7.





 通りから通りを縫って、私はただ一心に走った。余所見をすれば、或いは立ち止まれば、猛の身体を放置してきたことが後悔となって押し寄せてきそうな気がしていた。
 このトシマでは、<ヴィスキオ>以外に遺体を処理することはできない。もっとも、その処理がきちんと行われているか、誰も知らないのだけれど。猛の遺体も、処刑人か黒服が見つけて引き取ることになるだろう。
 と、唐突に視界が開ける。走るうちにトシマを横断する大通りへと出たらしい。そうと分かった途端気力が切れて、私は細い脇道の出口で立ち止まった。我武者羅に走ったために呼吸は乱れきっており、息苦しさに耐えかねて傍のビルの壁に手を突いて息を整えた。そうして呼吸が落ち着いてくると俄かに猛のことが思い出されて申し訳なく、私は壁に触れている指先に力を込めた。
 『…気に病んでもどうしようもない。ここじゃ珍しいことでもない。たとえ遺体を引き取ったとしても、俺たちでは葬ってやることはできないんだ』
 ケイジが言うのへ、私は唇を噛んでただ頷くことで返答とした。
 それから、胸に抱いていた小包――どこかで取り落とさなかったのは奇跡に近いだろう――を抱えなおし、ホテルの方向へ歩き出したところで思い出した。(ケイジ、さっき自分の意思で話したのよね?あなたが身体を動かせるのなら、この身体をあなたに返さないと)そう言ってみるが、返事は何故かNoだった。
 『そう自由に主導権が握れるわけじゃないさ。いきなり入れ替わったら、性格が違いすぎてマスターとか他の人間が変に思うだろうし。それに俺がこの身体を使うようになったって、あんたが中にいることには変わりない。――それじゃ、意味がない。あんたと心中はごめんだ』
 (まだ死ぬって決まったわけじゃないでしょう、あなたもお兄さんも)
 『決まったようなもんさ』そう言ってケイジは微かに乾いた笑い声を発した。

 ケイジとその兄の持つ能力は、研究所でもとりわけ精神が破壊される可能性が高い能力とされていたのだという。自分の感情だって時に持て余すときがあるのだ、その上他人の感情を取り込んでいては当然かもしれない。
 『心が壊れたらもう戻らない。俺たちはいつか自分がそうなるんじゃないかって、いつも心のどこかで怯えてた。だから、もしどちらかの心が壊れら、相手を殺すって約束したんだ。――兄貴は“絶対お前をそんな風にはさせないから”って言ってたけど』
 大戦の終わり頃研究所に残ったケイジの兄は、心を壊された。そして、ただ本能に従って生きるようになる。もしも自分を害する者があれば、全力で抵抗して排除する。言葉は通じないし、手加減などあり得ない。全力で闘っても、刺し違えられればまだいい方なのだ。
 『俺はもう、兄貴をトシマに置き去りにしたくない。約束通り兄貴を楽にしたいと思ってるし、実の兄を手に掛けるんだ、俺自身そんなことをして生き続けたくない。――死ぬのは決まったようなもんだろ。だけど、あんたは俺たちとは無関係だ。帰る場所もある。そんなあんたを、道連れにはしたくないんだ』

 一体どうしたらいい。苦しげな声を押し出したケイジに、(ケイジの望むところへ行けばいい)と私は告げた。(この時代で、この身体の正当な持ち主は、あなただもの。私はその意思に従う)
 『だから、帰る場所のあるあんたを道連れにはできないって、』
 (だから私の為に望むことを諦める?――私はケイジにそんなことして欲しくない)
 絶句するような気配の後に何か言いかけたものの、結局ケイジは押し黙ってしまった。私も何も言わずに待ったが、ケイジが再び言葉を発する前に曇り空を背に聳え立つホテルの建物が見えてきた。




