっても、たかだか一麻薬組織にすぎない。多少不審な動きをしたからといって、開戦前の両政府が共に潰そうとする程のことはないはずだ。それが分かっているからこそ、アルビトロは内戦間近の今も2大勢力の間でイグラなんか続けているのではないか。アキラの件でこそこそしているのは、もっと身近にばれては不味い相手がいるからではないのか。
 そんな思い付きを口にすると、ケイジは考え込んでしまった。
 『それだと、隠したい相手は身内…シキ辺りになるんじゃないか。イグラの看板である<王>との関係を悪くするっていうのなら、大した覚悟だ』
 そのときドアが開く音がして、私はぎょっと振り返った。
 またアルビトロが戻ってきたのかと思ったが、医務室に入って来たのは席を外していた当直の医師だ。私はほっとしながら医師に診察の礼を言って、医務室を出た。
 静かにドアを閉めて薄暗い廊下を歩き出すと、ぽつりとケイジが低く呟いた。

 ――もしかしたら、アルビトロはこれからもっと大きなことをやらかすかもな。


 気になることといえば、私は気絶している間に見てしまったケイジの記憶についてひどく気になっていた。が、過去に触れることなので尋ねにくく、借りている部屋に戻っても中々切り出すことができなかった。
 もしかしたら、ケイジも話題にするのを避けたのかもしれない。結局、この日はアルビトロの目的やその他の雑談に話題が終始して、過去のことを尋ねる間はなかった。


***


 翌日、私は動けるようになったマスターと一緒に“Meal of Duty”へ向かった。
 グンジは今日から処刑人の仕事に戻ったので、ついてきていない。出掛けに顔を合わせたら彼は頬や瞼を腫らしていたので私は心配したのだが、それはアキラを見逃した罰を受けたのではないと本人は否定した。「身体がなまってるからよぉ、ジジイとちょっと遊んでた」と言って。それが真実なら、それでいいのだけれど。
 “Meal of Duty”店内の片付けや荷物の運び出しなどは、昨日までのうちに大方終わっている。今日は忘れ物と戸締りの確認が専らの仕事で、それも午前中の早いうちに片付く。
 その後は、中立のホテルへ行かなければならなかった。
 ホテルの2階には昔使われていたバーの設備があって、マスターは新たにそこで店を開くことになっているのだ。これはトシマの住人たちからの要望であったらしい。3つある中立地帯のうち酒類が一番豊富なのはバーなのに、そこがなくなるのは困るのだという。そこで、アルビトロがその要望を聞き入れた形だった(もちろん裏はあるのだろうが)。
 「でも、どうせやるならホテルの中じゃなくて、別の場所でやればいいのに」
 「ま、色々難しいこともあるのよ。この街で電気や水道の設備が生き残ってる建物は簡単に見つからないし、アルビトロはケチだからそんな手間掛けたがらないしね」ホテル2階のバーで開店準備を手伝いながら私が思いつきを口にすると、マスターはそう答えて肩をすくめた。それから急に真顔になって、声を潜める。「それに、もう時間もないし」
 「…時間、ですか?」
 「内戦が確定したらしいの。<ヴィスキオ>は日興連にとってもCFCにとっても邪魔者だから、開戦になればまっさきに攻撃されるわ。アルビトロは保身と儲けには余念のない男だから、そうなる前に<ヴィスキオ>ごと撤退するでしょう」
 「もう、そんな段階まで…?」
 「えぇ。あいつは混乱を恐れて秘匿してるけど、知ってる人間は知ってるわ。源泉みたいな情報屋もトシマにはいるから。それでね、、あたしは時期が来たら<ヴィスキオ>と一緒にトシマを出るけど…あなたも来ない?」
 突然のマスターの申し出に、思わず息を呑む。内戦が始まればトシマを出なければならないとは思っていたが、まだはっきりと決めてはいなかったのだ。少しの間の後、私は返事するために口を開いた。

