ジョーカー7 いつの間にかアキラは暗い部屋の中にいた。寮の自分の部屋にいるのだと、今更ながらに気づく。カーテンも閉めていない窓の外は、すっかり日が暮れて闇に包まれている。 時計を確認すると、午前零時前だった。 アキラは頭の片隅で、もうそんな時間になるのかと微かに驚きを覚えた。シキが殺人容疑で監察部門に連行されたことへの衝撃と悲しみが大きすぎて、思考能力が麻痺してしまっている。アキラは自分がいつ、どうやって自宅までたどり着いたのか、どれくらいこうしているのか、全く思い出せなかった。 はっきりと覚えているのは、連行されていくシキの背中だけだ。シキは自分を庇って、わざと冤罪を被ってくれた。 しかし、本当なら逆であるべきだった。何があろうと、シキを拘束させてはならなかった。自分が冤罪を被っていなければならなかった。なぜなら、自分は取り替えのきく駒だが、シキは他の誰とも取り替えられない指導者だからだ。シキもそれは承知だったはず。おそらく、シキがそれを破ったのは、自分があまりにも怯えていたからだ。 (――俺のせいだ……) 絶望と悲しみが込み上げてきて、苦しくなる。アキラは両手で顔を覆った。 シキの役に立ちたいと思ったのに、これでは自分は足を引っ張っているだけではないか。何て情けないのだろう。こんな自分は、シキの傍にいたいなどと願わず、分を弁えて遠くから見ているべきだったのかもしれない……。それでも、自分は既にシキの傍にいたいと望んだ。シキもそれを受け入れてくれた。やっと心を通わせて、本当の意味でシキの隣の位置を手に入れたのだ。 そこでふと思い浮かんだのは、シキのスパイとして動いている女――アキラの背を押してくれた彼女顔だった。全て失ったという彼女の、それでも凜として気迫のこもった眼差し。女性である彼女が、あそこまで強く在ることができるのだ。男である自分が簡単に絶望して諦めてしまうなんて、不甲斐なさすぎる。 絶望し、混乱しきった頭がすっと冷静になっていく。 そうすると、目の前に道が見え始めた。シキを取り戻すための、ごくか細い道。成功するかは分からないが、このまま諦めるよりは余程いい。 「……まだだ」 まだ自分は失ったわけではない。シキは、手の届くところにいる。 アキラは顔を上げ、袖口で乱暴に顔を擦った。 時は既に真夜中だったが、アキラは早速動き出した。 この一年の間に、シキはクーデターの準備として密かに軍内部に自分の支持者を増やしていた。外側からでは分からないことだが、『彼女』が身の上話で語ったように、日興連政府は確かに腐敗している。富裕層が優遇され、実力よりも有力者のコネや賄賂が重視される。 そうした状況は軍内部でも同じだ。金もコネもない者は実力があっても一定以上の昇進は望めない。このため、兵士や下士官などには不満を持つ者が多い。シキはといえば、金もコネもないところからニコル体質と圧倒的な功績だけで昇進を勝ち取ってきた男だけに、兵士や下士官たちに人気が高い。それを利用してシキは支持者を増やし、密かに一大勢力を築いた。 アキラは以前、シキに支持者グループの中でもリーダー格のスズハラ中尉と引き合わせてもらっていた。そこで、彼と連絡を取ってシキの冤罪を晴らす方法を探すことにしたのだ。 以前教えられたスズハラ中尉の自宅に電話をすると、すぐに彼自身が電話口に出た。シキが拘束されたという事実を知り、いつでも動きが取れるように起きていたらしい。 「夜分遅くにすみません。できるだけ早く中尉に相談したいことがあったもので……」アキラは謝った。 『構わないさ。相談というのは中佐のことだろう? そういうこともあろうかと思って、電話を待っていたんだ』応じるスズハラ中尉は、アキラを慰めるように屈託のない声音で言う。 「申し訳ありません。俺が中佐のお傍にいながらこんなことになってしまって。――この電話で詳しく話してもいいですか?」 『あぁ、盗聴の心配はない』 スズハラ中尉が請け合ったので、アキラはそのままシキが拘束された状況を詳しく話した。死体の第一発見者は自分であること。シキは通りかかっただけであり、犯行の証拠は全くないということ。