4.
瓦礫の目立つ郊外から、トシマの繁華街へ。イグラ参加者を称する男女と別れ、私はひたすら走った。立ち去らなければ殺す、という女の脅迫を恐れたためではない。それよりも、むしろ、立ち止まって迷う時間を自分に与えたら、戻ってケイジを探しに行ってしまいそうだったのだ。 この旧祖では、姿を消すことなど簡単だ。身を隠すための廃墟は、いくらでもある。ケイジがそうしようと望んだのだとしたら、きっと、もう私には痕跡すら見つけられないだろう。 それでも探し続けるほど余分な時間は、もう残されていない。 ――内戦が、秒読み段階にまで来ている。 先日私をトシマ脱出に誘ってくれたとき、マスターはそう言っていた。マスターは<ヴィスキオ>に属しているので、その情報も<ヴィスキオ>が得た信頼できる情報なのだろう。 それにしても、内戦が始まったら、どうなってしまうのだろう。余程大変なことになるだろう、ということは漠然と想像できるのだが、具体的にどんな状況になるのかまでは、戦争を知らない私には予想しにくい。ただ、ひどい混乱が起きて、はぐれたら二度と会えないのだろうと思った。 内戦になったら、私は生き残れないかもしれない。 そんな不安が足元から忍び寄ってきて、そろりと身体を這い登ってくる。どんな死に方をするにせよ、死ぬのは怖い。自分の時代では普段そんなことは考えもしないけれど、この時代では死は気がつけば手が伸ばせるほど近い距離にあるのだ。 迷いとそんな恐怖を紛らわすかのように走って、もうじきトシマの繁華街ところまで来たとき、不意に足がもつれた。前のめりに転んで、アスファルトに思い切り両手両膝を打ちつける。 「――っ、はぁ、はぁ、はぁっ…」 転んだ痛みより、なまりきった身体で限界を超えて走ったために息が治まらず、すぐには立ち上がることができなかった。しばらく肩を上下させて息を整えてから、ゆっくりと立ち上がる。ふと掌にひりつくような痛みを感じて顔の前にかざせば、アスファルトでできた擦り傷から薄く血が滲んでいた。膝も同様に痛むから、ジーンズの布越しとはいえ擦り傷になっているのかもしれない。 どちらにしろ大した傷でもないので放っておくことにして、私は改めて目の前にそびえ立つビルの群れを見上げた。そうしていると、焦りに沸騰していた頭が次第に落ち着いてくる。 ともかく、この進路はまずい。 見るからに弱そうな私が正面切ってトシマに入れば、鴨が葱を背負って歩くようなものだ。イグラ参加者の格好の標的となる。そこで、nから教わった裏道のことを思い出し、そこを通っていくことに決めた。 裏道は<城>まで続いているのだが、ある程度進んだところで私は道を外れることにした。 名ばかりとはいえ<王>であるシキが、<城>に現れる可能性は高い。けれど、先日私たちが侵入したので<城>は警戒が強化されているはずで、不用意に近づくことは危険だと思ったのだ。 迷った末、最初に中立地帯のホテルに行くことにした。というのも、シキが路上に現れると、遭遇した参加者は大抵そのことを告げに中立に駆け込んでくるものだからだ。それは注意を促すためでもあるが、同時に“レアモンスター”を目撃しながら生還したということが、一種のステータスであるからなのだろう。バーで働いているときにも、そういう光景は何度か目にしたことがあった。 脇道を出て大通りの方へ歩いていくと、ふと見覚えのある姿が目に入った。 特徴ある青灰色の髪、華奢ではないが細身の体つき――アキラだ。先日別れたときと同じ服装なので、見間違いではないだろう。アルビトロが処刑人に命じるほどアキラを求めていたのでずっと 気がかりだったのだが、無事でいたらしい。 ほっと安堵が胸に広がって、私は思わずアキラに駆け寄って行った。 「アキラ!良かった、無事だったんだ。リンも一緒なのか?」 じっとビルの壁面の落書きを凝視していたアキラは、けれど、こちらを見るなり警戒心を露にした。 「あんたは誰だ?何で俺のことを知ってる?」 「誰って…ついこの間会っただろ?