5.





 アキラと共に人気のない店内へ入っていくと、先に行ったケイスケと一緒にマスターが待っていた。源泉は通行証などの準備に出たまま、まだ戻っていないらしい。
 マスターへ挨拶するのもそこそこに、私はアキラに促されるまま、自分が“”と同一人物であると説明するために、経験した出来事を語った。
 通り魔に殺されかけ、気がついたら時を越え、イグラ参加者の身体の中にいたこと。身体の中に、彼――ケイジと私の意識が共存している状態で過ごしたこと。ケイジが実の兄と闘った際、私はもとの時代に戻ったこと。けれど、再び、今度は身体ごとトシマにトリップしたこと。およそ常識では考えられない出来事だが、すべてありのままに話した。
 本当は、嘘をついて取り繕った方が、無難だったにちがいない。しかし、アキラに“”としての態度を示してしまった以上、無難に別人だと言えば逆に不審を招くおそれがある。だから、嘘はつかなかった。
 いっそ狂人の戯言だと笑うならば笑え、と自棄になりながら、私は話し終えた。
 途端、その場に沈黙が落ちた。
 アキラはじっと考え込んでいるし、ケイスケも戸惑った面持ちでこちらを見ている。のしかかる沈黙を最初に破ったのは、マスターだった。

 「――“”」

 はっきりとした声で、マスターは私に呼びかけた。
 「自分の話なんか信用されないって思ってるんでしょ。顔に書いてあるわ。――だけど、あたしは信じるわよ。だって、あなた話し方や仕草や表情が、あの子そっくりなんだもの。それこそ、他人がここまで似ることはないだろうってぐらいにね」
そう、なのだろうか。
 そんな意識はなかったので意外に思い、私は掌で2、3度自分の頬を擦ってみた。もちろん、そんなことをしてもマスターの言葉通りなのかどうかなんて、自分では分からないけれども。
 「それに、嘘をつくのに普通タイムトリップだなんて非現実的な理由は、使わないものよ。それに仮に“”に成りすましたところで、一体何の利益があるって言うの。嘘をついたところで、意味がないもの」
 マスターの言葉に、考え込んでいたアキラとケイスケも、少し納得してくれたらしい。その様子を見てマスターは「よかったわね」と笑い、大きな手で私の頭を撫でた。かつて行くあてもなくさまよい歩いていた私を、拾ってくれたときのように。
 そうやって、くしゃりと髪をかき回したところで、マスターはふと顔をしかめた。
 「――もしかして、この髪、最近自分で切ったんじゃない?」
 「はい。今朝、切ったばかりですけど」
 「もう、切り方が滅茶苦茶じゃない!どうしてこんな切り方したの」
 「だって、街を歩くのに女だって分かる格好はまずいと思って…手元に錆びたハサミしかなくて切りにくかったけど」
 「こんな切り方じゃ、髪が傷んじゃうわよ。仕方ないわね、あたしが揃えてあげるわ」
 俄かに張り切りだしたマスターが急き立てる。(実はマスターの腕に少しの不安もあって)私はためらいながらも座っていた椅子から立ち上がって、マスターに言われるままに非常階段へ向かおうとした。飲食をする店内で、髪を切るわけにはいかないからだ。
 マスターは一度奥へ引っ込んで、手鏡とハサミを手に戻ってくると、アキラとケイスケに電話番を頼んだ。それから、既に店を出掛かっていた私に追いついて、2人で非常階段に向かった。


