パンドラの箱1−2 トシマを出て三ヶ月後。幾度かの移動を重ねた末に、アキラはシキと共にあるマンションの一室に身を落ち着けていた。そのマンションの部屋は広々として、予め用意されていた調度品も見るからに値の張りそうなものだった。二十年近く生きてきて、アキラはこれほどに豪奢な場所で暮らすのが初めてだった。 なぜ、そのような高級マンションに住むことになったのか、アキラは知らない。シキはあるとき、何の説明もなしにアキラを連れてこのマンションに入ったのだ。もちろん、後で尋ねても答えはくれなかった。そのため、自分に不釣り合いな新たな住居について、勝手に想像を巡らせるしかなかった。 トシマをでてから何度か、シキはアキラを安宿に置いて出掛けることがあった。戻ってくると、濃い血の臭いをまとっていることが多い。おそらく、誰かに依頼されて人殺しをしていたのだろう。そうやって、他人の生命と引き換えに得た報酬で、マンションを手に入れたのではないか。 落ち着いたマンションでの生活は、安定していたが、アキラには退屈だった。シキはアキラに何もさせず、料理などは彼自身が行った。洗濯物は運び出され、いつの間にか洗われて戻ってくる。また、たまの掃除やシキが出掛けたときの食事は、見知らぬ男たちが来て用意して行った。 男たちが誰なのかは分からない。彼らは皆、無表情で、アキラが声を掛けてもろくに返事もしなかった。まるで、アキラの存在に気づいていないかのように。次第にアキラも無反応な男たちを薄気味悪く思って、話しかけることもなくなっていった。 マンションで暮らし始めてから、シキは少しだけアキラに対して“優しく”なったかのようだった。強引なのは相変わらずだ。だが、少なくとも、暴力で捻じ伏せるかのようなセックスはしようとしない。アキラにとっては、その方が有り難いといえる。けれども、彼の変化の理由が分からないため、気を緩めることもできなかった。 そんなある日のこと。 いつものように唐突に始まった行為の後。シキはアキラから身を離し、ふと考えるような仕草をした。薄目を開けてその様子を見ていたアキラは、行為の余韻にぼんやりとした頭で不思議に思う。 ――いったい、シキはどうしたんだ? と、そのときだった。シキがそっと顔を寄せてきた。あ、と思ったアキラだが、行為の中で何度も達して疲れているせいで、動く気力も湧いてこない。ぼぅっと見守っているうちにも、シキの顔はどんどん近づいてきて、やがて唇が触れ合った。 「んっ……」 接触の思いがけない優しい感触に、勝手に吐息が零れ落ちる。 シキは唇の表面を軽く擦り合わせてから、半開きのアキラの唇の隙間に舌を挿し入れてきた。ゆるゆると濡れた舌で歯列や上顎を辿られて、アキラはようやく自分の身に起こっていることを理解した。 キスをしている。それも、トシマでしたよりも深い――まるで恋人同士のようなキスを。 シキとのキスは、理屈抜きに心地よかった。といっても、セックスの快感とは少し違う。身体中の細胞が一気に目覚め、シキと一つに溶けたいと騒ぎだすかのような、強烈な引力を感じた。 この引力は、シキがアキラの対となるニコルウィルスの保菌者となったせいだろうか? アキラとしては、ウィルスのせいだと思いたかった。もしそうでなく、自分の心がシキに惹かれているとしたら? シキを受け入れたことになってしまう。それは、即ち、人格を無視するかのようなシキによる扱いを、アキラが受け入れたことを意味する。 シキに“女”のように抱かれたとはいえ、人格を無視されることは許せない。そうした線引きこそが、アキラの最後のプライドを保つ砦だった。 しかし。 「ん……う……っふ……」 キスの合間に漏れる声が、自分の耳にも甘く聞こえる。その甘えるような響きに、アキラはぞっとした。自分はこのままシキに馴らされ、自分から望んで飼い殺されるようになるのではないだろうか? その想像にアキラはぞっとした。 最早、シキといるべきではない。このままでは、自分が今の自分と似ても似つかない『何か』に変わってしまう。