3.





 泣いているうちに、疲れて眠ってしまったらしい。
 目が覚めたとき、私はナイフとロザリオを握り締めたまま、冷たく埃っぽい床の上で胎児のように身体を丸めて横たわっていた。そんな窮屈な姿勢を続けたせいで、上体を起こすと強張った節々が軋むように痛んだ。
 辺りを見回せば、薄暗いなかでもぼんやりとそこがアパートの一室であることが分かる。
 ベッドの向こうにある窓から見える空は厚い雲に覆われてまだ暗いものの、既に夜は明けているようだった。もうじき、外は明るくなり始めるだろう。
 思い切り泣いたせいで、胸のうちで荒れ狂っていた痛みや悲しみは一時の鋭さを失っていた。薄れた、というのとは少し違う。まだ確かにある痛みや悲しみは心の水面下で渦巻いているものの、心の表面が妙に凪いでいるという方が相応しい。
 その妙に凪いだ心境で、ぼんやりと思う。

 ――まだ、私はここにいたんだ。

 膝の上に視線を落とせば、ケイジから託されたナイフとシキが投げつけたロザリオがある。ケイジもシキも、この2つを残して去って行った。私はといえばここを出て家族のもとへ帰ることもできそうにない。どこにも行き場がないのに、

 ――私は、まだここで生きてるんだ。

 紛れもない現実に、いっそ呆れるような感嘆するような気分になってくる。
 昨夜は、あのまま消えていける気がしていたのだ。シキの言葉に耳を塞いで、失ってしまったケイジや元の時代の家族の思い出にしがみついて泣き続ければ、そのうち涙と一緒に自分の存在も溶けて消えるのではないかと、馬鹿げた望みを抱いていた。
 けれど、そんな都合のいいことあるはずがない。
 分かっていたはずだ。曾祖母が亡くなった日も、いじめられて逃げ帰った夕方も、親子喧嘩をした晩も、仕事が辛いときも、いつもそうだった。辛くて、夜にはこのまま消えてしまいたいと泣きながら寝入っても、必ず朝はやってきた。このトシマで初めて迎えた朝も、そんな風だったではないか。眠るうちに自分の時代に戻っているかと思ったけれど、実際にはやはり目が覚めてもトシマにいた。
 どれだけ辛くても朝は来るし、私の生命も続いている。いつの間にか勝手に溶けて消えることはなくて、辛くても耐えて生命が終わるのを待つか、それが嫌なら自分で絶つしかない。けれど、生命を絶つにしたって苦痛を伴うのだ。
 いずれにせよ、苦しいことには変わりがない。だったら、私は。

 「ケイジと約束したじゃない…出来るだけ、逃げないって…」

 この時代に戻ってきてから、私はまだここで生きようとはしていない。ここで生きていく辛さを勝手に想像して、踏み出すのを怖がって、うずくまっているだけだ。もうこれ以上無理というところまで、本当はまだまだ余裕がある。逃げるにはまだ早い。
 絶望するのは、本当にもうこれ以上無理だと感じたときでいい。
 自ら消えようとするのなら、それからでも遅くないはず――。


 私は膝の上に置いたロザリオを強く握り締めた。
 どうしてシキがこれを投げつけて去ったのかは分からない。それでも、母親の形見だというのならなおのこと、私が持っていていいものではない。シキがあとでどう処分するにせよ、ロザリオは返さなければならない。これを返して、そして、

 (――シキに謝ろう)

 そう心に決める。
 昨夜、ケイジから私のことを頼むと言われたシキがどういう考えでいたのかは、分からない。けれど、彼はしばらくの間私が嘆く間を与えてくれて、その上でもう十分だろうと言ったのだ。それに敢えて逆らったのは、私だった。
 あのとき、私はケイジの言ったとおりシキと生きていけるようになればいいのに、と浅はかな考えを抱いた。それから、死に向かおうとするケイジを引き止めず、もとの時代から死に近い形でこちらへ来て家族を悲しませているのに、そんな身勝手をすることはできないと思い、身勝手の方に心が傾きかけている自分が許せなくて、敢えてシキに反発した。いっそ、見放してくれればいいと思いながら。
 けれど、そんなことはこちらの都合で、シキからすれば八つ当たりでしかない。
 たとえ、謝ったところでシキが許してくれるとは思えないし、そもそも話すら聞いてもらえないかもしれない。それでも行かなければ、と私は思った。だって、非があったのはこちらの方なのだから。
 謝るというのは、許しを求めるだけではなくて、相手に自分の非を認める行為なのだ。どうせ許してはもらえないからといって謝罪をしないのでは、自分の非を隠してしまうことになる。シキ相手に、そんな卑怯なことはしたくない。
 「とにかく、謝るんだ」
 自分に言い聞かせるように声に出して言い、私は両手で自分の頬を打つ。気合を入れるはずの行為であるのに、逆にぺちりと気の抜けるような音がする。それでも、じんと頬に広がった痛みのせいで、少し頭がはっきりした気がした。


