サードステップ3





 火照った頬にひんやりしたシーツが触れる。その心地よい感触で我に返り、アキラはゆっくりと目を開けた。
 一瞬自宅の自分の部屋に戻ったのかと思ったが、目を開けて見ればそんなことはない。見たこともないその部屋は――まるで、ホテルのようだった。
(ホテルっ……!!?)
 アキラはふわふわした気分から一気に我に返って、勢いよく起きあがる。改めて見れば、そこはベッドが二台とテレビがあるだけの、いかにもホテルの一室といった感じの部屋だった。これはどういうことなのか。慌てて部屋を出ようと、ベッドから立ち上がろうとする。が、足がふらついてくたりとベッドに尻餅をついてしまった。
「目が覚めたか、アキラ」ドアの方からシキが姿を見せる。
「シキ……ここは? 俺はどうしてここにいる?」
「ここはホテルだ。自分が酒を飲んだことは覚えているだろうな? 俺はお前を連れて帰ろうとしたが、お前は路上でほとんど眠りそうになった。お前に眠られては、俺一人で抱えて帰ることはできん。だから、傍にあったホテルに部屋を取って、お前を連れてきた」
「っ……そうなのか……ごめん。俺、あんたに迷惑掛けてばかりだ」
「構わん。それより、もう遅い。帰るのは明日にして、今は両親に電話を入れておけ。俺の家で勉強していて遅くなったと言えばいい。俺も両親に説明してやる」
「あ、あぁ……」
 確かに、さっきもちゃんと立ち上がれなかったくらいなのだから、そうする以外に方法はない。言われるがままに、アキラは携帯を取り出して自宅に電話を掛けた。
 電話に出たのは母親で、心配そうな様子を申し訳ないと思いながらも、シキに言われた通りの言い訳を伝える。それから、シキが交代して更に母親に事情を説明してくれた。もともと両親は家庭教師としてシキをたいそう気に入っているので、すんなりと言い訳を信じてくれたようだった。
 最後にシキが挨拶をして、アキラの携帯の通話終了ボタンを押す。
「すまない、シキ。俺のせいで言い訳なんかしてもらって……」
「気にするな。帰るより泊まった方がいいと判断したのは、俺だからな」
「あぁ」
 アキラはシキの手から自分の携帯を受け取ろうとする。そうして丁度携帯に手を掛けた瞬間に、アキラの指先がどのボタンかに触れてしまう。あっと思ったときは既に遅かった。
 メールが起動して、最新であるユキヒトのメールとそこに添付された画像――つまり、シキの写メが画面に表示される。シキもアキラも言葉もなく、その写メを見つめるしかなかった。
「……これは、何だ?」ようやくシキが声を発した。
「ち、違うんだ! 俺が隠し取りしたわけじゃなくて、たまたまユキヒトが学園祭のときのあんたを撮ってたから、記念にって送ってくれただけで……――でも……その、ごめん。あんたの許可もなくあんたの写メを写すなんて、良くなかったよな。もちろん、持ってるのも」
「いや……そういうことではないんだが……――こんな写メなんか持っていて楽しいのか、お前は。写メに熱中するタイプとも思えんが」
「楽しいっていうのは、何か違うけど…………とにかく、消したくない。もっとも、あんたが許してくれるなら、だけど」
「別に無理に消せとは言わないが……――そうだな、ならば後で俺もお前を撮らせてもらう」
「え!?」
「当然だろう。お前が俺の写メを持っているのならば、俺がお前の写メを持てば公平だろう」
 お互いが写メを持ち合うことが、何に対して公平なのだろう。そもそも、こうした場合に問題は公平・不公平の点だろうか?アキラには、よく分からなかった。けれども、シキの出した条件を呑まなければ、シキは写メを消せと言うかもしれない。それは嫌だった。この写メのシキの表情を、とても気に入っているから。
 そこで、アキラはシキの条件を呑むことにした。もともと、写メ――というより写真全般が何となく好ではない。普段のアキラなら、写メを撮らせろと言われれば躊躇っただろう。けれども、既にトウヤたちに撮られた写メが、仲間たちに披露された後だ。この後に及んで自分の写メを持つ人間が一人増えたところで、どうということもない。
「その条件で構わない。あんたが俺を撮ったらいい」
 写メを撮られることに早くも身構えながら、アキラは言った。すると、シキは数秒じっとこちらを見下ろしていたが、不意に手を伸ばしてぐしゃりとアキラの頭を撫でた。
「わっ……いきなり何を……」
「今は、いい。そんな風に今撮られるか今撮られるかと緊張した顔を写しても、面白くないからな。また今度だ」
 そう言うシキの白い面には、いかにも「しょうがないな」と言いたげな苦笑が浮かんでいる。シキの笑みを見るのは初めてでもないのに、その笑みにどきりと鼓動が跳ねる。
 ふと、アキラはあることに気づいた。
 そういえば、今夜このホテルに泊まるということは、シキとこの部屋で一緒に寝るということなのだ。そのことは、男同士だしツインの部屋なのだし、本来ならば動揺することでもない。けれども、先日シキに襲われかけたときの光景が脳裏に閃き、どうしても緊張感がこみ上げてきてしまう。
 急に黙り込んだアキラの気持ちを察したのか、シキはアキラの頭に乗せていた手を引き、二歩ほど後退して距離を置いた。
「案じるな。この間のようなことはない。……俺は、お前が望まないことは、何もしない」
「……!」不安を気取られてしまった。こちらが不安を見せたせいで、シキを傷つけたかもしれない。そこで、アキラはシキの手を掴んだ。「――分かってる。俺は怖がってるわけじゃない。あんたのこと、ちゃんと信じてる」
「あぁ」


