サマー・タイム4







「……もう行こう、リン」

 アキラは掠れた声で呟いた。それに対するリンの返事も待たず、視界の中のシキを振り切るように背を向けて歩き出す。アキラの歩調は次第に速くなり、いつしか駆けだしていた。
 何かから逃げるように、アキラは走った。全力疾走したのですぐに息が上がり、全身から汗が噴き出す。それでも一度も止まることなく、先ほどの川のほとりの公園まで来たとき、リンの声が後ろから追いかけてきた。「待ってよ!」その声で、アキラは夢から醒めたように我に返り、立ち止まった。
 途端、急に重力が増したように、ずしりと身体が重くなる。限度を無視して全力疾走したせいだ。アキラは前かがみになり、両手を膝に当てて身体を支えながら、喘ぐような呼吸を繰り返した。そうしていると、リンが追いついて、こちらの顔をのぞき込んできた。
「……大丈夫、アキラ?」
「っ……あぁ……」
「そこの公園で、少し休んで帰ろっか……ね?」
 その言葉に頷き、アキラはリンと共に公園へ入ってベンチに腰を下ろした。自分の疲労のことはともかく、今、帰宅するシキと鉢合わせするのは不味い。それに、先ほどのような光景を見た後では、平静にシキに接するために頭を整理する時間が必要だった。
 しばらくの間、二人は黙って座っていた。
 もしかすると、リンも先ほどの光景に衝撃を受けたのかもしれない、とアキラは思った。それも無理はないだろう。何しろリンはシキの実弟なのだ。シキと共に暮らしていて、その性格――プライドの高さなどを、アキラより余程理解しているはず。
 アキラはそっと横目でリンの様子を窺った。リンの面に、驚愕や動揺を見つけだそうとした。しかし、アキラの予想に反して、リンは深く物思いに沈んだ表情で、街灯の灯りの落ちる地面を見つめていた。普段の明るさが鳴りを潜めた真面目なリンの様子は、年齢よりずっと大人びて見える。その表情にアキラは初めて、リンとシキとの間にある血の繋がりを実感させられた。
「……アキラ、さっきは驚いた?」
 ふとリンは顔を上げ、アキラへ目を向けた。リンの発した言葉はアキラに尋ねる形のものだったが、その眼差しは深く鋭く、こちらを見透かそうとしているかのようだった。
「……あぁ」アキラは、リンの眼差しに少したじろぎながら、答えた。「リンは、驚いたか……?」
「驚いたよ。アキラほどじゃないけどね。――兄貴は、プライドが高い。他人にへこへこ頭を下げるタイプじゃない。でもね、一度必要だと判断したなら、そうすることができる人間だ。だから、兄貴が土下座するってことは、太陽が西から上るよりはあり得ることなんだよ」
「シキが必要だと判断したって……なぜなんだ? シキは、あの別荘の老人に何か悪いことをしたのか?」
「俺にも分からないよ。――ただ……」
「ただ?」
「あの別荘は、関西の経済界のある大物の、幾つかあるうちの別荘の一つなんだ。その人は兄貴の母さんの父さんで……つまり、さっき兄貴が頭を下げてたジイさんは、兄貴の祖父にあたる人だよ。――あ、知ってるかもしれないけど、俺は兄貴と母親が違うんだ。だから、さっきのジイさんとは血縁もない」
「そう、なのか……」
 アキラは相づちを打ったものの、頭の中は混乱しきっていた。シキは自身の祖父に土下座していた――しかし、血縁に対してそこまでしなければならないというのは、いったいどういう事情なのだろうか。普通、他人なら土下座して謝る必要があることでも、血縁ならばもう少し軽い謝罪で許されそうなものだが。
 どういう事情があるのか、アキラには想像もできなかった。もともと母一人子一人の母子家庭で育ち、母の再婚までは祖父母も親戚もなかった自分だ。シキの複雑な家庭環境やそこにある軋轢を、頭では大変だと思っても、感覚としては理解できていない部分があるのだろう。
「……アキラは」不意にリンが言った。「さっき、どうして逃げたの?」
「それは……。シキはきっと見られたくないだろう、って思ったんだ。だから、俺たちには言わずにあそこに行ったんだろうし」
「そうだね。多分、兄貴の性格だから、それが正解なんだと思う。アキラがそういう兄貴をちゃんと分かってくれてて、ほっとした。――だけど、一つだけ」
「? 何だ?」
「どうか、アキラだけは、兄貴を美化しないでほしいんだ。学園の皆は、そうしてるでしょ? 兄貴は涼しい顔で何でもできちゃうから、皆、兄貴を美化しちゃうんだけど、そうじゃない。兄貴はただの高校生に過ぎなくて、みっともないときも、空回りするときもあるんだ。そういうところから、目を逸らさないでやって。……だって、兄貴を好きなんでしょ?」
「好きって! その……。確かにシキはすごいし、尊敬してるけど……。だけど、ええと……」
「隠さなくてもいいよ。アキラは兄貴のことが好きなんだ。それに、兄貴だってアキラのことを。――分かるんだ。だって、野生動物並に警戒心の強い兄貴が、アキラには自分の心に入ることを許して、別荘にまで連れてきてるんだもん。いつもなら、兄貴はここの別荘に、一人になりに来るんだよ」
 言いたいことを言ってしまうと、リンはぱっといつもの無邪気な表情に戻ってしまった。ベンチから立ち上がり、うんっと伸びをする。そうして、何事もなかったかのような態度で、アキラに言った。
「じゃ、そろそろ帰ろっか?」


