Party5 side アキラ 宴会は、やがてお開きになった。招かれた“客”たちは、一人また一人とあてがわれた客室へ引き上げていく。 アキラはといえば、手伝いを申し出て、シキやリンと共に遅くまで片付けをした。が、そのうちに「アキラは客なのだから」と説得されて、片付けを途中で切り上げることになった。その気遣いを断るのも申し訳なくて、アキラは勧めに従って宴会の会場となった居間を出た。風呂をもらおうかと浴室に行ってみたが、誰かが入っているようだったので、一旦、客室に戻ろうとする。 が、そこでふと、風呂を待つ間、もう少し片付けを手伝おうかと思い立った。もっとも、手伝いというのが建前だとは、自分でもよく分かっている。本当は、シキと少しでも多く言葉を交わしたいだけ。ただ、それだけだった。 (我ながら、女々しいよな……。三年前、シキは俺の手を取らなかった――想いを受け入れてはくれなかった。なのに俺は、まだシキに選ばれることを期待してるなんて) いったい、自分はいつからこれほどまでに他人に執着するようになったのだろう。他人の心を手に入れたいと願うなんて、どこまで貪欲なのだろう。 アキラは内心で自嘲した。そのときだ。廊下の前方に居間の引き戸が見えてきた。引き戸に手を掛け、開けようとする。と、中から声が聞こえてきて、アキラははっと動きを止めた。 「――兄貴、それでさー、俺が……――そしたら、もう大変なことになっちゃって……」 「そうか。お前らしいな、リン……」 片付けは終わったのか、居間ではシキとリンが楽しげに話をしていた。トシマでは決して見ることのできなかった、兄弟の仲睦まじい様子。二人が家族なのだとは分かっていても、アキラは彼らの親密さに胸の痛みを覚えずにはいられなかった。シキとリンのごく自然な仲の良さに比べて、自分がシキに近づきたいと願う欲求の、何と不自然で歪なことだろう。 (痛み……。いや、そんな生易しいもんじゃない。俺のこの感情は――嫉妬だ) 傷口に指を突っ込んで、拡げてみせるような自虐的な気分になりながら、心のなかで呟く。 三年前、シキに想いを拒まれても、アキラは彼への想いを捨てられなかった。それもそうだろう。アキラにとって、彼はどうしても特別な人間なのだから。 もしもトシマでシキと出会わなければ、自分は“目覚める”ことができなかっただろう。生きているのも死んでいるのも、たいした違いはないと思い込ん生き続けることになったはずだ。誰も愛さず、何が自分にとって価値あるものなのかも気付かず、無味乾燥な生を。 シキと出会ったこと。彼に惹かれたこと。想いを告げたが拒まれたこと。――シキにまつわるすべてのことを、アキラは後悔していなかった。彼に対する恋情も想いを拒まれた苦しみも、何もかも自分に必要な感情だったと信じている。 三年前の“失恋”を経て、アキラのシキに対する想いは捨てられないまでも、ある程度の安定をみたはずだった。彼に想いを受け入れてもらえる見込みはないが、それでも想い続けようと決めていた。 それなのに。いざシキと顔を合わせてしまうと、もう、駄目だった。抑えようとしても、心は彼を求めて動揺する。nとシキが再会の抱擁を交わしたのにも気持ちが波立ち、シキが実弟と楽しげに話しているだけで嫉妬する。自分はなんと女々しく、醜いのだろうと自己嫌悪に陥ってしまう。 アキラは踵を返した。とにかくその場から去りたくて、足早に歩きだす。しかし、ずんずん廊下を進んで何度か曲がると、いったい自分がどこにいるのか分からなくなってしまった。ふと気づけば、アキラは庭に面した廊下に差し掛かっていた。廊下の右側は壁だが、庭に面した左側には大きなガラス窓がはめ込まれ、純和風の庭園を眺められるようになっている。 何気なくそちらに目をやったアキラは、次の瞬間、ぎくりとして動きを止めた。石灯籠を模した形の照明の光を受けて、庭の中央に佇んでいる者があったのだ。寒さをものともせず、ひらひらと舞い始めた雪を手に受けている。nだ。 「なっ……!」 アキラは慌てた。 旧祖を出た直後、nはまるで幼子のような男だった。戦いばかりを教え込まれて生きてきた彼は、他のことは何も知らなかった。