サマー・タイム5
アキラはじっと立ちすくんでいた。どれくらいそうしていただろうか。唐突に流れ出した電子音のメロディーが静寂を打ち破る。そういえば、別荘を出るときに時計代わりにと携帯電話をポケットに入れてきたのだった。アキラは我に返って思い出し、ズボンのポケットを探って携帯を引っ張りだした。 携帯電話の液晶画面は、着信を示して点滅している。そこに表示されているのは、シキの名だった。それを目にした瞬間、アキラは反射的に縋りつくように通話ボタンを押して携帯を耳に当てていた。 『――アキラ、どこにいる?』 電話から流れ出したシキの声音は、強ばって低かった。怒っているのかもしれない。普段なら怯んだだろうが、今のアキラにはそれどころではなかった。真夜中、見知らぬ土地で迷っていた中では、耳慣れたシキの声は救いの光のように感じられた。 「シキ……、帰り道が分からないんだ。ここがどこなのかも。俺が悪いんだ。俺が、あんたの後をつけたりしたから。……ごめん。本当にごめん」 『その話は後でいい、アキラ。――今すぐ迎えに行く。お前のいる場所の傍には、何がある?』 シキは声の調子を変え、励ますような宥めるような響きで言った。その声に元気づけられて、アキラは顔を上げて辺りを見回す。そうすると、さっきこの場に迷い込んだときよりもはっきりと、周囲が見えるかのようだった。シキの声を聞いて、気分に余裕が出たからかもしれない。 辺りは林と田圃があるばかり。目印になるそうなものはない。ただ、傍にあるちょっとしたグラウンドのような場所のフェンスに、看板が掛かっていた。 そのとき雲間から月が顔を出し、月光が差して看板の文字を読みとることができた。『○○地区共同グラウンド』と書かれている。アキラがそれを告げると、シキはその場で待っているように言って電話を切った。 アキラはグラウンドのフェンスにもたれ、じっとシキを待った。時折、携帯電話で時刻を確認するが、なかなか時は過ぎない。たった一分さえ、その何倍もの時間のように感じられる。もしかして、シキは怒ってしまって来ないんじゃないだろうか、などという考えも浮かんできて不安になる。が、それでもアキラはじっとシキを待ち続けた。 そして、通話を終えてから十分後。アスファルトを蹴って駆ける靴音が聞こえ始めた。始めは遠かったその音が、次第に近くへ。 やがて、アキラは暗い夜道を息を切らせながら駆けてくるシキの姿を見つけた。「シキ……!」思わずフェンスから背を離し、シキの方へ足を踏み出す。 が、シキは何も答えない。全速力で走って来て立ち止まると、にらむようにアキラを見据える。かと思うと、次の瞬間にはほとんどつかみかかるような勢いで、アキラをきつく抱きしめた。 「アキラ……よかった……」 荒い息の下から押し出すような、シキの呟き。その切実な響きが、アキラの聴覚に振れた。 しばらくすると、シキはアキラの身体を離し、「帰るぞ」と言った。先ほどの電話でのアキラの告白については、何も聞こうともしない。黙ってアキラの左手を取って、歩き出す。 「シキ……」先を行く背中に、アキラはためらいがちに呼びかけた。「さっき電話で俺が言ったこと、詳しく聞かないのか……?」 「あぁ。お前も知っての通り、俺はお前に隠し事をして夜中に出かけていた。だから、俺にもお前を問い質すことのできるような権利はない」 「だったら……それでも、俺に話させてくれ。あんた対して、もうこの秘密を抱えていたくないんだ」 もう堪えることができず、アキラはシキの背中に向かって次々に抱えていた秘密を告白した。昨夜、リンと共にシキが件の別荘へ行くのを見たこと。リンからあの別荘の住人とシキの関係を聞かされたこと。今日もシキが一人で外出したので、昨夜の別荘へ行ったのだろうと思って跡をつけたこと……。 こうして何もかも打ち明けてしまうことも、シキに対する甘えなのかもしれない。しかし、先ほどのアキラの元へ駆けつけて抱きしめてきたシキの様子は確かに切実で、その切実さに顔向けできるように、アキラは正直でいたかった。 アキラの告白の間も、シキは振り向かなかった。けれども、アキラを拒絶しているわけではなさそうだった。彼はずっとアキラと手をつないだまま、歩き続けていたからだ。その手の低い体温と確かな感触に、アキラは安堵させられた。 たとえ、今回のように自分がシキを欺いても、シキはこちらを見捨てないのだろう。受け入れてくれるのだろう。――そう、確信させられる。 急にシキに対する申し訳なさがこみ上げて、衝動的にアキラはシキの背中に抱きついていた。「ごめん、シキ。本当にごめん……」背中に顔を押しつけて、謝罪する。そのときだった。抱きついてシキの腹部に回したアキラの手に、温度の低い手が重なった。 「隠し事をして不安にさせたのは、俺の方だ。――もう少し、明日まで待ってくれ。