6.





 「ごめんね、アキラ、遅くなっ…て…?」

 掃除用具入れの奥から引き出した蜘蛛の糸まみれの塵取りを手に、非常階段へと続くドアを開く。けれど、そこにいるはずのアキラの姿は、どこにもなかった。
 「アキラ…?」
 階段の陰にいるのかと名前を呼んでみても、返事は返ってこない。もしかすると、上の階か下の階へ行っているのだろうか。そう思い至って、私は錆びの浮いた階段を、取りあえず上の階へと上りかける。
 と、そのとき騒がしい声が階段の下の地上から聞こえてきた。通りで喧嘩でもしているのかと気になって、下を覗いてみる。すると、ホテルの脇を通る細い路地で、4人の若者がたった一人を隣のビルの壁際に追い詰めて、取り囲んでいるのが見えた。
 その追い詰められている一人の姿に、見覚えがある――アキラだ。
 「――…っ!」
 焦って「アキラ」と叫ぼうとしたが、動転しているのでとっさに声が出ない。
 これは、きっと不利な状況だ。アキラはBl@sterで優勝するほどに強いのだと聞いたことはあるが、それでも4対1では敵うはずがない。降りていって助けることは無理だが、ここから何かアキラが不意をついて逃げ出せるような機会を作ることはできないか――。
 下を眺めるうちにふとある思いつきが浮かんで、私はすぐに階下へと引き返した。踊り場に置いていた塵取りを掴み、手すりへと跳び付く。
 「アキラっ…!!」
 思い切って腹の底から声を押し出すように叫びながら、塵取りを4人めがけて投げ落とす。私の声は少し裏返って掠れかけながらも思いの外大きく通りに響き、4人と対峙して隙を見せないように相手を注視していたアキラがはっと顔を上げた。数秒遅れて4人がばらばらとこちらを仰ぎ、落ちてくる塵取りを目にして一瞬たじろぐ。たかが塵取りとはいえ高所からの落下物なのだ、ぶつかれば危険であることには変わりない。
 たじろぐ4人に生まれた隙を、アキラは見逃さなかった。
 落下物に気を取られている4人の隙間をすり抜けて、別の細い路地へと走ろうとする。逃げるアキラに気付いた4人は、とっさにアキラを追いかけようと動き出した。そうはさせるか。私は足元にあった缶詰の缶を取り上げ、4人に向かって投げ落とす。
 缶は、ここで灰皿代わりに使われていたものらしい。中には水が張られ、幾つもの吸殻が浮かんでいた。投げ落とされた缶は空中で逆さまになって、まず吸殻をたっぷり含んだ水を4人の上に振り撒きながら落ちていく。
 突然降ってきた吸殻混じりの水に、4人は思わずといった様子で足を止め、それぞれ不快そうな呻きを上げたり、吸殻を払い落とし始める。最早アキラを追うどころではない。
 隙を作れたことにほっとしながらアキラを探せば、細い路地へ消えていこうとする彼の姿が見えた。路地は、ホテルとは全くの逆方向に向かって伸びている。
 「――どうして…」
 思わず呟いた声が聞こえたとも思えないが、次の瞬間、ふとアキラが振り返ってこちらを仰ぎ見る。彼の唇が微かに動いているようだったが、もちろん、遠すぎてその声も聞こえない。ただ、申し訳なさそうな表情から察するに、何か謝罪の言葉を口にしているのかもしれないという気がした。
 そうやって一瞬こちらを振り返ったアキラだが、すぐにまたこちらに背を向けて歩き始める。せめて行き先だけでも分からないか、とアキラの前方に目を凝らせば、路地に蹲る小柄な人影が見えた。
 あれは、アルビトロの<城>で見かけた少年――狗だ。まるで案内するかのように、訓練された犬のように行儀よく座ってアキラが追いつくのを待っている。