ソリドの封を開けることも、どこでどうやって食料を手に入れるのかも、何もかも。そんな状態を見かねて、アキラはシキに想いを拒まれた後の半年間、nと共に過ごした。そうして、生きていく術を一つ一つ教えていったのだ。 半年の後、nはすっかり一人で生活できるほどの技術を身に着けた。だからこそ、アキラは彼のもとから去った。しかし、このとき、アキラは驚きのあまり、かつての子どものようなnに接したときのような反応をしてしまった。 あんな風に外に突っ立っていたのでは、風邪を引いてしまうだろう。 アキラは慌てて窓へ歩み寄り、鍵を開けた。ガラス戸を引けば、開いた隙間から身を切るような寒さが忍び込んでくる。思わず身震いしながら、アキラは外へ身を乗り出した。 「おい……! n、そんなところにいないで、中へ入って来いよ!」 その声に振り返ったnは、「早く」と急かすアキラも意に介さず、ふわりと微笑してみせた。まるで寒さを感じていないかのようだ。 「アキラ、雪だ」nは真っ直ぐに天を指差した。 「あぁ、そうだな。だけど、早く入って来いよ。あんた、風邪を引くぞ」 「平気だ。ホッカイドウで暮らして、寒さには馴れた。それに、ほら、ちゃんとコートも着ている」 nはアキラに示すように、コートの袖をちょっと引っ張ってみせた。 「コートを着てても、身体を冷やすのはよくないと思うけど……」 昔と違って、もはや人として一人前のnに、そこまで口うるさくしてもいいものか。アキラは迷いながら、口の中でもごもごと呟いた。 そんなアキラを眺めていたnは、からからと履物を鳴らして近づいてきた。そうかと思うと、おもむろにコートを脱ぎ、アキラへと差し出す。訳が分からないまま、コートを受け取った。 「え? このコートを、どうするんだ?」 「それを羽織れ。それから、一緒に雪を見よう。……以前、ホッカイドウでも見ただろう?」 アキラは目を丸くした。が、おずおずと頷き、nのコートを羽織る。コートはnの体温で暖かかった。庭へ降りる履物を探そうとすると、nがそれを制して手を伸ばしてくる。あっと言う間に抱き上げられて、アキラはぎくりとした。思わずもがきそうになるが、nの手がそれを宥めるように僅かに力を込めてきて、はっとして動きを止める。 nは硬直しているアキラを抱いたまま、危なげもなく歩いて庭の中央へ戻った。 「あんた……寒くないのか?」アキラは尋ねた。 「そうか? 俺はお前がいるから、暖かい」nが答える。 それならば、せめて自分にコートを貸して薄着になったnをもっと暖めようと、アキラは彼に身を寄せた。彼の首に腕を回し、身体を密着させる。そうしてnの体温を感じていると、シキとの距離に寂しさを覚える心がゆっくりと静まっていくかのようだった。 アキラはほうっと息を吐いた。その途端、吐息が白く濁る。 「アキラ。ほら、雪だ」 nに促されて、アキラ空を見上げた。まばらな星のままたく夜空を、薄い雪雲が千切れながら流れている。真っ白な雪が、空を仰ぐアキラに向かってはらはらと舞い落ちてきた。見上げる限りに夜空は続いており、まるでその深淵に吸い込まれてしまいそうだとさえ感じる。 「……雪、綺麗だな」 夜空の深みに畏敬にも似た気分になりながら、アキラは呟いた。次いで、今にも引きずり込まれそうな夜空から目を逸らし、自分を抱くnへ視線を向けた。見つめ返す彼の紫の目は深く、冬の夜空のように奥深く、底が見えない。おそらく、普通の人間ならばnの目にこそ『深淵に引き込まれそう』という印象を受けることだろう。しかし、アキラは彼と対になる非ニコルだった。彼が無意識に発する磁力にも、囚われることはない――そういう風にできている。どこまでも対等の位置にいられる相手。理屈を超えた理解と許しが、互いの間には確かに存在していた。 きっと、nに恋愛感情を抱くことがあれば、幸せなのだろうとアキラは思った。お互いだけを理解し合い、必要とし合っていきていくことができるだろう。ニコルと非ニコルによって保障されたその関係に、他者が入る余地はない。二人だけの閉じた世界だ。 今のアキラとnの間にあるのは、恋愛感情では決してなかった。