サマー・タイム2
先に口を利いたのは、シキの方だった。 「練習試合に出ていたな。グンジのチームにに負けていた」 挨拶も前置きもなく、シキは言った。声の調子は軽く嘲笑うようだったが、紅の目に悪戯っぽい光が浮かんでいる。 そのシキの表情で、アキラはやっと自分とシキの距離感を測ることができた。 要は、これまで通りやればいいのだ。たとえ身体の関係があるにせよ、男女の恋人同士のように振る舞わなければならないというわけではない。シキはそういうつもりらしかった。アキラにとっても、その方が気が楽だった。 「何だ。あんた、見てたのか。でも、夏期特別講座の授業の期間でもないのに、何で学校にいるんだ?」 「生徒会の仕事があってな。俺も一応は受験生なのだがな、まったく人遣いが荒い」 シキはため息をついた。しかし、その顔には余裕がある。本気で愚痴を言っているわけでなく、これも冗談半分らしい。 それでも、これに関してはアキラは一緒になって笑う気にならなかった。 確かにシキは高い能力を持っている。だが、それに慢心することなく努力も惜しまない性分だ。教師にしろ学園高等部の生徒にしろ何かとシキに頼っているが、そのために割いた時間のせいで、シキはどこかで無理をしなければならなくなる可能性だってある。 「また、この前の学園祭みたいに無理するなよ。ちゃんと寝ろよ」 「心配してくれるのか。だが、」シキは今度こそ少し笑った。悪戯っぽく。だが、少し嬉しそうに。「余裕でなければ、用事が終わった後にこうして図書室で本を物色したりはしないな」「……心配して損した」 「まぁ、そう言うな。……お前こそ、真面目に勉強しに来たのか? そうしてくれると俺は助かるが、図書室で勉強するタイプには見えんな」 「本を探しに……あと、ちょっと勉強しようと思ってきたんだ。悪かったな。柄じゃなくて」 アキラは仏頂面を作ってみせた。 確かに、柄じゃないことをしている自覚はある。実は今だって進んで図書室を利用するなんて、気恥ずかしいくらいなのだ。それでも、そんな気恥ずかしさをも越えて今は望むことがある。 シキに近づきたかった。 勉強を教えてもらう中で、アキラはシキの頭の良さを知るようになった。それは成績の良い同級生たちの賢さとは、またどこか違う種類のもののようだった。シキは――何というか、将来に悩む多くの他の同級生と違って、自分のすべきこと、越えるべきものをもう見出だしている。そのために、自分というものをはっきりと持っている――そんな風なのだ。 アキラは、成績を上げたいとはあまり思わなかった。むしろ、シキに惹かれてその考えを知りたいと思っている。だから、少しでもシキに追い付くために学びたいというのが、アキラの心境だった。が、そんなことは恥ずかしくて、シキに言えるわけはない。 言えるわけはないのだが、シキのからかいようには、こちらの気も知らずにと、少し腹が立った。 「からかって悪かったな。何の本を探している? 一緒に探してやろう」 「いいよ。有名な本だし、きっとすぐ見つかるから。ほら、あんたがこの前家庭教師の授業のとき言ってた本だよ」 「あぁ、あれか。あの本ならこの棚にあるぞ。アキラ、ここだ」 シキに言われて、アキラはシキの隣に並んだ。見れば確かにシキの指さす場所に目的の本が並んでいる。アキラは礼を言おうとシキの方へ顔を向けた。 途端、こちらを見ていたシキと視線が絡む。アキラは目をそらすタイミングを失い、シキもまた視線を向け続けたので、二人はしばらく見つめ合ったままでいることになった。 やがて、ゆっくりとシキの顔が近づいてきた。口づけられる――その予感に身が竦む思いなのにもかかわらず、気がつけばアキラも自分からシキに顔を近づけていた。 唇が重なり合う。シキはごく浅くアキラの口内に舌を差し入れ、ゆるくかき回した。アキラは舌でシキの舌の動きを追ってみる。思わず夢中になりかけたところで、シキの方が唇を離した。 「っ……バニラアイスの味がする。少し甘すぎるな、これは……」 甘すぎるものは苦手なのだろう。シキは眉をひそめ、ちょっと舌を出してみせた。その、いつになく子どもっぽい表情に惹かれながらも、アキラは恥ずかしくなった。そのことを、怒ってみせることで隠そうとした。 「さっきアイス食べたから。嫌なら、しなきゃいいだろっ……」 「冗談ではないな。たとえお前が砂糖の塊を食った後でも止める気はない。先日の朝別れてから、お前に触れたくて仕方がなかった」 「っ……」 アキラは束の間言葉を失った。まさかシキがそんな直球で返すタイプとは、予想していなかったのだ。が、アキラが戸惑うのを見越した上での言葉なのだとすれば、その意地の悪さはシキらしくもあるかもしれない。 そうしてアキラが戸惑っている間にも、シキはまた顔を近づけてくる。アキラは戸惑いながらも大人しくそれを受け入れた。 唇が重なり合い、口づけが先ほどよりも深いものになる。舌を絡め取るシキの舌の動きに、アキラは身体の奥で微かに熱が生まれるのを感じた。慌ててシキの肩を叩き、逃げるようにして顔を離す。弾みで背中が書架にぶつかった。 「……どうした……?」呼吸が乱れたのを整えるように抑え気味の声で、シキが尋ねた。 「……っ、もうこれ以上は……その……ぅ……同性なんだから、分かるだろっ……!」 「反応したなら、口でしてやろうか?」 