パンドラの箱1-4




***

 ……相変わらずどこまで続くか分からない廃墟は、頻繁に俺の夢の中に現れる。このところ、ずっと同じ夢しか見ていないくらいだ。
 内容はいつも変わらない。俺は廃墟の広がる地で、“何か”を探し続けている。自分が何を求めているのか分からないまま、ひたすらに。
 もしかすると、俺はこの先も夢の中をさまよい続けるのかもしれない。そう考え始めた矢先のことだった。
 夢の中で変化が起きた。
『――アキ、ラ……』
 埃っぽい乾いた風に乗って、俺を呼ぶ声が聞こえた。あまりに微かなので、どこから声がするのか見当もつかない。それでも、その響きを聞き間違うはずはなかった。
 そう。この声は――。
「シキ、の、声……」


***

 目が覚めたとき、ベッドにシキの姿はなかった。眠りに落ちるときにはあれほどしっかりと自分を抱きしめていたくせに。ほんの少し寂しさのようなものを覚えたアキラは、しかし、すぐに自分の感情を打ち消した。
 起きたときに自分の目の前にシキがいなくて残念だなんて、思ってやるものか。そう自分自身に言い聞かせる。けれども昨夜――というよりは今朝方なのだろうが――何だかんだと言い訳しながらも、自分を甘やかしたシキを思い出すと、ほぅっと胸が温かくなるかのようだった。
 シキの傍は地獄だ。けれど、同時に安息の場でもある。
 アキラは自分の立場を不幸だと嘆けばいいのか、幸福だと喜べばいのか分からなかった。分からないまま、シキの傍で日々を過ごした。
 シキは時折、ひどい抱き方をする日もあれば、いつかのようにべたべたと甘やかすときもある。そのいずれも受け入れて、アキラはシキの傍から去ろうとは考えなくなっていった。