――そんな予感が恐ろしかった。不安に駆り立てられて、アキラはシキが不在の夜を見計らって、マンションを抜け出した。 これまでアキラは、何度となくシキから逃れることを夢見ながらも、断念してきた。逃亡したとしても、簡単にシキに追いつかれてしまうだろうと分かっていたからだ。それに、幼なじみのケイスケがトシマで死んだ今となっては、逃げたとしても頼れる相手も会いたい者もいない。そうした状況が、アキラの諦観を強めていた。 だが。 いざ、脱出を試みてみると、アキラは呆気ないほどすぐに外に出ることができた。考えてみれば、マンションのセキュリティというのは、普通は外部からの侵入を防ぐためのものである。内部から出ていく妨げになるはずがない。 「――逃げなきゃいけない……。シキは必ず追ってくる。その前に、少しでも遠くへ……」 アキラは自分に言い聞かせるように呟きながら、夜の通りを一心に駆けた。マンションのある場所にはまったく土地勘がないので、どこへ向かえばいいのか分からない。行くあても見通しもないアキラを衝き動かしているのは、ただシキから離れたいという願いだけだった。 「……はっ……っ、はっ……」 マンションを出て十五分ほど走っただろうか。早くも息を切らしながら、アキラはネオンの華やかな繁華街に差し掛かった。そのときだった。道の脇にたむろしていた若者のグループが、不意にアキラの腕を掴んで呼び止めた。 「おい、あんた。そんなに急いで、ドコ行くんだよ?」 「……見ろよ! ハハッ! こいつ、なかなかの上玉じゃねぇか!」 若者たちから好奇と好色の色の入り混じった視線を向けられ、アキラは顔をしかめた。同性から性的な対象と見られることに、理屈抜きの嫌悪感を覚える。次いで、トシマでシキに拾われたときにはなかった感覚に、アキラは戸惑いを感じた。 だが、若者たちとシキとの差について、のんびりと考えている暇はなかった。身体に触れられることが不快なのに、腕を掴まれているために無視して立ち去ることもできない。 「……離せよ」 アキラは威圧の意思を込めて声を発した。が、若者たちはどこ吹く風といった様子で、堪えた様子もなかった。トシマを脱してシキに連れ回される間に、気苦労から痩せたアキラの姿が弱々しく見えるのかもしれない。若者たちは調子に乗って、アキラを細い路地へと引き込もうとした。 そのときだった。 「――待て」 低い声が投げかけられる。静かな迫力のあるその響きに、若者たちは動きを止め、振り返った。 ――シキが追って来たのか……? アキラは恐れとも、期待ともつかない奇妙な感情と共に顔を上げた。そこに立っていたのは、しかし、シキではなかった。何度かマンションに掃除に来たことのある、シキの部下のうちの一人だ。細身の体格で、アキラより少し背が高いくらいだろう。堅苦しいほどきっちりスーツを着込んで、肩まである髪を首の後ろで束ねている。アキラの記憶では、シキは彼のことを『ナガツカ』と呼んでいたはずだった。 ナガツカは、どこか機械を思わせる無表情で若者たちを眺めた。それから、懐に手を入れて、スーツの内側から銃のグリップをのぞかせる。若者たちに、いざとなれば発砲する気だと示しているのだ。 「――貴様ら、その方から手を離せ。その方には、〈所有者〉がいる。大人しく手を引かなければ、後悔することになるぞ」 若者たちは、遊び半分の気持ちだったのだろう。バックにヤクザか何か――実際にはシキなのだが――がいるとナガツカがほのめかすと、気まずげに顔を見合わせた。それから、決まりの悪そうな様子でその場から去っていく。 細い路地の入り口には、ナガツカとアキラだけが取り残された。 「……あんた、俺が抜け出してからずっと、見張ってたのか?」アキラは尋ねた。 「そうです。あなたがマンションを逃げたことは、すぐに分かりました。あの部屋の外の監視カメラは、訪問者だけでなく内部から出てくる人間をも監視しています。