バーのウエイターをやってただよ。――…あっ…!」 そこに至って、ようやく自分の間違いに気付く。自分の顔は自分の視界に入らないのですっかり忘れていたが、今の私はアキラの知る“”とは異なる姿をしている。アキラにしてみれば、見知らぬ人間に馴れ馴れしく話しかけられて警戒するのは、当然のことだろう。 「――えぇと、さっきのは間違いで、じゃなくて、の知り合いで…」 「本人でもないのに、何でが俺と会ったことを知ってるんだ。そもそも、あんた今までどこにいた。色々事情を話すほど親しい知り合いだとしたら、からあんたの話を聞いたことはないし、の傍であんたの姿を見たこともないのはおかしい」アキラは不審の色を隠しもせずに言い放ち、次いで戸惑うように目を伏せた。「…それに、あんた女だろ?女がトシマにいれば噂になってるはずだ」 「私は――」 自身なのだ、と真実を告げたとして、果たして信じてもらえるだろうか。普通の神経の持ち主ならば、まず、信じてもらえはしないだろう。一体どう説明すれば無難にこの場をやりすごせるだろう、と言い訳に困って視線を泳がす。 そのとき、脇のビルの壁に描かれた落書きが、視界に入ってきた。先程アキラがじっと見つめていたそれは、ストリートアートというのだろうか、やや装飾的な文字で描かれている。まだ書かれて日が浅いのか、風向きの加減でふと塗料に混じるシンナーの臭いが鼻につく。何とはなしにその文字を目で追ううちに、意味のないただの落書きと思えたものが急速に頭の中で意味を成し始める。 落書きと思ったそれは、<王>戦開催の告知だった。 それによると、日時は今日の正午、会場は<城>の敷地内にある闘技場。 そして、挑戦者の名前は――リン、となっていた。 「どうしてリン…<王>に挑むなんて…」 「俺が目を離した隙に、リンは行ってしまった…目が覚めたときには、俺のタグは消えていて、リンもいなかった」 アキラの言葉を聞きながら、シキが憎いと言ったリンの表情を思い浮かべ、リンが復讐を諦めることはないと言い切ったシキの確信に満ちて静かな声音を思い出していた。兄弟同士で殺し合うなんてやはり駄目だ、と思う。 どんな因縁があるにしろ、殺し合いで解決しようとすれば、壊れてしまう何かがあるのだ。他人ならばまだしも、血の繋がりがあるとなれば、殺すのは相手だけではない。同時に自分の一部も死なせてしまうことになるのだろう――ケイジとその兄のことを見ていると、そう感じずにはいられない。 翻ってそれを自分の立場に置き換えてみると、たとえば妹が犯罪を犯して、私が殺すことでしか犯行を止められないとしたら、私もケイジと同様の道を選ぶだろう。そして、やはりケイジと同様に、たとえ正しいことをしても妹を死なせてまで生きていたくはないと思うだろう。 2人を闘わせてはいけない。 だって、リンもシキも、殺し合うことを受け入れているように見えるけれど、本当にそうなのだろうか。リンは優しい子だし、殺人鬼と恐れられるシキもまた、情がないわけではない。相手を殺してしまったら、その事実はきっと癒えない傷として残るだろう。或いは、致命傷になるかもしれない――。 「駄目だよ…あの2人が闘うなんて、止めないと」 「あんた、もしかして、<王>の正体を知ってるのか…あんたは、リンと“あの男”を止められるのか――…」 アキラがどこか探る調子で、かってこの街で名乗った私の名を呼ぶ。それに、私は思わずはっと顔を上げた。彼はどこかで私が“”だと感じているのだろうか。今なら、説明すればあのあり得ない出来事をも納得してもらえるだろうか…。 事実を話せば、運が悪ければ狂人と思われるかもしれない。それでも納得してもらわなければ話が進まない、と思い切って打ち明けようと口を開いたときだった。 「こんなところで突っ立ってると危ないよぉ、兄さんたち?」 嘲笑を含んだ声が、耳に届いた。 *** まずい。イグラ参加者に目を付けられたか。 唇を噛みながら振り返ると、通りの脇の細い路地から、タグを胸に掲げた男が出てくるところだった。