 狗が案内するということは、アキラは――単身、<城>へ行こうとしているのか。

 「待って、アキラ!!<城>へは皆で…!」
 叫んでも、聞こえているのかいないのか、アキラは振り向きもせずに歩き続ける。すぐにその背は街並みに紛れ、見えなくなってしまった。
 アキラ一人で<城>へ行くなど、無謀だ。一人でリンが救い出せるはずがない。狗がいたということはアルビトロが何か取引でも持ちかけたのかもしれないが、あの男はそもそもアキラを手に入れたがっていたのだ、引き換えにリンを助けられてもアキラに危険が及ぶに決まっている。
 追いかけようと階段に向かいかけたとき、下から叫ぶ声が聞こえた。
 「よくもコケにしてくれたな!」
 「今非常階段にいる奴、逃げるんじゃねーぞ!!」
 先程アキラに絡んでいた4人だろう。下を覗かなくても分かる。私がアキラを逃がすためにした行為は、彼らを挑発したのと同じだ。じきに仕返しにくるだろうということは、簡単に想像がつく。

 ここにいては、まずい。

 とっさに私は引き返し、踊り場のドアから建物の中へと駆け込んだ。そのままドアを閉め、内側から鍵をかけてから、マスターのいるバーへ向かいかける。と、背後のドアがガンガンとけたたましく叩かれる音が聞こえてきた。
 非常階段のドアは金属製で、人の手で叩き破られる心配はまずないといっていい。問題は、むしろ4人が表玄関へ回ってきたときのことだ。表玄関からなら、彼らは何の妨げもなくホテル内に入ってくることができる。その前に、身を隠さなければならない。
 私は駆け足になって、廊下を走ってバーへと向かう。この事態は私が招いたことでマスターを巻き込むわけにはいかないが、姿を隠す前に一言マスターに言っておかなければ、それも心配をかけてしまうと判断したためだった。


***


 店内へ入っていくと、マスターは電話中だった。何か深刻な話なのだろうか、カウンターの端に置かれた電話の前に立ち、難しい表情で受話器を手にしている。こちらに気付くと、マスターは「ちょっと待ってね」というようにこちらへ視線を送ってから電話に向かって2度3度と相槌を打ち、電話を切った。
 「マスター、あの…」
 「…まずいことになったわ。リンの救出は無理かもしれない」
 「そんな…何かあったんですか?さっきの電話は源泉さんから…?」
 「源泉じゃないわ。知り合いと言ったらいいのかしらね…あたしは昔小さな組の組員でね、そこは結局<ヴィスキオ>に吸収されちゃったんだけど、今も<ヴィスキオ>にいて情報を流してくれる元部下が何人かいるの。電話してきたのは、その一人。アルビトロのことで動きがあるからって…」
 ふと言葉を切って、マスターが目を伏せる。その身体の両脇に下ろされている手が、きつく拳を握り締めている。――マスターが、怒っている?そう感じたとき、マスターが低く抑えた声で語り始めた。


 アルビトロは、内戦が始まったらトシマを捨てるつもりだったらしい。以前から、内戦開始の際にはイグラ参加者は放り出して組織全体で逃げられるように、その準備も進められていた。
 ところが、事態はアルビトロの予想とはズレた方向に展開した。
 まず日興連とCFCの対立が、予想以上に早く激化した。今は最早両者の間で開戦が避けられないところまで来ている。これまでは日興連もCFCも互いに相手を刺激することを恐れて<ヴィスキオ>に手出しすることを控えていたが、戦争となれば話は別だ。相手に遠慮せずにこれから、両政府は容赦なく<ヴィスキオ>に手を出してくることだろう。身体と精神力を強化するラインは、導入できればこの内戦には有利に働くと分かっているのだから。
 先に手を出したのは、CFCだった。CFCはイグラ参加者に紛らわせて工作員を送り込み、その人物は今もトシマにいるという。いくらラインで得た富があるとはいえ、一介の組織が本気で政府と張り合うことができるはずもない。
 そこで、アルビトロは――<ヴィスキオ>を潰すことを思いついた。
 日興連やCFCはラインを欲しがっている。いずれかにラインのデータを売れば、自分の保身は十分に可能だ。しかし、<ヴィスキオ>という組織が残っていれば、政府は犯罪組織と結束したことになるからと、すんなりとはアルビトロの提案を受け入れはしないだろう。下手をすれば、データを奪われ殺される可能性もある。何より、組織ごとではアルビトロ自身、身動きが取り難い。