どちらかといえば家族の絆にも似たものだった。許され、受け入れられているという安らかな感覚。しかし、シキに出会う以前ならともかく、今のアキラは安らぎだけを目的として、nを選ぶことはできなかった。彼に対しても自分に対しても、卑怯だからだ。 アキラはそっと身を起こした。 「――ごめん、n。あんたに甘えてしまったな。以前、ホッカイドウで、あんたの気持ちを受け入れなかったくせに、俺は……寂しいからって、こうしてすり寄って」 「いいんだ。そうするように、俺がお前を促した。辛そうに見えたから」 「ごめん」 「謝るな。あのとき、お前に想いを拒絶されて、それでよかったのだと今の俺は思っている。――今でも、お前のことは特別だ。だが、以前はともかく、今の俺はお前を独占したいわけではない。互いの過去を知り、理解しあえる相手……共にトシマという困難を経験した身内だから、大切にしたい。それが、お前に対する俺の感情の根本なのだと、気が付いたんだ」 「……俺も、あんたみたいに思えたらよかったんだ。でも、できなかった」 「アキラ……」 アキラは気遣うようなnの視線を避けて、目を伏せた。胸の奥で、行き場のないシキへの想いが叫んでいるのが分かる。いっそ子どものように泣き出したい気分だったが、アキラはその衝動を押さえ込んだ。 「三年前、シキは俺を拒んだ。それでも、俺はシキを想っていたかった。俺に生きることを教えてくれたシキを、諦めることはできなかった。俺がシキを諦めて、そうすることで俺の中でシキの重要度が下がって、どうでもいい人間になってしまったらと思うと、怖かった。絶対に、嫌だった」 nは何も言わなかった。その沈黙が、言葉の先を促しているかのようだった。アキラは嗚咽のように、咽喉の奥から声を絞り出した。 「最初は、一方的に、想い続けるだけいいと思った。だけど、想い続けて分かったんだ。恋愛感情っていうのは、どうしても、想い続けるだけでは満足しない。俺はシキのことを好きでいたいだけなのに、それだけで十分だと思いたいのに……どうしても、願ってしまうんだ。シキに俺を見てほしい。言葉を交わしたい。同じだけの想いを返してほしい。……想う見返りを求めたくなんか、ないのに。――n、俺はどうしようもなく、浅ましいんだ……!」 アキラが叫ぶように言ったときだった。がらりとガラス戸を開く音が庭に響く。アキラはぎくりと身を強張らせた。 「……やっと動く気になったか。いつまで立ち聞きをする気かと思ったぞ」 nは平然としてそう言い放ち、母屋の方へ身体を向けた。そこから慌てて庭に降りて来たのは――シキだった。nはアキラを抱いたまま、彼の方へ歩いて行った。アキラは呆然としたまま、近づいてくるシキの、驚きに魂が抜けたかのような顔を見つめる。 シキが聞いていた? いつから? 何を? 聞かれた? ――自分がずっと隠し続けていた醜い感情を? 「っ……嫌だ……」 嫌だ。顔を合わせたくない。シキに合せる顔がない! アキラは大きく身じろぎし、nの腕の中から地面に飛び降りた。ありがとう、と礼の言葉を言う余裕もなく、コートを彼に投げ返して、裸足のままその場から逃げ出す。とにかく、シキの前から消えてしまいたかった。 *** 「アキラ……」 逃げ出すアキラの背に向けて、シキは掠れた声で呟いた。もちろん、その言葉は届かない。 「シキ、何をしている?」nの声に振り返れば、彼は目で小さくなるアキラの背を示す動作をした。「追っていけ。……それとも、お前はここで逃げ出すほどの意気地なしなのか?」 「……――礼を、言う」 シキは小さく呟き、走り出した。その足が裸足なのを見て、nは微笑した。 「……いい大人が、世話の焼けることだ」 *** 走るうちに庭木に足を引っかけて、アキラはみっともなく転んだ。呻きながら起き上がろうとしていると、ひたひたと近づく足音が聞こえてくる。背後にあるのは、nの気配ではなかった。数メートルの間近までくれば、さすがにアキラでも分かる。忘れもしない――トシマでの短期間、朝な夕なに抱かれるうちに覚えてしまったシキの気配だ。 「――来るなっ……!」 