ジョーカー3
*引き続き女性が出てきます。
*女性絡みの性描写はありません。






 次の日から、アキラはしばらく散々な日々を過ごした。シキにホテルの部屋に引き込まれた晩のことが、ずっと頭を離れなかったのだ。『お前は何者でもない』というシキの言葉と目の前で女を抱かせたその真意が分からず、アキラは悩み続けた。
 プライベートな時間ばかりか仕事中も悩みを忘れることができず、仕事中の小さなミスが増えた。不幸中の幸いだったのは、前線へ出ていなかったことだろうか。
 シキやアキラの属する部隊は、いわば改良型ラインをテストするための部隊であるから、他の部隊よりも短い期間で前線と後方を行き来している。前線でラインを投与した兵士の戦闘データを取り、後方に下がって分析や更なる改良を行う。そのため、次にアキラたちが戦場に出るのは、前回の戦闘データを整理し終えてからのこととなるはずだ。
 前線に出ない今の仕事はデスクワーク中心で、アキラの苦手とするところだった。そういうこともあってミスが積み重なったのだ。そんなある日、シキがアキラの元に訂正すべき書類を持って近づいてきて、こう言った。

「――戦場ではなくてよかったな、アキラ」

 そのシキの言葉は、『これが戦場ならば死んでいたぞ』と言下に指摘するものだった。シキにそう言われた瞬間、アキラは血の気が引いていくようだった。
『お前は何者でもない』シキのその言葉の意味が、少し分かった気がした。
 いつも甘いのだ、自分は。軍人になることを選びながら、どこかで軍人になりきれていない。シキに従うと自分で決めながら、どこかでそれは自分の選択ではなくシキに強制されたものと捉えている節がある。――いつも言い訳をつけてこの状況から逃げ出す余地を残している。
 今回の仕事上でのミスの連発は、全て自分の甘さが招いたことなのだ。


 その日、勤務を終えて寮の自室に戻ると、アキラは真っ先にベッドに身を投げ出した。自己嫌悪に捕らわれていて、何かする気力が起きなかった。
 自分は甘い――そう自覚したからといって、その甘さをどう解決したらいいのか分からない。
(……シキは、どうしてあんなに迷いがないんだろう……強くいられるんだろう……)
 ベッドに寝転がって、アキラは泣きたい気分でシキのことを思った。トシマからのシキの言動を思い出してみたが、シキはいつも自分の進むべき道を分かっているようで、今のアキラのように迷っている姿を見たことがない。自分ひとりが情けなく迷っているようで、アキラは言いようのない孤独感を覚えた。
 同時に、シキの肌の温もりや腕の力強さが恋しいと思った。これまでずっと抑えていた、自分の女々しい感情――それが抑えようもなく噴き出して頭を占めていく。きっと、一年もシキに触れられないままならそれらを忘れられたのだろうが、先日わずかにシキの熱に触れてしまったために、シキの感触を生々しく思い出してしまった。
「っ……!」
 ずくんとピアスを埋め込まれた臍の辺りが鈍く疼く。しばらくアキラはそれを無視していたが、堪えれば堪えるほど疼きはひどくなっていくようだった。
 アキラは堪えきれなくなって、ベッドの上に座り直して軍服のスラックスのベルトに手を掛ける。自分の欲望に負けた敗北感を噛みしめながら、ベルトを外してジッパーを下げ、下着の中から性器を取り出した。左手でそれを握り、手を上下に動かして刺激する。身体が飢えていたのか、それだけでも甘さが腰全体にまで広がっていき、アキラは思わず息を吐いた。
「っ……ふ……ぅ……」
 最初にあった敗北感や情けなさは、すぐに吹き飛んだ。一旦始めると止まらなくなってしまって、アキラは夢中で手の中の自身を刺激した。その間にも思い出すのは、先日のホテルでの出来事だ。初めて口淫を施され、また初めて女を抱いたのに、思い出して熱が高まるのはシキとの口づけやシキの性器を口で愛撫したときの感覚だった。
(――俺は、シキに狂わされてる)
 快楽の極みに上り詰める直前、ふとそんなことを考える。理性の消えかかった頭は、その考えに狂喜した――シキに狂わされ支配されるならそれはどんなに気持ちいいだろうか、と。もっとも、そんな思考も上り詰めた瞬間に弾け、一瞬頭が真っ白になった。
 やがて、快楽の絶頂から我に返ったアキラは、のろのろと後始末を始めた。冷静になると、欲望に負けて自慰をしてしまったことにひどい自己嫌悪を感じた。しかし、一方で達したはずの身体はまだ物足りなさを訴えていることも、はっきり自覚していた。