 とにかく眠る前にシャワーを浴びて来い、とシキは勧めた。
「酒の臭いが身体に染み着いているぞ。それで帰宅すれば、両親に酒を飲んだことがバレる」
「そっか……そうだよな。シャワー、使うよ。あんたは浴びないのか?」
「後でいい。――そういえば、アキラ、お前、ちゃんとシャワーを浴びられるか? 無理そうなら、明日の朝酔いが覚めてからの方がいいだろう」
 少し考えてから、アキラは首を横に振った。一度シキに指摘された後では自分の身体の酒臭さが気になったし、このまま眠るのは気持ちが悪い。気だるい身体を気力で動かして、アキラはベッドから立ち上がる。よろよろと部屋の隅へ歩き、そこにあるドアを開けようとする。と。
「……アキラ。そこはクローゼットだ。バスルームは反対側だ」
「あ……そっか」
「本当に大丈夫か? 何かあったらすぐに俺を呼べ」
「分かった」
 アキラは頷いて正しいドアを開け、ユニットバスになっているバスルームへ入っていった。浴槽に湯を張りながら衣服を脱ぎ、半ばまで湯が溜まったところで浴槽につかる。湯の中で足を延ばすと思いの外心地よく、ほっと息が漏れた。
 それにしても――とリラックスしたところで考えるのは、シキのことだ。
 シキと二人で今夜眠る。そのことばかりが頭に浮かんで、どうしても緊張してしまう。けれど、決して嫌な緊張ではなかった。ただ普段の自分ではないような妙に浮ついた気分が、さっきから続いている。
(望まないことは何もしない、か……)
 ならば。こちらが嫌がらなければ、この前の続きをする気がシキにはある、ということなのだろうか――。そのことばかりを繰り返し考えてしまい、やがて考え疲れたアキラは目を閉じた。