 「だから、<ヴィスキオ>はトシマで内戦と共に滅んだことにして、一部の部下だけ連れて自分だけ助かろうって魂胆なのよ」

 しかし、組織を潰したところで、他の者からラインの情報が漏れるようでは、何の意味もない。また、アルビトロが生きていると知れば、生命やラインの情報を狙う者も現れるかもしれない。アルビトロにとっては、<ヴィスキオ>の人員と施設だけでなく、トシマでラインの効果やアルビトロの存在を目にしてきたイグラ参加者まで消え去ってしまうのが、一番理想的だといえる。
 そして、マスターの元部下から流された情報とは、アルビトロが自分の理想的な状況を作るために、<城>を爆破しようとしているというものだったそうだ。
 「おそらく、危ないのは<王>戦の後よ。この計画はもちろん<ヴィスキオ>内部にも極秘なの。そりゃそうね、<ヴィスキオ>の人間はほとんどトシマに置いてきぼりなんだから。彼らに怪しまれないためにも、アルビトロは<王>戦の前座には現れる。となると、爆破の好機は<王>戦の前座の後――今回は食糧を配布するらしいから、そうやって人を集めておいて自分は<城>を脱出して、その後で<城>をドカン!よ」
 「でも…イグラ参加者の全員が全員、<城>に集まるわけじゃないんですよね?帰ってしまう人間もいるだろうし。イグラ参加者も消すというには、中途半端なんじゃ…」
 「…<城>の地下に、旧祖の外へつながる通路があるの。<城>から、旧い地下鉄の構内へつながってる。旧祖は普通の人間には案内人なしで通れないから、外への通路さえ塞いでしまえば、誰もトシマの外へは逃れられない」


 <城>の爆破で、<ヴィスキオ>の人間とイグラ参加者の多くが死ぬ。残った者も、旧祖から逃げ出せないまま、内戦に巻き込まれて死ぬ。そうなることで、ラインの情報が万が一生きてトシマから脱出した人間から漏れる可能性も、ぐっと低くなる。アルビトロの思う壷だ。誰も助からない。<王>への挑戦者であるリンも、リンを救うために<城>へ行ってしまったアキラも、源泉やケイスケや私自身――そして、<王>であるシキさえも。
 そのとき、チャリと微かな金属音がする。気がつけば、私は無意識のうちに首からかけたロザリオを、きつく握り締めていた。胸に込み上げるのは、死への恐怖とは少し違っている。自分の身のことは、感覚が麻痺してしまったのか想像が及ばない。むしろ、知り合いが危険にさらされることへの不安と、どうにか回避できないかという思いだけが頭を占める。だって、もうたくさんだ。ケイジのように、生死も分からないまま別れるのは――ロザリオを握り締めてそう思いながら、私は顔を上げた。
 「――マスターは…」
 「あたしも置いてきぼりのクチよ。もともと、アルビトロとはそりも合わなかったし、お供に選ばれるはずがないわね…っていうか、選ばれたらちょっとショックだわ、あいつの好みに合うだなんて。――あぁ、そんな顔しないでちょうだい。置いてきぼりだからって、ただここで内戦に巻き込まれるのを待ってなきゃならないわけでもないでしょ。だから…――いっそ、あいつの計画を邪魔してやるのも悪くないかも、なんてね」
 そう言って、マスターがやけに好戦的な笑みを浮かべる。邪魔をするとは、一体どういうことなのか。尋ねようとして口を開いたとき、遠くから騒がしい物音が聞こえてきた。