招待主への礼儀も忘れて、アキラは切りつけるように叫んだ。「来るな! 来るな! 来るな! ……俺を、見るな。どうか、放っておいてくれ。――……あんただって、俺みたいに浅ましい奴と接するのは、嫌だろ……」 「アキラ……」 「nと俺の話を聞いてただろ? 俺は拒まれたのに、まだ、あんたが好きなんだ。何も期待したくないのに、あんたに同じ想いを返して欲しいと願ってしまうんだ。追って来られたら、余計に期待してしまう。そういう奴なんだ……。だから、放っておいてくれよ……。余計な期待をさせないでくれ」 ひたひたひた。シキの足音は、なおも近づいてくる。アキラは振り返りたい欲求を抑えて、地面に屈んだまま彼に背中を向け続けた。そのうち、さわさわと衣擦れの音がして、背中に温もりを感じた。シキが背後から抱きしめてきたのだ。 アキラは身じろぎして、その腕から抜け出そうとした。が、そうはさせまいと彼の腕は更に強くアキラを抱き込んでくる。無益な争いに徒労感を覚えたアキラは、ため息を吐いて動きを止めた。 「……あんた、何がしたいんだよ」振り返らないまま、固い声で尋ねる。 「――俺は……三年前、お前の手を取りたかった。だが、できなかった。闘いを捨てた俺には、もはや生きて目指す目標がない。今の俺の生は所詮は『余生』だ。あるいは、おそろしく時間の掛かる緩慢な自殺というべきか。……そんな生に、お前を巻き込みたくはなかった。俺などに囚われず、幸せに生きてほしかった」 「幸せに? ……俺の幸せを、何であんたが決めつけるんだよ。俺はあんたのことを想っていれば、幸せなんだ。……この三年間も、あんたのことを好きでい続けて、苦しかったけど、幸せだった。トシマに行く前みたいに、何も愛さず死んだように生きているより、ずっとずっと、俺は幸せだったんだ」アキラは低く唸るように告げた。 それを聞いたシキは一瞬、押し黙ったが、やがてしずかに息を吐いた。首筋に感じた彼の吐息は震えており、アキラは彼が泣いているのではないかと、一瞬、疑いを抱いた。が、それでも振り向かない。 「……俺は、怖かった」シキはぽつりと呟いた。「生きる目的を失って、それでも自ら死を選ぶわけでもなく、漫然と余生に甘んじている様をお前に見られるのが、怖かった。お前が闘いを捨てた俺の姿に失望し、離れていくのには、耐えられないだろうと思った。いつか、お前が去っていく姿を見ることになるくらいなら、最初から手に入れない方がいいのだと、そう考えたんだ。――……今も、お前はこんな卑屈な考え方をする俺に、幻滅しているだろう。だから、俺は……」 シキの言葉に、アキラは腹の底から熱がこみ上げてくるのを感じた。怒り。悔しさ。反発心。いずれとも判然としないその熱に突き動かされて、アキラはシキの腕を振り払った。一瞬、彼が驚いた隙を突いて、体当たりする。その衝撃で地面に倒れた彼の上に馬乗りになり、アキラは左手を振り上げた。 そんなアキラを、シキは静かな表情で見ている。 アキラは拳を振りおろし――シキの顔のすぐ傍の地面に打ち付けた。冷えた地面の固さに、拳が痺れと痛みを訴える。「っ……」アキラは顔をしかめた。 「アキラ! 何をしている!」 シキは血相を変えて、地面に打ち付けたアキラの拳に触れようとした。その手を避けて、アキラは左手を彼の頬にあてがう。 「確かに、俺はトシマにいた頃から、あんたを崇拝していた。もしかしたら、三年前の俺なら弱さを見せたあんたを受け入れられなかったかもしれない。――でも、今は違う。分かってるから。そういうところは、俺にも、あんたにも、誰にでもあるんだって、分かってるから。……弱いところくらいで幻滅できるのなら、俺はとっくにあんたを諦められてるよ。それができないから、苦しいんだ」 アキラの表情を見ていたシキは、やがて頬に触れていたアキラの手を取り、口元へ持って行った。地面を殴った指を癒すように、唇を触れさせる。やがて、唇を離したシキは迷いのない目でアキラを見上げた。 「――辛い思いをさせて、悪かった。お前が許してくれるなら……俺は、お前を手に入れたいと思う」 静かな声で、はっきりとそう言った。 (2012/04/28) 目次 |