***


 アキラが逃げ出そうとした夜から、三ヶ月が経った。その間、シキは落ち着いた気分で着々と裏の世界での実績を、積み上げていった。アキラと和解――とはいえないまでも、憎しみ合う関係は改善されたらしいことが、大きく影響していた。
 昔は単独で裏の世界を渡っていたシキは、しかし、今は人を使う立場にあった。仕事が成功するごとに配下が増え、組織ができあがっていく。いつしかシキは、以前トシマで形ばかり首領の座にいた麻薬組織〈ヴィスキオ〉をも傘下に取り込んでいた。
 やがて、膨れ上がった組織を再編する必要が出てきた。そこで、シキは新たな組織を作り上げ、改めてその首領の座に着いた。
 新たな組織の名は〈ヴィスキオ〉とした。
 名を聞けば、おそらくアキラは悪趣味だと顔をしかめるだろう。だが、他に適切な組織名が思い浮かばなかったのだ。
(――俺もいまだに、イグラが行われていた頃のトシマに縛り付けられているのかもしれんな……)
 シキは内心で自嘲したものだった。
 過去に縛られているといえば、もう一つ、何かの因縁としか思えない事柄が起きた。新たな〈ヴィスキオ〉の本拠地を探していた矢先、トシマの土地が売りに出されたのだ。  売り主は、日興連だった。
 CFCと日興連は、アルビトロが主催したイグラに煽られる形で内戦を始めた。人間の戦闘能力を飛躍的に高めるであろうラインを狙って。そうして、日興連は内戦開始して間もなく、トシマを占領した。
 けれども、目的のトシマを一方が奪ったからといって、そこで内戦を止めることはできなかった。内戦の表向きの理由はCFCと日興連の統治理念の違いということになっていたし、両国には戦争を支援する他国が付いていたからだ。とはいえ、五年前に大きな戦争を経験して間もないCFCと日興連には、戦争を維持することができるほどの体力はなかった。
 その上、世界全体の経済成長は鈍くなっている。その影響により、ニホン国内も不況に陥っていた。
 結果、内戦はすぐに停戦状態になった。両陣営はにらみ合いのポーズを崩さないまま、ゆっくりと戦線の交代を始めた。そうして――日興連はCFCとの前線にあたるトシマを放棄することにしたらしかった。
 そこを、シキが買い取った。
 トシマはCFCに近い。内戦が再開すれば、即座に戦火に焼かれる可能性もある。また、長い間、復興されずに来た曰く付きの土地だ。そうした幾つかの事情のせいだろう。トシマの土地は、破格とも言える値でシキに下げ渡された。他に買い取り希望者もいなかったらしい。
 シキは買い取った土地に新たな建物を築く前に、そこを訪れることにした。といっても、懐かしさとかそういった情緒的な理由からではない。新生〈ヴィスキオ〉の本拠地を建設するにあたって、土地を下見した上で建物のレイアウトを指示すべきだと考えたのだ。そういう意味では、シキは昔――士官としての将来を約束されていたにもかかわらず、一兵卒として戦火の中を駆けていた頃と変わらぬ現場主義者だった。
 ただ、下見にアキラを伴うことにしたのは、ほんの気まぐれであったけれども。
「珍しいな。あんたが外へ出てもいいって言うなんて」
 アキラはシキの誘いに、そんな感想を漏らした。
「嫌なら行く必要はない」シキは意地悪に応じた。
「ヤだなんて、言ってないだろ。ちょっと驚いただけだ。あんたは俺を、閉じこめておきたいんだろうと思ってたからさ……」
 そう言ったアキラの言葉を、シキは平然とした顔で聞いていた。けれども、内心はそれどころではなかった。
 何というか、いたずらが見つかったかのようで、非常にバツが悪い。
 確かに己には、アキラを誰の目にも触れさせたくないという欲がある。それを隠しもしていない。それでも、今のようにアキラに己の欲を知られており、しかもそれをこともなげに受け入れられているとなると――どうしていいのか分からなくなりそうだった。
 もちろん、シキはどうもせず、澄ました顔でその場をやり過ごしたのだが。
 ともあれ、シキがアキラをトシマに誘ってから数日が経ち、下見の日がやって来た。道はほとんど整備されていないため、二人はジープに乗ってトシマを訪れた。もちろん、シキの部下も幾人も同行している。だが、シキは彼らにしばらくの間、己とアキラから離れているように申し渡しておいた。
 アキラとの時間を邪魔されたくなかったのだ。
 もともと護衛などいなくとも、シキには己とアキラを守れるだけの実力がある。それでも部下を連れ歩くのは、そういう立場になってしまったからだ。とはいえ、ほんの一時くらいなら、立場から離れていることも許されるだろうと思った。
 ジープを降りると、トシマはすっかり変わり果てた姿をさらしていた。以前は残っていた廃墟の残骸も、戦火で完全に焼け落ちてしまっている。見渡す限りの焼け野原だ。
「これは……いっそ、清々しいくらいだな」シキは呟いた。
「清々しい、か。確かに、そうかもしれないな……」
 アキラは歯切れの悪い調子で応じた。
 曇天の下、サイズの大きい白いシャツにジーンズの細っそりした姿は、何だか頼りない感じがする。俯けた顔の青灰色の目には、淡く憂いの色が煙っているようだった。どうやらアキラは、目の前の光景に対してシキとは異なる感想を抱いたらしい。
「……お前は、あまり清々しくなさそうな顔をしているな?」
「……。あんたに嘘はつけないな。確かに、俺は今のこの光景を清々しいなんて思えない」
「なぜだ? トシマにいい思い出などなかろうに」
「そうだな」アキラは苦笑を浮かべた。「冤罪のこと、ケイスケのこと、他人を死なせたこと……。それだけじゃない。俺はここで、誰かが誰かをモノのように扱うのも見てきた」
「ならば、トシマの街を惜しむこともあるまい」
「だって……。トシマの街は嫌なところだったけど、そればかりじゃなかった。俺はここで、目を覚ますことができたんだから」
「目を覚ます? どういう意味だ?」
「ケイスケのこと、本当に大切な親友だって気づけた。だけど、大切ってことと、愛するってことが違うってことにも。それに、ほら、あんたにも出逢えた」アキラはシキを振り返り、笑みを浮かべた。ひどく柔らかな笑みだった。「……きっと、トシマに来なかったら、俺は――あんたに逢うこともないまま、死んだように生きてた」
 ならば、俺に逢ってからはどうなんだ。今はどう感じている。――咽喉もとまでこみ上げた問いを、シキは飲み込んだ。
 そうしたことを尋ねてしまうのは、どうも己らしくない気がしたのだ。代わりに皮肉な口調で別の言葉を返した。
「だが、“目覚めた”ことでお前は友を死なせた後悔と俺への執着に縛られることになった。それでも、不満はないと?」
「不満があるとかないとか、そういう問題じゃないよ。あんたの質問は、人間が水の中でエラ呼吸できなくて不満かどうか聞くのと同じだ」
「エラ呼吸? 何でそんなものが出てくる」
 シキは眉をしかめた。アキラはくすくすと笑った。
「つまり、不満がどうってレベルの話じゃないってことさ。……不満っていうか、俺はいつだって迷ってる。ここにいてもいいのか、あんたといていいのか、俺たちは今のあり方でいいのか……そんなことを」
「俺から逃げたいと、まだ考えているのか?」
 シキはアキラをにらんだ。が、彼はその視線を無視して、言葉も聞こえなかったかのように話を続けた。
「ずっと答えは出ない。よく逃げ出したくなる。……だけど、そうやって迷うことが生きてることなんだろうって、最近、思うんだ。たぶん、迷いがなくなったら、俺は死んでるのと同じなんだ」
 アキラの言葉に、シキは己の足下を見つめた。
 生きている証である迷い――。
 己はニコル保菌者となって、迷いを捨てようとしている。けれども、それは正しいことなのだろうか。分からなくなる。迷いを捨ててしまった先に何があるのか、今はまだ見えないからなおさらだ。
 それでも、迷いを捨てろと己の中のニコルが囁いているのは、事実だった。トシマの土地を買ったのも、安価だとかそういった理由だけではない。この土地に眠る己の迷いを――ニコル保菌者になってさえ消せなかった迷いの一つを、埋めて土に還してしまいたかったのだ。
(――リン……)
 かつて、己を仲間の仇として狙っていた実の弟。そのリンを、シキはこのトシマで斬った。追い払っても追い払っても向かって来る彼に手加減しきれず、とうとう刀を抜いて、ひと太刀で左足を切り捨てた。そして、地面に倒れ伏したところを――とどめを刺そうとして、できなかった。
 ザクリ。地面に突き刺さった刀の感触は、今でも思い出すことができる。肉親の情などとっくの昔に捨てたはずなのに、実弟を殺せなかった己自身に愕然とさせられた。
 己が殺せなかったリンは、それ以降は現れなかったところを見ると、出血多量か何かで死んでしまったのだろう。しかし、それでも己が情に流された事実は消えない。
 できることなら、古いトシマと共に過去の己の迷いを消してしまいたいと思う。誰にも告げたことのないその迷いを、シキはなぜかアキラに見透かされている気がした。
 迷いは迷いのままでいい――アキラの言葉に、そんな風に許されているように思ってしまう。
 それを振り払うように、シキは頭を振った。
「情も迷いも、俺には必要ない。それが俺の生き方だ」宣言するかのように言う。
「うん……。そうだな。分かってるよ」
 アキラはシキの言葉に、微笑を少しだけ寂しそうなものに変えた。






2012/11/11

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