***


 廊下に聞こえ始めた、人を捜す喚き声。複数のそれが、次第に近づいてくる。マスターから知らされた情報のために頭から吹っ飛んでいたが、あの4人が私を追ってホテルの表玄関へ回り、入ってきたのに違いない。
 「何かしら…?」とマスターが不審そうに店の外へ顔を向ける。それから、ぎくりと凍り付いている私に気付いて怪訝そうな顔をした。「どうしたの、。――そういえば、アキラは一緒じゃないの?」
 そこで私がアキラの立ち去ったときの出来事を説明すると、マスターは隠れているようにと言って店の外へ出て行ってしまう。程なくして、店の前まできた4人と話すマスターの声が聞こえ始めた。
 「――一体何だっていうのよ、騒がしいわね」
 「ネズミを一匹探してるんだ。この辺に隠れてるはずなんだよ。店の中、探させてもらうぜ」
 「お断りよ。何でウチの店の中引っかき回されなきゃなんないの。ネズミなんて見てないわ。さっさと帰りなさいな。じゃないと、ひどいことになるわよ」
 そんな調子でしばらく押し問答が続いていたが、やがて痺れを切らした4人の方が実力行使に出た。制止するマスターを振り切って、店の中へ入って来ようとする。抗うマスターの声と争いの物音を、私はカウンターの陰で小さくなって聞いた。
 マスターには、隠れていろと言われている。けれど、このままではマスターまで怪我をしてしまう…。出て行くべきかどうしようか、と息を詰めながら考えたとき、バタンと店のドアが乱暴に開けられた。
 「いるんなら、出て来いよぉ!」
 「ネズミちゃーん、どこかなー」
 カウンターの陰から覗けば、4人のうち店内に乱入してきたのは2人だけだった。威嚇のつもりなのか、店内に並ぶ椅子やテーブルを無意味に蹴り倒しながら、こちらへと近づいてくる。
 ガンッ!思い切り蹴られた椅子が転がって、カウンターの側面に激突する。
 ここは、マスターの店だ。“Meal of Duty”が封鎖されて、それでも、何とか備品をかき集めて運んで、やっと開いた店だ。私は、その苦労を見てきた。そこを、こんな風に扱われるなんて――どうしても我慢できない。
 ぐっと拳を握り締め、私は口を開いた。
 「――今、出て行く。だから、店を壊すな」
 蹴り倒されたテーブルや椅子が立てる音に負けないように叫んで、私はカウンターの陰から立ち上がった。腹の底から込み上げる怒りと、自分の身がどうなるのかという不安とがない交ぜになって、息すら満足にできないほどに緊張していた。が、それを悟られるわけにはいかないので、平気な顔で2人の前へ歩み出た。
 こちらに気付いたマスターが「、駄目じゃない!」と叫ぶ。それへ言葉を返す余裕もなく、私は精一杯の虚勢を保ちながら、店内に入ってきた2人の男と対峙した。
 「店は、壊すな」
 もう一度繰り返すと、男たちは私の言葉に声を上げて嘲笑した。
 「壊すなだってよぉー」
 「だれがテメエの指図なんか聞くかよ!」
 嘲笑していた一人が不意に怒声を上げ、傍に転がっていた椅子をまた蹴った。蹴られた椅子は転がって、別のテーブルにぶつかって、派手な音をたてる。その音の大きさに、思わず怯んで身を竦めると、男は私の右腕を掴んで高く捻り上げた。更に、顎をつかまれ顔を上向けさせられる。覗き込むようにして顔を近づけてきた男は、やがてにやりと嫌な笑みを浮かべて顔を上げた。
 「声が高ぇからガキかと思えば…こいつ、女だぜ」
 「マジで?トシマじゃすげーレアものじゃん。オンナ連れて参加した奴でもいんのかよ?」
 「さぁ…聞いたことねーけどな。ま、殺してタグ奪うつもりだったが、せっかく見つけたレアもんだ、“持って帰って”ちょっと遊ぼーぜ」
 そんな言葉と共に2人は私の腕を強く引き、店の外に連れ出そうとする。嫌悪感と怒りと恐ろしさに思わず腕を振りほどこうともがくと、「二度と見られねぇような顔にしてやろうか」と一人がポケットから折りたたみ式のナイフを取り出して私の目の前にちらつかせた。
 先程の“持って帰る”という会話やこちらを見る目からして、彼らは私をヒトとして扱う気はないのだろう。子どもが玩具を壊すように、昆虫の足をもぐように、躊躇いもなく、脅しを実行に移しそうな様子だ。そう感じると急に背筋が寒くなって、私の抵抗は自然と尻すぼみになってしまった。


***


 2人は私を引きずって店の外へ出ると、マスターに絡んでいる仲間2人に「コレ持って先に行ってるから」と声をかけ、階段の方へ行こうとする。
 「ここでの争いごとは禁止よ!その子を離しなさい!」
 ナイフを突きつけられながらマスターが叫ぶ。その言葉を嘲笑する男たちの嗤い声が上がった直後。