***


 非常階段には、人気はなかった。
 ドアを開けて外へ出ると、高度が高いからなのだろう、少し風が吹き付けてくる。ビルの合間を風が吹き抜けて、時折ざわめきや泣き声のような音を立てる他は、辺りは概ね静かだった。
 廃墟とはいえ街中で、人も見かけによらず多くいるはず。私のいた時代と違って、見捨てられたこの街に電車や車などの交通手段はないから、それらが立てる騒音もない分静かであっても不思議はない。それでも、死んだようなこの静けさは一体何なのだろう――時々人影が過ぎる街並みを見ながら一瞬考えて、ふと気付く。
 トシマには、日常がないのだろう。この街にいる人々は、ここで日常生活を送っているわけではない。殺し合いと隣り合わせの、非日常を過ごしている。だから当たり前に仕事をしたり、買い物をしたり、遊びに行ったり、そういうことで生まれる活気がないのだ。
 強い風が少し肌寒かったが、私は敢えてコートを脱いで、階段の端に置いた。
 「無理しなくてもいいのよ」
 マスターは言ってくれたが、私は大丈夫だと言った。薄手とはいえコートは嵩高くて、髪を切る邪魔になるだろうと思ったからだ。いざコートを脱いでみると、寒さは耐えられないほどではなく、むしろ清々しいくらいだった。
 コートの下に着ていたシャツが古びている上にサイズが合っていないのを見て、マスターはまた眉をひそめた。
 「せっかくなんだから、もっと可愛らしい服を着たらいいのに」
 「この街を歩くのに、可愛い服はむしろ邪魔ですよ」私は苦笑した。
 それもそうね、とマスターは頷いてから、手鏡を持っているようにと渡して、椅子に腰を下ろした私の背後に回った。ほどなくして、シャキシャキとハサミの音が聞こえ始める。切られた髪がぱらぱらと落ちて、肩に当たった。
 「切る前は、髪の長さはどれくらいあったの?」
 「肩くらいです。伸ばそうとしてる途中だったから、中途半端な長さだったんです」
 「そう。私も見てみたかったわ。切るのは、嫌だったんじゃない?」
 「そうでもないです」私は苦く笑った。「むしろ、むしゃくしゃしてたから、ガシガシ髪を切ったら少しすっとしたくらいで。だから、平気です」
 「それならいいけどね」
 取りとめもない会話を交わす間もマスターの手は止まらず、然程の時間も経たないうちに、髪は切り終わっていた。マスターはぱちんと小気味のいい音を立ててハサミを閉じると、私に手鏡で確認するようにと言った。
 言われるままに手にしていた鏡を覗き込めば、不恰好だった髪がきちんと切りそろえられているのが見える。あの廃アパートで自分で切って確認したときより余程綺麗に仕上がっていたので、私は思わず感嘆の声を上げていた。
 「すごい!プロにしてもらったみたい。料理とかも上手だし、マスター、何でもできるんですね」
 「プロは褒めすぎよ。でも、家事もお洒落も、昔それなりに努力はしたからね。今はあたしも自分は自分なんだって踏ん切りがついたけど、昔は美しく装うことで必死だったもの」
 マスターは自分の腕に満足したらしく、自慢げな笑みを浮かべていたが、やがて、それがくしゃりと歪んだ。マスターは慌てて右手の掌で自分の顔を覆った。けれど、顔を覆った指の隙間から垣間見えたのは、確かに、涙だった。
 「あぁ、ごめんなさい。みっともないところ見せちゃったわね」マスターは、涙声ながらも明るく言った。けれど、その手はまだ顔を覆ったままでいる。「あなたが店を辞めてもう会えないと思ってたのに、思いがけなく再会できたから、別れるときのことを思うと、余計寂しくて」
 「――マスター…」
 「一緒にトシマを出ないかって聞いたとき、あなたには何かしなければならないことがあって、それで、あたしの誘いも断ったんでしょう?今、戻ってきたのは、事情が変わったからなのよね?それでも、やっぱり何かすべきことがあるんだっていうのは、あたしにも分かるわ。だって、そうじゃなきゃ、危険なトシマに戻るなんてことしないもの」
 「はい。まだ、トシマでしなければならないことが、あるんです」
 「やっぱり、あたしと一緒には来てくれないのよね。――あなたがウチの店にいたのは短い間だったけど、楽しかった。従業員というより、家族が…娘ができたみたいだった。こんな風に言うと重いだろうからって、前のときは我慢したんだけどやっぱり言っちゃったわね、ごめんなさい。重荷になるつもりも、縛り付けるつもりもないのよ」
 分かってます、と私は慰めのつもりでマスターの腕をさすりながら、言った。
 「私も、マスターのことお母さんみたいだと思ったりしたから」