黒っぽいTシャツの袖から伸びる二の腕や肘、手首にかけて複雑なデザインのタトゥが彫られている。それがひどく目を引いた。 顔を戻せば、反対側にもタトゥの男の仲間らしい2人が脇道から出てきて、立ち塞がろうとしている。タトゥの男とその仲間たちは、私たちの退路を断つために2手に分かれ、挟みうったのだろう。 逃げ場がない。 動くに動けず立ち竦んでいると、不意にアキラが肘を掴んだ。「…バトルになったら俺が行く。あんたはじっとしてろ。声も出すな」押し殺した声で囁いて、彼は庇うように私の前に立った。 ひゅう、とタトゥの男が茶化すように口笛を吹く。 「弱い仲間を庇おうってのか。麗しい友情だな。そっちがそのつもりなら、いいぜ、俺とあんたのタイマンで行こう。こっちの2人とあんたの相方がこのバトルの立会人だ。――ただし、あんたが負ければ2人も、俺たちの好きにさせてもらう」 「……分かった。それで、」それでいい、とアキラが言いかけたとき、 「あの――ちょっとすみません」 緊迫したこの場には不似合いな、のんびりした声が割って入る。声のする方を見れば、いつの間に来たのだろうタトゥの男の仲間たちの後ろに、背の高い青いツナギ姿が見える。ケイスケだ――と声が出せないので、私は内心だけで驚きの声を上げる。 あまりに場にそぐわない闖入者に皆反応できないでいる。が、ケイスケは一人平然としたもので、2人の男を押しのけてこちらへ近づいてくる。 「すみません、この2人に用があるんです。こっちが先約なんで、借りて行きますね」 それがさも当然というように言って、ケイスケは私たちを「行こう」と促す。なぜかは分からないのだが、ケイスケはあまりに堂々としているので、戸惑っているこちらの方がおかしいかのように思えてくる。そんな不思議な説得力のようなものが、今のケイスケにはあった。 相変わらず、私たちに絡んでいた3人の男は呆然としていたが、ケイスケが歩き出したところでタトゥの男が我に返った。 「待てよ!いきなり割り込んで、何だよテメエ!?」 タトゥの男がすごんでみせると、俄かにケイスケが動いた。今までの呑気な態度が嘘であったかのように、果敢にタトゥの男に体ごとぶつかっていく。思わぬその動きの素早さと、不意を突かれたこともあってだろうか、タトゥの男はまともに体当たりを受け、ふらりとよろめいた。 「アキラ、今だっ!!」 ケイスケの叫びでタトゥの男の仲間たちも我に返り、逃がすかとばかりに私たちに襲い掛かってくる。と、私の傍にいたアキラが動いた。 まだ体勢が整わないまま焦って襲い掛かってきた1人目の顔面に、見事な右ストレートを叩き込んで、怯んだ相手の身体をもう2人目に向かって突き飛ばす。仲間の身体で進路を阻まれることになった2人目は、攻撃よりも仲間を優先して、突き飛ばされた仲間の身体を受け止めた。 その様子を見たアキラは、次いで振り返ってケイスケを見つめた。目を細め、何かを見定めようとするかのような表情になる。すぐに視線に気付いたケイスケが、不思議そうにその目を見返すと、アキラは普段の様子に戻って口を開いた。 「行こう」 「あっ…うん」 ケイスケはアキラの言葉に頷いてから傍まで来ると、「ちょっとすみません」と言うなり私を軽々と抱え上げた。 勿論、私が軽いわけではない。大人でそれなりに重みのある私を抱えるのは、多分ちょっと力がある程度では苦しいだろうと思う。それを涼しい顔でやってのけるケイスケの力は――普通ではない。余程問い質そうかと思ったが、声を出してこの場で女だと分かれば面倒なことになりそうな気もして、堪えた。 アキラはケイスケの行動に驚いた顔を見せたが、話す暇はないと判断したのだろう、先に立って走り出す。その後に、私を抱えたケイスケが続く。人一人抱えているのに、ケイスケはアキラに少しも遅れを取っていない。 もしかしたら、私が自分の足で走っていたら、2人の速度についていけなかったのではないだろうか。