 「マスター、俺は――」


***


 午後3時。ホテル内のバーは初めて店を開けて客を迎え入れた。
 マスターはそのまま接客を始めたのだが、私はお遣いを頼まれてホテルを後にする。向かう先は、トシマに来たばかりの頃にも訪れたことのあるあの雑貨屋だ。マスターがそこで調理器具を注文していて、それが今日入荷するのだという。
 雑貨屋へ行くと店番の青年は私のことをまだ覚えていて、2人で一頻り雑談をしてからタグと引き換えに品物を受け取り、雑貨屋を出た。
 そのまますぐにホテルへ戻る気でいたのだが、大通りを進むうちに途中で人だかりに行き当たった。イグラのバトルを見物しているらしい。人だかりはちょうど通りを塞ぐ格好で広がっており、無理に通り抜ければバトルの真ん中へ出てしまいそうだった。それに、人の多い場所に留まれば、いつ誰に目をつけられるか分かったものではない。
 結局、私は別の道を使ってホテルへ戻ることにして、大通りから逸れて裏通りへと入った。それだけで、人だかりの喧騒はかなり静かになる。見物人たちの歓声を遠くに聞きながら、私はホテルの方へ歩き始めた。


 ふと空を見上げればビルとビルの合間にのぞく空は、今日も曇り。けれど、いつもよりも雲が厚く黒っぽいところを見ると、雨が近いのかもしれない。それならば降ってくる前に帰ろうと思い、雑貨屋で受け取った小ぶりの包みをしっかり抱いて歩調を速める。
 と、不意にケイジが話しかけてきた。
 『…あんた、さっきどうしてマスターの誘いを断ったんだ』
 (まだトシマを去れないからよ)
 『シキを待つっていうのか?だけど、アイツは…その、あんたを好きだとしても、誘わないかもしれないし…』急にケイジが言いにくそうにするので、私は少し笑った。
 (シキのことは関係ないよ。私は、たとえシキとでも行かない。…だって、しなきゃいけないことがあるんでしょう?)

 昨日見たケイジの記憶。
 ケイジの兄は<難民>になっていて、ケイジも多分それを承知している。
 承知の上で、どうしようも出来ずにここにいる。

 『あんた…まさか俺のためにトシマに残るって…!?何だよ、可哀想だから、か?あんたの哀れみなんかいらねぇんだよ。元々無関係なんだから、放っとけよ!』
 (放っておけるわけないでしょ。あなたは私にとって――)
予想通り怒り出したケイジに言葉を返そうとしたとき、ふと目の前をふらりと人影が過ぎっていく。慌てて目で追えば、茶のカーデガンを羽織った、警戒や気負いのない無造作な背中に見覚えがあった。
 先日会ったことがある。シキが尋常ではない執着を見せたことも覚えている。あれは。

 「n…?」

 思わず言葉が声に出るのと、男が立ち止まって振り返るのがほぼ同時だった。金に近い茶色の髪に人形めいて整った面立ち。何より、光の加減で紫にも見える瞳。やはり見間違いではない。
 nはちらりとこちらに視線を投げ、次いで足元を見た。
 『奴に関わるんじゃない』
 ケイジの警告は聞こえていたが、私は背を向けて立ち去らず、逆に一歩近づいた。nの足元にあるものに目を奪われていたのだ。
 nの視線の先にいる男。ビルの壁にもたれて座り込み、手足をだらりと投げ出している。肩から上はちょうど影になっていて定かではないが、男の衣服は見覚えのある黒のライダースだった。
 「…猛、か?」
 名前を声に出すが、反応がない。何か嫌な予感がして、私は慎重に2人と距離を詰めた。
 ラインを服用した猛と得体の知れないnは警戒すべきだ。けれども、不適合でも起こしたのか猛の様子がおかしい。一度殺されかけたことがあるとはいっても、体調の悪いところを見殺しにすることはできない。助けなければと思った。もう一つの悪い予感もあったが、それは敢えて考えないようにして。
 『やめろ、!』
 (でも、具合が悪かったら)

 『やめろって言ってるだろ!あんただって、もう分かってるはずだ。そいつは、』
 “それ”は、あんたが見るもんじゃない。

 ケイジが言うのと角度が変わって猛の全身が見えるようになるのとが、ほぼ同時だった。
 絶命している。猛を見て、真っ先にそう思った。
 恐怖に見開かれた目が、苦痛にゆがんだ血塗れの顔が、その死を物語っている。自分の時代では殆ど目にすることはない苦痛に満ちた最期の顔に、悼む気持ちよりも恐ろしさが先立って、私は咽喉の奥にこみ上げてきた悲鳴を飲み込んで立ち竦んだ。
 見るなと言われたけれど、せめてもの礼儀のような気がして、何とか目は逸らさなかった。


