パンドラの箱1−3




 一時は激昂していたはずのシキは、しかし、アキラに暴力めいた触れ方をしようとはしなかった。
 最初に両腕を掴まれ、ベルトを使って頭の上で固定されたときには、アキラも危機感を覚えた。が、それ以降のシキは掌で、ただ身体のラインを辿るばかりだ。むしろ、普段よりも控えめな愛撫に、媚薬で熱を上げているアキラの身体は物足りなさを訴えた。
 ――反応するな。シキに陥落なんか、してやるか。
 アキラは内心で自分に言い聞かせた。そうやって気を紛らわせ、シキの手のもたらす感触を意識から締めだそうとする。しかし、核心部分に触れないシキの手は、確実にアキラの熱を煽っていった。
 アキラのシャツを脱がせ、脇腹や胸を愛撫していたシキが、不意に臍のピアスを引っ掻く。
「っあ……!」
 思いがけない刺激に、勝手に声が漏れる。甘さの波が背筋を駆け抜け、気がつけばアキラは軽く達してしまっていた。もちろん、シキがそのことを察知しないはずがない。
「偉そうな口を利いていたが……所詮はこれがお前の本質だ」
 シキはいきなり、ジーンズの上からアキラの性器に触れた。達して吐き出した精液で湿った下着が、下腹部に押しつけられる。その不快さよりも、性器に加えられた刺激がひどく甘くて、身体が戦慄く。
「んんっ……くっ……」
 アキラは必死に歯を食いしばった。負けるまいと首を捻って背後のシキを睨みつければ、彼はひどく冷たい目をしていた。怒りに燃えるというより、怒りの余り凍てついてしまったかのように。
「この程度では堕ちぬか」
 シキは淡々とした調子で呟いた。次いで、アキラから身を離して立ち上がる。リビングから出ていった彼は、どこからか赤い紐を持って戻ってきた。
「なにを……」
 不吉な予感を覚えて、アキラは身動きした。逃げたいと思っても、両手を高速された上に媚薬を使われていては、身体が思うように動かない。シキはすでに勃ち上がっているアキラの性器の根本を、紐で縛った。そうしてソファに座り、アキラを膝の上に抱き上げ、背後から抱きしめた。彼は再び、アキラの身体を弄(もてあそ)び始める。
 達したいのに、達することができない。その間にも、シキの手で熱を煽られ続ける。
 どれほどの間、そんな地獄のような時間が続いただろうか。最初は毅然とした態度を保とうとしていたアキラも、気がつけば熱に呑まれていた。限度のない過剰な快感にもうろうとしながら、犬のように舌を出して喘ぐ。
 そのときだった。
 突然、電子音がリビングに鳴り響く。その音でアキラはほんの少しだけ、正気を取り戻した。薄く目を開ければ、シキが右手で愛撫を続けながら、左手でテーブルの上の電話を取っているのが見える。
 アキラは慌てて、キツく唇を結んで漏れそうな声を押し留めた。
「――ナガツカか? どうした? ……あぁ、分かった。……あぁ……」
 声を抑えると、体内の熱がよりいっそう鮮明に感じられる。アキラはそれに耐えるのに必死で、シキの電話の内容はまったく耳に入ってこなかった。
 シキは通話を長引かせることなく終えた。アキラは首を捻って、背後のシキを見上げた。何となく不快で、眉をひそめる。なぜか、シキの言うところの『仕置き』の最中に自分から意識をそらした彼の行動が、気に入らない。
「……どうした、アキラ?」
 そう尋ねられて、アキラはぎくりとした。なぜ、先ほどのシキの行動を不快に思うのか、自分で自分に戸惑ってしまう。結局、シキの問いをはぐらかすように、アキラは顔を前に戻した。
「……別に」
「何を拗ねている?」シキが耳元で尋ねた。
 隠したい感情を、シキに気づかれた――そう悟ったアキラは、身を強ばらせた。そのときだった。リビングのドアが軽くノックされる。
「シキ様、ナガツカです」
 廊下から聞こえてきた声に、アキラははっと息を呑んだ。シキの部下のナガツカは帰ったものとばかり思っていた。だが、何か仕事の上で問題でも起きて、シキに指示を仰ぎに来たらしい。
 アキラは、自分がシキの『特別』であることは認識していた。たとえ、それが愛情ではないにせよ、執着と言っても自惚れにはならないはずだ。そんなシキが、アキラとの時間を邪魔したナガツカを殺すのではないか――アキラは不安に思った。
 けれども。
「――入れ」シキが言った。
 そのあっさりとした態度に、ナガツカがここへ来ることをシキも電話の時点で知っていたのだろうと分かる。アキラはなぜか、シキに裏切られたような気分になった。
 ――シキにとって、自分は所詮、他人に見せびらかすための玩具に過ぎないのだろうか。
 そう思うと胸が苦しくなって、快楽は意識の片隅に追いやられてしまう。シキの指が体内で蠢いている感覚の違和感が一気に快楽を上回って、アキラは軽く吐き気を覚えた。それを堪えようとして、目に涙が滲む。
 涙で歪んだ視界の中、リビングのドアが開かれるのが見えた。ドアの隙間から、ナガツカが滑り込むように室内に入ってくる。彼はすぐにアキラとシキの姿に目を留めた。だが、動揺した素振りは微塵も見せない。
「シキ様。先ほど電話で報告させていただいた件ですが」
「あぁ。それについては、後日、俺が出向く。それまでの対応は――」
 ナガツカに冷静に指示を出しながらも、シキの指はアキラの体内をまさぐり続けている。不意にぐっと体内の弱い部分を押されて、アキラは慌てて悲鳴をかみ殺した。それでも、根本を縛られた性器がふるりと震え、透明な滴を先端から溢れさせる。
 ――浅ましい姿を、他人に見られている……!
 いたたまれなくなったアキラは、せめて足を閉じようとした。だが、それもシキの手によって阻まれてしまう。
「シ、キ……っ……! やめ……っ……」
 アキラは懸命にもがいた。けれども、シキもナガツカも気づかないかのように、淡々と仕事の話を続けている。アキラは強い絶望を感じた。シキたちにとって、きっと自分は“モノ”にすぎないのだろう。人間ではない――だから、目の前でどんな姿をさらそうと、無視していられる。
 しかし、心は絶望しているにもかかわらず、身体は昂ぶっていく。射精できない苦しさをも越えて、とうとうアキラは抵抗ではなく快楽のために、身を捩った。
 そのとき、ちょうどシキたちの話が終わったようだった。ナガツカが一礼し、背を向けて歩き出した。そのまま退出するのかと思ったが、彼はドアの前でふとアキラを振り返った。
『雌犬め』
 ナガツカは声には出さず、唇だけを動かした。それを見た瞬間、頭の中が絶望と悲しみで占められていく。にもかかわらず、同時に堪えきれないほどの快楽が背筋を駆け上がってくる。アキラは一瞬、自分が何を感じているのか、わけが分からなくなった。
「っあ……ああぁぁぁ……!」
 射精できないまま、アキラは身を震わせて達していた。


