8.



 切れた鎖の先端が、ゆらゆらと視界を過ぎていく。ひどく焦った私は迂闊にも咽喉もとのスティレットの存在も忘れ、リンの手の中に収まったロザリオを取り返そうと手を伸ばした。
 「リン、返してくれ。それは、」
 「“シキからの預かりものだから”って言うんでしょ。どうしてこれがあいつのだって分かるかって?――俺も昔見たことがあるんだよ。 “With every good wish”…もう擦り切れてるけど、裏にそう彫ってある。俺の母親が、あの人…シキの母親に贈ったものだ」
 ロザリオの裏側に、何やら文字が彫ってあることには気付いていた。そして、私がリンにロザリオをきちんと見せたことはないから、本当に彼は以前から知っていたということになる。
 思いがけない話にびっくりして、私は伸ばしかけた手を止めた。
 「?…お母さん同士が友達だったのか…?」
 「違うよ。仲は良かったけどね」そう答えるリンはいつもの様子に戻っていて、それにどこか寂しそうだった。「俺の母親はある男の愛人で、シキの母親は正妻だった。普通なら憎しみ合うところだけど、2人は仲が良かった。あの人は夫の愛人と息子にも優しかった。だから、俺の母親はあの人を慕っていて――これを贈った」
 「それじゃ、リンはシキの…」異母弟にあたるのか。
 私は絶句して、ロザリオを指先で撫でているリンを見上げた。
 そう言えば、以前リンの厳しい表情がシキに似ていると思ったことがある。それに、アパートの廃墟でリンの名前を出したとき、シキは知っているかのような口ぶりだった。今になれば、そのことも腑に落ちる。
 「いくらあいつでも、母親の形見をどうでもいい奴に渡したりしない。――あんたをボロボロにしたら、あんな奴でも少しは分かるかもしれない」

 大切なものを踏みにじられる気分が、さ。

 叫ぶように言って、リンは私の顔の真横にスティレットを突き刺す。そして、恐怖のあまり硬直している私に覆いかぶさってきながら、手にしていたロザリオを床に落とした。
 カラン、と金属が床にぶつかる乾いた音がする。それを聞いた途端、腹の底から何かが込み上げてきた。ずっと返すときのために、あのロザリオを大切にしてきた。それを無碍にされた気がして、ひどく悔しかったのだ。
 「いい、加減に、しろっ!!」
 私はスティレットをなるべく避けつつ、渾身の力で暴れた。いくらリンの方が強いとはいえ、華奢な彼よりはこちらの(つまりケイジの)身長と体格の方が勝っている。本気で抵抗する私を抑えられず、リンが上体を起こした。それに合わせて私も肘を突いて身を起こし、左腕で体重を支えつつ右手でリンの頬を打った。
 体勢が悪くて加減が出来なかったため、平手打ちそのものは大したダメージを与えなかったのだろう。頬を打たれたリンは一瞬目を丸くしたが、すぐ我に返って私を殴りつけた。その衝撃を堪えきれずにソファの上に身を投げ出した私の胸を押さえつけ、刺さったままのスティレットを抜き取る。
 刺される、と直感的に思った。
 胸を押さえるリンの手の下で必死に身を捩って抜け出そうとした瞬間、とすっとスティレットが突き刺さる音がする。思わずもがくのをやめて見ると、先程まで私の頭があった場所にスティレットが突き立っていた。
 「次は外さないよ。これでもまだ抵抗する?」
 恐怖のあまり動くことも出来ないでいると、リンが尋ねてくる。私は身体が震え出すのを止められず、それでも何とか「…する、よ」と掠れた声を絞り出した。
 「だって、こんなこと…認められない。リンは俺に手を出すことで、自分を汚して痛めつけようとしてる…俺にはそう見える」話すうちに、掠れた声が次第に安定してくる。私はもう暴れようとも逃げようともせず、ただ聞いて欲しいと思いながら言葉を続けた。「リンが死んだ仲間の為に仇を討つっていうのならそれでいい。だけど、自分を痛めつけるための手段としてシキに挑むのなら、理由にされる仲間たちが可哀想だ」
 「黙れ!お前に何が分かる」と、リンが双眸に怒りの光を揺らめかせる。
 「確かに俺は何も知らない」神経を逆撫でするようなことを言った自覚はあったが、私も退く気はなかった。そのまま、最後の一言を告げる。「でも一つ分かることはある」