***


 気力が出てきたところで、私は風呂場へ行き、蛇口をひねったら出てきた水で顔を洗った。それから部屋中を漁って台所の引き出しの中に見つけたハサミを使って、肩をすぎるほどにあった髪を切った。ハサミは錆びかけの上、もともと不器用な方なので出来上がりには期待していなかったが、切り終わってみればそれなりの格好になったような気がした。とはいえ、曇りかけの小さな手鏡で確認しただけだから、他人から見れば不恰好かもしれないのだが。
 髪を切ったのには、理由があった。
 これから私はトシマの街中へ出て行かなければならない。トシマはとにかく治安が悪いせいで女性がいないし、男でさえ見目が良ければ襲われるような場所である。ならば、すぐに女と分かるような格好はしない方がいいと思ったのだ。もちろん、服装や髪だけで性別を誤魔化しきれるものではないだろう。子どもの頃ならともかく、この年齢になっては体格などである程度性別は分かってしまう。
 それでも、出来る限り危険を減らすに越したことはない。
 幸いにも、私はたまたまいかにも女らしい格好はしていなかった。コートはシンプルで別に男が着たとしても奇妙ではないデザインだし、下はスカートではなくジーンズをはいている。足元もヒールのあるパンプスなどではなかったから、コートで身体の線を隠せば、ぱっと見くらいは誤魔化せそうな気がした。
 ただ、コートの中に着ていたTシャツは切りつけられたせいで裾が裂け、血が染みていたのでアパートの中で見つけたシャツに着替えることにする。血のついたTシャツを脱いで窓から入る光で確認すると、通り魔に刺された箇所は手で触れたときにも感じたように、もう何年も前の古傷のようになっていた。

 もしかしたら、この傷痕はこの先完全に消えることはないのかもしれない。

 そうと思えるほどはっきりとした痕だったということなのだが、私は(まぁいいか)と肩をすくめて着替えのシャツに袖を通した。これが人目につく場所ならショックもあったのかもしれないが、普段人目に晒されない場所なのだし、果物でもあるまいし、いちいち傷ができたくらいで気にしてはいられない。それに、妹を逃がして負った傷であるから、別に恥じる気もなかった。
 着替え終えると、最後に、私はコートのポケットにあったペンダントから鎖を外し、ロザリオに付け替えた。
 ペンダントは何かのときに外してポケットに突っ込んで忘れていたもので、ペンダントトップはそのとき流行っていたリングだったから簡単に外すことができた。ロザリオの鎖はホテルでリンに引きちぎられてからずっと切れたままだったので、たまたまペンダントを持っていたことは都合が良かったと言ってもいい。
 鎖を取り替えながら、私は毎回鎖が切れる度に直すのが自分だと気付いた。どうしてそうまでするのか、と自分自身に呆れてしまう。それでも、新しい鎖を通してしまうと私はわけもなく「これでいい」と満足して、ロザリオを身につけたのだった。


***


 身支度が済む頃には、外もいくらか明るくなっていた。相変わらず空は厚い雲に覆われているが、辺りの明るさはもう日中のものだった。
 そろそろ外へ出ても大丈夫だろうと判断して、私はアパートの外へ出た。
 トシマの街中への道は、何となく覚えている。1度目はトシマで目覚めた翌日、シキに言われるままに走った。2度目は猛に襲われたあとシキに連れて来られた帰りで、まだ店の惨状も知らないまま辿ったのだった。
 そうして、3度目になる今回、私は歩きながら去って行ったケイジのことを考えていた。

 (――私がケイジに協力したのは、間違いだったのかもしれない…)