***


 源泉がホテルの2階へ上がっていくと、開店したばかりのバーに客の姿はまばらだった。
 夕刻になりつつあるこの時間帯、“Meal of Duty”の頃であればかなり客が増えるときであるはずなのだが――開店したばかりで、情報が行き渡っていないのかもしれない。情報屋などというものをしている源泉ですら、このバーのオープンは今日知ったばかりなのである。つまり、それほど急だったということだ。
 (内戦間近のこの時期に何を考えてるのかね、アルビトロは)
 いや、内戦の近いことを参加者に隠したくての行動か。だとしたらセコイ処置だ。
 内心肩を竦めつつ、源泉は並べられたテーブルの合間を縫ってカウンターへと近づいた。カウンター台の中ではマスターがのんびりとグラスを拭いていたが、源泉に気付くと顔を上げて笑った。
 「久しぶりね」
 「あぁ…お前さん、怪我してたんだって?大丈夫なのか?」
 「ちょっとヘマしちゃってね。昨日まで寝てたんだけど、まぁあんなのは掠り傷ね。あの程度でくたばる程ヤワじゃないわ」
 それは知ってたけどな、と応じつつ源泉は腰を下ろして煙草を取り出した。と、不意にコトリとグラスを置いたマスターが「あたしも吸おうかしら」と言う。マスターは煙草を吸わないわけではないのだが、かねてから店の客の前では吸わないことを自分のルールとしているらしい。そこで源泉は座ったばかりの椅子から腰を上げ、マスターと共に非常階段へと移動することになった。


 「しかし、大丈夫なのか店の方は…?」
 外に突出した非常階段の踊り場に出て金属製のドアを閉めつつも源泉が気にしていると、手すりの前まで移動したマスターは「いいのよ」と片手をひらひらと振って見せた。客も少ない上、長時間留守にするわけでもないから気にすることはないのだという。
 そのあっさりした態度に、源泉はいい加減だなと肩を竦める。そして、煙草を取り出しながら先程も浮かんだ疑問を口にした。
 「それにしても、<ヴィスキオ>も中途半端なことをするな。内戦間近のこの時期に、わざわざ店一軒作るなんてな。ホテル内に設備が元々あったとはいえ、割に合わんだろ。もうそろそろ、<ヴィスキオ>も夜逃げせんとならん頃だろうに」
 「最後の最後まで儲けたいんでしょうよ、アルビトロは。――あ、源泉、火あるわよ」煙草を銜えたままジャケットのポケットを探っていると、マスターが手招きをした。近づくと、マスターがライターを手に距離を詰め、煙草に火をつけながら潜めた声を発する。「ここだけの話、最近<ヴィスキオ>はこっそり武器を集めてるの。あの変態、まだトシマで何かやるのかもしれないわ。あたしは所詮窓際だから何も知らないけど」
 それだけ言うとマスターは再び距離を開け、手すりの傍へ戻っていく。“ここだけの話”はこれで終わり、追求は無用という意思表示だ。源泉もそれは承知していたから、火を貰った礼を口にしつつ受け取ったばかりの情報を吟味するように天を仰いだ。

 アルビトロは、まだトシマに儲けの機会を見出している。それは一体何だというのだ。

 見上げた空を、雲がかなりの速さで風に流されていく。肌に感じる空気には、微かに湿気が混じり始めている。どうも今夜は雨になりそうだった。
 「――あんたはもう脱出ルートを確保してるんでしょ?」
 不意にマスターの声が耳に届いたので、「ん?」と生返事しつつ源泉は視線を戻した。
 「まぁ、それなりに準備はな。お前さんは当然<ヴィスキオ>と一緒に行くんだろうが、も一緒なのか?あの子は<ヴィスキオ>の人間じゃないが」
 「は“行かない”って言ったわ、あたしが誘っても」
 「そりゃ、<ヴィスキオ>の撤退に便乗した流れで組織に入れられそうだからじゃないのか。何なら俺が、」
 「多分あの子はシキについて行きたいんだと思う。――の相手はシキだから」
 「相手って…まさか、おい」
 一呼吸遅れて言葉の意味を理解した源泉に、マスターは何を慌てているのかと鼻白んだ視線を寄越す。そして「ここだけの話よ」としっかり釘を刺した。
 「あぁ…。だが、あんたの勘違いじゃないのか?」
 「それならどんなにいいか。でも、これは事実なのよ。そのことを知ったときのあたしの心境が分かる?娘が碌でもない男に引っかかった母親の気分よ。あんな奴やめなさいって言いたかったの。――でも、あの子がシキの傍で綺麗に笑うから、傷つけられてもあの男を庇うから…やめろなんて言えなかったわ」
 あんたにあたしの気持ちが分かる!?と興奮したマスターが八つ当たりのように襟元を掴んでくる。源泉は「おいおい、少し落ち着けよ」と宥める言葉を口にしつつ、ふと思い至った。
 シキといえば、自分の身近に執拗にその姿を追いかけている人間がいるではないか。話題に出たとも親しいリン。もしとシキとのことを知ったらリンは――。
 時折リンが見せる氷の眼差しが思い浮かんで、源泉はひやりとしたものを背に感じた。
 「マスター…のその話だが、他の奴には言わない方がいい――特に、リンにはな」
 「イヤね、あんた相手だから話してるのよ。参加者の中にまだ“レアモンスター”を倒したい身の程知らずがいるかもしれないし、その為にを利用することを考えるかもしれないもの。――でも、どうして特にリンなの?リンはと仲がいいんじゃないの?」
 「俺も詳しくは知らんが、リンは何かシキと因縁があるのかもしれん。親の仇相手にするような執着具合だからな。いざとなれば、リンはたとえ親しくともを…」
 傷つけるかもしれん。
 その言葉を呑み込んで、源泉は代わりのように紫煙を吐き出した。