 「死んでもいいなんて投げ遣りな気持ちで勝てる程、甘くはない」


 最後の一言が終わると、沈黙が落ちた。
 リンは何か得体の知れないものを見るように、私を凝視している。私の方もいつ殺されるかとひやひやしながらリンの様子を伺っていた。が、結局リンは私に手を上げることもせず、脱力したように俯いて「なんで、シキみたいな奴をそこまで信じられるんだよ」と頭を振る。
 その反応に微妙な違和感を覚えた。私は“投げやりな気持ちでは、自分より力量の勝る相手を越えることはできないものだ”という一般論を口にしたのであって、シキを信頼する云々の話にはならないはずだが…何か間違って伝わったのかもしれない。
 しかし、訂正するより先に、
 「どうして、あんたなんだろう」ぽつりとリン呟いた。「どうして、あいつはを選んだんだろう。抱くにしたって、もっと別の奴にすればよかったのに。――…いや、きっとだからこそ、あいつは選んだんだろうけど」
 「“俺だから”って…どういう意味なんだ…?」
 「は少しだけあの人に…シキの母親に似てるんだ。顔立ちじゃなくて、雰囲気や表情や笑い方なんかがね。――あの人、俺のこともすごく可愛がってくれたんだ。だから、あの人に免じて今は俺も退くことにする」リンは私の頬を軽く撫でると、そっと私の身体の上から退いてソファの傍らに降りる。「あーあ、あの人に似てるじゃなきゃ、躊躇いなく殺せたのに」
 「リン…!ちょっと、待っ、」
 こちらへ背を向けて去ろうとするリンを呼び止めると、
 「顔を見てたら、俺、あんたのことを殺したくなると思うんだ。だから、」

 もう、会わない。

 振り返らないまま決然とした声音で告げ、リンは階段を駆け上って行った。


***


 待って、とリンの後を追おうと起き上がったところで、しかし、私は動きを止めた。リンの言葉通り、顔を合わせない方がリンも心穏やかでいられるのかもしれない、とも一瞬思う。そのとき、

 ――シキだ!シキが現れたぞ!!

 俄かに上の階が騒がしくなる。聞き覚えのある名が耳に飛び込んできて、私ははっと耳を澄ませた。すると、他の参加者より幾分高めのリンの声が聞こえてきた。

 ――どこ?どこに現れたの!?
 ――あ、…東の4番通り…すぐそこだ。

 ざわめきが大きくなって、それ以上リンの声は聞こえてこなくなった。そのことが俄かに不安を掻き立てる。私は肌蹴てしまったシャツの釦をおざなりに留めると、立ち上がり際に床に落ちたロザリオと雑貨屋の包みを拾い上げてから、小走りに階段へと向かった。
  “シキを殺す”と宣言したリン。シキを追って行ったのかもしれない。しかし、あんな風に他人を傷つけることで自分を痛めつけている節のあるリンでは、きっとシキには敵わない。そして、それは恐らく死を意味するのだ。――こんな別れ方をしたまま、自棄ともいえる行動に突き進むリンを放ってはおけない、と思う。
 しかし、階段を上りきったときリンの姿は既になかった。
 そこで、私は1階の隅にあるタグの交換所へ行き、そこに居た男にリンの行方を尋ねてみる。すると交換所の男はリンが出て行った方向を教えてくれた。思った通り、シキが現れたとされる方角だ。私は男に礼を言い、ついでにマスターへ届けてくれるように頼んでお遣いの包みを預けると、リンを追ってホテルを出た。


 外へ出てもリンの姿は影も形も見えず、私はホテルでシキが現れたと噂された方向へ足を向ける。
 『もう会わないって言われたじゃないか』
 頭の中でケイジが言うが、リンにどんな事情があろうと親しくしていた友達のことをそう簡単に割り切れるものではない。
 雲が厚いせいでいつもより暗くなるのが早く、そのことが理由もなく焦りを加速させる。理由もなく、リンを見つけられないまま夜になりきってしまえばもう2度と会えないような気がして、恐ろしかった。私が何か言う前にその不安が伝わったのだろう、ケイジは一言呟いた。『どれもこれも失いたくないなんて、あんたは我が儘だ』と。

