パンドラの箱1−6 *リンとトモユキが生きてトシマを脱出し、一緒にいます *この話以降、トモユキ→リン描写があります ――なんで、ナガツカが。 アキラは驚きに一瞬、息を忘れた。そのため、反応が遅れる。すぐに我に返ってナガツカに襲いかかったものの、あっさりと腕を捕らえられてしまった。左手首を握る手にぐっと力を込められて、アキラは思わずナイフを取り落とす。 「くっ……」 懸命にアキラはもがいたが、ナガツカの拘束はびくともしなかった。 ――この力……おかしい。 アキラはふと違和感を覚えた。いくらこのところ部屋に閉じこもりがちだったとはいえ、元はBl@sterやイグラで闘いを経験したアキラだ。本気の抵抗がそう簡単に封じられるはずがない。むしろ、びくともしないナガツカの腕力や先ほどのアキラの攻撃への反応速度が、普通ではなかった。 「お前……ラインを、使ったな……?」 アキラは食いしばった歯の隙間から、唸るように尋ねた。 「そうです」 そう答えるナガツカの顔は、普段と変わらず冷静だ。ますますおかしい、とアキラは思った。 ナガツカはシキに心からの忠誠を捧げている。そのことは、傍から見ていても明らかだ。シキに近しく仕える彼が、シキのアキラへの執着を知らないはずはないだろう。アキラに危害を加えれば、敬愛する主の怒りを買うことになると、分からないはずはない。 最初、アキラはナガツカが、ラインの作用で狂気に陥ってしまったのかと疑った。だが、目を見る限り、彼は紛れもなく正気である。これは、いったいどういうことなのだろうか、とアキラは訝しんだ。 「――お前……どうして、ラインなんか」 「シキ様と同じ力を手に入れたかった。非ニコルのあなたには、できないことだ」 「っ……。俺がそうだと、知っていたのか」 「ラインの適合者なら、あなたの匂いですぐ分かる」 「お前、自分が何をしたか分かってるのか? ニコルウィルスは、一度、保菌者になったら一生、そのままなんだ。おまけに俺を殺そうとするなんて、シキが知ったらただでは済まないぞ……!」 「覚悟の上だ。私はどうなっても構わない。……それで、あの方の目を覚ますことができるなら」 ――目を覚ます? 何を言っているのだろう。アキラは時と場合も忘れて、目の前の男を凝視した。ナガツカはやはり、ふざけているようには見えない。 アキラが何も言えずにいるのを無視して、ナガツカは話を続けた。 「あの方は、あなたが関わると弱くなる。判断力を失ってしまう。……あの方が常に頂点に立ち続けるためには、あなたは不要だ」 「お前はシキのことを、何も分かってない。あいつには……俺はなくてはならないんだ」アキラは言った。 それは奢りでも何でもなく、ただの事実だった。以前、アキラを切り捨てたがったのは、シキだった。それでも、彼自身にもアキラへの執着は捨てることができなかったのだ。 ――お互いにお互いを見捨てることができたなら、どれほど楽だっただろう。 アキラは心からそう思った。しかし、もちろんアキラの真意は、第三者であるナガツカには通じなかったらしい。 「煩い! 愛人風情が思い上がって……。お前のような卑しい者に、あの方は縛られるべきではないんだ!」 叫んだナガツカは、つばぜり合いのナイフに力を込めてグイとアキラを押した。その力に負けて、アキラは床に押し倒されてしまう。体勢を崩して無防備に倒れたアキラの咽喉、ナガツカのナイフが振り下ろされる――。 と、そのときだった。 「な……ナガツカさん! あんた、何やって……!」 慌てて部屋に飛び込んできた男が、声を上げた。赤い長髪を襟足で結んだ男だ。この部屋に出入りできたということは、おそらく〈ヴィスキオ〉の一員なのだろう。けれども、彼はまだ若く、麻薬組織の構成員というよりはチームのメンバーのようにも見える。「トモユキか」ナガツカは若い男を一瞥して、呟いた。が、油断なくすぐにアキラへと視線を戻す。「私はシキ様を惑わすこの男を、処分するんだ。邪魔するな」 「王の愛人を処分って、あんた、そんなことしたらタダじゃ済まないぞ」 「構わないさ」 そう言って、ナガツカは今度こそアキラにナイフを振り下ろそうとした。若い男――トモユキは、それを見て迷う素振りを見せた。が、すぐに意を決したような表情になる。 「くそっ……!」 トモユキは鋭い舌打ちと共に、ナガツカに飛びかかった。だが、ラインを服用したナガツカの力の前に、あっさりと振り払われてしまう。投げ飛ばされたトモユキは、壁に背を打ちつけて苦痛に顔を歪めた。 