 いったい、自分は何を望んでいるのか。
 これから、どうすればいいのか。

 考えているうちに、うとうとしてしまったらしい。はっと目が覚めたとき、「アキラ!」と呼ぶ声と同時に勢いよくドアが開き、シキが飛び込んできた。
(っ……シキ!?)
 突然のことにアキラは驚いて、こちらを見られたくないあまりとっさに浴槽の水をすくい上げ、シキへとかける。
「アキラっ……――なぜ湯をかける……俺はお前が遅いから、様子を見に来ただけだが?」
「うわっ、わ、悪い! 勢いで、つい……」
「何の勢いだ、何の」
「本当にすまない」
 アキラはしゅんと俯いて、続きの小言を待つ。けれど、シキはそれ以上は言わずに、ふっとため息をついただけだった。
「まったく――……お前の衣服も水飛沫で濡れてしまっているな。……まぁいい、クローゼットの中に浴衣があったはずだ。お前も俺も、今夜は浴衣で過ごすしかないな」
「う……すまない」
「気にするな。夏場のことだ、その辺りに掛けておけば湿気はすぐに取れるだろう。もしも明日の朝まだ湿っていたならば、帰る前に俺の家に寄って俺の衣服を着て帰ればいい」
 てきぱきとシキは言って、クローゼットから浴衣を出してくる。アキラはシャワーを浴びてそれに着替え、バスルームを出た。それと交代に、今度はシキがバスルームへ入っていく。
 シキの背中を見送ったアキラは、二つあるうちの奥のベッドにくたりと倒れ込んだ。柔らかなシーツに顔を埋めて、自己嫌悪を噛みしめる。
 本当に、自分はシキに迷惑を掛けてばかりだ。シキのことを知りたい、もっと傍で接したいと思うけれど、こうも迷惑を掛けてばかりでは傍にいない方がいいのかもしれない。もしかしたら、シキだって今日のことに呆れ返って、同じことを考えているかもしれない……そうだったら、どうしたらいい?
 考えているうちに、うつらうつらと眠りに落ちていきそうになる。シキが傍にいると思うせいだろうか、微睡みの中でアキラは再びシキに襲われたときの夢を見た。けれど、あのときの夢のはずなのに、少し状況が違っていた。自分はシキを待ち望んでいて、彼の手が、唇が触れると疼くような甘さが腰へと落ちていく。その感覚に、恥も自制も忘れて望んでしまう――もっと触れてほしい。
『ぅ……シ、キ……』
 夢の中で、アキラはシキを呼んだ。そのとき。

「何だ?」

 現実の音で答えが返ってきて、アキラははっと我に返った。慌ててベッドの上で起きあがれば、シキは既にバスルームから出てきており、ベッドの傍に立って髪を拭いているところだった。
「俺を呼んだだろう、アキラ?」
「い、いや……」ふるふるとアキラは首を横に振る。
「違うのか。ならば、あれは寝言か。声を掛けて起こしてしまって、悪かったな」
「寝言……何て言ってた?」
「俺を呼んでいただけだ。……しかし、夢にまで出してもらえるとは、光栄だな」シキはおどけた調子で言った。「どんな夢だったんだ?」
「っ……!」
 どんな夢かと訊かれても、まさかシキに触れられる夢だなんて言えるはずもない。しかも、以前実際に起こったように強引にではなく、夢の中では自分も望んでいただなんて――。
 アキラは顔に血が上っていくのを感じた。それを隠そうと体勢を変えようとして、あることに気づく。性的な夢を見ていたせいか、股間が反応しているのだ。勃ち上がりかけたそこは、浴衣の布を分かるか分からないかという程度に押し上げている。
 あまりの恥ずかしさに混乱したアキラは、とっさに膝を抱えて座り、「見るな!」と叫んでしまった。
「アキラ?」
「……頼むから、見ないでくれ」
「どうしたんだ?」
「……何でもない、から」
 恥ずかしさと情けなさで、アキラは抱えた膝の上に顔を伏せてしまう。すると、シキが近づいてくる気配があった。「どうした?」僅かに心配の色を滲ませた声音と共に、シキの手が宥めるように頭を撫でる。
 それでもアキラは顔を上げられず、ただただ首を横に振った。
「アキラ。言わなければ分からない。どうした? ――たとえどんなことであっても、俺は笑わないし、馬鹿にしない」
 シキの声は、真摯だった。宥める声の調子はいかにも慣れていて、シキが兄弟の長男であるということを思い出させる。もしかしたら、弟をこんな風に宥めたことがあるのかもしれない。
 そう思いながら、アキラはふっとシキに話してみてもいいかもしれないという気分になる。どうせここまで過剰反応してしまった以上、理由を教えなければシキだって気になるだろう。
 これ以上、シキに気遣いをさせるわけにはいかない。
 腹を決めて、アキラはおずおずと立てた膝を伸ばしていった。シキは今度は間近にいたためにすぐにアキラの状態に気づき、目を丸くする。
「――分かっただろ……。最近、あんたのことを考えると、こうなることがあるんだ。気持ち悪いだろ。笑いたいなら、笑えば――」
「馬鹿が」そう言って、シキはふわりとアキラの頭を抱き寄せる。「俺は、笑わないと言ったら笑わない。それに、別に『そう』なるのは、可笑しいことではないだろう」
「だけど! 俺もあんたも男なんだぞ」
「当たり前だ。身体の構造から言って、男でなければ勃たん」
「いや、だからそういう問題じゃなくて!」
「惹かれていれば、触れたいと思うのは当然のことだろう。そもそも、お前が『そう』なることがおかしいなら、お前を襲いかけた俺はもっとおかしいことになる。――それにしても、」