そして、監察部門は最初から自分かシキを断罪する素振りであったこと……。 「監察部門が中佐を拘束したのは不自然です。多分、中佐が犯人でない証拠なら、幾つか用意できると思います。そうした証拠を集めて、監察部門に提出しようと思うのですが……」 『しかし、それでも監察部門は冤罪だとは認めないかもしれない。残念ながら監察部門には、中佐の支持者はいない。シマダ少将派が数名、残りの大部分は中立派だ。おまけに、他人の粗探しはするが、自分の間違いは認めようとしない厄介な奴らだしな。……監察部門を動かすには、上からの圧力が要る』 残念なことに、我らが中佐は下には人気があるが、上からは嫌われているんだ。スズハラ中尉は心底困ったように、それでも、どこか誇らしげにぼやいた。 「確実な証拠を用意し、俺も証言をします。上の人間は、中佐の味方でなくてもいい。公正でありさえすれば、必ず冤罪だと理解するでしょう」 『公正な人間というのが、そもそも難しい条件なんだ。旧ニホン軍の組織を一部受け継ぐ形で日興連軍が始まって六年……しかし、既に腐敗は進行している。組織の中で皆それぞれの利益を追うばかりで、公正な人間なんてごく僅かだ――だが、そうだな、一人心当たりがある』 そう言ってスズハラ中尉は、監察部門の総責任者である大将の名を上げた。その大将は元は旧ニホン軍に属しており、第三次大戦後敗戦後日興連が新たに軍を作るために招いたのだという。多くの旧ニホン軍の高級軍人は失脚させられたというから、監査部門の責任者であるこの大将はごく稀な例といえるだろう。 だが、厄介なジイサンだぞ――とスズハラは何度も念を押した。 大将は非常に公正な人物であり、そのために監察部門の軍人たちへの処分は信頼されている。ただ、大将自身は上層部が扱いかねるほどの頑固な性格であり、その厳格さから部下たちから恐れられているというのだ。 『お前が異議を申し立てても、監察部門内ノシマダ少将派に握り潰される可能性がある。確実に冤罪を晴らすなら――これは通常ルートじゃないが――大将に直接訴えて、もう一度調べ直してもらうのがいいだろう。……大将を納得させるほどの証拠を、出せるか?』 「……必ず」アキラは声に力を込めた。 『分かった。俺も中佐の支持者たちに声を掛ける。お前の証拠集めを手伝う』 「ありがとうございます」 それからアキラは、スズハラ中尉ともう少し細々とした内容を話し合ってから受話器を置いた。 *** 翌日から、シキの冤罪を晴らすための証拠集めが始まった。スズハラは約束通りアキラに協力を惜しまず、結果、証拠集めはスムーズに進んでいった。 ――少佐が怪しい。 それが、アキラとスズハラの一致した意見だった。アキラが会議室に行ったのは少佐に頼まれたためであり、出会ったとき少佐は様子がおかしかったというのもその理由の一つである。少佐を調べることが解決の糸口であると判断した二人は、手伝いを申し出たシキの支持者たちを三班に分けた。 ひと班は殺人事件当日のシキの足取りを追う。もうひと班は、事件当日と現在の少佐の足取りを調べる。スズハラ中尉とアキラは、ワタナベ大佐の行動と人間関係について洗った。 調べる課程で明らかになったのは、シマダ少将がワタナベ大佐を自身の派閥に引き込みたがっていたという事実だった。もっともワタナベ大佐は公正な人物であったので、少将の誘いには応じなかったという。ワタナベ大佐には、他に人間関係でトラブルらしいトラブルは見つからなかった。 ――ワタナベ大佐はシマダ少将の誘いを断ったが、他の派閥についたわけでもない。中立派のままだった。 ――しかし、ここでシキと対立しているシマダ少将の名前が出てくるのは、妙に気になる。 アキラは妙な引っかかりを覚えて、少しシマダ少将を探ってみるべきだと考えた。スズハラ中尉もそれに同意してくれたため、アキラはシマダ少将側の情報を探ることのできる存在――シキのスパイである彼女に連絡を取った。 『彼女』について、スズハラは存在は知っていたものの、その詳細は全く教えられていなかった。そこで、アキラが彼女と連絡を取って会い、シキの状況を打ち明けてシマダ少将を探ってもらいたいと頼んだ。 