***


 夕方近く、リンはひとりホテルへと向かっていた。

(――俺、アキラにひどいことを…)

 アキラと北区にあるビルの屋上で夜空を見たのが昨日のこと。そのまま2人でホテルに戻り、今朝からはまたケイスケの捜索を再開した。少し目先を変えようと北区の中立地帯である映画館へ行き――そこで、シキが現れたという情報を耳にした。
 そうしたら、じっとしてはいられなかった。
 映画館でたむろしていたトモユキの揶揄も、現“ペスカ・コシカ”の連中の好奇の視線も、アキラの制止さえも振り切って映画館を跳び出していた。その後、結局シキを見つける前に追ってきたアキラに止められたけれど。

 “お前が邪魔したんだ…許さないからな。あいつも、お前も許さない…何があっても”
 “止めなきゃ死んでたかもしれない…それとも、死にたかったのか?”
 苛立ちに任せて吐き出した言葉を、意外にもアキラはひどく静かに受け止めた。その態度が、もう記憶の中にしかいない相手を思わせて、余計に辛くなった。
 “違う…だけど、死んでもよかった…そうしたら、あいつらのところに行けるから――トモユキから色々聞いただろ”
 “あぁ…少し、な”
 少し、で流せる程度の内容でもないだろうに、アキラは何でもないことのように言って、それ以上追求はしなかった。不器用で分かりにくいけれども、アキラは優しいのだろうとリンは思う。そして、その優しさに甘えて説明も謝罪もしないまま、アキラの前から逃げ出してきたのだった。

 顔が似ていてもカズイはもう少し感情表現が上手かったけれど、気遣いや優しさをひけらかさないところは似ている。もう、分かっている。アキラはアキラで、カズイはカズイだ。顔立ちが似ている云々でなく、自分はアキラという人間そのものに惹かれ、仲間でありたいと思い始めている。
 あのとき死んだ仲間たちにはもう未来はないのに、生き残った自分は新たな仲間を求めようとしている。それだけは、絶対自分に許してはならないとリンは思った。だから。
 (最後にアキラに酷いこと言ったことを謝って、それから――)

 あとはシキを追うことに専念しよう。

 辺りが暗くなり、次第に聳え立つ四角い影と化し始めているホテルを見上げる。アキラと確実に会える場所といえば今はこのホテルくらいのものだが、もう戻っているだろうか。いずれにせよ、夜が近いから待っていれば会えるに違いない。そう思いながら、リンは壊れた自動ドアを通って建物の内部へ入った。



 やはりと言うべきか、アキラはまだ戻っていなかった。
 帰りを待つついでに少し休んでおこうと思い、リンは普段なら比較的空いている2階へと上がって行く。すると、いつもとは違う光景が待っていた。2階の一角には使われていないバーがあったのだが、そこがいつの間にか営業し始めているのだ。
 リンがバーへ入っていくと、店内は客が少なく、カウンターの中も空だった。店主不在のカウンターを見ながら(いつの間にできたんだろ?)と首を傾げていると、傍にいた客が声を掛けてきた。「マスターなら、さっき非常階段の方へ行ったぜ」どうやら、リンが店主を探しているものと思ったらしい。
 「そっか。…ねぇ、この店って誰がやってるの?」
 「知らないのか?この前つぶれたトコの、あのオカマのマスターだよ。つぶれた店の代わりなんだってさ」
 「へぇ、そうなんだ。教えてくれてありがと」
 “Meal of Duty”の惨劇以来姿を見ていないが、マスターは無事だったらしい。アキラからに会ったことは聞いていたので、マスターの安否も判明してリンは内心ほっとする思いだった。
 客に礼を言ってから、リンはバーを出て非常階段へと向かった。数日振りのことだし、一度顔を見ておこうと思ったのだ。
 行ってみると外壁に取り付けられた非常階段へ出るドアは閉められていた。その向こう側から切れ切れに話し声が聞こえている。声の感じから察するに、話しているのはマスターと…源泉だろうか。一旦ドアの取っ手に手を掛けたものの、話の途中で割り込むのも気が引けて、リンが出直そうと思い取っ手を放しかけたときだった。
 「――シキに…て、…だと思う…」
 切れ切れに耳に届いた名前に、リンは息を呑んだ。一瞬ちくりと良心が咎めたが、それを無視してドアの向こうの会話に耳を澄ます。

