サードステップ2
話しているうちに、あっという間に時は過ぎて行った。これまでアキラはサッカー部のメンバーと比較的仲は良かったものの、中学時代の友人たちほどに親しくは感じていなかった。彼らとこれほどまでの長時間話し込むことがあるとは、予想もしていなかったのだ。 けれど、それは過ごしてみればそう悪くはない――楽しい時間だった。話題は他愛もないものばかりだったが、その場はとても盛り上がっていた。 皆、何度か新たに飲み物を注文しており、アキラも水の次にはジュースを頼んだ。やがて、シキとは別のウェイターが皆の注文した飲み物を運んで来る。アキラは自分の頼んだジュースを受け取り、一口飲んだ。 「あれ……?」 どうも普通のジュースとは違う味がするような気がする。しかし、店の特製ジュースだとメニューに書かれていたから、こういう味なのかもしれない。 周囲を見ても、味がおかしいと言っている仲間は誰もいない。やはり気のせいだろうとアキラは思った。 そうするうちに午後十時半が過ぎて、シキが伝票を持ってテーブルにやって来た。そろそろ帰るように言いに来たのだ。皆まだ話し足りない様子ではあったが、生徒会長を見ると慌てて帰る準備を始める。アキラも席を立とうとした、そのときだった。 なぜかゆらりと世界が揺らぎ、アキラは思わず体勢を崩す。誰かが肩を掴んで、傾ぐアキラの身体を支えた。見れば、支えてくれたのはユキヒトだった。 「悪い、ユキヒト……」 「大丈夫か、アキラ。……お前、熱いけど熱あるんじゃないか?」 「そんなこと、ないと思うけど……あぁ、でも風邪かもしれない。何か、世界がゆらゆらしてる……」 すると、眉をひそめたシキが、アキラの手前にあったグラスを手に取った。彼はそれを鼻先に近づけて首を傾げてから、口を付けて僅かに底に残ったジュースを飲んだ。皆、呆然とその様子を見守っている。 シキの行動にアキラも驚いたが、身体が気だるいため声を上げて反応する気力はなかった。ただ、それまでも室内が熱いと思っていたのが、いっそう体温が上がった気がした。シキが皆の前で自分のグラスに口をつけたことが、まるで皆にいつものシキとの口付けを見られたかのように恥ずかしかった。 「アキラ、お前、酒を飲んだだろう?」シキは言った。 「酒? 俺はジュースを注文してジュースを飲んだだけで……あ、でも少し変わった味がしたかな……?」アキラはぼんやりと首を傾げる。 シキは「酒を頼んだのはお前らか」というようにサッカー部のメンバーを見回す。その視線に皆縮み上がり、そろって首を横に振ってた。シキは自分の持って来た伝票をめくり、皆の反応に納得したようだった。 と、そのとき。一人のウェイターが、慌てた様子で駆けてきた。 「申し訳ございません! 注文を取り違えてしまって、ジュースの代わりにアルコールを……」 謝りに来たウェイターは、そこまで言ったところでシキの視線に気付き、はっと顔を強張らせえる。そのウェイターは年上でシキもあからさまに非難することはできないらしく、ため息をついた。 「……先輩。この高校生は、俺が責任を持って面倒を見ます」 「えっ……!?」 「コレは俺の後輩なので。店長に早退の許可を貰おうと思うのですが、構いませんか」 「あ……あぁ……」 慇懃ながらも有無を言わせないシキの目つきに、先輩ウェイターは頷くことしかできない。サッカー部のメンバーも、呆然と成り行きを見守るばかりだ。「あの、アキラなら俺が世話を……」とトウヤがおずおずと言い掛けたが、シキに目を向けられて慌てて口を噤む。 「シキ……俺なら平気だ。一人で帰れる。バイト中のあんたの邪魔はしたくない……」 「倒れ掛けたくせに何を言っている。だいたい、お前一人で酒の臭いをさせて帰宅してみろ、お前の母親が気を揉むぞ」 「あ……」もっともなシキの言葉に、アキラは反論の言葉を失う。 母子家庭で母親が苦労していたこともあって、アキラはこれまで母親に反抗らしい反抗をしたことはない。せめて母親の負担を減らすため、自分のことで面倒を掛けまいとしてきた。そんな息子が突然酒の臭いをさせて帰宅したら……母親はどう思うだろう。『羽目を外しただけ』と解釈してくれればいいが、シキの言うように『息子は非行に走った』と心配されるかもしれない。それはアキラの望むところではない。 もし母親の信頼も篤いシキが一緒ならば、両親もアキラの飲酒を非行とは思わないにちがいない。