 と、不意に足音が聞こえた。

 猛然とこちらへ駆けて来る足音。他人を憚って抑えようとしないのは、余程の恐怖に捉われて逃げることしか考えられないためか。もしかしてシキに遭遇して逃げてくる人間のものかと、私は足を止めて耳を澄ませる。――リンはシキのもとに現れる可能性が高い。シキを探し当てれば、リンを止められるかもしれない。
 息を詰めて待つこと数十秒。とうとう通りの脇の小道から人影が飛び出してくる。人影は小道を抜けた途端、もうこれ以上は走れないというように私の目の前で地面に倒れ込んだ。
 「っあ…うぅ…」負傷しているのか、人影は身体を強張らせて苦痛に呻く。
 その声に、聞き覚えがあった。
 「――ケイスケ…か…?」
 心当たりの名前を呼べば、人影に僅かな反応があった。僅かに頭を持ち上げて、彼はこちらを見たのだ。が、それも一瞬のことで、再び苦痛の波が押し寄せてきたのかすぐに身体を丸めてしまう。そこで私はケイジが止めるのを聞かず、容貌を確かめようと慎重に人影に近づいた。
 薄闇の中、確認した顔と格好は確かにケイスケのものだった。
 怪我をしているのか、或いはラインの不適合か、ケイスケはなおも苦しみ続けている。見たところ武器の類は携帯していないようなので、私は思い切ってケイスケの傍に膝を突いた。
 「ケイスケ…大丈夫か?“Meal of Duty”のだ…俺のこと分かるか?」問いに小さな頷きが返ってくのを確認し、私は言葉を続けた。「怪我してるのか?」
 「っ…してな…い…」
 「――なら、一体どうしたんだ?」
 「分かん、な…っ…俺、ラインを、使ったんだ…強く、なりたくて。さっき、アキラと…闘ったら急に、苦しくなって…、」
 「アキラと…!?」
 ぎょっとして私がアキラの名を繰り返すと、ケイスケの身体の震えがぴたりと止んだ。そのあまりの変わりように違和感を覚え、私は反射的に身を引く。「アキラ…そう、アキラだ。俺が…殺すんだ」低く暗くなった声と共に、ケイスケの拳が先程まで私のいた空間を薙ぎ払う。そうしてから、ケイスケはまた身を強張らせ、自分の肩を抱いて震え始めた。「違う…俺はアキラを、守るんだ…」


 2つの人格がせめぎ合うようなケイスケの様子を、私は何も出来ないまま見ていた。ケイスケが今どのような状態にあるのか私には分からないが、ライン中毒の症状だとすれば回復の可能性はあるはずだった。だって、私が――ケイジがその実例なのだから。
 リンを追わなければならないのだが、今ケイスケを放置するわけにもいかない。私は焦れる思いで、しかし、声には穏やかさを保ったままケイスケに話しかけた。「ケイスケ、少し休める場所へ行こう。休んだら、すぐに良くなるよ。俺が肩を貸すから、」そう言って差し出したては、しかし、すぐに振り払われてしまう。
 ともかくケイスケを落ち着かせるべきか、と思って、私が宥める言葉を掛けようとしたとき。

 「!!」

 名を呼ばれて振り返れば、こちらへ駆けて来る姿があった。
 「源泉さん?…どうしたんです?」
 「ホテルの交換所にいる男」源泉は私の傍まで走ってくると、肩で息をしながらまずそれだけを言った。「――っ、あいつがお前さんからの預かり物を持って2階まで言いに来たんだ。“あんたのとこのウェイター、強姦されかかったような格好でリンを追って行ったけどいいのか”だとさ。で、マスターが騒いだんだが店があるんで、俺が代わりに出てきた」
 「すみません…」
 「いや…それより、こいつはケイスケか?何があった?」
 問われるままに、私はリンを追ううちにケイスケと遭遇した経緯を手短に説明する。事情を聞くと、源泉は自分がケイスケの身柄を引き受けると言い出した。
 「なぁ、、お前さんが行けば、殺し合いを止められるかもしれん。実は、マスターからお前さんとシキのことは聞いてるんだ。リンは正直微妙なところだが、シキはお前さんの話に耳を貸すだろう」
 実は私もリンが退かないならシキを説得する気でいたのだが、源泉に断言されると俄かに不安になってきた。私はシキと親しいわけでもないし、願いの見返りとして渡せるものもない。たかだか数回言葉を交わした程度でしかないのに、説得して聞き入れてもらえるのだろうか。リンを止めに行きたいのにそうできる自信が持てず、「でも源泉さんに迷惑では」と私は思わず言った。遠慮を装ったものの、実は怯んでいるのだ。
 「いいんだよ。傷ついたり死んだりってのは、避けられるなら避けるに越したことはないさ。それに、看病っていうなら、お前さんより俺の方がいい。これでもオイチャンは昔医療系の仕事をしてたんでな」
 源泉は傍に立つと、「ほら」と場所を空けるように促す。私がおずおずと立ち上がって1歩下がると、源泉は入れ替わりのようにケイスケの傍らにしゃがんで肩に手を掛けた。途端、ケイスケがもがいて腕を振り回すが、危うげもなくそれを受け止めつつこちらを振り返る。
 「俺にとってもリンは気心の知れた相手なんでな、こんなところで死んで欲しくはないんだ。出来ることならリンを助けてやってくれ。キツくて危ない役目を押し付けることになるが、お前さん以外に出来そうな人間は他に知らん」
 頼む、と源泉は頭を下げる。私は咄嗟に口から出かけた「でも」を呑み込んだ。せっかく源泉がケイスケのことを引き受けてくれたのだ。弱気になって源泉の厚意を無駄にしてしまうことこそ、一番悪い。
 そう思ったから、吐き出したくなる迷いや不安を飲み込んで頷くと、私は走ってその場を立ち去った。