***


 「“男子禁制だから2人はお留守番よ”って、マスターも男なのにね」
 マスターが彼女と共に去ってしまうと、ケイスケはそう苦笑して肩を竦めた。「ねぇ?」と同意を求めるように見られたので、アキラは曖昧に相槌を打つ。正直なところ、マスターの性別についてどう捉えるべきか、よく分からないのだ。
 なるほど、マスターは生物学上は男なのだろう。けれど、本人は本来の性別に拘る様子がないし、男扱いも望んでいないのかもしれない。それに、――そういえば本名を聞いていない――に対しては、どこか母親のようなつもりがあるのだろう。そういうことを考えると、ケイスケの言葉に頷けるのかどうかは、非常に微妙な問題だった。
 ケイスケは会話の取っ掛かりのように先程の言葉を口にしたが、単に取っ掛かりであったらしく別にマスターを貶す様子もなく、すぐに話題を変えた。ふいに緊張した面持ちにになって、「――ごめんな、アキラ」と謝罪の言葉を口にした。
 「何だよ、急に」
 「急じゃないよ。ラインを使ってる間俺がアキラにしたことを思えば、本当はもっと早く、再会したときに謝らなきゃならなかったんだ。だけど、さっきは2人が絡まれててそれどころじゃなかったから。――俺、アキラの足手まといになるのが嫌で、アキラを守りたくて、ラインを使ったのに、結局酷いことをした。アキラだけじゃない。他にも人を傷つけて、殺した。それも、何人も何人も、だ」
 「ケイスケ」
 ケイスケの声にひどく思いつめた調子があるのに気付いて、アキラは言葉を遮るように名前を呼んだ。
 人を殺したことをなかったことにしよう、などというつもりはない。きちんとそれに向き合うのが一番だと思うし、友達としてケイスケを受け入れるという気持ちに変わりはない。ただ、思いつめたケイスケが自分を傷つけ――或いは、自らを殺してしまうのではないかと不安になったのだ。
 しかし、呼びかけに応じて顔を上げたケイスケは、アキラの予想に反してかってのおびえた表情をしてはいなかった。思いつめ、苦悩している様子ではあるものの、ケイスケの瞳には強い光がある。
 「ごめん、アキラ。俺は許してもらえなくて当然のことをした。顔も見たくないって言うなら、今すぐここを出て俺は2度とアキラの前には現れない」そう言った言葉こそ少々卑屈だが、ケイスケの態度は今までとは違っていた。
 俯くのではない。無理矢理の笑みを浮かべるのでもない。
 ただ、顔を上げてこちらを見ている。

 きっと、ケイスケは自分に許しを求めているのではない。

 「約束しただろ、一緒に帰るって。顔も見たくないなら、お前を探し続けたりしなかった。――それに俺は謝られるような立場じゃない。ラインを使ったお前が何をしてるのか知ってて…それでも、止めるんじゃなくて、一緒に帰ろうって思ってた」
 あの雨の日ケイスケと闘う以前から、アキラは自分の血に疑念を持っていた。
 ラインを服用していた猛や銀髪の男が、自分の血を口にしてどうなったか。そのことを考えれば、ケイスケの凶行を止めるために自分の血を使うことだって、思いつけたはずだ。それでも、アキラはケイスケが自分の血を口にしてしまうことを恐れた(結局、血のためにケイスケは元に戻ったのだろうが)。
 止めることができたのに、そうしなかった。それは、同罪ではないのか。
 いずれにせよ、アキラは自分に全く罪がないとは思っていない。
 「それは、アキラが自分を責めることじゃないよ。俺がやったことは、全部他の誰でもない俺の責任なんだ」
 「ケイスケ…お前、許されたいわけじゃないんだな」
 「そうだね。許されるよりも、罰されたいかな」ケイスケは静かな笑みを浮かべた。

