ジョーカー4







 翌日の晩、アキラはシキに言われるままに一人出掛けた。指定された行き先は、先日のホテルだ。ホテルであった出来事を思うと、アキラは何となくそこへ行くのを憂鬱に思った。
 しかし、ここで逃げ出したくはなかった。シキの役に立ちたかった。もっと言うなら、シキにとって価値のある『何者か』になりたかった。
 ホテルに入ると、アキラはシキに告げられた部屋へと向かった。ドアをノックすれば、中から顔を見せたのは見覚えのある女だった。シキの馴染みで、先日このホテルで自分と寝た女。シマダ少将の愛人だともいう。
 どういうことだ。なぜシキは自分にこの女と会うように言ったのか。
 自分は報告したはずだ――この女はシマダ少将の意を受けている、と。
 あるいはシキは、もう一度自分に女を抱かせようとしているだけなのか。
「っ……帰る」
 アキラは唸るように言って、踵を返そうとした。その手を女が掴んだ。
「お待ちください。ここに来たことを無駄になさるつもり?」
 その言葉で、アキラは足を止めた。シキの真意は分からないが、それでもこの女に会えと言われたのには間違いない。今ここで引き返せば、何一つシキの役に立たなかったことになる。
 それでは駄目だ。
 アキラはドアの前に引き返した。そんなアキラを見て女は薄く微笑し、優雅な仕草で室内へ導き入れた。
「先日はお世話になりましたわね、少尉」
「いや……こちらこそ」
 女が丁寧に挨拶するものだから、アキラも慌てて挨拶を返す。それへ女はまた柔らかな笑みで応じ、ベッドの上にあったハンドバッグを引き寄せた。
「どうして私がここにいるのかと、驚かれたのでしょう? 私は、中佐の意を承けて軍の幹部の動きを探る者。シマダ少将に近づいたのも、そのためです」
「本当、なのか……?」
「えぇ。中佐は定期的に私をお召しになり、私が集めた情報をお聞きになるのです。ですが、中佐は多忙なお方。いずれ、信頼できる代理人としてあなたを遣わすだろうと、おっしゃっていました。――さぁ、これを中佐に……シマダ少将と軍需企業の社員の密会の様子を納めた記録媒体です」
 ハンドバックの中から、女は記録媒体を取り出してアキラの掌に乗せた。
「あ……ありがとう、必ず渡す」
 頭がついていけないまま、アキラは上の空で礼を言う。そのまま、部屋を出ようとすると再び女に腕を掴まれて止められた。
「いけません。今、表向きあなたは私の客ということになっています。それ相応の時間……つまり、情事を行うに十分なだけの時間はこの部屋で私とお過ごし下さい」
「俺は、そんなつもりは……」
「もちろん、本当に私を抱く必要はありません。時間さえ潰せばいいのです。――何ならゲームでもいかが?」
 と、女がハンドバッグから取り出して見せたのは、ポータブルチェスセットだった。何だか場違いなおもちゃの出現に、アキラは目を丸くする。
 女の話によれば、シキもいつも彼女を抱くわけではないのだという。その気がないときにはシキは仮眠を取ったり、世間話をしながらチェスやカードゲームをするのだとか。
 気が付けば、アキラもいつの間にかベッドの上に座らされ、女と二人チェス盤を挟んで向かい合っているのだった。女はチェスを知らないアキラのために、丁寧にゲームのルールや駒について説明をした。
「……この駒はナイト(騎士)。升目を一つ跳ばしに移動できます。これがルーク(戦車)、縦横一直線に突進する駒。そしてこれは……」
「あんた、すごいな……」
 思わずアキラはそう漏らしていた。チェスといえば、いかにも上流階級という印象のあるゲームである。もしかすると、女は元は上流階級の出なのかもしれなかった。
「私はチェスはさほど上手くありません。中佐はとてもお強いですけれども」女は言った。
「そうじゃない。俺は孤児院の出で、義理の親に引き取られてからも学校もろくに行かなかった。チェスには全く縁のない環境だったんだ。……あんた、もしかして、いい家の出なんじゃないか?」
「女の過去を詮索するのは無粋ですわ。――でも、少尉がご存じになりたいのなら、昔話でもいたしましょうか。そうすれば、少しでも私のことを信用して下さりやすくなるかもしれませんもの」
 女は淡く笑って、記憶を手繰るように掌の中でクィーン(女王)の駒を弄ぶ。

「いい家……確かに私は旧軍国体制の下、軍人の家に生まれました。父は軍幹部でしたが、敗戦後の裁判で戦争犯罪者として死刑になりました。
ご存じですか? 戦犯の親類縁者は、公職を一切追放される決まりです。また、世間の目も冷たく、普通に仕事に就くことはできません。やがて、一家は離散し、私は生きるために本名を捨て、顔を変え、身を売るようになりました。
――それが、これまでの私」