***


 ――俺はまた、廃墟の中をさまよっていた。見慣れた風景に、もう何度か見たことのある夢の続きなのだと気づく。
 目の前の廃墟は、どこまでも広がっている。俺はそこをあてもなく歩いた。
 こんなとき、自分には何もないのだと思い知らされる。俺は長い間、他人と深く関わることなく、死んだように生きてきた。だから、その分、俺は自由だ。自分だけの目的も、守りたい何かも負うべき義務もない。行動を縛られることがない代わりに、目指すべきものを持たない。だから、この廃墟の中でどうしていいのか分からなかった。
 廃墟を脱出しても、行きたい場所も会いたい相手もない。トシマに来た頃にしたミカサに帰るという約束は、彼が生きているからこそ意味があった。ケイスケが死んだ今、俺には帰りたい場所はない。
 だが、廃墟に留まっていて、いったい何になるのか。
 ――シキがいれば。
 不意に俺はそう思った。シキが今、ここにいればいいのに。
 トシマで生きる目的を失った俺を、シキは導いてくれた。俺とは正反対に、常に生きる目的と行くべき場所を持っている、あの男。きっとシキならば、俺にこれからどうすればいいのか、示してくれるだろう。
 だが、今ここにシキはいない。いったい、どこへ行ったのだろう? 自らを俺の所有者だと言った癖に――俺を置き去りにして。そう思うと、急に腹立たしくなった。