 こんなものでは足りない。
 欲しいのはこんなものではない。
 じくじくと疼く身体の奥は――シキの熱を欲している。

 アキラはベッドの足下にずるずると座り込んだ。怒りだか悲しみだかに歪む顔を両手で覆って呻く。
「――シキ、あんたは俺をどう変えようとしているんだ……?」


***


 翌日。アキラが勤務を終えて寮に戻ろうかと思っていると、ちょうど廊下である人物に声を掛けられた。シキの上司にあたるシマダ少将だった。
 シマダ少将は少尉のアキラにとっては雲の上の人だ。また、年齢もシマダ少将は五十代でかなり年上とあって、これまでほとんど会話をしたことがなかった。そのあまり馴染みのない上官が、今日はいやに上機嫌で声を掛けてきたので、アキラは戸惑ってしまった。
「やぁ、少尉。職場はどうだ? 軍に入ってもう一年ほどになるが、慣れてきたかね?」
「はい、おかげさまで」
「それはよかった。君のところの中佐から、君はなかなか優秀だと聞いているよ」
 中佐――シキが、そんな風に褒めてくれているだなんて、アキラは信じられなかった。
「そんな……まだまだ未熟者で、中佐にもご迷惑を掛けております」
「そう謙遜することはないよ。――そうだ、ここで会ったのはいい機会だ。今日は飲みに行かないか? 少し君と話したいこともあってね」
「はい。私でよろしければお供いたします」
 気が進まないながらも、アキラは頷いた。シマダ少将に取り入ろうという気は毛頭ないが、軍は非常に上下関係の厳しいところであり、プライベートの時間とはいえ上官の誘いを無碍に断ることはしにくかったのだ。しかも『話がある』などと言えば尚更に。
 誘われるままに基地を出て、アキラはシマダ少将のために用意された車に同乗した。車は郊外へと走り、たどり着いた先は落ち着いた雰囲気の料亭だった。シマダ少将が車を降りると、馴れた様子で料亭の女将が出迎えて個室へと案内をした。
 和室としてあつらえられた個室に入ると、先客が一人座っていた。着物姿の女だ。女はシマダ少将とアキラを見ると深く頭を下げ、再び顔を上げる。アキラはその女に見覚えがあった。
 先日、ホテルでアキラが抱いた女だった。
「っ……!」
 アキラは驚いて声を上げかけたが、女が目配せしてそれを制する。アキラもまた、一度抱いた女に再会したからといって動揺するのは恥ずかしいことだという気がして、声を上げるのを踏みとどまった。
「ん? 少尉、どうかしたかね?」シマダ少将が振り返った。
「いえ……こんな立派な料亭は初めてで、少し気後れしてしまいまして」
「中佐には、連れて来てもらったことはないのかね? それはいけないな。君ならいずれ昇進して幹部になるだろう。そのときには、こうした料亭で会談することもあるのだから馴れておかないといけない。中佐も分かっているはずなんだがねぇ」
 シマダ少将の言葉は表面上はアキラにものを教える調子だったが、その陰に中佐――シキを見下すような響きがある。アキラはその響きを感じ取ったが、気づかないふりをした。下手にシキを庇って、自分のせいでシキの評判を悪くさせることがあってはならない。
 二人が用意されていた席に着くと、女はシマダ少将に寄り添うようにして座った。彼女が酌をする酒を受けながらシマダ少将が上機嫌で語りだしたのは、シキに対する批判ともとれる内容だった。
 アキラは内心眉をひそめた。女――外部の人間の前で幹部であるシキの陰口を利くというのは、あまり体裁のいいことではない。それでもシマダ少将はしゃべり続け、やがて話は単なる陰口では済まない域にまで達した。
「少尉、提案があるのだが、私につかないかね?」
「シマダ少将に『つく』とは、いったいどういうことでしょうか……」
「CFCとの内戦の戦局が膠着状態にあることは、君もよく分かっているだろう。上層部では組織内の刷新を行って、膠着状態の戦局を打破しようと考えている。そこで、だ――」
「お待ちください、少将。そのようなお話は……」
 組織の刷新など軍の機密情報に等しい。さすがに部外者である女の存在が気になって、アキラはシマダ少将を止めた。
 すると、少将は笑って「構わんよ」と言った。
「彼女は私の愛人だ。また、高級娼婦という職業を利用して、私のために軍内の各幹部の動向を知らせてくれている。……そうそう、先日君も彼女と寝ただろう?」
「っ……!」
「驚くことはない。こんな風に私は軍の内部の情報を把握しているんだ。内部にCFCと密通する者がいないかなど、知っておく必要があるからね。――詳しいことはいえないが、君のところの中佐はじき失脚する。私につけば、君の昇進は約束される。どうだね、悪くないだろう?」
 腐っている――アキラは少将の顔を見ながら、吐き気を覚えた。シキに従って軍に入って、内部を見るにつれて少しは軍というのもを見直したところだっただけに、シマダ少将の腐敗ぶりを見ると余計怒りがこみ上げる。
 アキラはかろうじてシマダ少将を殴りたいのを堪え、少し考えさせてくれと頼んで宴席を辞した。