抱きかかえられたことには驚いたが、そういう意味では私はケイスケに感謝せずにはいられなかった。 景色が横に流れ、見る間にタトゥの男とその仲間たちが遠さかっていく。 「待て」と喚く声が聞こえていたが、男たちはすぐには私たちを追ってくることはなかった。 *** タトゥの男とその仲間が完全に見えなくなり、もう追ってこないだろうというところまで来ると、アキラとケイスケは走るのを止めて立ち止まった。2人とも全力疾走したために、はぁはぁと荒い息を吐いている。が、1歩も走っていない私も、彼らとは別の意味でぐったりしていた。 酔ってしまったのだ。 走るケイスケに抱き上げられて、不規則に揺さぶられる形になったからだろう。地面に下ろしてもらった途端、乗り物酔い特有のあのむかむかした感じが胸に込み上げてくる。酔いを落ち着けようと俯いていると、2人の会話が耳に届いた。 「もう追ってこないようだな」 肩で息をしながらも、アキラは振り返ってもと来た道の様子を見ている。 「アキラ、大丈夫?」 「あぁ。お前のおかげで助かったよ。あの3人、1対1って約束を守りそうには見えなかったからな、全員で来られたら俺だけでは分が悪かった。ありがとう…お前のやり方は、ちょっと強引だったけど」 すると、ケイスケはちょっと驚いたような顔をしてから、困ったような笑みを浮かべた。「ごめん。もっと上手く割り込めれば良かったんだけど、慌ててたから」そう言ってから、彼は今度は私を振り返り、大丈夫かと尋ねた。 返事をしようと顔を上げたところで、私は何か言うよりも先に思わず、まじまじとケイスケの顔に見入ってしまった。最後に会ったときライン中毒の禁断症状を起こしていたのが嘘のように、彼の目からはライン中毒者特有の濁りが消えている。顔つきや話し方、それに雰囲気も以前のものに戻っているようだ。 先程逃げ出す前にアキラがケイスケを見つめていたのも、同じことを確かめていたのだろう。そう思いながら、私はケイスケに助けてくれたことへの感謝を告げた。私の声を聞きながら、ケイスケは不思議そうな表情をしていた。が 「――女の人…?」 「あぁ、私は…」 私が言いかけたとき、不意にアキラが「話は後にしよう」と遮った。「ここで話し込んでいては、悪目立ちする。さっきの奴らだって、俺たちを探そうとするかもしれない。取りあえず移動しよう」 「それなら、ホテルのバーへ行くのはどうかな?源泉さんとそこで落ち合うことになってるんだ」 ケイスケの話では、源泉と彼は昨日の夕方頃からトシマ脱出の準備に駆け回っているのだという。そこへ、今朝方<王>戦の告知がもたらされた。そのため、ケイスケがアキラを探す一方で、源泉はディバイドラインを抜けるための通行証の類と共に、リン救出のための根回しをしているらしい。 「<王>戦が始まる正午近くまで、<城>の闘技場は開放されないんだって。だから、それまではあまり街を歩き回らない方が、安全だと思う」 「そうだな。――あんたもそれでいいか?」アキラは振り返って私が頷くのを確認すると、再びケイスケに顔を向けた。「それじゃあ、バーへ行こう」 *** そこで、私たちは早速ホテルへと向かった。 ホテルに辿り着き建物の中に入ると、いつになく落ち着かない空気が漂っているように感じられた。1階のロビーのあちこちで若者たちが数人固まって、それぞれ何やら熱心に話し込んでいる。耳を澄ませば彼らが熱中しているのは<王>戦についての話題で、これまでの挑戦者はどうだったとか、今回はどうだとか、盛んに挑戦者と<王>の強さについて批評し合っているのだった。 私は、内心穏やかではいられなかった。 それでも、あまりキョロキョロして物慣れない態度を見せるのは、目をつけて下さいと自分から言うようなものだということくらいは、弁えている。そこで、努めて無関心を装い、先に立って階段を上っていくケイスケの後に続いた。 ホテルの2階は1階よりやや人が少なかったが、やはりどこかざわついた雰囲気だった。 