その間にも、アキラは起き上がり、ナガツカに体当たりした。しかし、びくともしない。ナガツカもさほど体格がいいわけでもないのだが、ニコルウィルスのおかげでアキラを軽くいなせる力を手に入れているらしかった。突き飛ばされたアキラは、トモユキの隣の壁に激突した。その痛みのあまり、床にくずおれてうずくまる。 そのアキラの前に、ナガツカはすたすたと歩いてきた。 ――今度こそ、終わりだ……。 アキラがそう覚悟したときだった。 「何事だっ!?」〈ヴィスキオ〉の幹部の一人が、部屋に駆け込んできた。四十代半ばくらいの彼は部屋の中を目にして、ぎょっとした顔つきになった。「ナガツカ、お前は……」 男は呟いて、懐から拳銃を取り出した。無駄のない馴れた動きで、安全装置を解除して銃口をナガツカに向ける。 「それ以上、動くな。動けば撃つぞ」 「私は、死ぬのは、怖くないですよ。この生命はシキ様のためだけに使うと、決めましたから。だけど……ここで目的である彼を殺せないのならば、今、生命を投げ出す意味もない。あなたの仰る通りにしましょう」 ナガツカはあっさりと床にナイフを投げ捨てた。その直後、外で様子をうかがっていたらしい他の構成員たちが、室内に踏み込んでくる。 仲間たちに拘束されながら、ナガツカはアキラを見て不穏な笑みを浮かべた。ぞっとするような笑顔だった。アキラは唇を噛み、ナガツカの目を見据えた。お前にも、他の誰にもシキは――人としてのシキは渡さない、と念じながら。 *** 明け方、トモユキはいまだ薄い闇に閉ざされた街を足早に歩いていた。細い路地裏を縫うようにして通り抜け、街の片隅の古びたアパートにたどり着く。そこが、トモユキの今の住処だった。 以前、殺人ゲーム・イグラに参加していたトモユキは、突然に始まった内戦を逃れ、生き残った者の一人だ。トモユキはチームでイグラに出たのだが、内戦の混乱の中で仲間たちとは一人残らずはぐれてしまった。皆が生きているのかどうか、今となっては分からない。人数の多いチームであったから、数名くらいは生き残っている者もいるのではないだろうか。いずれにせよ、憶測してみるしかなかった。 だが、それでよかったと思っている。 内戦の始まったトシマで、トモユキは仲間たちを見捨てたのだから。彼らにとって、自分は裏切り者だ。かつて自分が“ペスカ・コシカ”のリーダーであったリンを、裏切ったと責め立てたけれど――今度は自分が裏切り者になってしまった。皮肉なものだ。 トモユキは錆の浮いた鉄製の階段を、音を立てないように注意して上った。二回の角の部屋にたどり着き、鍵を開ける。中へ入ったトモユキは、玄関口で室内に声を掛けた。 「――ただいま」 返事はない。だが、この時間ならば同居人は起きているはずだった。彼は深く心に傷を受けている。そのため、夜には不安が強くなりすぎて、眠れないらしいのだ。 トモユキは靴を脱ぎ、部屋へ上がった。 居間の奥――同居人と共同で使っている寝室へと向かう。「ただいま」と言いながらドアを開けると、ベッドの上に同居人が座っているのが見えた。 開け放したカーテンから、東の空に顔を出したばかりの太陽が投げかける一筋の光が差し込んでいる。朝一番の日の光に照らされて、同居人の髪はきらきらと金色に光っていた。青白い肌と翳ってしまった青い目にもかかわらず、金の光をまとう彼は昔と変わらず輝いて見える。 「ただいま、リン」 トモユキは同居人の名を呼んだが、彼は答えなかった。 トシマで内戦が始まったとき、トモユキがリンを見つけたのは偶然だった。トシマから脱出しようとして、仲間たちと共に脱出ルートを探している最中に、発見したのだ。 トモユキが見つけたとき、リンは重傷だった。全身に浅い切り傷があったし、ひどく殴られたような打撲痕もついていた。だが、一番ひどかったのは左足だった。リンの左足は鋭利な刃物によって、膝上から切り落とされていたのだ。リンが闘ったであろう相手は、すでにその場から去っていた。 すっぱり切断されたリンの足を見たとき、トモユキは即座に理解した。きっとリンは昔の仲間の仇を討つために、あの“シキ”と闘ったのに違いない、と。元“ペスカ・コシカ”のリーダーであるリンの実力は、並大抵ではない。彼が本気で闘って負けたのだとしたら、相手はシキくらいのものだろう。 一緒にいた仲間たちは、リンを無視して脱出ルートを探そうとした。それもそうだろう。以前の“ペスカ・コシカ”からのメンバーは、リンを裏切り者と軽蔑している。新たなメンバーは、リンのことなど知りもしない。