 「神様でも何でもいい。その何かが、俺が殺した人たちの生命の重さと同じだけの罰を量って科して、その罰が終わったら、罪のないまっさらな状態に戻れるなら、どんなに楽だろう。だけど、そんなことってあり得ないじゃないか。人が人を裁いたって、生命の正確な重さなんて分からないんだもの。――だけど、俺が奪った生命の重さと同じ罰を科してもらえなくても、俺は生きるよ。ふさわしい償い方なんてないのかもしれないけど、死ぬのはこの苦しさから逃げることだ」

 それに、本当に償うことはできなくても、生きていれば誰かの助けになれるかもしれない。誰かを守れるかもしれない。それだけでも、俺は役に立てるかもしれないしね。
 そう言って苦しそうに、それでも笑ってみせる幼馴染をアキラは何も言えずに眺めていた。


 そのとき、不意にカウンターの上の電話が鳴った。鳴り響くその音に驚いた2人だが、電話に近い場所に座っていたケイスケがじきに我に返って、受話器を取る。電話はどうやら源泉からであるらしかった。
 「――はい、こっちは見つかりました。アキラと、それからも一緒にマスターのところにいます。…え、手伝い?だったら、俺が行きます。場所はどこです?…」
 通話を終えて受話器を置くと、ケイスケは振り返って今から出かけてくると告げた。源泉が手伝いを必要としているらしい。アキラは自分も行くと言ったが、ケイスケは一人でいいからと断って店を飛び出していった。


***


 狗はひとり走っていた。

 トシマの街はいつも土埃と血の臭いに満ちている。清潔で、瑞々しい庭の木々と土の匂いがただよう主人の<家>とは、全く異なる世界だ。荒んでいて、危険で、恐ろしい。主人の傍こそ、最も安堵できる場所だった。
 それでも、<家>の外には奇妙に懐かしさを感じる。
 その懐かしさがあるからこそ、恐ろしい場所とは知りながらも、狗は外界に興味を抱いてしまう。だが、それも主人の<家>という戻るべき場所があるからこそ、そんな風に思うのだろう。どれほど懐かしくとも、外に居場所が見つけられるとは思えないし、見つけたいとも思わなかった。

 血ヲ分ケタ親ハ、自分ヲ憎ンデイタ。殴ラレルコトヨリ、愛サレナイコトガ辛カッタ。
 主人ダケガ愛シテクレタ。ダカラ、ソノ望ミハ全テ受ケ入レル。


 今回、主人に命じられたのは、届け物だった。<家>を出る際に渡されたそれは、何か四角い紙片のようだ。それを、ある人物に届けなければならない。
 これまでに、狗は何度かその人物に遭遇したことがあった。
 彼は独特の甘い香りを身に纏っている。他の人間は分からなくとも、彼には出会えばその香りですぐに分かる。<家>に持ち帰られた動かなくなった人間の身体への、微かな移り香すら嗅ぎ分けられるほどだ。
 だから、主人は狗の強化された嗅覚を以って彼を探し出すことを、狗に命じた。
 今回の外出には、<兄>たちは同行しなかった。いつも外出に同行する<兄>たちは乱暴だが優しいところがあり、狗は主人の次に彼らが好きだった。大柄な年長の<兄>はよく狗を撫でてくれるし、元気のいい若い方の<兄>は遊んでくれる。その2人がいないのは、少し心細い。けれど、2人は多忙だし、それ以上に目的の人物に警戒を抱かせるから、今回は仕方がない。
 そう思いながら、ある通りを走りぬけようとした狗は、ふと足を止めた。記憶にあるあの甘やかな香りが、嗅覚に触れたような気がしたのだ。