 話の内容にも関わらず、女は淡々とした態度だった。しかし、アキラは冷静な彼女の態度の裏側に、冷えきった怒りが見えるような気がした。
「どうして中佐のスパイに?」アキラは尋ねた。
「シマダ少将が私にあの方のお相手をするようにとおっしゃって、あの方は初めて私のお客となりました。それから何度かお相手する機会があり、やがて私からスパイになりたいと持ちかけました。あの方の目的が分かったから、力になりたくて」
 力になりたくて。女のその言葉には、熱が込められていた。
 アキラは、鈍感を自認しているのに、このときばかりはなぜかその熱を感じ取ってしまって、胸に痛みを覚えた。この彼女ならば、シキの傍に侍るのに似合いだと思って、自分が惨めになった。
「力になりたい、か……」
「そんな顔をなさらないで、少尉。私は中佐に男女の感情を抱いてはおりません。あの方には、私では叶えられない私の望みを託しているのです」
「望みって、どういうことだ?」
「新しい未来を、私は望みます。CFCも日興連も、昔の軍事政権と何も変わらない。彼らは結局軍事政権時代の権益を引き継ぎ、私たちのような新たな被差別階級を作っただけ。――でもあの方なら、世を新しくして人々が家柄などでなく実力で評価される仕組みを作れるはず」
 女の言葉に、アキラは胸が締め付けられるような気がした。
 胸に噴き出したこの感情は、紛れもない嫉妬だ。気付いてしまったから、もう嫉妬ではないと自分を誤魔化すことは出来なかった。
 シキが野心を持っていることは、アキラも承知していた。その野心の行き着く先を、シキが何を成し遂げるのかを見届けたくてついてきたのだ。けれど、アキラはシキが具体的に何を望んでいるのか知らなかった。知ろうともせず、シキはただ軍の中で栄達を望んでいるのだと勝手に考えていた。
 なぜか。
 自分はただ、シキについて行きさえすればいいと甘えていたからだ。シキの野心はどこか他人事で、自分はただの傍観者でしかなかった。

 ――今まで誰よりもシキの傍にいたのに。

 目の前の女の過酷すぎる境遇を、哀れだと思わないわけではない。しかし、それとは別に先を越されてしまったという事実に、甘すぎる自分自身に悔しさと情けなさが込み上げる。アキラは知らず唇を噛んだ。
「俺はずっと何も知らずにいたのか……」
「少尉、自分を責めないで。恐らく中佐は、意図的にあなたには黙っていらしたのです。私の他、軍の中にも中佐を指示する者はおりますけれど、私たちはただの駒」
 そう言いながら、女はポータブルチェス盤の上を指差す。盤上では、女がアキラにルールの説明をしながら始めたゲームが展開されている。
 女はルークの駒で、アキラの側のポーン(兵士)を取った。「どうぞ」と促され、アキラは覚束ない手つきで、クィーンで女のルークを取った。
「本で読んだのですが、チェスとは犠牲のゲームなのだそうです。犠牲を払って勝利を得る――ほら、ね」女の白い指がナイトの駒を摘まむ。女のナイトは、ルークを取ったアキラのクィーンを取った。「駒は、時には犠牲になって道を開くもの。でも、あなたは違う。中佐はあなたに別の役割を望んでいるのだと思います……だから、時が来るまで、あえてあなたにご自身の目標を明かさなかったのかも」
「別の役割って何なんだ?」
「それは、あなたと中佐が答えを出されるべきこと」
 きっとそうするのが一番いいのです、と女は諭すように言った。


***


 ホテルを後にしたアキラは、少し街で時間を潰してからシキの家へ向かった。女からの情報を報告するためだ。時間を潰したのは尾行がないかと警戒したためだが、その心配はなさそうだった。
 シキの家に着くと、家の主はやはりまだ帰宅していないようだった。アキラは渡されていた合鍵でドアを開け、中へ入った。けれど、シキがいないのに上がり込む気にはなれない。玄関の三和土に腰を下ろして待つことにした。
 玄関は寒かった。けれど、屋外ほどではない。ちょうどいい寒さだとアキラは感じた。
 このところ頭の中でドロドロと渦巻いていた惑いが、この寒さで冷えて固まっていくようだ。今までよりいくらか冷静な頭で、アキラは自分の手の内にある事実を見ることができた。