「っ……あんたは、何でそういうことをサラッと……!」 「どうせ人は来ないだろう。カウンター担当の教師も、さっき俺にここを任せて会議に行った」 「たとえ人が来なくても、ここでは駄目に決まってるだろ! ――……っていうか、そんな風に性欲の解消みたいにあんたとしたくない。あんたのことを、ちゃんと特別なんだって思いながらしたい」 こんな考えは子どもっぽいのかもしれないけど、と付け加え、アキラはおずおずとシキの目を見つめた。シキは少し驚いたような表情をしていたが、やがてふと息を吐いた。 「俺にとっては、どちらも同じことだ。処理だとしても、したいのはお前が特別だからだ。――……だが、そうだな。お前の言う通りだ」 微かに熱を孕んだシキの声音に、背筋がぞくぞくする。それが期待なのか恐れなのか判然としないまま、気付けばアキラは身体を強張らせていた。 それに気付いたのか、気付きはしていなかったのか。シキは静かに「たが、」言葉を接ぐ。「そうだな……お前の言う通りだ」そうして、急にまたアキラを抱きしめた――というか、だらりとアキラに寄り掛かってきた。 「シキっ!? どうした……――っていうか、重い」 背中を叩いてそう訴えるが、シキはお構いなしに体重をかけてくる。細身にしては意外に……、いや、標準的な男子高校生として当然というべきか、シキは重かった。とうとう支えきれなくなって、アキラはずるずるとその場に座り込んだ。 「……シキ、こんなとこで……」 「分かっている。これ以上は何もしない」 「何もしないっていうか……この体勢が既に、誰か来たら困るだろ」 「夏休みの、しかも補習もない日の図書室に来る物好きなどいるものか。どうせ貸し出し係の教師もしばらく戻らん」シキはアキラの肩に額を押しつけたまま、先ほどとは打って変わって眠そうな声で言った。そうして、実際に付け加えた。「……眠い……五分だけ、このままで」 眠いってあんた、夏休みだからってバイトや勉強でまたろくに眠ってないんじゃないか。咽喉元までその言葉が上がってきたが、結局アキラはシキをこのまま休ませてやることにした。背中の書架に身体を預け、力を抜いてシキの身体を受け止める。クーラーが効いているとはいえ身体を密着させていると暑く、シャツの下の皮膚じわりと汗が浮かぶのが分かった。それでも、不快とは思わなかった。 動かずただ身体を重ねているだけで、多くのことが感じ取れた。シキの落ち着いた呼吸や鼓動、力の抜けた身体――本当にリラックスして身を預けてくれているのだと分かる。これは、シキなりに甘えてくれているということなのかもしれなかった。 アキラは自分自身もまた、落ち着いていくのに気づいた。体内で煽られた熱もゆっくりと静まっていく。けれど、それはたとえば自慰をした後のように熱が散って冷えていくのとは、全く違っていた。熱は静まったが、心が浮き立つようなふわふわした感じはゆっくり治まって、温かさに変わった。 ただ触れあっている今このときが、とても幸せだと思った。 五分経ったのかどうか。やがて、シキは自分から身体を起こし、立ち上がった。その顔は普段の取り澄ました無表情だ。それがシキという人間なのだと分かっていても、アキラは少しだけ戸惑いを覚えた。 「そんな呆けた顔をするな」シキは苦笑しながら、今度こそ書架からアキラが探していた本を取った。「貸し出し手続きをしてやろう」 「あ、あぁ……ありがとう」 促されるまま、アキラはシキについてカウンターへ向かう。 シキはカウンターへ入ると、そこにあったパソコンを操作して、馴れた手つきで貸しだし手続きを行っていく。アキラはもの珍しくて、カウンターの外からシキの手元をのぞき込んだ。 「慣れてるな」 手続きが終わったら、帰らなければならない。何となくそんな雰囲気のような気がして、その時間をもう少し先延ばしにしたくて、アキラは他愛もない言葉をシキに掛ける。 「ああ、まぁ、普通の生徒よりはよくここに来ているからな。そうしたら、貸し出し係の教師に時々手伝いを頼まれるようになった」 「バイトして、勉強もしてるのに、よく時間が作れるな」 「そうは言っても、三年で生徒会長になってからはそんな暇もなくなったが……――アキラ、できたぞ」 シキが手続きを終えた本を差し出す。それを受け取ったアキラは、もうこれで帰らなければならないだろうと思った。そのときだった。 「アキラ、そういえば夏休みに予定はあるのか?」 「え……いや、どこも行かない。父さんと母さんは、お盆のあたりに新婚旅行でイタリアに行くけど」 「あぁ、お前の両親は、今年の春再婚したんだったな……。ならば、お盆の頃にうちの別荘に来るか? ただし、家庭教師の授業の延長になるが」 「別荘!? ……って、いいのか? 俺が行っても家の人に迷惑になるんじゃ……」 「別荘には、もともと一人で勉強をしに行くつもりだった。お前が来たところで、誰も気を遣わない。ただし、遊びに行くのではないということは、お前も肝に命じておく必要があるが」 思ってもみないシキの申し出。アキラは驚きながら勢いで「行く」と言い、そう言ったことに自分でもう一度驚いた。しかし、勢いで言ってしまってよかったのかもしれない。いろいろ考えると、あらぬことまで考えてしまって、身動きが取れなくなっただろうから。 (2010/06/25) 目次 |