 「中立での争いごとは厳禁。ルールだって言ってるでしょ」

 マスターの低い声が聞こえたかと思った次の瞬間、背後で争うような物音がした。ぐっと誰かの呻き声が上がって、慌てて振り返ればマスターにナイフを向けていた男が殴り飛ばされ、床に沈んでいるのが見える。更に傍にいたもう一人の襟首を掴んで、マスターはその男を無造作に投げ飛ばしてしまった。
 今のうちに、と私は倒された仲間に気を取られている2人の腕を振り切って、走り出す。走りながら振り返れば、私を拘束していた男がナイフを手に追いかけてくるのが見えた。
 が、捕まえようと伸ばされる手から身をかわしたとき、私は誰かにぶつかって立ち止まらざるを得なくなった。「っ…すみません…!」慌てて顔を上げると、目の前にいたのは――先程店の前で会った、バンダナの男?目に映ったものを頭が理解するよりも先に、目の前の相手がぶつかったときに受け止めた私の肩をぐいと押しのける。
 「――キョウイチ、この人を」
 バンダナの男の声が傍で聞こえたかと思ったとき、押しのけられてよろめいた私の身体は誰かに支えられていた。「おい!待てよ…ユズルっ」頭上から降ってくるのは、やはり彼の仲間の金髪の男のものだ。
 「ユズル、やめろ!こんな他人のためにお前がやり合う義理なんか、」
 ユズル、というのがバンダナの男の名前なのだろう。金髪の男――キョウイチは、ユズルの言葉通り私を庇うように支えながら、視線を前方へ向けている。私もその視線を辿って、私を追いかけてきた男の前に立ち塞がったユズルの背中を見た。
 「テメエ、部外者は引っ込んでろよ!」
 男はユズルに掴みかかるほどの勢いで、凄んでみせる。が、倒された仲間と背後のマスターを気にしてか、そわそわと落ち着きがない。それに対峙するユズルは落ち着き払い、少しも揺らぐ様子がない。すると、男は脅しで怯む相手ではないと悟ったのか、唐突に手にしたナイフを振りかざしてユズルに切りつけようとした。
 「ユズルっ!!」キョウスケが私の肩に掛けた手に、力がこもる。
 「っ…」私は息を呑んで、思わず閉じかけた目を無理に開いて、2人の様子を見る。
 私たちが見守る中、当のユズルは落ち着いていた。ナイフに慌てることなく、男の刃を左腕に受けながら、右の拳を低く繰り出した。拳はがら空きだった男の腹に、深く沈む。 ほんの一瞬の出来事、けれど、見守るこちらの目にはスローモーションのようにゆっくりと見えた。男は呻きながら、なおもナイフを振り上げようとする。けれど、その身体をユズルが突き放すと、そのまま力なく床に倒れて意識を失ってしまった。
 途端、はっと我に返ったキョウスケが、ユズルに駆け寄っていく。
 その場に佇むユズルは、左腕でナイフの攻撃を受け流したため、傷を負っていた。腕の傷口から手首、指先へと伝った血が、雫となって床にぽつぽつと滴り落ちている。それを見て、キョウイチは心配そうに眉をひそめた。
 「大丈夫か…?」
 「あぁ…そう深い傷じゃない」
 そんな遣り取りが2人の間で交わされている。その妨げにならないように、私は静かに2人に近づき、「あの」と控えめな音量で声を掛けた。すると、ユズルとキョウスケが同じタイミングでこちらを振り返る。その視線に緊張しながら、口を開いた。
 「助けていただいて、ありがとうございます」
 本当は、どうしてあまり親しくない私を助けてくれたのか、と真っ先に浮かんだ疑問はあった。けれど、理由を尋ねるよりも感謝を言うのが筋だろうと思ったのだ。おまけに、ユズルは負傷までしてしまっている。そのことが申し訳なくて感謝の言葉と同時に深く頭を下げると、「いや…」と戸惑ったユズルの声が聞こえた。
 そして顔を上げると、マスターの声が私を呼んだ。見ればその足元に、もう一人私を追っていた男が転がされている。先程ユズルがナイフの男と対峙している際に、マスターはマスターで一人片付けてしまったらしかった。

 マスターの足元に3人。ユズルが倒したのが一人。これで、私を追いかけてきた4人全員が倒されたことになる――。

 ふと見れば、辺りには騒ぎを聞きつけて、多くの野次馬が集まっていた。その数は、ホテルにいた人間が皆集まったのかと思うほどだ。私たちを遠巻きに取り囲む彼らのせいで、店の付近は混雑時の“Meal of Duty”の店内のような有様になっている。そして、集まった人間の視線の多くが、私に向けられているようだった。
 自分に集中する眼差しに、今更、ここがどういう街であるのかを改めて思い出させられる。思わず立ち竦んだ私の耳に、ひそひそと交わされる会話の断片が聞こえてくる。