 「…の相手はシキだから」
 「でも、これは事実なのよ」

 不意に目の前が真っ赤に染まる。
 あのとき足元に広がっていた血の海。その中に浮かぶ仲間たち、そして、共にいたいと願った相手。犯人は――シキは、血の海の縁に立ち、道端の石ころでも見るように全てを見下ろしていた。
 忘れもしない。許さないし、許せるはずもない。
 あの血の海に思い出は塗りつぶされてしまった。どんなに思い出そうとしても、幸せだった仲間との記憶はあの血の海に辿りつく。家族を失ってようやく手に入れた居場所でのことも、カズイの笑顔も。

 「あの子がシキの傍で綺麗に笑うから…」

 脳裏にふとの笑顔が蘇る。母親を失った自分をしばらくの間守ってくれた、優しいあの人にどこか似た笑い方だ。それがあの男にとって意味のあるものだとしたら、奪い取って――。

 不意に脳裏での笑顔が恐怖に変わり、闇の中に沈んで消える。
 「…っ!」駄目だ。今、何を考えていた?
 込み上げる黒い衝動を押し殺し、リンは強く頭を振った。
 大切なものを奪い踏みにじっていったシキだけは、必ず殺すと決めた。<ペスカ・コシカ>時代敵チームへの報復を認めなかったカズイは嫌がるかもしれないが、リンにとっては譲れないことだ。トモユキたちに分かってほしいのではない、ただ失われた仲間を大切なのだと示すのに、その方法しか知らない。
 けれど、<ペスカ・コシカ>のこととは無関係の上、碌に闘い方も知らないに危害を加えるのは、してはいけないことだ。それではシキと同じ外道のすることだ。死んだ仲間やカズイに顔向けできなくなる。
 リンは静かにドアから離れると、ぱっと身を翻した。始めは足おとを立てないようゆっくり歩き、ドアから十分に離れると一転してほとんど小走りになった。

 (ここにいてと会ったら俺は、きっと傷つけたくなる)
 傷つけて、踏みにじって――自分がされたのと同じようにあの男に見せたいと思ってしまう。そんな自分の中の苛烈さを残酷さを止めてくれる者は、もうどこにもいない。

 だから、実行してしまう前に去らなければ。早く、早く、早く。
 「あ…リン!?」

 階段を降りきったところで、聞き覚えのある声に呼び止められる。無視して走り去るべきだ、と分かっていたのに足は勝手に止まってしまう。顔を上げて、リンは階段の上り口に立った相手を見た。今、出会いたくなかった――。
 「…」
 「どうしたんだ、リン。そんなに急いで」
 外出していたのか、はエプロンをしておらず、片腕に小さな包みを抱いている。リンの様子に不審を抱いたのか、は僅かに首を傾げた。それを見た途端、内側で限界まで膨れ上がった黒い衝動が弾けたような気がした。
 「ちょっと、付き合ってよ」へ歩み寄り、空いている左腕を掴む。
 「いいけど、ちょっと待って。マスターに頼まれてた荷物を渡してくるから、」
 「大丈夫。そんなに時間はかからないから、付き合ってよ」
 有無を言わせない調子で言って、リンはの腕を引いて地下へと続く階段を下りる。腕を引かれながら何か感じたのか、は「何かあったのか?」と尋ねてくる。それをリンは明るさを装って否定した。