***


 アキラとリンが別荘にたどり着いたときには、シキは既に戻ってきていた。自身も外出していた素振りなど全く見せずに、シキはアキラたちを迎えた。
「アキラ、面白かったか?」シキが尋ねる。
「あぁ。蛍、すごく綺麗だったよ。つまらない表現しかできないけど、すごく感動した」
 自分でも驚くほど自然な態度で、するりと言葉が出てきた。同時に心の中で、シキに隠し事をしているという事実に後ろめたさを感じた。
 比較的鋭いシキも、さすがに今回はアキラの内心を見抜けなかったらしい。アキラの言葉を聞いて、柔らかな微笑を浮かべると「それはよかった」と頷く。
 アキラはますます後ろめたくなって、いっそのことシキを見かけたことを打ち明けてしまおうかと思った。が、そのとき、リンが声を掛けてくる。「アキラか兄貴が先に風呂に入ってよ。俺、部屋でちょっとゲームやってるから、次空いたら教えてー」その言葉ではっと我に返ったアキラは、開き掛けた口を閉ざした。
 その日はその後、順に風呂に入り、それぞれの割り当ての部屋で眠りに就いた。先ほどのシキのことが気になってなかなか眠れないだろうと思っていたアキラだが、意外にも眠りはすぐに訪れた。長時間の電車での移動やシキと共に数時間も真面目に勉強したことで、疲れていたらしい。
 目覚めたときにすっかり朝になっていて、早くも傍の林や庭木にいる蝉が合唱を初めていた。食堂へ行くと既にシキがそこにいて、しばらくするとリンも起き出してくる。三人そろって簡単な朝食を取った。
 それが済むと、リンは慌ただしく荷物をまとめてだした。当初の予定通り、次は海の家でアルバイトをしている友人に会いに行き、しばらくそこで過ごすのだという。
「せっかく仲良くなれたのに残念だけど、またゆっくり遊ぼうね、アキラ。あっ、海のおみやげ、また兄貴に預けるから期待しといて!」
 リンは元気に手を振って、別荘を去っていった。
 そんな風にして、午前中の時間は慌ただしく過ぎた。じきに昼になり、食事当番のアキラは別荘にあった食材で手軽に焼きそばを作ってシキと食べた。リンのいなくなった食卓はやや寂しく、アキラはほんの少しだけ気まずい思いをした。
 最初からシキと二人だけなら、そんな風には感じなかっただろうか。或いは、昨夜シキが土下座する姿を目撃して、しかも本人に黙っていることの後ろめたさのせいで、気まずいのだろうか。考えてみたが、結論は出ない。
 午後からは、昨日と同じように二人で居間にこもって勉強をした。シキはアキラが訝しく思うほどに平静で、淡々と自身のすべき勉強量を消化していた。
 夕方になると、シキは夕飯にオムライスを作ってくれた。それがアキラの好物だと、シキはアキラの母親から聞いて知っていたらしい。
 夕飯の片づけを終えると、シキに勧められてアキラは先に風呂に入った。上がってきたとき、シキは玄関口で靴を履き、外へ出ようとしているところだった。
 また、昨夜の別荘に行くのだろうか。アキラは自分がそうするわけでもないのに、急に鉛でも飲んだような重い気分になった。