シキの現状を知った彼女は僅かに顔を強ばらせたが、冷静にアキラの話を聞いてシマダ少将の周辺の動きを探ると約束してくれた。そして、アキラが驚くほど早く、シマダ少将と少佐の繋がりを発見してアキラに報せてきた。情報は詳細で、しかも依頼してからの時間はあまりに短かい。アキラは彼女が相当な無理をしたのではないかと心配したほどだった。 けれども、そう言って気遣ってみても、彼女は穏やかに微笑するだけだった。 「情報を流すのが私の仕事ですわ。どうかご心配なさらぬよう」 *** 数日後。異議申し立てに必要な下調べが大方終わり、あとは書類を提出するばかりというときなって、アキラは呼び出しを受けた。呼び出したのは監察部門の総責任者たる大将だ。アキラとスズハラの計画では、もともと監察部門への異議申し立ての前に、内部で書類を握り潰されないよう、この大将に根回しをする予定だった。どう理由を付けて多忙な大将に会ってもらうかも問題だっただけに、呼び出しはまさに好機。しかし、あまりにタイミングがよすぎて、逆にアキラは警戒する思いだった。 何の用件での呼び出しか、とアキラは身構えながら大将の執務室へ向かった。 大将は七十代くらいの厳格そうな老人だった。以前聞いた話によると、旧ニホン軍の前身で『自衛隊』と呼ばれた組織の頃から軍にいたのだそうだ。 軍に入ってまだ一年のアキラにとっては、雲の上の存在だ。 しかし、実際に執務室で対面したとき、アキラは素直に畏怖の感情を抱くことができなかった。情報提供に協力してくれた『彼女』が、大将とは逆に失脚させられて没落した軍人の家の出で、大変な苦労をしたと聞いていたからだ。失脚を免れるほどの大将の功績は素晴らしいが、軍人優遇で不平等だと言われた旧い軍国体制が解体されて平等という建前の新しい体制も、犠牲にされている人々があるのだと思った。 大将は部屋に入ってきたアキラを、不躾なほどじろじろと検分した。 「貴様、あの中佐の事件について、監察部門の調べに異議申し立ての準備をしているそうだな」 「はい」 「――貴様、あの中佐の『女』か。自分の男を取り返したくて、異議申し立てをするか」 中佐の『女』というのが、どういう意味なのかアキラは理解した。『女』というのは、肉体的な性別のことではない。この大将は、自分にシキと性的関係があって、その私的感情から異議申し立てをするのかと尋ねているのだ。 あまりに露骨な挑発に、アキラは一瞬怒りで息が詰まりそうになる。が、それと同時に理解した。この老人は、自分を試すためにここへ呼びつけたのだろう。アキラは静かに息を吐き、大将の視線を真っ向から見返した。 「異議申し立ては、私の私的感情で行うことではありません。中佐の件に関しては、私は事件現場に居合わせた者として監察部門の調べが不適切だと感じたから、異議申し立てをするのです。――大将も、不自然な事件だとは思われませんか? 監察部門の処分は、世間で言えば裁判所の判断のようなもの。正義から外れた処分が行われれば、軍の規律は狂いかねません」 「なるほど。見かけによらず、なかなか肝の据わった小僧だな。……確かに、今回の中佐の事件は不自然な点がある。しかし、それは問題ではないとしたら?」 「どういう意味です?」 「中佐はこのところ下士官たちの支持を集めつつある。軍の中に一大勢力が作られるのは、危険なことだ。いずれ暴走しかねない」 「派閥ならば、中佐以外にもいくらでも派閥を作っている幹部はいる。中佐がなぜ支持されるのかといえば、そうした幹部たちが自らの派閥の人間ばかりを優遇して、下士官たちの功績を十分に認めないからではありませんか。危険というならば、正義に反する裁きが行われることが一番危険だと私は思います」 大将はじっとアキラの話を聞いていたが、聞き終えると退がっていいとばかりに手を振る。アキラは敬礼して踵を返そうとした。そのときだった。 「――中尉」と大将の声が追ってきた。「異議申し立ての書類を、早急に儂に渡すように。儂自身が検討したいのでな」 それは、大将自身が異議申し立てを審議するために動くという約束の言葉だった。 (2010/05/02) 目次 |