***


 一人先に料亭を出たアキラは、女将にタクシーを呼んでもらい、タクシーに乗って寮まで帰った。そのまま寮の自室へ戻ろうとしがた、寮の門前でふと足を止める。

 ――中佐は、じき失脚する。
 ――組織の刷新を行う。

 シマダ少将の言葉が脳裏に蘇る。少将の言葉が事実だとは、アキラには俄かに信じられなかった。
 シキを失脚させると言っても、そう簡単にできるはずがない。シキは、そんな愚かしい足の引っ張り合いを避けるほどの才覚は、十分に持ち合わせているはずだ。
 しかし、シマダ少将は人事に口を出す権限を持っている――。
 いても立ってもおれず、アキラは駆けだしていた。目指すのは、シキの官舎だ。アキラは尾行されていないかと気を使いながら、十数分ほどの距離にあるシキの官舎へたどり着いた。
 シキはまだ帰宅していないらしく、窓には灯りが見えない。仕方なくアキラは玄関で待つことにした。せっかく尾行はないか注意を払ってきたのが元も子もないが、どうせ自分のような下っ端がそう重視されているとも思えない。
 何より、アキラはどうしてもシキの顔が見たいと思った。シマダ少将の毒気に当てられてしまって、シキに会わなければこのまま自分は軍の腐敗の泥沼に呑まれていきそうだった。
 身を切るような一月の夜の冷え込みの中、アキラは祈る思いでシキを待ち続ける。
 そうして、どれ程の時が経っただろうか。
「……何をしている?」
 不意に降ってきた、低く響きのいい声音。もう耳に馴染んだその声に、うずくまっていたアキラは顔を上げる。アキラの前には、シキが立っていた。今日は基地からの車での送迎は断って、公共の交通機関と徒歩で帰ってきたらしい。
「中佐……あなたの顔が見たくて……」
「――ここは寒い。話は中でだ」
 シキは家の鍵を出して扉のロックを外した。アキラは立ち上がってシキについて中へ入ろうとしたが、思ったよりも酔っているのか足下がふらつく。居間に向かう途中、廊下の半ばでぐらりと身体が傾いだが、シキの腕が伸びてきて支えてくれた。
「酔っているのか」
「……酒を、飲みました……シマダ少将に、飲みに行こうと言われて……」
「シマダ少将?」
「俺に、自分の側につけと……あなたはもうじき失脚する、と……」
 一度話し出すともう止めることはできず、アキラはその場で堰を切ったようにシマダ少将から聞かされたことを話した。軍内部の腐敗の話、近々組織の刷新があるということ――そして、シキの馴染みの高級娼婦がシマダ少将のスパイだということ。彼女をベッドへ招くのは危険ではないか、とアキラは訴えた。
 話しているうちに、アキラは再び自分の前にある軍の腐敗の泥沼を思い出す。そして、吐き気を覚えた。最初は軍の腐敗に対する怒りの余りの吐き気だったのが、すぐに本物の吐き気になって腹の底からこみ上げてくる。
「っ……すみま、せん……」
 アキラはとっさにシキの手を振り払い、近くに見えたトイレへ駆け込んだ。洋式トイレの便座に取り付くようにして、アキラはそこに胃の内容物を吐き出す。
 そうしていると、シキがやってきて傍に屈み、アキラの背をさすってくれた。
「こうしていると、お前に酒の飲み方を教えてやったときのことを思い出すな」
 背をさすりながら言うシキの声は、いつになく和やかだ。シキの手が撫でるのを背中に感じながら、アキラは不思議な安らぎを覚えた。
 先日のホテルの一件以来シキが遠く離れているように思えたのが、今は近くにいるように感じられた。たとえセックスを通してでなくとも、自分たちには何らかの絆があるのだと信じることができた。
 やがて、アキラの吐き気が治まると、シキは「大丈夫か」と声を掛けた。
「はい……醜態をお見せしました」
「構わん。今日はもう遅い。俺のベッドを貸してやるから、泊まっていけ。俺はソファを使う」
「しかし……」
「大事な部下を、そんな危ない状態で一人帰すことはできんからな」シキは少しおどけた調子で言った。
 大事な部下――アキラはその言葉に嬉しさと同時に寂しさを感じた。が、顔には出さずに「それではお言葉に甘えて」と返事する。
「ならば決まりだな」
 シキはそう言ってアキラの手を掴み、トイレの床から助け起こした。そこで、ふと思いついたようにコートのポケットから家の鍵を取り出し、アキラに差し出した。
「あの、これは?」
「明日の晩、お前に私的に頼みたいことがある。俺の言う場所へ行き、人に会って話を聞いてこの家へ来い。俺はすぐに報告を受ける。――もし俺がまだ帰って来ていなければ、この鍵を使って入って待っていろ」
「分かりました。それで、俺が会う『人』というのは……?」
「会えば分かる」
 そう言うだけで、シキはそれ以上何も言わなかった。






(2010/02/27)

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