 たとえそれが兄のためとはいっても、ケイジが自分の兄を手にかけて平気でいられるような性格でないのは、分かっていたはずだ。 
 もし、ケイジが兄と闘うのを見守るのではなく止めていれば、今のような別れ方をしなくて済んだかもしれない。けれど、獣のようになった兄のことを忘れて生きろなどと、どうして言えただろうか。私がケイジの立場であっても、自分の兄弟を忘れて生きることなんてできないだろう。
 だか、協力した結果、ケイジは去っていってしまった。
 一体私はどうすればよかったのだろう。


 あれこれ考えるうちに、十字路の手前まで来ていた。この道を真っ直ぐに進めばトシマの中心部へ辿り着くが、曲がれば例の研究施設跡や孤児院へ向かう道になる。
 十字路を目の前にして、私は思わず足を止めた。
 ケイジが兄と闘ったのは孤児院の前の道路だった。そこで、彼は自分の兄を斃したことになる。私が一瞬考えたのは、アパートを去ったケイジが、自分の兄の亡骸のもとへ戻ったのではないかということだった。
 もう遅いかもしれない。けれど、もしかしたら、まだケイジに会えるかもしれない――そう思って、私はほとんど衝動的に十字路を曲がろうとする。と、そのとき人影が角から跳びだしてきて、前方に立ち塞がった。
 あっと声を上げる間もない。
 次の瞬間、私は人影に突き飛ばされて尻餅をついていた。「っ…すみません…前を見ていませんでした…」コンクリートに打ちつけた腰の痛みに顔をしかめながら顔を上げれば、目の前に黒光りする鉄の塊が突きつけられている。
 それが銃口だと理解するのに、数秒かかった。


 「――動くな」
 銃口に驚く私の上から、鋭く命じられる。一瞬聞き間違いかと思ったそれは、やはりどう考えても女の声だった。まさかトシマに自分以外に女性がいるとは、とその一瞬だけ恐怖よりも好奇心が勝って、私は顔を動かさないまま視線だけを上げる。
 真っ先に目に入ったのは、いっそ拳銃など不似合いなほど白くてほっそりした手だった。それから鮮やかな赤いコート、華奢な肩の辺りで風に揺れる栗色の髪、最後に整った顔立ちが見える。その顔にはどんな感情も浮かんでおらず、まるで精巧に作られた仮面のようでもあった。
 その背後に影のように、男が一人付き従っている。スーツの上に青色のコートを着込んだ格好はトシマにいるにしてはきっちりしすぎていて、女の方もそうだが、イグラ参加者という雰囲気ではない。
 女は拳銃を突きつけながらこちらを見下ろしていたが、私と視線が合うとふと表情を動かして不審そうな面持ちになって口を開いた。


***


 「――貴様、女か…」

 十字路から跳びだしてきた若者に拳銃を突きつけたエマが、ぽつりと呟く。その内容に、グエンは思わず「え?」と声を上げた。トシマはあまりに治安が悪く、女性はいないということが調査で分かっている。だが、エマの言うとおりよく見れば、目の前にいるのは青年ではなかった。髪型や衣服のために一瞬惑わされるが、どこか華奢な骨格や丸みのある体つきで女性であることが分かる。
 それでも、グエンは思わず「本当に女性なのか」と声に出していた。
 それを聞いて、エマは無表情のまま口元だけで笑った。
 「別に驚くことでもないだろう。過酷な環境とはいえ、その気になれば女でもトシマに来ることはできる。だが…この女、イグラ参加者ではないようだな。惚れた男でも追ってきたか」
 揶揄する調子を含んだ言葉に、女は恥じらうように目を伏せた。その動きで首からかけた銀色のロザリオが揺れる。彼女の胸元にあるのはそれだけで、イグラ参加者を示すタグはないようだった。
 「――好きな相手を追っているわけではありません」目を伏せて少し躊躇うような間を置いた後、彼女は顔を上げて真っ直ぐにエマを見つめた。「謝らなければならない人がいるから、会いに行こうとしているだけです。…そういうあなた方は、イグラ参加者ですか?私は参加していないので、タグは持っていませんが」
 どうやら彼女は自分たちをイグラ参加者と勘違いしたらしい。
 そう思いながら、グエンはそっとエマの様子をうかがった。