***


 目が覚めたとき、アキラは寝室のベッドの上にいた。おそらくシキが運んだのだろう。肌に直に感じるシーツの感触から察するに、自分は今、何も身につけていないらしい。しかし、シキが後始末をしてくれたのか、肌にべたつく不快感はなかった。
 アキラはベッドの上で起きあがった。カーテンの隙間から漏れる光で、もう夜が明けたのだと分かる。
 ベッドの上でこちらに背を向けて眠るシキを、アキラは睨みつけた。爪が突き刺さるほど強く、拳を握り締める。自分をねじ伏せ、他人の前で屈辱的な姿を晒させたシキ。にもかかわらず、アキラの前でのうのうと眠ることができるのは、鈍感なのかアキラには何もできないと踏んでいるのか。
 ――許さない。殺してやる。
 不意に激しい憎悪が、腹の底からこみ上げてくる。アキラは枕の下を手探りした。シキがそこに、万が一のときに備えて短刀を隠していることは知っている。余所に移されていないかと心配したが、すぐに堅い感触が指先に触れた。
 アキラは短刀を取り出し、鞘を払った。柄を握り締め、シキの上で振りかざす。
 この刃をシキに突き立てれば、俺の苦しみは終わる……。そう思った瞬間、ふと、ケイスケを失ったときのことを思い出した。
 シキが死ぬ――ケイスケと同じように。彼の紅い目は光を消し、心臓が鼓動を止める。響きのいい低い声は、二度とアキラの名を呼ばない。
 ――それで、俺は満足なのか?
 心の片隅の小さな迷いを振り払い、アキラはかざした刃を振り下ろそうとした。だが、刃がシキに触れる寸前で、手が止まってしまう。無理に自分の手を動かそうとしたが、どうしても、できなかった。
「……できない……。俺には……できない」短刀を脇に投げ出して、アキラは呟いた。
 どうしても、シキの存在がこの世から消えるのには耐えられない。たとえ、シキが生き続けることで、自分が――いや、世界の誰が苦しむとしても、生きていてほしい。
 じわりと視界が涙に滲む。アキラは自分がなぜ泣くのか、分からなかった。悲しいのか、苦しいのか自分自身の心が理解できない。ただ、胸が締め付けられるかのようで、涙を流し続ける。
「――いいのか?」突然、眠っていたはずのシキが、目を開けた。アキラの行動に気づきながらも、眠ったふりを続けていたらしい。「俺を殺さなくて、いいのか? この機会を逃せば、次はないぞ」
「あんた、起きてたのか……。――自分を殺せなんて、なんでそんなこと言うんだ……?」
「ただの気まぐれだ。今なら……貴様になら、無抵抗で殺されてやってもいい気分だ。……だが、二度とこんなことはない」
 アキラはしばらくシキを見つめていた。けれども、やがて首を横に振って、短刀を鞘に戻す。最後にそれを、元通りに枕の下へ押し込んだ。
 シキはそれを、何か不思議な光景でも見るような目で眺めていた。
「貴様……いや……」そこで、シキは言葉を切って言い直した。「お前こそなぜだ、アキラ?」
「……俺も、ただの気まぐれだ。それに、寝首をかくなんて卑怯な真似は、好きじゃない」
 シキを殺せなかった事実を正当化できる理由なら、なんでもいい。涙の跡の残る顔で澄ました表情を作って、アキラは言った。
 その言葉の裏側に、気づいたのかどうか。シキは少しばかり口元を緩め、アキラにへと手を差し伸べた。
「来い、アキラ。……“優しく”してやる」「あんたが優しくする? それも気まぐれか?」
「あぁ、そうだ。ただ、何となく……そうしたい気分なだけだ」
「なんて言い種だ」アキラは苦笑して、そっとシキの手を取った。「でも、丁度いいかもな。……俺は今、あんたに優しくされたい気分なんだ」
 シキはぐいとアキラの手を引っ張り、あっと言う間に懐に抱き込んだ。アキラの髪に顔を埋め、背中に腕を回してぴたりと身体を密着させる。
 隙間なくシキに抱きしめられながら、アキラはなぜか満ち足りた気分だった。先ほどまでの胸の苦しさが、嘘のように消えている。
 今までにシキにされたことすべてを、許したわけではない。また、シキへの憎しみが吹き出すときは来るだろう。それでも、どれほど恨んでも、今のこの瞬間の記憶がシキを殺せない理由の一つになるのに違いない。
 そんな予感を抱きながら、アキラは目を閉じた。そうすると、シキの鼓動と温もりだけが、感覚のすべてになった。






2012/09/30

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