ジョーカー6






 浮かれている。アキラははっきりとそれを自覚していた。
 シキに自分の想いを正直に告げ、一年ぶりに触れられてからひと月経つ。
 このひと月の間、アキラはシキの目標とそのために準備された計画について教わってきた。軍の支配権を握り、将来的にはその軍事力を以てニホンの最高権力を手にするというシキの計画は、アキラの知らない間に既にかなり進められていた。恐らくシキは軍に入る前から自身の目標を見据えて行動していたのだろうと思える節すらある。アキラは今更ながらにシキの意思の強さに感服する思いで、早くシキの役に立てるようにと教わる情報を吸収していった。
 その一方で、プライベートでは予定の許す限りシキの家を訪れて共に過ごした。シキはこの一年分の埋め合わせをするように、頻繁にアキラを求めた。アキラもまたシキに触れたくて仕方がないので、喜んでそれを受け入れていた。
 シキの自分への執着に、愛されているのだと感じることができた。生まれて初めて、他人に愛されていると実感した。
 かつてないほどに幸せだった。
 浮き足立っている。こんなことでは、いつか足元を掬われる。理性がそう警告しているけれども、浮かれる心はどうしようもなかった。


 ある日の夕方、アキラはうきうきとした気分で資料室へ向かっていた。シキに頼まれた資料を取りに行くところだった。
 うきうきとしているのは、明日はシキと二人揃っての非番の日だからだ。仕事が終われば、シキの家を訪れる予定になっている。シキと共に過すときを思うと、幸せな気分でいられた。
 資料室は一階の西の端にある。アキラは階段を降り、途中吹き抜けになっているホール部分を通って資料室へ行こうとした。そのときだった。
「少尉」
 と、呼び止められる。振り返れば、そこにいるのは顔見知りの少佐だった。今では部署こそ違うものの、アキラが軍に入った当初細かな慣習などを教えてもらった、いわば先輩だ。
「お久しぶりです。少佐は今は前線に出ておられる、と聞いていましたが……」
「義母が危篤なんだ。だから一時的に後方へ戻ることが許された。今日ももう電話があって、病院に行かなければならないんだが……」
 少佐は急いた様子で腕時計を見、次いで廊下の先の一室へ目を向ける。
「どうかしましたか?」
「少尉、頼まれてくれないか。ワタナベ大佐に、会議の資料を準備するのを手伝ってくれと頼まれていたんだ。そのときはまだ義母が危ない状態だと連絡がなかったので引き受けてしまったんだが……悪いが、代わりに行ってもらえないか?手伝いといっても、ほんの三十分ほどだそうなんだ」
「分かりました。もう、資料室から資料を借りるだけで今日は帰るつもりでしたので……俺が代わりましょう」
 アキラは気軽に受け負った。少佐には世話になったことがある。どうせシキの家へ行ったところでシキの帰りは遅いのだから、少しくらい遅くなったところで支障もない。ならば、引き受けるべきだと思ったのだ。
「ありがとう、少尉」
 少佐はほっとした顔でアキラに礼を言い、その場を立ち去った。
 アキラはその背を見送って、ワタナベ大佐が待っているという会議室へ向かう。そうして、会議室のドアを開けたときだった。微かな臭気がアキラの嗅覚に触れた。おまけに、会議室の中を見渡しても、人の姿はなく静まり返っている。会議のために四角に並べられた長机の上には数種類の資料とホッチキスが置かれていて、それだけが誰かがここにいたことを証明していた。
 ワタナベ大佐は席を外しているのだろうか?
 不思議に思いながら、アキラは部屋の奥へ進んでいく。すると、長机の陰になって倒れている誰かの足が見えた。はっとして、アキラは相手に駆け寄る。見れば、倒れているのはワタナベ大佐だった。
 ワタナベ大佐はぐったりとして動かない。その顔を見れば死相は明らかだ。
 他人の死の現場に居合わせてしまった。そのことにアキラは動揺した。戦場での死は見慣れているが、それは人殺しが法にかなう環境でのこと。あのトシマですら、人殺しはイグラのルールを根拠に行われていた。
 しかし、今のこの殺人は違う。日常の中で行われた、法から逸れたことだ。いずれ犯人探しが始まるだろう。そこでアキラははっとした。今この場にいる自分こそ、殺人犯だと疑われるに違いない。
 以前冤罪に陥れられたときの記憶が浮かび上がってくる。白い内装の留置所――狂った受刑者――嗜逆的な警官たち。またあれを繰り返すのか。あんなことには、もう耐えられない。
 アキラは恐怖に駆られて悲鳴を上げた。意識は現実から離れて狂気に入りかけていて、自分の絶叫が他人のもののように思えた。