 立ち竦む私の目の前で、nはするりと猛の傍に膝を突いた。手を伸ばして首筋の脈に触れ、終わると手のひらで顔を撫でて開きっぱなしの瞼を閉じさせる。それは、どこか労わるような仕草にも見えた。
 そこで私は唐突に猛の死に様は恐れるのではなく悼むべきなのだと思い出し、うつむき目を閉じる。そうやって短い黙祷を捧げてから顔を上げると、立ち上がったnが不思議そうにこちらを見ていた。一瞬、襲い掛かられるかと身構えたが、nは僅かに首を傾げただけだった。
 「悲しいのか、この男が死んで」そう言ってnは答えを促すように黙ったので、
 「悲しい」と私は答えを返した。「悲しいし、怖いし、遣り切れない」
 猛は、少なくとも私にとっては、ただのライン中毒者ではなかった。
 弱肉強食のトシマで生きるために売春してまで、ここにいようとした。何かそれだけの目的があるかのようなことを以前猛は口にしていた。更にはそのためにラインに手を染めた。その結末がこんな死に様というのなら、辛酸を嘗めた報いは一体どこにあるのだろう。
 「なぜ悲しいと感じる?お前は一度、この男に殺されかかったのに」
 「知ってる人間が死んだら、何も感じないなんてことはないよ。殺されかかったからって、本当に死んで欲しいとは思わないし。――あなたも、関わりがあったから猛の死を悼んでるんだろう?」
 「悼む?俺は悼んでなどいない」nは僅かに目を見張って打ち消した。
 「でも、さっき」
 「悼んでなどいない。関わりもない。この男は、己の望みを叶えるために力を求めていた。だから俺が与えた。それだけだ。俺は虚ろで、力を求める者なら誰にでも与える」

 望むのなら、お前にも。

 そう言って、nは1歩こちらへと踏み出してくる。
 別段暴力を振るわれたわけでもないのに、私は急に怖くなり始めた。逃げ出したいと思うのに、意識の一部はnに惹きつけられている。逃げ出したい思いと留まりたい思いに板挟みになるうちに距離を詰められ、気がつけばnが目の前にいた。
 「力があれば、誰もお前を脅かさなくなる。もっと楽に生きていくことができる。目的を果たすのに、ためらうことも恐れることもなくなる。――そんな力を、俺はお前に与えることができる」
 nは丁寧だが有無を言わせぬ手つきで私の右手を取ると、掌を上向きにしてそこに何かを乗せる。恐る恐る確認すると、それはラインと思しきアンプルだった。


***


 ラインを欲しいと思ったことは、一度もない。
 イグラに参加する若者たちは強さを望んでラインに手を出すが、私はそういうものを欲しいとは思わない。だから、バーで日々ラインを扱っていても、心が揺らぐことなどなかった。勿論それは今でも変わらないのだが。
 「っ…」
 要らないと投げ捨てることも出来ず、私はラインを手に乗せたまま動けなくなった。自分には関係ないと思っていたラインを勧められて、私もまた使おうと思えばラインを使える環境にあると気付き、急に怖くなったのだ。手の上にあるだけでもおぞましいが、投げ捨てれば爆発しそうな気さえして、私はひとり混乱する。すると、唇が勝手に動き始めた。
 「い、ら、な、い」
 掠れた声が咽喉から押し出される。
 これは、私ではない。確かにラインなど欲しくないとは思っているが、これは――。

 「『――…おれ、は…もう、…こんなもの…使わない』」

 感覚も何もかも私にあるのに、この瞬間口を突いたのは紛れもなくケイジの言葉だった。
 以前のように身体の主導権が移ったのとは、また違う。何がどうなったのか分からない。けれど、驚くよりも勇気付けられた気分になって、私はラインを持った右手を高く振り上げる。振り下ろしてアンプルを地面に叩きつけるのと同時に、ケイジははっきりと言葉を発した。