とはいえ、そんなこちらの都合だけで、シキのバイトの邪魔をするわけにもいかないではないか――。 やはりここは自力で親に釈明すべきなのだ、とアキラは覚悟を決める。けれども、それをどう告げようかと考えているうちに、シキはさっさと行動を始めてしまっていた。シキはサッカー部のメンバーに後は任せて早く帰宅するようにと言い、自分は厨房の方へ歩いていく。そして、ほんの数分で店長から早退の許可を貰って戻って来た。 「早退の許可が下りた。アキラ、店の表で待っていろ。着替えてすぐに行く」 「だけど、あんた本当にバイトは……」アキラはまだためらいを感じて言った。 「構わんと言っている。どうせもう今日は早退することにしたんだ、大人しく俺を待っていろ」 「あ、あぁ……悪い」 半ばシキの勢いに押される形で、アキラは仲間とは別れてシキと帰ることに決まった。会計を済ませて店を出たところで、「それじゃ、俺はここでシキを待つから」アキラは皆に別れを告げる。 「じゃあな、アキラ」 「生徒会長に付き添われて帰るなんて、大変だな。頑張れよ」 「夏休み中、また遊ぼうぜ!」 サッカー部のメンバーはそれぞれの言葉で別れを告げ、通りを元来た方へ帰っていく。とりわけ、部長としての責任感のためかトウヤはひどく申し訳ないと感じているようで、帰る間際までアキラを気遣った。 「悪かったな、アキラ。調子に乗って酒を出す店に連れて行ったばっかりに……」 「トウヤのせいじゃない。酒とジュースが入れ替わってたのは偶然だし、俺だって変だと思いながら飲み続けたんだから自業自得だよ。――それより、今日は誘ってくれてありがとう。楽しかった」 「そっか。アキラが楽しかったならいいんだ。だったら、これに懲りず夏休み中また誘うぜ!」 シュンとしていたのが少し元気になって、トウヤはアキラに手を振ると先を行く仲間たちを追う。 一番最後まで残っていたのは、ユキヒトだった。シキと帰ることになったアキラを心配していた他の仲間たちとは違って、ユキヒトはなぜか面白がるような微笑を浮かべている。 「生徒会長さ、お前が倒れそうになったとき、かなり慌ててたぜ。冷たそうに見えて意外と過保護だよな、あの人。俺は情報屋の関係で少し付き合いがあるけど、あんな一面があるなんて初めて知った」 「そう、か? シキは案外面倒見がいいと思うけど……」 「あぁ、きっと根本的にはそうなんだろうな。学園祭にしろ何にしろ、皆、結構生徒会長を頼ってるんだから、面倒見がよくなけりゃやってられない。……でも、あの人はそういうコト表に出すタイプじゃないだろ。だから、皆気づかない」 「あぁ、シキはそういうところ、あるよな。不器用なのかな……何でもできるのに」 あぁ、でもシキのそういうところが、自分は――。不意に胸に湧きだしてきた温かな感情に、アキラは気づかないうちに微笑を浮かべていた。 ユキヒトが全て見透かしたような微笑でこちらを見ていたが、やがて仲間たちに呼ばれて帰っていく。そうして、アキラは店の前にに一人になってしまう。手持ちぶさたになり、シキを待つ間に時刻でも確認しておこうと携帯を取り出したアキラは、画面を開いたところでメール受信ありの表示に気づいた。 ――そういえば、ユキヒトから写メが送られて来ているはずだ。 何となく緊張しながら、アキラは受信したメールを確認した。受信ボックスにはユキヒトからのメールが入っており、そこにはあのシキの微笑の写メが添付されている。 写メを見ながら、アキラはいつの間にか微かに笑みを浮かべていた。 普段のシキには珍しい――けれども、時折二人でいるときに見せることのある――ごく微かな笑み。アキラはこのシキの表情が好きだった。シキの内面の優しさや繊細さを、垣間見るかのような気がするから。 もちろん、普段の無表情だって、作りものではない。皆に見せる冷静な表情も、冷たいほどに苛烈な眼差しも、厳しさも全てシキ自身のもの――シキの中にあるものだ。それはよく分かっている。そうしたシキの一面もまた、シキらしいと思える。 けれども、他人にも自分にも厳しいばかりでは、きっとシキだって疲れてしまう。だから、時には表情を和らげてリラックスすればいい――先日は結局そう言おうとして関係がギクシャクしたわけだが――今でもそう思う。 もしも、ユキヒトが言ったように、シキのこの笑みが自分に向けられていたのなら。自分がシキを笑わせることができたのだとしたら。自分が少しでもシキをリラックスさせられるのだとしたら。 とても嬉しいし、誇らしい。 