 ――見ツケタ。

 狗は方向を変え、香りを辿って走り始めた。


***


 一人になったアキラは、しばらくその場で留守番をしていた。
 しかし、彼女もマスターも戻ってこない。少し気になったアキラは、とうとう非常階段へ行ってみようと店を出た。店を放置することになるのが気にならないわけではないが、トシマは元々タグを現金に代用しているので、店内に金銭もないはずだ。それに、源泉から連絡があったこととケイスケが出て行ったことは、早めに伝えておいた方がいい気がしたからでもあった。
 廊下を抜けて非常階段の扉を開けた途端、アキラは目を丸くした。顔を手で覆ったマスターの傍で、彼女が慰めるように腕を撫でている光景が目に飛び込んできたのだから。
 「…すなまい」
 とっさに戻ろうとするアキラを、「ちょっと待って」と顔を上げたマスターが引き止める。マスターはまだ少し涙目ではあるが、いつもの表情に戻っていた。
 「ちょっと涙腺が緩んだだけだから、気にしないで。それより何かあったの?」
 「あんた達が戻ってこないから、様子を見に来たんだ。…それと、さっき源泉から電話があった。手伝いが欲しいらしくて、ケイスケが手伝いに行った」
 「そう…分かったわ」
 それから、マスターは自分はバーに戻るので、少し彼女についていて欲しいと言った。バーに現金はないが、酒類やラインがあるので放置できないのである。しかし、非常階段も切って落ちた髪を掃除しなければならない。髪を切ってもらった以上掃除は自分がすべきだ、と彼女が言い、マスターはアキラを残してバーに戻ることになったのだった。
 当初、彼女はアキラに遠慮して、掃除など自分ひとりで出来ると言った。が、それはマスターによって却下された。掃除の手は一人で十分だが、女性である彼女を一人にして万が一のことがあれば取り返しがつかない、というのである。
 「大袈裟かもしれないけど、万が一のことが起こってしまってからでは遅いのよ。もしそんなことになったら、あたしは絶対“どうしてもっと気をつけなかったんだろう”って自分を憎むわ。それに、あなたには幸せになってほしいの。少しの注意を怠って、泣くようなことにはなって欲しくないの」
 そう諭されて、ついにはもマスターの言葉を受け入れた。


 「ごめんね」
 2人きりになってしばらくすると、彼女は不意にそう言った。
 その手には、箒が握られている。廊下に置かれた蜘蛛の巣が張ったような古い掃除用具入れから出してきたもので、彼女はそれを使って手際よく切った髪の散らばる踊り場を掃き清めているところだった。箒が1本しかない上に踊り場も広くないので、手を出す必要はないと言われ、アキラはぼんやりと彼女の手際を見守っていた。それで、一瞬反応が遅れた。
 「…何のことだ?」
 「掃除に付き合ってもらって、申し訳ないなと思って」
 「別にいい。マスターの言うことはもっともだし、俺もすることはないから」
 「ありがとう」
 ふわりと彼女が微笑んでみせる。その柔らかな表情に、アキラは目を細めた。
 やはり女性なのだな、と思う。黙って無表情でいれば誤魔化すこともできるだろうが、こうして柔らかな表情を見せると、彼女自身は目立つ容貌でもないのだろうが、やはり華やかさのようなものが目を引く。
 そんな彼女を前に、アキラはふとリンから聞いたことを思い出していた。

 リンをシキから引き離して、廃墟で看病していたとき、ふと口に出したことがある。
 自分たちを逃すためにシキと共に残って、は本当に無事なのだろうか、と。それを聞いたリンは、熱に浮かされながらもはっきりと断言したのだ――シキがに危害を加えることはない、と言って。
 “あいつはに執着してる。ましてやはあいつの母親にどことなく似てるんだ、いくらあいつでも、傷つけたりなんかできるもんか”