明日の夜が済んだら、きっとお前に全てを話す」 シキは静かに、しかし、決然と告げた。 *** 別荘へ帰り着くと、二人は順に風呂に入った。アキラも歩き回って汗をかいていたため、もう一度入らなければならなかった。 今回は後に風呂を使ったアキラが上がっていくと、シキは居間のテーブルを移動させて、何かの作業をしているところだった。 「何してるんだ?」アキラは尋ねた。 「寝床を作っている」 そう答えながら、シキは折り畳まれていたソファのマットレスを伸ばした。すると、ソファはちょっとしたベッドのような格好になった。もともと三人掛けのソファなので、それを組立なおした『ベッド』にも大人は十分に眠れそうな広さがある。 「でも、あんた、自分の部屋があるのに?」 「あの部屋のベッドでは、一人しか眠れないだろう?」 「えぇと、それって……」 「お前も俺とここで眠らないか? ということだ。……――心配しなくとも、疚しいことは何もしない。少なくとも、今日はな。俺もお前を探し回って、疲れている」 「心配かけて、ごめん」 あのとき電話してくる前に、シキは随分アキラを探してくれたらしい。そのことが分かって、余計に申し訳なさがこみ上げてくる。そこで、アキラが素直に謝ると、シキは急いで「謝らせるつもりで言ったわけじゃない」と言った。 その日の夜はシキの提案を受け入れ、アキラはタオルケットを運び込み、居間でシキと二人眠ることにした。以前ホテルでしたように抱き合うのではなく、即席のベッドに並んで横になる。その距離感を、アキラは新鮮に思った。 そんな風に並んで眠るような兄弟は、アキラにはいない。母と一緒に寝たのは遙か昔の記憶であるし、友人の家に泊まるような機会もあまりない。何度か並んで寝たことがあるのは、幼馴染みで親友のケイスケくらいだろう。 アキラにとって、シキは身体を重ねた今でも、どこかつま先立つような遠慮のある相手だった。尊敬している分、ある面ではケイスケ以上に距離があるといえるだろう。それが、こうして並んで横になっていると、どこかシキが身近に感じられるようだった。 「……シキ」アキラが小声で呼んでみると、 「どうした」とシキが返事をする。 「なんだ、まだ起きてたのか。もう寝てるかと思った。――……こういうの、何だか楽しいな。兄弟で一緒に眠るって、こういう感じなのか……。弟がいるあんたが、少し羨ましい」 「……兄弟で眠るのは、そんなに楽しいことでもないぞ」シキはちょっと嫌そうな声を出してみせた。「リンの寝相は最悪だ。エアコンをつけるかどうかで、争いになるしな。……――まぁ、それでも、リンの存在に救われる場合はあるのだが、な」 「そっか……」 そこで会話が途切れた。決して不快ではない沈黙の中、アキラは自分が緩やかに眠りに引き込まれていくのを感じた。今日はシキに対する申し訳なさや、道に迷った恐怖など様々な感情の昂ぶりを経験した。が、眠りに落ちていく今このとき、アキラはごく自然に寛いだ状態でいた。 もしかすると、シキはアキラをリラックスさせようとして、二人で眠ろうと言ってくれたのかもしれない――。意識が眠りに滑り込む瞬間、アキラはふとそう思った。 *** 翌日も、一日はこれといって変わりなく過ぎていった。午前も午後もひたすら勉強ばかり。 その合間の短い休憩には話しもしたが、話題はごく他愛ないものばかりだった。アキラは昨夜シキが『全てを打ち明ける』といった内容が気になって仕方なかったが、敢えてその話はしなかった。シキが打ち明けると宣言したときまで待つ――それが、シキへの信頼を示すことだと思うからだ。シキもまた、忘れているのか意図的なのか、全く昨夜の話題には触れなかった。 やがて昼時になり、今度はシキが昼食を作った。本来ならアキラの番なのだが、自分が夕食の当番を分担せずに終わってしまうのは不公平だという気がして、代わってもらったのだ。昼食に、シキはオムレツとサラダを作って出した。 「昨夜から卵料理ばかりになって、すまないな」と、昼食の席で彼は言った。「お前の好きそうなものをと思うと、どうしてもこうなってしまってな。夕飯なら、ハンバーグでも作ったんだが」 「謝らないでくれ。オムレツ、すごく美味いよ。……っていうか、あんた、何でそんなに俺の好きなものが分かるんだ? 母さんから聞いたのか?」 「いや。オムライスが好物だとしか聞いていないが、あとはまぁ……類推できるのでな」 「子ども味覚って言いたいんだな? ……悪かったな、子どもで」 すると、シキは苦笑してみせた。 「拗ねるな。別に、悪いとは言っていない。俺は、好きなものは好きで構わないと思うがな……少なくとも、見栄を張りたくて好きでもないものを好きなフリをするよりは」 「そりゃそうかもしれないけど。……――じゃぁ、あんたの好物は? あんたが俺の好物を知ってるのに、俺があんたのを知らないのは、不公平だろ」 「好物か……。