 『…なんで女が』『――よく今まで生きて…』
 『だけどいずれ誰かが…』『<城>へ売れば買い取ってくれるかも』

 「――がたがた騒いでんじゃないわよっ!」
 背中を押すような一喝の声が聞こえて、私ははっと振り返った。
 一喝したマスターが、集まった野次馬をじろりと睨みながら、つかつかとこちらへ歩いてくる。傍まで来ると、マスターは私の頭に大きな手を乗せ、辺りをぐるりと見渡した。
 「この世は男だけのもんじゃないわよ。男がいるなら、女だってオカマだっていて当然でしょうが!女見て目の色を変えるのはね、自分が童貞だって言ってるようなもんよ。――さぁ、そんなボウヤはどこにいるの?この際、女よりももっとイイものを、あたしが教えてあげるわ」
 途端、辺りが水を打ったように静まり返る。
 その静寂を破って、「おい、道を開けな」と低い声が聞こえた。立ち並ぶ野次馬を押しのけるようにして、いつも1階のタグ交換所に座っている髭面の男がのっそりと現れる。
 「…おい、こりゃあ何の騒ぎだ」
 「争いごと禁止だって言ってるのに、暴れたお客さんがいたのよ。そこに寝てる、その4人。お帰りになってもらって頂戴」
 「おいおい、俺につまみ出せってのか。ちっとは手伝ったらどうだ」
 「あー無理無理。あたしはか弱いし、他にすることもあるもの。いいじゃない、野次馬に来るくらい暇してたんでしょ」
 マスターがパタパタと手を振りながら言うと、交換所の男は小さく舌打ちする。「ったく、どこがか弱いってんだ」とぼやきながら、まず片手に一人ずつ襟首を掴み、引きずりながら階段の方へ歩いていく。
 それを潮に、集まった野次馬たちもばらばらと解散し始めた。


 「さて、と…そこの2人」
 マスターがユズルとキョウイチに顔を向ける。すると、キョウイチもナイフには動じなかったユズルさえも、ぎくりと一瞬身体を揺らした。
 「この子を助けてくれて、ありがとう。そっちのバンダナの子の傷、店で手当てするわ」
 「いや…別にいいから…」ユズルはどこか引き気味に頭を振る。
 「そんなに怖がらなくてもいいわよ。さっき皆の前で言ったのは冗談なんだから。それに、この子を助けてくれた相手を取って喰うわけないでしょ」
 苦笑しながら、マスターが言う。それでもユズルもキョウイチも躊躇っているので、私も横から「本当に大丈夫だから」と言い添える。それでようやく2人も、店に入る気になったようだった。
 私たちが店に入ろうとしていると、まばらに散っていく野次馬たちの流れとは逆にこちらへ向かってくる者の姿がある。見慣れたその姿は、リン救出の準備のために奔走している源泉とケイスケだった。
 今戻ったばかりなのか源泉もケイスケも騒ぎを全く知らない様子で、店の前に来るとまだその場に取り残されている気絶した2人の男を見ると、驚く素振りを見せた。
 「――一体何があったんだ、こりゃぁ…?」
 「ちょっと困ったお客さんがいたのよ」
 「ふーん、そうか」気のなさそうな返事をしながら2人を見下ろした源泉は、ふと顔を上げると私に目を止めた。「――あぁ…お前さんか…ケイスケから、ちっとばかし話は聞いてるよ。オイチャンもびっくりだったが、実際に見てみると思うより違和感のないもんだな…雰囲気が同じだ」
 「あ、私の本名は、――といいます」
 「ちゃんかぁ。今更だが、改めてよろしく頼む」
 源泉の口ぶりからして、既にケイスケから私が“”と同一人物であるという経緯を聞かされているのだろう。その前提で私を見て、私が“”という人間と同一人物であることに違和感がないという。けれども、自分ではよく分からなかった。「そういうものでしょうか…?」と首を傾げる。
 「まぁ…本人には自分の雰囲気なんか分からんだろうさ」源泉は肩を竦めると、気分を変えるように明るく言った。「――さてと、ここで立ち話もなんだし、中に入るとするか。そこの兄さん達も中へ入るところだったんだろう?どれ、オイチャンがひとつ、その怪我を診てやろう」








前項/次項
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