***


 私はホテルで聞いた場所へ向かいながら、付近の路地も確認していった。時間が経っているので、シキももう移動しているかもしれないし、リンも別の場所を探しているかもしれない。別の場所で2人が遭遇しているかもしれない。
 そうやってある1本の路地をのぞいたとき、視界の隅に微かな動きがあった。もうかなり辺りが暗くなっており判然としないが、ビルの壁面にもたれうずくまる人影がある。リンなのだろうか。そうだとしたらもうシキと遭って闘って――。不安になりながら私は人影に呼びかけた。
 すると、こちらの声に反応して顔を上げる気配がある。しかし、「その声…、なのか…?」と返ってきた声はリンのものではなかった。聞き覚えのあるこの声は、
 「アキラ…」そう言えば、ケイスケはアキラと闘ったと言っていたではないか。「大丈夫か…!?」今更思い出し、私はアキラの傍へと駆け寄る。すると、アキラはいっそ泣き出しそうな悲痛な眼差しで私を見上げた。
 「さっき、ケイスケに会った…闘いたくなかったのに、結局俺はケイスケと…」
 「闘ったんだって?さっき、ケイスケに会ったよ。それで、アキラには怪我はないのか?」
 そう言うと、アキラは呆然とした表情になった。まるで幽霊でも見たような有様で「ケイスケは無事なのか?」と尋ねてくる。たとえ争ったとしても、アキラにとってケイスケは変わらず友達でいたい相手なのだろう。アキラの態度をそう理解して、私はケイスケに会ったときの様子とその身柄を源泉に預けたことを手短に話した。
 「怪我はない、むしろ禁断症状のような苦しみ…」私の話を聞き終えると、アキラはそう呟き不安げに目を伏せた。「ケイスケは、俺の血を口に入れてから苦しみ出したんだ。今までにもラインを使ってる奴が俺の血を舐めて、急に苦しみ出すことがあった。もしかして、ケイスケはそのまま、」
 「禁断症状から回復した例もある――俺がそうだ。だから、諦めるな。アキラの血は、きっと偶然が重なっただけだ」

 『本当に偶然なのか?』ふと頭の中でケイジが疑問の声を上げる。『ラインに働き掛ける血…まさか、非nicolか?だとしたらアルビトロが欲しがる理由も説明がつく』

 (非nicol?)
 それは何かと悠長に尋ねている間はなかった。見たところアキラは疲労困憊しているだけで、深手を負っている様子はない。一頻り叱咤してから、「すまないが、シキを追っていったリンを止めに行くんだ」と私はアキラに背を向けようとした。
 すると、アキラはリンの名前にはっと顔を上げた。「リンが、またシキを…」どうも多少はリンの事情を知るらしい口ぶりで呟く、双眸に凛とした光を取り戻して自分も行くと言う。
 「俺も一度、リンがシキを追おうとするのを止めたことがあるんだ。そうしたら、“死んだっていい”って言ってた。――だけど、俺は生きて欲しい。ケイスケもリンも失いたくないから、」

 俺は今自分が出来る限りのことをしたい。

 はっきりした声音で言って、アキラは立ち上がった。


***


 とりあえず、シキが現れたという地点からリンかシキを探そうということで意見が一致し、私とアキラは通りを進んだ。が、いくらも行かないうちにリンを探す必要はなくなった。
 最初にそれに気付いたのは、アキラだった。
 「待ってくれ。何か、金属の音が聞こえる…こっちだ」
 それだけ言うと、アキラはすぐ傍にあった細い通りに跳びこんでいく。逸れぬように私も慌てて追いかけると、そこは妙に見覚えのある場所だった。そういえば、この辺りは“Meal of Duty”の近くなのだ。
 もっとよく見ようと先に目を凝らせば、薄闇の中にもはっきりと白刃が閃くのが目に飛び込んでくる。それだけではない。がちりと刃同士が噛み合う音と共に、薄闇の中にも鮮やかな金髪が揺れるのが見て取れる。