特に好き嫌いはないが、そうだな、敢えて言うなら――」 少し考えてから、シキは煮物だと言った。 その言葉に、アキラは考え込んでしまった。今夜の夕飯にはシキの好きなものを作ろうと考えていた。だが、シキの挙げた料理は、アキラの料理経験からすれば、手に余るものだったのだ。 悩んでいると、シキはこちらの様子に気づいたらしく苦笑しながら、「別に、無理に俺の好物を作らなくてもいい」と言ってくれた。しかし、そう言われると、かえって何としてもシキの好物を作りたい、という気がしてくる。 昼食を終え、片づけを済ませると、アキラたちは再び勉強に取りかかった。シキは何やら難しげな勉強をしていたので、能率が上がったのかはアキラには分からない。しかし、アキラはこの三日間きちんと勉強したおかげで、夏休みの課題も次の予習もかなり進めることができていた。 そこで、アキラはシキより少し早く勉強時間を切り上げ、早めに夕食の準備を始めることにした。もちろん、シキの好物を作るためというのは、シキには内緒にしてある。更に、レシピをシキに教えてもらうこともできないので、アキラは携帯電話のインターネット機能を使って、煮物のレシピを探すことから始めなければならなかった。 最初はちゃんと出来上がるだろうか、と不安だったものの、レシピ通りに作っていくと何とか煮物もそれらしくなってくる。メインが煮物なので、副菜なども和風にして和食風で統一することに決めた。こうした完全な和食を作ることは滅多にないので、料理を終えたとき、アキラは自分の仕事ぶりにちょっとばかり満足した。 やがて夕方になり、アキラは勉強を終えたシキと共に夕飯にした。シキは和食の並ぶテーブルを見て、わずかに目を見張った。 「アキラ……わざわざ俺が好きだと言ったものを作ってくれたのか」 「あぁ。だって、俺だってあんたに好物ばっかり作ってもらったし」 「そうか。しかし、これだけの料理をするのは、結構な手間だっただろう? すまないな」 「そこは謝るところじゃないだろう」 「……あぁ、そうだな。ありがとう」 そう言って、シキは笑みを浮かべてみせた。滅多に見ることのない、柔らかく自然な表情――アキラの携帯の画像に写し留められているのと同じ笑みだ。 アキラは頬がじわりと熱を持つのを感じながら、「でも、味は保証できないからな」と憎まれ口を叩いた。こんなときに、照れ隠ししかできない自分がもどかしかったが、内心ではシキの言葉のおかげで胸がほうっと暖かくなるかのようだった。 夕食後、シキはアキラと共に後かたづけをしてから、出かける用意を始めた。どこへ行くとは言わなかったが、昨夜のように誤魔化しもしない。 やがて、シキが出ていこうとしたので、アキラは玄関先まで見送りに出た。付いていきたいという気持ちもいくらかあったが、結局それを実行には移さなかった。何の役にも立てないし、シキにとっては見られて楽しい場面ではないだろうからだ。 「行ってらっしゃい」と、アキラは玄関のドアの前に立ったシキに向かって言った。「あんたの帰り、待ってるから。……待っててもいいかな? もし、迷惑じゃなければ」 「それは構わないが」 「ありがとう。あんたが大変でも他に何もできないから、せめて、そうしたいんだ」 アキラが言うと、シキはちょっと目を丸くした。 「礼を言われるとは、思わなかった。――お前は、俺が醜態を見せても、俺に幻滅しないのだな」 「幻滅って……。誰でも格好悪いときはあるだろ」 「そうだな。それでも、こんなにひどい醜態は、俺は今回が初めてだ。今までは、何が何でも、どんな醜態をさらしても叶えたいと執着するようなものはなかった……お前に会うまでは。……だから、俺は、己は比較的何でもできるのだと信じていた。子どもじみた思いこみだ」 そう言ったシキは、どこか頑なな、子どもっぽい表情をしていた。 アキラは宥めるような笑みを浮かべて、裸足のまま上がり口から降りた。ぺたぺたと足音を立てながらシキに近づき、励ましを込めて彼の肩を軽く叩く。 「そんな自虐的に言うなよ。俺だって、あんたに会ってから今まで、自分でも知らなかったくらい自分の情けなさを見てきたよ。ユキヒトたちやあんたや……皆に助けてもらってばかりだ。望むものを手に入れようとしたら、普通、形振りなんて構ってられないんだ。あんたは、普通だよ」 「あぁ、そうだな……」 頑なな表情を緩めてシキは頷くと、不意に腕を伸ばしてアキラを抱きしめた。昨夜とは違う、ゆるやかな抱擁。シキはアキラを抱きしめているのだが、抱いているというより、どこか縋りついているようだった。アキラはシキの背に腕を回し、何度かゆっくりと背中を撫でてやった。 やがて、シキは自分から身体を離して、玄関のドアを開けた。 「行ってくる」 (2010/08/08) 目次 |