具体的には、あなたの身体的特徴を識別して、外へ出たらアラームが作動するようにしてある」 ナガツカは丁寧な口調で答えた。が、その態度は礼儀正しく在ろうとしているというより、ロボットが与えられたプログラム通りに動いている風に見える。 「だったら、なんで今まで放っておいたんだ?」 「シキ様の指示でした。……逃げきれると希望を持たせてから捕らえた方が、あなたの絶望感が増して、逃げようと思わなくなるだろうから、と」 「……っ」 アキラは息を呑んだ。シキは自分から完全に希望と反抗の意思を奪おうとしている。そこまでして、傍に置こうとしているのだ。シキの真意は得体が知れないだけに、恐ろしかった。 絶句するアキラを、ナガツカは元のマンションへと連れて戻った。途中、逃げ出す機会はあったのかもしれない。だが、逃亡しても無駄な気がして、アキラは大人しくナガツカの後に従った。 マンションに戻ると、リビングルームでシキが待っていた。 「面倒を掛けたな、ナガツカ」シキはアキラには目もくれず、部下に労いの言葉を掛けた。 「いえ」 ナガツカは恭しく一礼して、部屋を去っていった。 シキとアキラ、二人きりになった部屋に沈黙が落ちる。アキラは俯かせていた顔を上げた。途端、シキと目が合う。彼は普段と変わらぬ無表情だったが、紅い双眸は強い怒りを湛えていた。その鋭い視線に射抜かれて、アキラは息苦しくなった。がたがたと、身体が勝手に震えだす。 「来い、アキラ」 シキは怒っているにしては、やけに静かな声で言った。行かなければ、とアキラは思った。だが、足が動かない。 「……主に逆らうのか?」 再びシキが言い――次の瞬間、彼の姿が視界から消えた。あっと思ったときにはもう、目の前に立っている。とっさのことで反応できないアキラに向かって、シキは左手を伸ばした。 「ぐっ……」 抵抗する余裕もなく、アキラは咽喉を掴まれた。ぎりぎりと気道を圧迫され、あまりの苦しさに口を開けて喘ぐ。そのとき、シキは空いている右手で何かを取り出し、アキラの口内に放り込んだ。 舌に触れる何かの錠剤らしき『それ』を、吐き出すこともできずに飲む込んでしまう。途端に、アキラはカッと身体が熱くなるのを感じた。押さえようもなく、身体がぞくぞく震える。 そのとき、シキがアキラの咽喉から手を離した。アキラは身体を支えきれず、すぐ傍のソファに倒れ込んだ。咽喉を解放されて流れ込んできた空気に、激しくむせる。それでも、身体を蝕み始めた熱から、意識を逸らすことはできなかった。 この熱――先ほど飲まされたのは、媚薬だったのだろう。 「っ……。はぁ……はっ……」 「薬が効いてきたか。……いいザマだな、アキラ。貴様の淫乱な本性が明らかになってきたな」シキが嗤った。 熱に呑まれかけていたアキラは、シキの言葉に思わずキッと顔を上げた。ソファの前に立ち、自分を見下ろしているシキを睨み返す。 「……ハッ……! 何が……『いいザマ』だ……。クスリなんか使って……いや、それ以前に……セックスと暴力でしか、俺を支配できない、癖に……」 そう告げたところで、アキラはふと自分の言葉に違和感を覚えた。今の言い方はまるで、自分がセックスと暴力以外の何かでなら、彼の支配を受け入れてもいいと考えているみたいだ。しかし、深く考えようとしても、身に回る熱で思考が拡散してしまう。 ……駄目だ。ここで負けてはいかない。 アキラは熱に耐えようと、ぎゅっと目を閉じた。そのため、シキの表情の変化にも気づかなかった。 「黙れ……。……黙れ、黙れ、黙れ! 貴様は、俺に支配されるしかない弱者だ!」 不意にシキが叫ぶ。アキラははっとして目を開けた。見上げれば、いつしかシキは秀麗な面に怒りを露わにしていた。なぜか、傷つき、焦っているようにも見える。アキラは何がシキの感情を引き出したのか、見当もつかなかった。 「シ、キ……?」 「貴様のその、ちゃちなプライドを打ち砕いてやる。正気を奪って……俺と同じ狂気に堕としてやる」 シキは憎悪を滲ませた声で宣言した。 2012/09/15 目次 |