パンドラの箱1−5 深夜。シキは腹心のナガツカと共に、事務所で他国のマフィアとの麻薬取引の契約書を最終チェックしていた。 現在、ニコル保菌者であるシキの血液から精製したラインの流通は、ニホン国内に限定されている。前の〈ヴィスイキオ〉の頃、シキがアルビトロにそう指示をしていたのだ。というのも、当時、ラインはnを追うための手段の一つであり、シキはラインの上げる利益にはまったく興味がなかったためだ。さらに言うならば、ラインは国内流通だけで十分に利潤が出ていたようである(が、この部分に関してはシキは関知していない)。 また、たとえ当時の〈ヴィスキオ〉の管理者であったアルビトロがラインの輸出をしようとしても、国外分まで生産できるほど原液の量はなかった。その点は、当時、nも計算して原液を提供していたのだろう。 しかし、シキがニコル保菌者として新生〈ヴィスキオ〉の頂点に立ったことで、事情は変わった。ラインの原液となるシキの血が大量生産に十分なほど採取できるため、輸出も可能になったのだ。シキはすぐに他国のマフィアにライン輸出の取引を持ちかけた。ラインの効果――肉体と精神の強化や副作用のなさ――を示せば、相手はすぐに食らいついてきた。そうして、呆気ないほど簡単に取引が成立しようとしている。 数十枚にもわたる契約書を確認しながら、シキは違和感を覚えていた。nに挑むように彼の血を口にしたとき、己は『これ』を望んでいたのだろうか、と。 nを超えたかった。彼が至れなかった場所に至ることで、己こそ最強だと示したかった。だが、どうすればそれが証明できるのかは分からない。そのために、シキは目の前に見える道をただ走ってきた。――つまり、己が強くなること、権力を拡大すること、欲しいものを手に入れることで。そうすることこそ、nを超える方法だと己に言い聞かせて。 しかし、ときどき、ふと虚無が顔をのぞかせる。そのとき、シキは己の立ち位置を見失なってしまう。まるで一人、無音の闇の中にいるかのように。 (権力を拡大することが、果たして己がnより優れていると示す手段になり得るのか? ……あの男は、もはや死んでいるというのに) この道が正しいのか。己はどこへ進んでいるのか。どうすれば未来を確信できるのか。――分からない。分からない。分からない。 そんなことを考えているうちに、契約書を確認する手が止まっていたらしい。 「――シキ様?」 ナガツカに呼ばれて、シキは顔を上げた。 「どうされましたか?」 「いや、何でもない」 シキが答える。ナガツカはじっとシキを見て、言葉に迷うような表情をした後に、口を開いた。 「……申し上げたいことがあるのですが」 「何だ」 「先日のことです。シキ様は先日、アキラ様とトシマの〈ヴィスキオ〉の城の建設予定地を見に行かれたとか」 「あぁ、行ったが。それがどうした?」 「……アキラ様に、あまりお心を傾けられませぬよう」 「何?」 シキは立ち上がり、ナガツカの席へと歩いていった。彼の前に立つと、ナガツカは椅子から降りてシキの前に跪いた。恭しく頭を垂れる。しかし、彼がシキの怒りを恐れていないことは、真っ直ぐに伸びた背筋から伝わってきた。 「ご無礼をお許しください。しかし、あなたの部下として、これだけは諫言(かんげん)させていただきます」 「いい度胸だな。俺の行動に口を出すとは、貴様はいつからそれほど偉くなった?」 「私はあなた様の部下です。この無礼の処罰はどのようにでもお受けいたします。ですが……どうか、アキラ様にお心を傾けることはお止めください。あの方はただの玩具……それでいいではありませんか」 「アキラは俺の所有物だ。それ以上の存在だとは思ったことはない」 「いいえ。今のあなた様はアキラ様によって、お心を揺らされているように見えます。あの方は危険です。……あの方が関われば、あなた様は弱くなってしまう」 「俺が弱いだと」 シキは声にいっそうの怒りを込めた。比較的荒くれ者ぞろいの幹部たちでも、シキのこの声音を聞けば震え上がるだろう。しかし、ナガツカは垂れていた頭を上げた。真っ向からシキを見上げる。彼の黒い目には熱狂の色が浮かんでいた。 「あなた様は強い。だが、まだ迷いをお持ちです。その迷いは弱さに繋がります。――迷いを捨てて、あなた様の思われる道を真っ直ぐに進んでください。私たちが誰も見たことのない道を。