「――アキラ」 私服に着替えて裏口から出たらしいシキが、建物の裏側から通りへ現れる。アキラは思わず慌てて携帯の画面を閉じた。別にシキに見られても問題はないのかもしれないが、何となくこの写メのことを知られるのは気まずい気がしたのだ。 「どうした、アキラ?」 「い、いや、ユキヒトからメールが来てただけだ」 「そうか。では、送っていく」 「すまない。あんたには迷惑をかける」 「気にするなと言っているだろう」 アキラは携帯をジーンズのポケットに滑り込ませ、シキの隣に並んだ。 *** 夜の繁華街の通りを進みながら、シキは隣を歩くアキラを窺う。店を出るときは少しぼんやりしているものの普段通りだったアキラだが、今はふらつき歩みも遅れがちになっている。先ほどからシキは歩くペースを落としているのだが、それでもアキラとの距離は開きがちになる。 今になって酔いが回ってきたのだろう。 気がつけば隣にいたはずのアキラの姿はなく、振り返れば十数メートル後ろで立ち止まってビルの壁に寄りかかっている。アキラが立ち止まったことに気づかなかった自分に内心舌打ちしながら、シキはアキラの元へ歩いていった。 「大丈夫か、アキラ。気分が悪いのか?」シキは尋ねた。 「いや……大丈夫……ちょと目が回って……頭がぼんやりするだけで………………」 「――おい、アキラ」 あまりに長い沈黙を不審に思い、シキが声を掛けたときだった。かくっとアキラの頭が項垂れるが、彼はすぐに我に返って顔を上げる。 「……あれ……シキ、今何て……?」 「いや……眠いのか?」 「だい、じょう……ぶ……ちゃんと……帰れる……」 その言葉の途中でも、早くもアキラはその場に崩れ落ちそうになる。シキはアキラの肩を掴んで身体を支えた。 この様子では、アキラは歩いて帰宅することは不可能だろう。自分が背負って行くにしろ、今のこの場からアキラの家までは距離が遠すぎて無理だ。となると――。 シキは辺りを見回し、すぐ目の前にビジネスホテルの看板を見つけた。 (あそこで、アキラを休ませるしかないか……) あと数メートルほどならば、シキでも泥酔したアキラを抱えてたどり着けるだろう。アキラの両親には、アキラは自宅に遊びに来て泊まることになったとでも連絡を入れれば問題ない。そうするしかない、とすぐに結論する。 その一方で、それしか方法がないわけではないのだと、実はシキも頭の片隅で気づいていた。たとえば、タクシーを呼んでアキラを自宅まで運べばいい。高校生という身分からすれば、そうするのが最も適切な行動と言える。 けれども。 どうしても――離れ難い。 シキはアキラの肩を支える手に、少し力を込めた。普段よりアキラの高い体温が衣類越しに伝わってくる。酒とアキラの匂いの入り交じった匂いが、ふわりと嗅覚に触れる。ネオンの光を頼りにアキラの顔をのぞき込めば、彼はうとうとしているらしかった。じきに眠りに引き込まれそうな、無防備で安心しきった顔をしている。その顔にシキはふと友人たちと笑い合っていたアキラの、寛いだ様子を思い出した。途端、胸の中でどろりとした感情が湧き出す。 アキラに友人ができればいいと思っていた。それは今でも変わらない。ただ、その一方で春にはクラスメイトにも誰にも心を閉ざしていたアキラが、今では仲間ができて仲間たちと笑い合っているのだ。それが、少しだけ面白くないと感じた。 ホテルに泊まったとしても、決して前回のようにアキラを傷つける気はない。傍で眠るだけでいい。ただアキラの友人たちよりも、自分はアキラに近いところにいる――そう思える根拠を欲している。だからタクシーを呼ぶという選択肢を、ほとんど意図的に捨ててしまった。 シキは静かにため息をついた。 一体いつから自分はここまで卑怯になってしまったのか。初めはただアキラに構いたい、触れたいという無邪気な感情であったはずなのに、いつの間にか得体の知れないどろどろとした感情に捉われている。女子と付き合ったことがないわけではないが、こんな重苦しい感情を抱いたのは初めてで困惑する。このままでは心が身動きできなくなりそうだ。そればかりか、この感情のためにアキラを傷つけそうだ。アキラを誰にも渡したくはない――少しずつ強まってきている独占欲を、慎重に押さえ込む。 「――もう、決して、傷付けはしない……」 自分に言い聞かせるように呟き、シキはほとんど意識のないアキラの肩を支えてホテルへ入った。 (2009/12/27) 目次 |