サマー・タイム3
・夏休み編本編はここから






 リリリリリ。どこかの林や草むらから、或いは傍の家の庭先から、虫の鳴く声が聞こえてくる。
 Tシャツの下、背中に浮かび上がった汗が、つぅと流れ落ちていく。その不快な感触にも、アキラは身動き一つしなかった。そのとき――それを目にした瞬間には、もしかすると、呼吸さえ忘れていたかもしれない。それほど呆然として、アキラは目の前の光景に見入っていた。

 誰のものだろうか、立派な別荘の玄関先。洒落たデザインの門灯の投げかける光の下に、シキがいる。別荘の関係者らしい厳格そうな老人が出てきて、応対していた。
 二人はしばらく話し込んでいた。会話の内容は、離れた場所にいるアキラまでは聞こえなかった。が、やがて――突然、シキがその場に膝を突き、地に身を投げ出すようにして老人に頭を下げたのだ。

 いったいどういうことなのか。いずれにせよ、これは見てはならないものだったのだろう。アキラは、軽い気持ちでシキの後をつけて来たことを後悔した。
 どうして、シキが土下座などしなければならないのか――。せめて理由だけでも分からないかと、アキラは無意識のうちに今日一日の記憶を手繰り寄せ始めていた。


***


 ――八月の半ばも近づく頃。
 世間で言うところのお盆休み、学生にとっては夏休みでしかないその日の早朝、アキラは最寄りの駅へ向かった。両親も同じ日に海外旅行に旅立つのだが、アキラが家を出る方が先だったため、玄関まで両親に見送られての出発となった。
 アキラの向かう先は、近場では別荘地として有名な土地だ。といっても、もちろんアキラの家は別荘持ちなどではない。先日、シキが――おそらくは、あまりに予定のないアキラに同情して――彼の家の持っている別荘に招待してくれたのだ。ただし、遊びにではなく勉強をしに行くという条件付きで。
 それでも、アキラはこの日を楽しみにしていた。他ならぬシキと、過ごせる時間なのだから。前日といわず、数日前から、アキラは期待と緊張でろくに物事が手に付かないような有様だった。今更シキに対して緊張するのも可笑しな話だ、シキとは身体まで重ねた関係なのに――そう思ってみても、自分をコントロールすることができなかった。
 別荘地までは、電車を乗り継ぎ、ローカル線に乗り換えて、二時間ほどかかる。シキとの待ち合わせ場所は、最寄り駅のロビーということになっていた。早朝、そこへ行く頃にはアキラの期待と緊張は限界域に達していて、足取りは雲を踏むような覚束無いものとなった。
 どこをどう歩いたのか。アキラは全く覚えていなかったが、それでもどうにか約束時間までに駅にたどり着くことができた。むしろ、やや早すぎるかというくらいだった。
 アキラはロビーの中央に展示されている、大きなからくり時計の前に立った。からくり時計はこの駅の顔ともいうべき存在で、待ち合わせ場所の目印として使われることが多いのだ。
 からくり時計を覆うガラスケースの中では、早朝から十二個のピンポン玉がせわしなく動いているのが見えた。ピンポン玉はベルトコンベアのようなもので高く持ち上げられ、そこから複雑に入り組んだ専用のレールを通って下へ降りていく。その動きは複雑に計算されており、十五分ごとに玉が鐘にぶつかって音を上げ、時刻を報せるのだった。
 アキラは手持ち無沙汰で、ぼんやりとピンポン玉の動きを観察していた。そうしていると、昂ぶっていた気分が次第に落ち着いてくる。もはや緊張と期待の限界点を突っ切って、感覚が麻痺し始めているのかもしれない。
 からくり時計のピンポン玉が、「カンッ!」と鐘を鳴らしたとき。ガラスケースに、ふと人影が映る。振り返れば、そこにスポーツバッグを肩から掛けたシキが立っていた。
「あ、……おはよう」
 アキラはぎこちなく朝の挨拶をした。そのときシキの背後から、ぴょこんと元気よく跳び出してきた人物があった。
 ――女の子だ。
 金髪に大きな青い目。背は低く、あどけない顔立ち。まだ中学生くらいだろうか。可愛いらしい、シキよりも取っつきやすそうな子だが、その面差しはどことなくシキとの共通点を思わせる部分があった。
(彼女ってことは……ないよな、多分。親戚の子か……?)
 アキラが首を傾げたとき、女の子が口を開いた。「兄貴、一人で勉強しに別荘に籠もるんじゃなかたんだ!?」比較的高い声――しかし、明らかに変声期を終えた男のものだった。
「……女の子じゃ、ない……のか」
 思わずアキラが呟くと、少女――ではなく少年はアキラに顔を近づけ、にっと笑ってみせた。「俺のこと? 女だと思った? 残念でした、ついて……んぐっ!」おそらく、あまり大声ですべきではない宣言をしようとした少年の口を、すかさずシキが手で覆う。
「コレは『弟』のリンだ。どうしても、俺に付いて来ると言ってな」
「んぐぐ……っ、ぷはっ……コレって言うな!」シキの手から逃れた少年――リンは遠慮のない態度で抗議してから、アキラを振り返る。「改めて……俺、リンっていうんだ。学園の中等部三年。よろしく」
「俺はアキラ。高等部一年だ。よろしく。……もしかして、最初からシキとリンで行く予定だったのか? そうだったら、俺が飛び入りしてしまって……」
「違う違う、アキラ。飛び入りは俺だから! 俺が急について行くって言い出したんだ。ちょうど友達が海の家でバイトしてて、そこに行く前に一日だけ、別荘の方に寄って行こうかなーって思って。ウチの兄貴、基本友達いないから、どうせ薄暗く勉強するだけなら、俺が飛び入りしたっていいだろうと思って! 気を遣わせてゴメンね」
「いや……」アキラは首を横に振った。
「――そこで謝罪するのは、アキラに対してだけか。薄暗いだの何だのと、散々暴言を吐かれた俺の立場はどうなる」
 シキが顔をしかめる。しかし、リンは爽やかな笑顔で「ない」と言い切った。