 「何でもないよ。大したことじゃないんだ」



 カズイの、そして優しかったあの人の、悲しげな顔が脳裏に浮かんで消えていった。





***


 どこか逸るようなリンに手を引かれて、私は初めてホテルの地下1階へ降りた。
 地下は上の階に比べると極端に面積が狭い。もともとロビーや宿泊関連施設ではなく、地下駐車場との出入りのための場所らしく、廊下のつきあたりの壁に駐車場というプレートが取り付けられたドアがちらりと見える。
 リンは廊下の方へは行かず、階段を半周するようにして裏へと回った。
 階段の裏には従業員用の事務所か何かがあったが、そのドアを3人ほど座れそうな大き目のソファが塞いでいる。後で誰かが置いたものなのだろう。ちょうど階段の影が落ちる薄暗いその場所で、リンはふつりと立ち止まった。
 やはり何か様子がおかしい。そう感じて、私はもう一度何かあったのか尋ねようと口を開く。途端、掴まれたままの左腕をぐいと強く引かれた。
 あっという間に体勢が崩れ、身体が傍にあったソファの上に投げ出される。床より柔らかいとはいえ、昨日打ち身を作ったばかりの背中で着地したため、鈍い痛みがじわりと広がっていく。一体どうしたのかと驚きながら起き上がりかけると、すっと鼻先に鋭い切っ先が突きつけられた。
 リンの持つ特殊なナイフ――確かスティレットといったか。
 頭はひどく混乱していて、私は抱えていた包みを取り落としたことにさえ気付かなかった。トスン、と包みが腕を滑り落ちて床に当たった音で、ようやく我に返る。
 「リン…一体どうしたんだ、本当に」
 「どうもしないよ。、もしかして俺のこと信じてたの?ちょっと話して、ちょっと世話したくらいで?」馬鹿みたい、と低く冷たい声音でリンは吐き捨てた。「この街じゃ、裏切りなんて珍しくもないんだよ。誰かを信じる方が馬鹿なんだ」
 リンはスティレットを更に近づけてくる。切っ先の威圧感に押されるように、私はじりじりと身体を倒し、ついにはソファに頭をつけることになった。スティレットを首筋に突きつけながら、リンは仰向けになった私の上に乗り上げてくる。
 その体勢に、殴られる類とは別種の暴力を連想して、私は身動ぎした。
 「動かないで。怪我したいの?俺はそれでもいいけどね。たとえば手が滑ってこの瞳を抉り出したら、あいつは顔色を変えるのかな。はどう思う?」
 「あいつって誰のことだ…?」
 「とぼけるなよ」左手で咽喉もとを押さえつけ、右手でスティレットを突きつけたまま、リンは顔を近づける。そして、いっそ優しげにも聞こえる声で囁いた。「あんた、シキのものなんだって?最初にロザリオを見たときからそんな予感はあったんだ。出来れば当たって欲しくなかった。――だって、あんたを壊したくなる…!」
 憎悪を滾らせる青い瞳。はっきりと怖いと感じたものの、私は目を逸らさなかった。無闇に逆らうべきではないが、引くべきところでもない。相手がどうであろうと、言うべきことを言わなければならない。
 「リンは、」と私は声を出した。掠れ声になった。「理由も必要もなく他人を傷つけて、平気でいられる子じゃない。短い付き合いでもそれくらい分かる。もし俺が君に何か悪いことをしたなら、言って欲しい」
 「…馬鹿じゃない」リンは、はっと嘲笑の息を吐いた。身体を起こし、上からこちらを見下ろすような姿勢になる。「こんな状況で、何でまだ俺のこと信じてんの。――あんたはシキのものだ…昔、俺の大切な仲間を殺したシキに大切なものがあるのなら、俺と同じ絶望を味わわせてやりたいって思ってもおかしくないだろ。あんたに罪はないよ、ただ不運だっただけで」

 それでね、どうやったらあいつは血相を変えると思う?だたあんたを殺すだけじゃつまらないよね。両目を抉り出すのがいいかな。それとも、その顔を誰だか分からないくらいぐちゃぐちゃにするとか。…あぁ、でも殺さないでボロボロになるまで犯してあいつに返すのがいいかな。
 ――ただ殺すより、そっちの方がずっと悲惨だと思わない?

 喜々として語るリンを、私は信じられないものを見る思いで眺める。そうするうちに、リンは咽喉もとを押さえつけていた手を胸元へ滑らせ、シャツの釦を外した。スティレットで抵抗を牽制したまま、1つ2つと釦を外したリンはそこでふと手を止める。
 その間を幸いに、私は訴えた。
 「そんなことしたら、傷つくのは俺だけじゃない。リンもだ。――見てたら分かるよ、リンはそんな残酷なことができる子じゃない」
 「っ…煩い!説得しようったって無駄だ。あのときから俺はシキを憎んで、殺すためだけに生きてきたんだ」
 「――シキのことなら…あっちは俺がどうなろうと気にしないよ。ボロボロになろうが、死のうが。俺とシキが特別な関係だっていうのは勘違いだ」
 「何も分かってないんだな。俺がどういう人間なのかも、シキにとってあんたがどういう存在なのかも、何一つ分かってない。――あいつが、どうでもいい人間に自分の持ち物を預けると思う?」
 そんなわけないだろ。低く吐き出すと、リンはシャツの合わせ目から覗いていたロザリオを掴んで引っ張る。


 ぷつりと鎖が切れる音がした。








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