***


 その日、シキは用があり外出していた。出先から戻って玄関を入ったとき、偶然にも廊下の先に会議室へ入っていこうとするアキラの姿があった。しかし、シキの知る限り、今日この時間にアキラは会議に出る予定はなかったはずだ。また、会議室の方に人の気配を感じられないことからも、シキの記憶は裏付けている。シキは何となくアキラを追って、会議室の方へ歩いていった。いくら年下とはいえ、アキラも一人前の大人である。普段ならそこまで過剰な心配はしないのだが、先日女から警告を受けていたせいか、やけに気になったのだ。
 杞憂に終わればそれでよし。会議室から出てきたアキラと共に、事務所へ戻ればいいだけだ。――そう思ったのだが。
 シキが会議室の前に至ったとき、不意に叫び声が聞こえた。アキラの声だった。考えるよりも早く身体が動いて、シキは会議室のドアを開けて中へ駆け込んだ。
 中ではアキラが立ち尽くしたまま、叫び続けている。まるで心が壊れたかのような、虚ろな叫び声だ。シキは驚くと共に、胸に苦しさを覚えた。アキラがこんな風になるなど、耐えられない。
「どうした、アキラ。何があった?」
 シキはアキラに近づいた。その拍子に、アキラの足下に死体が見えた。確かあれは、ワタナベ大佐だと気づく。
「アキラ!」
「シキ、違うんだ。信じてくれ。俺は殺してない。俺じゃない……」
 名を呼ぶと、アキラは少し正気付いてやっとそれだけを繰り返した。自分は犯人ではないと繰り返すアキラの言葉から、シキはアキラが何に追い詰められているのかを悟る。そういえば、アキラは過去に殺人の冤罪を受けて終身刑にされかかったと言っていた。おそらくその過去はアキラの心に深い傷を作っていたに違いない。今、死体を発見したことで、それが表面に出てきたのだろう。
「アキラ、大丈夫だ。何があっても、俺がお前を守る」
 シキはアキラを抱きしめて宥めようと、手を伸ばしかけた。そのときだった。廊下から複数の人間の気配が近づいてくるのを感じた。この場を立ち去る間も、現場を取り繕う間もない。シキに出来たのは、アキラに伸ばしかけた腕を引っ込めることだけだった。
 間もなく、足音が会議室のにたどり着く。開いたままの戸口から顔をのぞかせたのは、二人の下士官だった。いずれもシマダ少将の息のかかった人間で、シキは自分たちが――相手の予定ではアキラだけのつもりだったのだろうが――陥れられたのだと悟る。案の定、二人の下士官はシキとアキラが死体と一緒にいるのを見て、わざとらしいくらいに騒ぎ立てた。
 シキとアキラはその場に留め置かれ、監察部門の幹部や士官たちが駆けつけた。監察部門は兵士の行動を監視して時には処分を決定する、軍内の警察のような役割を持つ。彼らのために会議室はいっそう騒がしくものものしい雰囲気になり、アキラはますます怯える。
 集まった人々は遠巻きに、しかしいかにもシキとアキラに疑惑を掛ける様子で二人を見ていた。そのうち、ついに監察部門の幹部が近づいてきて、ワタナベ大佐の死因に不審な点があるからと、アキラに同行を求める。まるで最初からアキラに疑いを掛けると決まっていたかのような態度だった。
 そこでシキはアキラを庇うように、監察部門の幹部の前に立ちはだかった。
「ワタナベ大佐を最初に発見したのは私です」シキは幹部に言った。「少尉は私の後に入ってきました。話を聞くというなら、私をお連れください」
 すると、シキの申し出に幹部は『予定と違うぞ』というような困惑した顔になった。が、すぐにその目に計算高い光が浮かぶ。アキラよりもシキを殺人犯に仕立てる方が、シキと対立するシマダ少将の歓心を買えると踏んだのだろう。
 幹部はすぐにシキを連行すると言い、皆はそのように動き出した。数名がシキをアキラから引き離し、周囲を取り囲む。
「中佐……!」
 少しショックから醒めたらしいアキラが、声を上げる。
 シキは視線だけでアキラに、『本当のことは黙っていろ』と告げた。
 己が愚かな真似をしているとは分かっている。本当なら、シキ自身が捕まるより、一旦アキラを連行させておいてシキがアキラの冤罪を晴らすよう動く方が容易い。しかし、たとえそちらが容易くとも、冤罪のトラウマを抱えるアキラを監察部門の手に渡したくはなかったのだ。
 アキラへ向けて、シキは他の者には分からないほど微かに宥めるように微笑してみせる。それから、ゆっくりと視線を外すと、監察部門の幹部に従って部屋を出ていった。