 「『俺はもう2度とこんなものに頼らない…!』」



 本当に、いいのか。
 地面に落ちたアンプルを一瞥してから、nはこちらに問いかけるような眼差しを向けてくる。私は要らないのだと返事しかけたが、そうするよりも先にケイジが低く呻いた。
 「『ラインが欲しいかなんて、あんたが俺に言っていいことじゃないだろ…俺たちは、Nicolウィルスのために人生を狂わされた同士なのに。…ふざけるな!研究所で、俺たちをモノみたいに扱った奴らと同じになりたいのか、あいつらと同じ人でなしに!?』」
 「あの研究所の研究員たちが“人でなし”と言われるなら、俺も同じ…いや、もっと酷いだろう。大戦で俺は多くの人間を殺した。研究員たちより罪がないということはない」
 感情を露にするケイジに対して、nは無表情を揺るがせもせずに答える。その声音も後悔や悲嘆の色はなく、単に事実を機械的に述べる淡々としたものだ。
 「俺は戦闘兵器でありNicolウィルスの保菌者だ。あの研究所で、俺の感情も他の存在する意味も全て奪われてそれだけが残された。だから、俺は残された存在意義のために生きている――力を求める者があれば、与えるために」
 「『あぁ、確かに欲しかったさ。俺のために理性を失くして<獣>同然になって兄貴を――今もあの研究所から出られない兄貴を、俺の手で楽にしてやりたかった。そのために1度はラインも使った。結局目的を果たす前にシキに遭って斬られたけどな』」
 ケイジは自嘲気味に笑う。この時代で初めて目覚めたときシキが言っていたライン中毒云々はこのことなのだろう。今更納得しつつ、私は黙って彼の言葉に耳を傾けていた。

 過去の記憶を見たときから、予感していたことだった。
 ケイジは、刺し違えてでも<難民>となった兄を斃そうとしている。生命の保障はない。それでも、ついて行くべきだと思った。ケイジの意思を蔑ろにはできないし、別行動は物理的に不可能なのだ。そうするより他にない。
 また、たとえ身体が別であったとしても私は同じ選択をしただろう。放っておけない、と感情が言っているから。

 「『確かにあんたにも俺にも罪はある。だけど、何も自分で選べなかったあのときと、自分で選べる今とじゃ全然違うだろ?今もあのときと同じことをやってるとしたら…自由になった今でも、心はあの研究所に閉じ込められてるのと同じじゃないか』」
 そんなの、悔しいじゃないか。
 「悔しい?そんな感情はない」あっさり受け流しつつ、それでも譲歩を示すようにnは一歩後ろへ下がった。「だが、ラインを勧めたことは俺の間違いだった。すまない」
 「え?え??」
 思わずひどく間抜けな声が零れ落ちる。今度は紛れもなく私自身が発したものだった。どうやらその気になれば私でも声を出せるらしい。
 「お前の兄は幸せだ。たとえ狂って何も分からなくなっても、自分を想って止めてくれる者がいる。俺にはそんな存在はいない。ひとりで、終わるべき場所を探すしかない」独り言のように目を伏せて呟き、次いで顔を上げてこちらを見る。「俺を追ってくるあの男を動揺させれば、俺を壊してくれるだろうと思った。お前に執着するあの男…お前がラインを使えば、平静ではいられないだろう」
 nを追っている男――シキのことか。だが、シキが私のことで動揺するはずはない。
 私が反論しかけたとき、遠くで複数の声が聞こえてきた。つい今し方のタグ獲りについて話し合う興奮した、声、声、声。次第にこちらへと近づいてくる。
 ふらりとnが歩き出し、細い路地の入り口の方へ歩いていく。路地に入る手前でnは一度私を振り返り、声を発した。

 羨ましいな――お前の兄が。

 感情はないのだと聞いていた。n本人もそう言っていた。けれど、そのときの声音には確かに悲しみが込められている気がして、私は息を呑む。そうする間にnは背中を向け、細い路地へと消えていった。
 『俺たちも行こう。下手をすればバトルになる』
 遺体を残していくのには抵抗があったが、運んだとしても、然るべき弔いが出来ないことは分かりきっている。そこで私は(そうだね)とケイジに了解の意を示し、猛の遺体に目礼してから走り去った。







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