奥へ進んでバーの前まで行くと、入り口にclosedという札が掛かっている。そういえば、バーの開店は昼頃からだったはずだ。私とアキラは中に入ってもいいものかと足を止めるが、ケイスケは気にせず店内に入ってから振り返った。 「大丈夫だよ。昨日マスターがここを待ち合わせ場所に使ってもいいって、言ってくれたんだ。ここには電話もあるから連絡が取りやすいだろうって」 その言葉に納得して店内へ入ろうとすると、不意にアキラが緊張した面持ちでぴたりと足を止めた。 「アキラ、どうかした?」 「こっちを…いや、あんたを見てる奴がいる。あの壁際にいる2人だ」 アキラの言葉につられてそっと横目で壁際を窺えば、見覚えのある男が2人そこに立っていた。2人のうち片方は頭に派手なバンダナを巻き、もう1人は髪を金色に見えるほどに脱色している。以前、廃アパートから街へ戻ってきたとき、バーで惨劇が起きたことを教えてくれた2人だった。 また会うとは思ってみなかったので、私は驚いてもっとよく見ようと、つい2人の方へ顔を向けてしまう。すると、それとなく様子を見ていたらしい2人のうち、バンダナの男が顔を上げて私と目を合わせた。 「おい、あんた」 まともに見てはいけない、とアキラが警告を発する。そのとき、バンダナの男が仲間をその場に残して、こちらへ歩き出すのが見えた。その動きに、アキラが隣で身構える。 「心配ないよ」私はアキラの肘を軽く掴んだ。 「どうしてそう言える?あんたの知り合いなのか」 「どうしてって言われると困るけど…」 私は答えに迷った。 バンダナの男は確かに前回イグラを仕掛けることを見逃してくれたが、それは行きつけのバーのウェイターだからという理由だった。けれど今の姿の私は、彼にとっては見知らぬ他人に他ならない。必ずしも攻撃されないとは言い切れない。 ただ、バンダナの男は、トシマにいる若者の中では比較的落ち着いた人柄のようだった。その点から見るに、中立地帯で争いごとを起こすとは思えない。 そのことをアキラに伝えようとしたとき、バンダナの男が私の目の前で立ち止まった。 「あんたに聞きたいことがある。 “Meal of Duty”でウェイターをしていたって奴のことを知っているか?あんたはその人に何となく似てるんだが…姉弟か何かじゃないかと思って」 「――のことは、知っています。私は…彼の姉ではないけれど、身内みたいなものです」 「あの人は、店を辞めて今どうしている?知っているなら、教えてほしい」 私は顔を上げ、バンダナの男の目をじっと見つめた。バンダナの男はひどく真剣で、その目には心配の色が浮かんでいる。 「彼は、遠くへ行ってしまいました。もう会えることはないでしょう」 ケイジが姿を消し、私も本来の姿に戻った今、厳密に言えば“”という存在は消えてしまったことになる。けれど、それをそのまま伝えるわけにもいかず、ひどく曖昧な答え方になった。 それでも、バンダナの男は私の意を汲んでくれたようで、「そうか」と悲しげに呟いて顔を伏せた。 「あの…ありがとう」顔を伏せた彼に、私は思わずそう口にしていた。 「え?」 「彼のことを、気に掛けてくれてありがとう」 「いや、礼を言われるようなことじゃない。俺はただあの人が…」バンダナの男はそこで言葉を切り、苦笑を浮かべて頭を振った。「今更言っても仕方のないことだ。やめておこう。それより、こちらこそあの人のことが聞けてよかったよ。ありがとう」 苦笑のままバンダナの男は踵を返して歩き出す。こちらに背を向けた彼の肩が微かに震えているのを見て、私はとっさに声を掛けていた。 「あなたも、お友達も、どうか気をつけて」 すると、彼は振り返らないままに片手を上げて軽く振った。そこへ、壁際にいた仲間の金髪の男が駆け寄る。金髪の男は彼の肩を抱くようにして、2人で去っていく。 見送る私の隣でアキラが静かに緊張を解き、そっと私の肩をたたいた。 「――中に入ろう」 私は頷き、アキラと共にがらんとしたバーの店内へ入っていった。 目次 |