だが、トモユキは違う。トモユキにとっては、リンはかつての仲間で――以前、ほんの少しだけ心惹かれた相手だった。“ペスカ・コシカ”が潰滅させられたときは、現場にいながら一人で生き残ったリンを、裏切り者だったのではないかと疑い、憎んだこともあった。だが、そんな感情も、死に瀕したリンの姿を目にした瞬間、消え失せてしまった。 トモユキは、リンを助けると仲間たちに宣言した。すると、内戦が始まったせいで怯えていた仲間たちは、トモユキをひどく罵った。リーダー失格だ、と。 確かにその通りだった。 内戦が始まって、チームの仲間たちさえ守ることができない。それなのに、この上、重傷のリンまで抱え込んで、皆を危険にさらそうとしている。それでも、リンを救いたいというトモユキの決心は変わらなかった。 結局、仲間たちはトモユキにはついて行けないと言い、皆、思い思いに去っていった。トモユキはほとんど意識のないリンを背負って、必死に西へと向かった。ディバイドラインまでたどり着くことはできなかったが、幸い、途中で日興連の兵士に遭遇して救助された。 危ないところだった。というのも、日興連軍の病院に搬送されたリンは、傷口から細菌感染を起こして危険な状態だったのだ。それでも、幸いにも一命を取り留めた。 けれど、目覚めて片足を失ったことを知ったリンは、うち沈んでほとんど話さなくなってしまった。時折、零れる言葉から察するに、リンはどうやら以前のようには闘えなくなったことを気に病んでいるらしい。 ――こんな身体じゃ、あいつに勝てない。 ――もうカズイたちの仇を討てない……。 片足を失ってなお、気にするのが仲間の仇討ちなのか、とトモユキは愕然とする思いだった。今のリンは復讐のためだけに生きているのだと、トモユキは改めて思い知らされた気がした。きっと、そこまでリンを追いつめたのは、自分たちのせいだ、とも思う。生き残った仲間である自分や他の連中が、リン一人を悪者にして責め立てたせいで、リンは復讐を生きる目的とするしかなかったのだろう。 リンが退院できるようになると、トモユキは廃人寸前になってしまった彼を引き取って、一緒に暮らし始めた。そうでもしなければ、リンは自殺してしまいそうだった。 そして、そんなリンとの生活を守っていくために、トモユキは――内戦後、復活した麻薬組織〈ヴィスキオ〉の構成員となった。もちろん、金目当てである。働き次第では、いい給料が貰えると聞いていた。だが、それだけというわけでもない。〈ヴィスキオ〉の首領の名は、シキだと言われている。本人かどうかは分からないが、“シキ”のいる組織で働いて状況を探っていることにすれば、少しでもリンの興味を引けるかもしれない。そう思ってのことだった。 以前、〈ヴィスキオ〉に属することになったと告げたとき、普段は見向きもしないリンの目が、トモユキを見つめた。翳ったままの青い目に、意思の光が宿ったようだった。トモユキの目論見は、成功したのだ――。 「リン、今日はすげぇことがあったんだ」 トモユキはぼんやりしたままのリンに、話しかけ始めた。返答はない。普段からたまにしか言葉は返って来ないので、構わずに話を続ける。 「〈ヴィスキオ〉の幹部のナガツカって奴が、首領の家に押し入ってさ。たまたまそのとき、俺がそこの警備をしてたんだ」 「……」 「ナガツカはどうやら、首領の愛人が気に食わないらしい。愛人は男で、アキラって言う名前なんだけど……」 そこまで話したとき、リンの肩がびくりと揺れた。何か気になるキーワードがあったらしい。しかし、リンが口を挟まないので、トモユキはそのまま話を続けた。 「えぇと……そのアキラを、殺そうとしたんだ。で、俺はナガツカを止めた。首領の愛人の生命を助けたら、組織の中でもっと重用してもらえそうだろ? だからさ」 「――……」 「危ないとこだったけど、愛人は何とか救えたぜ。それで、幹部連中が俺を褒めてくれてさ……今度、昇進できることになったんだ。そのとき、多分、首領に会えると思う。ちゃんと、首領の顔、シキ本人か確かめてくるから」 そう告げたとき、リンが顔を上げて、強い瞳でトモユキを見据えた。暗いけれども、強い意思の宿る眼差しだった。表情もいつものぼんやりした様子から、キリリと引き締まっている。目覚ましいほどのリンの変化だった。 「リ……リン」 「ありがとう、トモユキ……」 リンそう言って、笑みを浮かべた。ぞっとするほど暗く、けれど妙に妖艶な微笑だった。 2012/12/16 目次 |