それができると信じているからこそ、私はあなた様について行くと決めたのです」 ――誰もなったことのない、狂気の王とおなりください。 ナガツカが熱っぽい口調でそう告げる。 シキは無礼を理由に彼を切り捨てることができなかった。もしもナガツカが利己心からシキへの言葉を口にしていたならば、すぐにでも殺す気になっただろう。しかし、彼は少しの私心もなく、ただ『そうあるべきだ』という考えを口にしている。失態を犯したわけでもないのに、ナガツカのような男を斬ることはシキの主義に反していた。 「今は貴様を斬る気はない。だが、アキラのことは俺のプライベートだ。これ以上の口出しは許さん」 シキがきっぱりと告げると、「申し訳ございません」とナガツカは恭しく頭を下げた。 シキが仕事を片づけて自宅のマンションへ戻ると、アキラは既に眠っていた。シキはベッドに腰を下ろし、彼の髪を撫でた。 『――あの方が関わると、あなた様は弱くなってしまう』 ナガツカの声が呪いのように脳裏に響く。 確かにそうだ、とシキは思った。アキラはニコル保菌者となってなお、己が捨てきれない人間らしさそのものだからだ。 先日、己はトシマで迷いなど必要ないと言い切った。しかし、それは裏を返せばいまだに迷いを抱くことがあるということだ。アキラへの執着も、実弟への後悔も、nへの悔恨も――シキの人間らしい感情の揺らぎを呼び起こすきっかけとなるのは、今ではアキラだけだ。 ――いっそ、アキラさえいなければ。 ふと湧き起こった考えに、シキは髪を撫でていた手をアキラの咽喉もとへ持っていった。 と、そのときだ。ふわりとアキラが目を開けた。碧い瞳には普段のような強い意思の光ではなく、深く底を窺わせない謎めいた色が浮かんでいる。普段のアキラは荒削りでしなやかな物腰なのが、今、このときは巫子のように神秘的な雰囲気を漂わせていた。 それでも、一瞬、彼が寝ぼけているのかとシキは疑った。だが、アキラが寝言とは思えない冷静な声音を発したため、疑いは消えてしまった。 「――俺を、殺したい?」 あまりに端的なアキラの言葉に、シキはとっさに返事ができなかった。そんなシキの顔をじっと見つめて、彼は更に続けた。 「いいよ、それでも。……だけど、俺を殺すなら、あんた自身も殺すことになる。あんたが、ずっと捨てられないでいる人としての心を。……そうしたら、あんたの世界は本当に闇に閉ざされてしまうよ」 ――今、目の前にいるのは、俺の知るアキラなのか? 不意に恐れのようなものを感じたシキは、反射的にアキラの咽喉もとから手を引いた。すると、アキラもすぅっと目を閉じて、再び安らかな寝息を立て始める。あどけない寝顔は、すでに普段のアキラに戻ったように見えた。 「……何なんだ、今のは」シキは呆然と呟いた。 翌朝、シキはアキラに昨夜のことを尋ねてみたが、彼はまったく覚えていなかった。本当に、何だったんだ。シキは真相を究明したいと思った。とはいえ、他国のマフィアとの商談が控えている。翌日にはアキラを置いて国外へ発つしかなかった。 *** アキラはベッドの上で考えごとをしていた。シキが国外へ出発して、三日経つ。その直前に彼に尋ねられたことが、妙に頭に引っかかっているのだ。 三日前、シキはアキラに夜中に目覚めて何か言った覚えはあるかと質問した。アキラは「そんなことはしていない」と答えた。もちろん、それは真実だった。ただ、気になっているのは、シキが目覚めなかったかと尋ねた夜、自分が見た夢についてだ。 夢の中でアキラは自分の姿を見た。とはいっても、今の自分とは似ても似つかない。筋肉が落ちた痩身で、素肌に白いシャツ一枚をまとっていた。見るからに男を誘うような色気を持つ『ソレ』は――それでも、確かに、アキラ自身だった。そのもう一人の自分が、夢の中でシキと話していた。 自分を殺したいか、と。他にも何か言っていた気がするのだが、思い出せない。とにかく奇妙な夢だったのだ。 朝、目が覚めてシキに妙な質問をされたことで、アキラはさすがに疑念を持った。自分が見たのは、ただの夢ではなかったのではないか、と。そうすると、以前から見続けている廃墟の夢のことも相余って、余計に不安になってくる。アキラはシキがマンションを出ていった直後から、彼の書斎にある本棚を漁りだした。 