***


 三人は電車に乗り込んだ。途中でローカル線に乗り換え、更に一時間電車に揺られる。辺りは、建物の建ち並ぶ街の風景から、奥へ進むにつれて次第に緑が多くなっていく。
 列車は途中で二両編成になった。それでも車内はがらがらだった。ほとんど人のいない車内で、アキラたちは四人掛けのボックス席に座り、車窓を眺めたり話をしたりした。
 二時間の旅の間、時間だけはあり余るほどであったので、アキラはリンとも話して、リンのことをよく知るようになった。リンはシキとは全く違って人懐っこい性格をしていて、積極的に会話をした。
「……ねぇ、アキラ、知ってる?」窓の外を見ていたリンが言った。「今向かってる別荘地ってさ、車ならもうちょっと短い時間で行けるんだよ」
「そうなのか?」
「うん。でも、そうなると、ウチの運転手に送ってもらったりすることになるから、兄貴が嫌がったんだ。まぁ、俺も嫌だけど。……だってさ、もう子どもじゃないのに車で送迎なんて、格好悪いじゃん」
 そうこう言っていると、車内アナウンスが聞こえた。

『――次は○○、次は○○。お降りのお客様は……』

「さぁ、降りるぞ」
 シキがそう促して、自分の荷物を手に持つ。アキラとリンも慌てて、列車を降りる準備をした。
 列車は小さな駅に停まった。プラットホームは車両一台分ほどの長さで、客は二両編成の列車のうち、ホームに入る前の車両から乗り降りをした。駅舎も小ぢんまりとしていて、改札口は自動化どころか無人だ。
 話には聞くことはあったが、アキラはこうした小さな駅を実際に利用するのは初めてだった。しかし、何度か列車で別荘地を訪れたことのあるらしいシキとリンは、戸惑うこともなく、改札口に設けられた回収ボックスに切符を入れて改札を出ていく。アキラは慌ててそれを追った。
 そこから徒歩で十五分ほど。
 田圃や畑の中に伸びる道を歩いていくと、やがて遠くに幾つかの家が固まっているのが見えてきた。遠目に家と見えたそれらの建物は、近づくにつれてなかなか豪華であることが分かった。それらの建物は、みな別荘だったのだ。
 そこは別荘が寄り集まって、まるで村落のようだった。シキやリンの家のものだという別荘は、その『別荘の村』の外れにあった。建物は木造で、壁は丸太を積み上げて作られているように見える。しかし、実際に中に入ってみると、別荘としてきちんと住心地よく設計されているのが分かった。
 中に入ったアキラは、そもそも別荘に入るのが初めてだったため、感心してしばらく内部を見回していた。その間にも、シキがてきぱきとアキラやリンの使う部屋を割り振る。
「アキラ、お前はこちらの部屋を使うといい」
 シキに案内されるままに、アキラは二階の西の端の部屋に足を踏み入れた。おそらくあまりこの別荘は普段使わないのだろうに、部屋は少しも埃っぽい感じはせず、ベッドも綺麗に整えられている。
「ここって、夏の間しか使わないんだよな? それなのに、こんなに綺麗だなんて」
「あぁ。人に依頼して、定期的に掃除と換気をしてもらっているんだ。今日も、前もってここへ来ることを連絡して、掃除と食料の買い出しを頼んでおいた」
「何て言うか……俺には想像もつかない世界だ」
 午前中の時間は、結局そうした部屋の割り振りや食料の確認、食事当番の決定などで過ぎていった。
 食事当番を決めようと言い出したのは、リンだった。そういう事柄は誰か一人に偏ってしまっては不公平だ、というのである。こうして、準備に手間のかからない朝食を除き、三泊四日の間の昼食と夕食の食事当番が決められた。リンは明日には友達に会うために去ることになっているので、今日の昼食と夕食を作る。あとはアキラとシキが交互に作ることになった。
 昼前になると、リンは早速食事の支度に取りかかった。リンは意外に料理慣れしていて、てきぱきとスパゲティを茹でてナポリタンにし、サラダを添えて食卓に並べた。リンがこんなに料理上手ということは、シキもおそらく料理ができるのだろう――自分のことと引き比べて、アキラは自分の当番が来るときを思うと気が重くなった。