 シキが、新たな世を造る。

 そんなことが、できるのだろうか。
 一度は先を越されたと女に嫉妬した癖に、ふつふつとそんな疑問が浮かぶ。
 シキの役に立ちたいとは思うが、その野心はあまりにも無謀ではないか。止めた方がいいのではないか。
『CFCも日興連も、昔の軍事政権と何も変わらない』
 女の言う世の不平等は、アキラもよく分かっていた。自分を冤罪に陥れたエマ、宴席で派閥に入れと誘ったシマダ少将――CFCも日興連も軍のある部分には確かに不正がある。シキは曲がったことを嫌う男だから、シキが世を造ればそうしたことはなくなるだろう。
 しかし、シキは為政者という柄ではない。シキは治める世は腐敗がなくなる代わりに、何も残らないのではないだろうか。アキラは自分の中に「この世から消えたい」という破滅願望が潜んでいることに気付いていた。だからこそ、シキの強さと狂気に魅せられたのだ。
 シキの行く末を見届けるなら、共に破滅してもいいとさえ思っている。
 とはいえ、それは自分とシキだけの話だ。他人を巻き込むべきではない。
 足がすくむよう気持ちで、アキラはそう思った。
 そのときだった。
 ふとドアの外で気配がする。シキが帰宅したのだ。
 はっと立ち上がったアキラの目の前でドアが開く。中に入って来たシキは、眉をひそめて渋い顔をしていた。
「お帰りなさいませ」アキラは言った。
「あぁ。さぁ、中へ入れ。報告を受ける」
 そう言うシキに従ってアキラは玄関を上がり、居間へと入った。シキは一旦着替えに行き、戻って来るとアキラから女に渡された記録媒体を受け取る。
「……俺が鍵を渡したのは、お前を玄関で待たせるためではないぞ。居間にでもいればいいものを」不意にシキが言った。
「貴方をすぐに迎えたかったのです。……それに、少し頭を冷やして考えたいことがあった」
「可愛いことを言う。――それで、お前の考え事とは何だ?」

『それは、あなたと中佐が答えを出されるべきこと』

 脳裏に女の声が蘇る。そうだ、とアキラは思った。迷うよりも、彼女に嫉妬するよりも、シキを疑うよりも、まず先にすべきことがある。これ以上一人で思い悩んでいては、目標に突き進むシキから遠く離されてしまうだろう――傍にいたいと思うのに。
 思い切ってアキラは顔を上げた。つっかえながらも懸命に、先ほど玄関で考えたことをシキに告げる。シキは為政者に向かないなどと、能力を疑うような発言に怒り出すかと思われたが、予想に反してシキは黙って話を聞いていた。
 やがて、話を聞き終えたシキは口を開いた。
「――ならば、お前はどうしたい? 俺の敵となり、俺を阻止するか?」
「いいえ、俺はそんなことは嫌だ。貴方について行きたいと思う……しかし、彼女のように貴方を信じきることができない。迷ってしまう。それでも最後まで貴方に従って行けるのだろうかと、俺は自分が不安なのです」

 ――それでいい。

 そう言って、シキは静かに笑みを浮かべた。
「え……?」
「それでいいと言った。俺は高みを目指す。その過程で、多くのものを破壊するだろう。それは、俺が高みに登るために、またこの国が強くなるために、障害となるものだからだ。だが、もし俺が力に溺れて迷走するようになったら、そのときお前は俺を止める者であれ。その権限をお前に与える。――お前だけは、俺に支配されきってはならない。常に迷い続ける者であれ」
 それは、シキの駒になる以上に過酷なことだとアキラには分かった。ここ最近、シキとのことを悩み続けているだけでもずっと苦しかったのだ。これから先、シキの行いを見据えてそれが正しいかどうか考え続けていく――完全にシキのものにはなれない、というのは並大抵のことではないはずだった。
(だけど、きっと俺はそういう形でしか、シキの傍にいられないんだ……)
 なぜならば、シキはニコル・ウィルスの保菌者としての狂気を抱いているのに対して、自分は理性を残したままなのだから。完全に同じものを見ることは、決してできない。だから。
「分かりました」
 そう言いながらアキラはごく自然に立ち上がり、ソファに座るシキの足下に跪いていた。すっと差し伸べられたシキの手を取り、紅い双眸を見上げて言葉を続ける。
「俺は貴方の傍にいて、迷い続ける者である。――ですから、どうか俺を貴方の目的のためにお役立て下さい」
「お前は傍にいるだけで十分に役立っている。改めてそう言うのは、あの女に嫉妬したからか?」
「そうです。俺は彼女のように、貴方にとって価値のある存在でありたい。どうか俺の忠誠を受け取って下さい」
「いいだろう」
 それから、シキはふと穏やかに目を細め、両手を差し伸べてアキラの頬に触れた。身を屈めるようにして顔を近づけ囁く。


「――いい表情だ、アキラ。とうとう何者かになったようだな」

 自分は、本当にシキの言う『何者か』になれたのだろうか。アキラには分からなかった。分かるのはただ自分が何か決断をし、そのためにこれまでの自分とは変わり始めているということだけだ。頭はまだ混乱だか興奮だか分からないもので一杯で、とても冷静とは言えない。酒も飲んでいないのに、その声音と眼差しにに酔ってしまいそうだ、とアキラは感じた。それでも、目の前の紅い双眸から目を離すことはできなかった。







(2010/03/13)

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