 時既に遅しというべきか、リンはシキと刃を交えている最中だった。

 リンは見た目の可憐さからは想像できないものの腕は確かなようで、シキを相手にも果敢に切り結んでいる。けれど、その動きには疲労が出始めているように見えた。対するシキは自分の呼吸を崩すことなく、リンのスティレットを受け流しつつ刀を振るっている。
 2人の実力差も、最終的にどちらが残るかも、素人目にも明らかであるように思えた。
 「まずいな…」
 同じことを思ったのだろう、アキラが零した呟きが耳に届く。と、そのとき、がきんと一際大きな金属音が響いた。リンが繰り出したスティレットの一撃を、シキが受けるのではなく跳ね返したのだ。
 そして、それは均衡が傾く合図でもあった。
 渾身の剣戟を跳ね返されて体勢を崩すリンを、シキの刀が更に追う。リンは身を捩ってかわすが――。
 切っ先がリンの身体に接触したように見えて、私は息を呑んだ。斬られたのか、実際のところは判然としない。リンはそのままアスファルトに倒れ込んで呻き声を上げる。シキは刀を手に、倒れたリンに近づいていく。
 その様子を見てアキラはホルダーからナイフを抜き取り、走る速度を上げて庇うようにリンの前に回り込む。私の足ではアキラに追いつくことはできず、それでも気持ちだけは先走って声になった。シキ、と。
 薄闇に浮かび上がる白い面がこちらへ向けられた気がした。けれど、それを確認している余裕はなく、私はいっそ体当たりする程の勢いでシキの前に立ちはだかった。

 「――何をしに来た?また俺の邪魔をする気か。どけ」

 割り込んだものの息が切れて声が出せず、ひたすら息を整えているとシキの低い声が降ってくる。私は顔を上げ、静かな殺気を湛えるシキに向かって首を横に振った。
 「あなたを止めに…。どうかリンを、殺さないで…これ以上傷つけないで下さい」
 「返り討ちを承知で噛み付いてきたのは、あっちの方だろう。いつからお前は俺に指図できるようになった?」
 苛立ちを含んだ声を発して、シキは私を押しのける。よろめきながらも私は何とかシキの腕にしがみつき、その歩みを止めようとした。そのとき、
 「シキ、殺してやる!――放せよっ…じゃないと、アキラ、お前も敵だからな」
 リンはアキラに押し止められながらも身を乗り出し、叫んでいる。しかし、シキを目の前にしてすぐに起き上がれないでいることからして、どこか負傷したのかもしれない。引く気がないのはシキも同様で、あっさり私を突き放すとリンの方へ歩き出そうとする。
 突き放されて地面に膝を突きながらも、私は手を伸ばしてシキのコートの裾を掴んだ。そうしながら、必死に叫んだ。「アキラ!リンと一緒にこの場を離れてくれ」 
 私の言葉を聞いたリンがアキラの腕の中で激しく暴れる。「余計なことするんじゃねぇ!お前ら皆、殺してっ…」が、その抵抗は途中でふつりと途絶えた。アキラが気絶させたのだろう。ぐったりと力を失った身体を抱えながら、アキラはこちらを見る。
 「だけど、は」
 大丈夫だから、と言おうとしたとき、鼻先に鋭い切っ先が突きつけられて私は言葉を呑んだ。見れば、シキが日本刀を手に底冷えするような眼差しでこちらを見下ろしている。私はその目を見返しながら、宣言するようにはっきりと言った。
 「大丈夫、アキラが心配するようなことは何もない。俺はシキと話すことがあるから、先に行ってくれ」


 シキは数秒こちらを見下ろしていたが、やがて切っ先を下げて「立て」と促した。それに従って私がおずおずと立ち上がると、「他人のために這いつくばって、お前にはプライドがないのか」と嘲笑が降ってくる。
 別段その言葉に腹も立たず、私は軽く首を横に振った。
 「這いつくばってでも通すべきところを通せるなら、そんなこと気にしません。友達を失ってまで取り繕う程の体裁もプライドも、俺にはないから。たとえば…土下座したら2人を見逃してくれるというなら、何度でもそうします」
 「そんなものは要らん」ため息混じりに言うと、もうこの話は終わりだというようにシキは私から視線を外してアキラに声を掛けた。

 「ソレを連れて大人しく去るならば今は見逃してやる。負け犬らしく尻尾を巻いて逃げ出したらどうだ?」

 明らかに挑発的な声に、アキラが悔しげに声を呑む気配がある。もしやアキラが引いてくれないのだろうかと一瞬不安になるが、少しの間を置いてアキラが「分かった」と応じる声が聞こえてきた。








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