 自分たちがCFCから旧祖に入ったのは、ある任務のためだった。今までは“餌”をトシマに放って様子を見ていたのだが、内戦が近づいたために捕獲する目標が自然に食いつくのを待ってはおれず、無理にでも捕獲することになったのだ。
 今、自分たちがCFCの軍人であることを知られるわけにはいかない。もし彼女が自分たちの正体に気付いてしまえば始末する他はない。けれど、もし気付かれていないなら、無闇に他人を殺したくはなかった。ただ、彼女の処遇を判断するのは、上司であるエマの役割である。自分の一存で生命を助けるとは言えない。

 エマは数秒間黙っていたが、やがて口を開いて「そうだ」と肯定した。
 これにはグエンも驚いたが、エマは淡々と言葉を続ける。
 「我々はイグラに参加している。この辺り一体は我々の領域だ。排除されたくなければ、ここを去ってトシマへ向かえ。そうすれば、危害は加えないと約束しよう。去るなら、今から10を数えるうちだ――10…」
 相手にもグエンにも何か言う間を与えず、エマは勝手に決めて数え始めてしまう。
 カウントが始まったことに焦ったのか、彼女は戸惑いながらもその場でおずおずと立ち上がった。その動作をエマの銃口もゆっくりと追いかける。
 「――9……8…」
 「待ってください!」不意に彼女が焦った声を上げた。「すぐに立ち去ります!立ち去りますから…教えていただきたいことがあるんです。この先の孤児院や研究施設のあたりで、若い男を見ませんでしたか?」
 「7……」
 「探しているんです。背格好は…」
 彼女は早口で探し人の特徴を告げたが、エマは表情ひとつ変えなかった。まるで何も聞いていないかのように、「6…5…4……」と淡々とカウントを続けている。しかし、彼女の方も引かなかった。カウントがどんどん減っていくのに、それでもその場に立ってエマを見つめている。
 ――このままでは、エマは彼女を撃つことになる。
 そう予感したグエンは、咄嗟に口を開いていた。

 「誰も見なかった」

 答えがあったことに驚いたのか、弾かれたように彼女がグエンの方を見る。エマは相変わらず彼女を見据えながら銃を構えたままでいたが、一瞬、驚いたのかその肩がぴくりと揺らぐのが視界の端に映った。
 彼女の視線を受けながら、グエンはもう一度言い聞かせるように繰り返した。
 「我々は、誰にも会っていない」
 告げた内容に嘘はなかった。
 トシマに入ったのは今日の明け方で、エマが最初に<ヴィスキオ>に破壊されたという報告の入った研究施設跡を確認しておきたいと言ったので、そちらへ寄っていた。それからトシマの街中へ向かって移動して、十字路に差し掛かったときに彼女の気配を察知したのである。人間の痕跡といえば、途中、孤児院の前の道路には真新しい血痕が付いていたが、そこにも生きた人間どころか遺体すら見当たらなかった。
 グエンの返事を聞いて、彼女は更に何か尋ねようとしたようだった。が、「3…2…」とエマのカウントがそれを遮ったので口を噤んでしまう。やがて思い切ったように顔を上げると、彼女は「わかりました。教えてくださってありがとうございます」と頭を下げてから、ぱっと身を翻した。
 唐突に、彼女がトシマのビルの群れへ向かって走り出す。
 子犬が駆けるような軽やかさだ、とグエンはその背中を見ながら感心する。

 「――1……0……」

 そばでカウントを終えたエマが、ゆっくりと拳銃を下ろし、ホルダーに仕舞おうとしている。その様子を、グエンは何となく見ていた。
 まさか、エマがあの女を見逃してやるとは予想していなかったのだ。
 今回の任務について以来、優秀な軍人であり科学者でもあったエマは人が変わったようになってしまった。任務のために本来なら非合法な手段も躊躇いなく使ったし、ときどきひどく恐ろしい表情で考え込んでいることもあった。先ほどの女もエマは殺すだろうと思っていたので、助けたことが意外だった。
 「何だ?」グエンの視線に気付いたエマが、眉をひそめる。
 「いや。…先ほどの彼女、見逃しても良かったのか?」
 「構わないだろう。あの女は我々の正体に気付いていない。それに、たとえ気付いたところで、あの女がトシマで生き残れるとは思えない。生き残ったところで、内戦の戦火は逃れようもないだろう。こちらが口封じに手を下すまでもない」
 それから、エマは彼女が去った方向へ顔を向け、目を細めた。
 そして、宙に向かって何事かを呟く。それは誰にも拾われることはなく、風の中に消えていった。

 「謝りたい、か…素直にそう思えたなら、良かったのかもしれないな…」








前項/次項
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