このマンションに身を落ち着けてから、シキは書斎に本棚を置き、幾冊もの本を詰め込んだ。多忙な彼だが、時折、本を開いている姿も見かける。おそらく、もともと読書が好きなのだろう。シキが読む本はたいてい難しげだ。が、他に娯楽もないために、アキラはときどき、シキの本棚から本を引っ張り出すことがあった。読んだところで内容はほとんど理解できないのだが、時間潰しの一つにはなる。シキもアキラが書棚を触るのに気づいていたが、咎めたことはなかった。逆に、好きな本を持ち出していいと許可までくれたくらいだ。 今回、アキラは初めてシキの許可をありがたく思った。夢について調べるため、思う存分、シキの書棚から本を引っ張りだして寝室に持ち込んだ。 しかし、結果ははかばかしくなかった。シキの書棚の本の種類やアキラの理解力の問題もあるだろう。とにかく、アキラが見た妙な夢について分析できるような手がかりは得られなかった。図書館などに行ってもっと専門的な資料を調べるか、いっそ精神科医にでも相談すればいいのかもしれない。しかし、基本的に外出を不可とされているアキラには、どちらも無理な相談だった。 「――お手上げなんだよな」 ベッドの上でばたりと仰向けに寝ころんで、アキラはため息を吐いた。こんなことなら、もう少し子どもの頃からオベンキョウをしておけばよかったと後悔する。もっと勉強ができれば、読んだ本の内容もより深く理解できるだろうし、夢の分析も簡単なのではないだろうか。とはいえ、後悔先に立たず、ではあるが。 「あーあ」 アキラが更に大きく息を吐いたときだった。マンションの部屋の中に、人の気配を感じる。アキラはぎくりとして動きを止めた。 もともと、アキラは闘う技術の面ではシキに及ばない。他人の気配もときどき感じられるときがあるかなという程度だ。シキのように、気配を察知する能力はない。しかし、そんなアキラでも気配を察知できたのは、相手が押し殺そうとしているものの、強い殺気が漏れてきているせいだった。 (――だけど、このマンションの入り口は、シキの部下が見張ってる。セキュリティもある。それなのに、俺を殺したい人間が入って来れるか……?) しかし、そうした様々な条件をくぐり抜けて来られる人間がいることに、アキラはふと気づいた。 シキの部下だ。もし、シキの配下の中に裏切り者が紛れ込んでいたなら――そうしてその人間がシキに重用されるほどの地位にあったならば、簡単にマンションの内部に入ることができる。 しかし、そこまで考えたところでアキラは首を傾げた。 (あれ? でも、今、シキは留守で……) 新生〈ヴィスキオ〉の首領たるシキを狙うとしても、内部の裏切り者ならば今、彼が商用で国外に出ていることは承知のはずだ。むしろ、シキの留守にやって来るということは――。 (狙いは俺か) はたとアキラは気づいた。今はなし崩しにシキの妾みたいな扱いになってしまっているが、アキラとて腐っても非ニコル体質なのだ。アキラを実験動物に使いたいという人間も、いないことはないだろう。 「ちっ」 長い間シキに庇護されて過ごしてきた。今の自分の身体は、どれだけ闘うことを覚えているだろうか。唇を噛みながら、アキラは枕の下を探った。すぐに手の先にナイフの鞘の堅い感触が触れる。以前、シキを殺そうとして彼に向けたことのあるナイフだが、本来はシキが護身用に用意したものだ。アキラはそのナイフを取って、鞘から引き抜いた。 ナイフを構え、ドアの影に立つ。そのまま息を殺して、どれほど待っただろうか。 寝室のドアの前までやって来た相手が、しばらく様子を窺うような間の後に、ゆっくりとドアを開いた。ドアが完全に開ききって、相手が中へと踏み出したところで、アキラは相手に飛びかかった。 実力も不明の相手を傷つけることをためらっていては、自分が危険になる。アキラは容赦なく相手の咽喉を掻き切ろうと刃を繰り出した。 しかし。 ――ガキン。 甲高い金属音と同時に、ナイフが受け止められる。鍔迫り合うナイフ越しに見た顔はアキラも見知ったものだった。 「――お前は」 アキラは呆然と呟いた。 まさか、と思う。誰よりもシキに心酔しているように見えた彼が、シキの意に反してアキラに手出ししたのが、信じられなかった。 「――ナガツカ、お前がどうして……」 アキラの言葉に、ナガツカは皮肉げな笑みを浮かべた。 2012/12/02 目次 |