 お前が俺に触れたいと思っていてくれたとはな。

 シキの声に嬉しそうな色が混じる。胸に抱き寄せられているのでアキラにはシキの顔は見えなかったが、決して嫌悪しているわけではないということは伝わってきた。
 そうしたら、ほっと安堵を感じてしまった。アキラはシキの腕の中で緊張を解き、少しだけ甘えるように彼に身を預ける。「……だけど、俺はあんたのことを考えながら、一人でしたんだぞ」言う必要はなかったのだがそう言ったのは、多分拒絶されるなら早いうちがいいと思ったからだった。けれど。
「それがどうした。俺もそのくらいはしたことがあるが?」
「は!?」驚いて、アキラはシキから身体を離し、まじまじと彼の顔を見上げた。彼は、いっそ憎らしくなるくらい普段通りの顔をしている。「あんたが、一人で!?」
「一人でしたら悪いのか」
「いや、悪くないけど。あんた、女にモテそうだから」
「あいにく、俺は一つのものに気を取られたら、他のものにまで気を回せるほど器用ではない」
 シキは静かに言い切った。言葉だけならばそれは自身の欠点の告白なのだが、態度が余りにも堂々としているので、自慢にさえ聞こえる。いかにもシキらしくて、アキラは少し笑ってしまった。
 そして、はっと気づく。
 今、シキは自分のことを考えながら、一人でしたことがあると言った。ということは、自分に気を取られているから、他のものは見えないということなのだろうか――。
(だとしたら、すっごい殺し文句だよな……それ、女に言えばいいのに。いや、それはそれで何だか嫌だけど……)
 アキラはまたじりじりと頬が熱くなっていくのを感じた。
 見上げれば、シキもじっとこちらを見下ろしている。彼も会話が途切れたのを続けるわけでもなく、かといって自分のベッドへ行くわけでもない。動くことを躊躇っている様子だ。
 気まずさを感じながらも、アキラはふとこのままシキの傍近くにいたいと思っている自分自身がいることに気づいた。隣同士のベッドで眠るのではまだ遠い――もっと近くにいたい――離れ難い。
 シキが動くことを躊躇っているのは、自分と同じ気持ちだからかもしれない。けれど、こちらに手を伸ばせないでいるのは。

『この間のようなことはない。……俺は、お前が望まないことは、何もしない』

 以前の公園での出来事とその後の自分の態度が、シキを縛っている。だから、自分が意思を示さなくてはならない。
 アキラは、緊張で震えそうな手でシキの手を取った。そして、シキを見上げながら口を開く。

「あんたは、俺が望むなら、触れてもいいと思うか?」







(2010/01/03)
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