 それを聞いたときは、到底信じられなかった。
 確かにあの晩2人は顔見知りの様子だったけれど、一介のウェイターでしかないとレアモンスターと仇名されるシキとの接点が、どうしても見つけられなかったのだ。同性間の恋愛というものが(それについての偏見はないつもりだが)、具体的に想像しきれなかったということもある。
 けれど、今の彼女を見ていると、何となくリンの言葉が納得できる気がする。気がするのだが――同時に、何だか妙に気恥ずかしくなって、アキラは彼女からさり気なく視線を逸らした。
 そうする間にも彼女はテキパキと掃除を済ませて、踊り場のゴミを掃き集めてしまっていた。が、あとは捨てるだけ、というところになって、「あっ」と声を上げる。
 「どうしたんだ?」
 「ちりとり持ってくるの忘れてた。ちょっと取ってくるから、ゴミが風で散らないように見てて」
 そう言うが早いか、彼女はさっさと建物の中へ戻っていく。
 またあの埃と蜘蛛の巣だらけの掃除用具入れを開けるのか、とアキラは彼女のために少し心配した。けれど、彼女は先程も蜘蛛の巣に怯むこともなく手を突っ込んで箒を取り出していたから、平気だろう。見た目に反して彼女はかなり豪胆なのだ。
 ちりとりを探すのに手間取っているのか、彼女はまだ戻らない。
 そろそろ見に行くべきか、とアキラも歩き出したとき、足音が聞こえた。廊下からの足音ではない。カンカンカンと、鉄製の非常階段の段を踏む甲高い音だった。

 ――誰かが来る。

 建物の中に入れば隠れられるかもしれないが、こうも近くては扉の開閉の音で相手方もこちらの存在に気付くだろう。下手に動かない方がいいかもしれない。そう思って、アキラは敢えてその場に立ち止まり、静かに身構えた。
 万が一のために臨戦態勢に入り、相手の気配を探る。
 カン、カン、カン。足音は更に近くなる。
 そして、ついに手すりの影から姿を現したのは、異様な姿の少年だった。露出度の高い黒革の衣装を身に着け、目隠しをしている。アルビトロに改造され、飼われているという少年――たしか、狗といったか。アキラも何度か処刑人と共に歩く少年を見かけていたので、すぐにそのことに思い至った。
 しかし、何故ここに、そのアルビトロが偏愛する少年がいるのか。
 不審に眉をひそめるアキラに、狗は近づいてきて口に銜えた封筒を差し出した。受け取れ、というのだろう。警戒しながらそれを手にとって封を開けると、中から出てきたのは一枚の写真だった。
 それが何なのか、アキラはすぐに分からなかった。
 写真は、カメラの映像をプリントアウトしたものらしい。白黒で、画質もあまりよくない。写っされているのは、どうやら<城>の入り口付近であるらしい。斜め上から玄関を見下ろすような視点で、<城>へ入ろうとする人物が中央に写っている。
 被写体が動いたためにピントがずれてぼけてしまっているが、前方を睨むようにして<城>へ入っていく人物は――リンだった。
 「っ…!」
 どうして、アルビトロは自分にこの写真を寄越したのか。頭の中で膨れ上がっていく疑念と不安を抑えながら、アキラはアルビトロの真意の欠片でも知りたい思いで狗を見下ろす。勿論、狗は何も知らぬ気な顔でアキラを見上げていた。
 が、やがて、くるりと踵を返した。立ち去るのかと思いきや、狗は少し進んだところで、アキラを振り返る。目隠しをしているにも関わらず、布を隔ててこちらを窺っているような気配がある。

 ついて来い、と言っているのか。

 これは罠だ、ということはアキラにも分かっていた。だが、行かなければ<城>にいるリンの身に危害が及ぶかも知れない。源泉やケイスケを待っている間はないし、マスターや彼女に言えば止められるに違いない。
 アキラは扉を振り返り、まだ彼女が戻りそうにないのを確認すると、狗の後を追って歩き出した。







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