 午後から、アキラはシキとの約束通り、勉強に取りかかった。シキと二人、居間のテーブルで参考書を広げる。リンは勉強道具を何一つ持ってきていなかったらしく、勉強の邪魔をしてはいけないからとダイニングで携帯ゲーム機で遊び始めた。
 居間に、食事時とは打って変わって、しんとした時間が訪れた。普段家庭教師として来るときには、シキはアキラに教えるばかりなのだが、今は自分の勉強に没頭している。家庭教師の授業のときの、じっと見守る眼差しとはまた違うシキの真剣な表情に、アキラはほんの少しとぎまぎした。
(……俺は変なんじゃないだろうか)
 今まで自分の知らなかったシキの表情を見つけるたびに、嬉しくなるなんて。ろくに女の子とつき合った経験はないが――一般的には、多分、ここまで来るとかなり重傷の部類だろう。
 しかも、そのことが決して嫌ではないのだから。
「――アキラ」
「えっ?」名を呼ばれて、アキラははっと我に返った。「何だ?」
「何だ、とはこちらの台詞だ。じっと俺を見ているだろう。……どこか分からないところでもあったか?」
「えっ……いや、あの……今のところ分からないところは大丈夫だけど。――あんたが勉強してる顔、初めて見たから。すごく真剣だなって」
「見惚れていた、か? 可愛いことを言う」
「男がそう言われて喜ぶわけないだろ。――……っ、シキ、ちょっと待……」
 ふっと何かのついでのような自然な動作で、シキが顔を近づけてくる。口づける気なのだと気づいたアキラは、我に返って制止の言葉を発した。
「分かっている。隣りの部屋にはリンがいるからな」
 そう言いながらも、シキはやはり掠めるようにアキラの唇を奪って、すぐに離れた。


***


 夕方、アキラたちが勉強を終えてリンの様子を見に行くと、リンは夕食のカレーを煮込みながら携帯ゲームで遊んでいた。二人が勉強している間に、さっさと料理を始めていたらしい。
 午後六時頃にはちょうどカレーもいい具合に出来上がり、三人はカレーとサラダの夕食を済ませた。夕食の後片づけが済むと、リンは近くの川に蛍を見に行かないかと言い出した。
「蛍? いるのか?」アキラは尋ねた。
「うん、ここはいるんだ。ねぇ、行こうよ。せっかくここに来てるんだし」
「俺はいい。何度か見ているし、もう少し勉強の続きがしたいのでな」シキはそう言ってから、ちょっとアキラの方を見て付け加えた。「お前たち二人で行って来い。特にアキラは蛍を見たことがなさそうだからな、楽しんで来るといい」
 そこで、アキラとリンだけで、近くの川に行くことになった。リンは懐中電灯を持ち、勝手知ったる様子で街中よりも暗い夜道を進んでいく。アキラはただリンの後に付いていくばかりだったが、川が近づくと自然とそれと分かった。
 闇の中、水の匂いが香ったからだ。
 更に近づくと、川の上にふっと小さな光が幾つも、飛んでいるのが見えた。光は時に点滅しながらくるくると舞っている。それは、ひどく幻想的な光景だった。
 川の畔に立つと、リンは懐中電灯を消した。
「あれが、蛍か……」アキラは呟いた。
「そうだよ。アキラ、本当に初めてなんだね。見てみて、どう? 結構すごいでしょ」
「あぁ……すごく綺麗だ」
 ほとんど譫言のように返事をしながら、アキラは蛍の光を目で追い続ける。と、不意に一匹の蛍が、ふらりと川から離れて飛んでいくのが見えた。それを追って視線を動かしたときだった。
 少し離れたところに見える道を歩いていく、見知った人物――シキ。一瞬アキラは我が目を疑ったが、よくよく見てみても間違いではなさそうだった。街灯の投げかける光の下を通り過ぎた瞬間の、その人物の顔も服装も、正しくシキのものだった。
「リン……、今、シキが通ったような」
「え? でも兄貴は家にいるって……、」言い掛けたリンは、そこで急に悪戯っぽい笑みを浮かべた。「――アキラ、ちょっとだけ、後をつけてみよっか?」
「そんなことしたらシキが……、」
「だって、気になるじゃん? 何をそんなに俺たちに隠してるのかって。それに、別人だって可能性もあるわけだし」
 よーし、行ってみよう!
 リンは元気に宣言して、シキと思しき人物の立ち去った方向へ歩き出す。ためらいながら、アキラもその後に続いた。
(帰り道覚えてないから、仕方ない……)
 そう言い訳をしてみる。しかし、アキラ自身もシキが隠したがっているものを知りたくて、仕方がないというのが本当のところだった。

 十数分後には、この選択を後悔することになるとは、思いもしなかった――。






(2010/07/24)
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