 どこへ行くのか、と尋ねるのは、シキを困らせることになるのだろう。そうと分かっていながら、アキラはやはり訊かずにはいらえなかった。
「シキ……どこへ行くんだ? もう暗いのに」
「この近くのコンビニだ。買い忘れたものがあってな」
「なら、俺も一緒に」
「お前はもう風呂に入っただろう? 汗をかくから、やめておけ。俺一人で行く。何かついでに買ってきてほしいものはあるか?」
「いや、いい。……シキ、気をつけて」
 これ以上、シキを困らせてはならない。そう思って素直にシキを見送ってから、数分後、アキラはそっと別荘に鍵をかけて外へ出た。夜道には、既にシキの姿はない。しかし、アキラは迷うことはなかった。シキの向かう先は、昨日シキを見かけた、あの別荘だという確信があった。
 アキラは、昨夜通った道を思い出しながら、歩いていった。覚えていると思った道筋は案外記憶に残っていないもので、目的地にたどり着くのに随分時間がかかってしまった。
 もうシキは帰ったかもしれない。
 昨夜の別荘の玄関先には誰もおらず、アキラはそう思った。そのときだった。玄関のドアが開いて、誰かが転げるように外へ出てきた。
 それが、シキだった。
 別荘から追い出されたシキは、再び起きあがって玄関のドアに取り付き、何かを訴えている。距離があるのとシキの声が小さいのとで、何を訴えているのかは分からない。
(――見ていられない)
 アキラはそう思ったが、それでも動くことができずにじっとシキを見つめていた。
 やがて、シキは諦めたのか、踵を返して元来た道を戻り始めた。このままでは鉢合わせしてしまう。アキラは慌てて回れ右し、シキに先んじて別荘にたどり着こうと早足で歩きだした。
 そうして、どれくらい進んだだろうか。
 気づけばアキラは、全く見覚えのない場所にいた。別荘の集まった地域から出てしまったらしい。そこは広いグラウンドのような場所で、見渡しても林と田圃があるばかり。誰かの別荘らしき建物一つない。
「まさか……迷ったのか……?」
 呟いた途端、アキラは心細くなった。
 全く見知らぬ土地で、こんな真夜中に道に迷ってしまうなんて。いったいどうすればいいのか。下手に動いて林の中に迷い込んでしまっては、余計に危ないに違いない。とすれば、朝までこの辺りで過ごして、明るくなってから帰り道を探すしかないだろうか――。
 アキラの不安を煽るように、風が吹いて暗い影の一群と化した林の木々がざわざわと不気味な音を立てる。どこからか、飼い犬とも野犬とも知れない犬の遠吠えが聞こえてくる。空は雲が出てきて月を覆い隠してしまい、地上を照らしていた月明かりが消え、辺りは闇に覆われた。
(――暗い)
 それは、街中では経験できないような濃い闇だった。アキラはその暗さにたじろぎながら、その場に立ち尽くすしかなかった。






(2010/08/01)
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