 日興連の規則により、戦時中に起こった軍部内の事件は基本的に軍部内で処理することとされている。たとえ殺人事件であってもこの規則は適用される。そのため、シキはその日から監察部門の監視下におかれ、敷地内のある建物の一室に監禁された。自宅へ帰ることは許されず、これからは連日の尋問が待っている。
 夜半、シキは自分に用意された簡素な部屋で、闇を見つめならら考えを巡らせた。
 おそらくシマダ少将は己を有罪にして失脚させ、その後は単なるニコル・ウィルスの被験体として扱うつもりだろう。そうなれば、おそらくは非ニコルとして価値を見いだされて軍に籍を置くアキラも、同じ運命を辿ることになる。まさに、冤罪を被った己は愚かだったといえる。

『――情におぼれたな』

 ふと、声が聞こえた気がしてシキは顔を上げた。すると、月明かりの差し込む窓の傍に、一つのシルエットが見えた。見覚えのあるその姿は、トシマで死んだはずのニコル・プルミエだった。プルミエ? ――いや、これは幻だ。己の心が作り出した幻、或いは、己自身の心の声が形を変えたもの。死者がこの世に蘇ることは、決してない。
 シキは冷静な気持ちでプルミエの紫の目を見返した。トシマの頃のような焦燥は、不思議と湧いて来なかった。
『己の情におぼれたな』プルミエは繰り返した。『適合者になっても、お前は何も変わらない。むしろ、情におぼれて弱くなった。感情を捨てなければ、強くはなれないというのに』
「――確かに、な」シキは自嘲の笑みを浮かべた。「だが、俺はアキラを手に入れた……貴様がついに手に入れることのできなかった、対の存在を。アキラを手に入れるためには、感情を捨ててなどいられなかった。たとえ己自身の情におぼれることになるとしても、感情の全てで以ってしなければ、アキラの心には応えられなかった」
 シキは目を閉じた。トシマを出た頃のことを思い出す。
 トシマを出て日興連軍に身を寄せた早い時期から、シキはアキラがニコル・ウィルスの虚無さえ超えて己の感情を乱す存在だと気付いていた。同時に己のアキラへの執着の激しさが、いずれアキラ自身をも壊すのではないかと怖れてもいた。それでも傍からは手離し難く、せめて抱かなければアキラへの執着は薄れるものと思ってもみた。また、アキラ自身が女に惹かれるようになり、こちらへの執着を薄めるようならばそれでもいいとも考えた。
 しかし、全ては無駄だった。結局のところ、シキはアキラへの執着は捨て切れなかった。アキラの方もやはりシキを求めた。ひと月前、アキラが自分自身で抱いて欲しいと言ったとき、シキはそれまで感情を押し止めていた堰が決壊するのを感じた。
 そしてこのひと月。情におぼれるのは、かつての己が怖れていたよりも容易く、心地よかった。
『お前は負けた』プルミエが言った。
「……そうだな」シキは静かに頷いた。
 先日の女からの警告を思い出す。おそらく彼女は、単に陰謀があるとシキに告げたのではなかったのだろう。いずれシキが情におぼれて道を踏み外すことを予感していたのに違いない。シキは彼女に申し訳なさを感じた。しかし、たとえ何度同じときを繰り返しても、己はアキラの代わりに冤罪を被るだろうと確信していた。
 理屈ではない。制御しようもない感情が――アキラへの想いがそうさせるのだ。

「後悔はしていない」

 シキはそう言って目を開けた。既に部屋の闇の中にプルミエの姿はなく、床にはただ月明かりが投げかけられている。窓のガラス越しに月を見上げながら、シキはこの先のことを思う。
 アキラはおそらく、ここから己を解放させようと動くはずだ。監査部門のどの程度までシマダ少将の権力が及んでいるのかは分からないが、アキラの力が及ばず、二人とも被検体にされる可能性もある。そのときは、この身に宿るニコルの力で破壊の限りを尽くそうと――そうして誰の手にも触れさせないように、己自身ととアキラをも破壊してしまおう、と。敗者になったときには、誇りを守る手段はそれだけだとシキは知っていた。
 






(2010/04/17)

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