サマー・タイム6







 シキが出ていってしばらくすると、さぁさぁと雨音が聞こえ始めた。落ち着かないまま室内にいたアキラは、すぐに音に気づいて外へ出て確かめた。
 出ていったシキは、傘を持っていない。この雨では、すっかり濡れてしまうだろう。
 傘を持って、迎えに行こうか。しかし、シキは土下座している姿を、見られたくないはずだ。いや、それでも……。
 散々迷った挙げ句に、結局、アキラはシキを迎えに行くことにした。こんな雨の中で、シキがただ一人、聞き入れてもらえない謝罪だか懇願だかのために土下座している――そう思うと、のんびり待っていることなどできはしなかったのだ。シキを邪魔はしない。傘を持って様子を見に行くだけのつもりだった。
 別荘の玄関にあった傘をさし、もう一本、シキの分を持ってアキラは外へ出た。雨の降る夜道は濡れた木々の陰が作る闇のせいで、昨日よりもなお暗い。馴染みない景色がよりいっそう馴染みのない、異界のように見えた。
 おぼろげな記憶を頼りに、シキがいるであろう別荘への道を辿る。途中、小川に掛かった橋に差し掛かると、小川の土手の葉陰で蛍が光るのが見えた。その橋の上も突っ切って、アキラは先へ先へと進んでいく。
 やがて、夜道の先に街灯の光に照らされて、見覚えのある豪華な別荘の姿が見えてきた。アキラが玄関先に目を凝らしたとき、ドアが開いて中から誰かが激しい勢いで飛び出してきた。いや、というより、中から突飛ばされて、転がり出てきたという方が正しそうだ。
 アキラは思わず声を上げそうになった。
 よく見れば、そのシルエットの人物はシキだった。シキはそのまま体勢を崩し、庭の敷石の上に倒れ込んだ。それでも彼は立ち上がろうと、敷石に手をついて上体を起こそうとしている。
 と、そのときだった。
 別荘の中からゆっくりと、別の人物が現れた。先日もアキラが見かけた、あの厳しそうな老人だった。
「くどい!」老人は重々しい声音で、シキを一喝した。「孫とはいえ、所詮貴様はあの男の息子だ。援助などするつもりはない」
「金銭面で貴方の援助を受けるつもりはありません。俺はただ――」シキが訴える。
「金銭だろうがそうでなかろうが、同じことだ。援助はせん。そう言っておるのに何度も頼みに来おって……さすがあの男の息子だな! 土下座までして、プライドというものがないのか」
 違う、とアキラは叫びそうになった。違う、シキは誰よりもプライドが高くて、辛くても苦しくても平気な顔をしてみせて、一人で痛みに耐えようとする奴だ。そんなときでも、頼られれば自分のすべきことをしようとする奴なんだ。そんなシキのどこが、プライドがないなんて言える。あんたはシキの何を知ってるんだ――。
 しかし、その言葉の全てをアキラは飲みこんだ。シキが敷石についた右手をぐっと握り締め、堪えているのに気づいたからだ。
 怒りを表明することはあまりにも簡単だが、今回のことは、そうしたところでどうにかなるものではない。今回のことの主導権を握っているのは、おそらく老人なのだろう。アキラは自分もシキも無力な未成年に過ぎないことを、ほとんど初めて実感した。
 シキの目の前で、老人は踵を返し、別荘の中へ入っていった。バタンと玄関のドアが取り付く島もない調子で閉まる。他人の目がなくなると、アキラはもう我慢することができず、小走りにシキに駆け寄った。
「シキ……」
 呼びかけても、シキは答えない。呆然としているのか、屈辱を噛みしめているのか、無表情でじっと雨に濡れていく敷石を見つめている。
 少し待って、アキラはもう一度呼んだが、やはりシキは反応しなかった。そうする間にも、細い雨がシキの肩や髪を濡らしていく。アキラは持ってきた方の傘を開き、シキの上に差しかけた。
「……不要だ。どうせもう、濡れている」シキはやっと声を発した。
「これ以上雨に当たってたら、身体が冷える。そうしたら、あんた、風邪を引くだろ」
「そこまで軟弱ではない」
 シキはのろのろと立ち上がった。アキラの差し出す傘はあくまでも受け取らず、「帰るぞ」と歩きだす。その背中は、慰めの言葉を拒んでいるように思える。
 たとえば、とアキラはもどかしく考える。たとえば、自分がもっと精神的に大人だったら、今の状態のシキを慰めることもできたかもしれないのに、と。しかし、実際のアキラは他人に接することも不得手な子どもでしかない。シキに何もしてやれない――。
「アキラ」
 いつまでもアキラが歩き出さないのを不審に思ったのか、シキが振り返える。互いに目が合うと、アキラはシキの目を見つめ返しながら傘をたたんだ。まず、シキに差しかけていた傘を。次いで自分が別荘から差してきた傘も。
「お前が一緒に濡れる必要はないだろう。風邪を引くからよせ」シキが言った。
「あんたが傘を差すならな」アキラは答える。
「馬鹿が」
 言葉とは裏腹に、シキは微かに笑った。一瞬、安らいでいるようにも、泣き出しそうにも見える笑みだ。アキラがその表情に目を奪われたのも束の間、シキは背中を向けて歩きだす。アキラは小走りで追い付き、隣に並んだ。

 二人は口を利かないまま、別荘の並ぶ通りを抜けて再び蛍の小川の橋まで差し掛かった。雨が降り続いているせいか、小川の土手の葉陰で光る蛍は往きのときより少なくなっている。一匹、二匹、三匹……片手で数えられるくらいしか残っていない。
 シキは不意に橋の上で足を止めた。濡れた欄干に手を掛け、小川へ向き直る。アキラも何も聞かずに、その隣に並んで待った。
 しばらくして、暗い小川の流れを見下ろしていたシキは、口を開いて話し出した。この別荘地に来た本当の目的を――先ほどの老人に頭を下げていた理由を。
「俺は卒業と同時に、無理にでも家を出るつもりだった。このままでは、俺は父親の跡を……組を継ぐことになるからな。俺は……父から全てを譲り受けることが嫌だった。それは俺が闘って、獲得した俺自身のものではないからだ。ヤクザだから嫌だというわけじゃない。たとえば、自分で選んで勝ち取った道なら、ヤクザも悪くはないのだが」
 卒業と同時に家を出て、シキは国内最高峰と言われるT大へ行くつもりだったのだという。そのための勉強はしていたし、学費もずっとアルバイトをして貯めていた。
 けれども、一つ問題があることが分かった。
 大学の入学手続きの際には、身元保証人が必要となる。第三次世界大戦の折、ニホンが軍国主義に染まったことの反省から、大学――特にT大のような国立大学では軍国主義に偏った思想の持ち主を入学させないため、しっかりした身元調査を行うようになっていた。T大や他有名大学の出身者は、卒業後、政界や財界に関わることも多いため、特に調査は厳しいものとなる。
 これは、第三次大戦後の数年間、ニホンを占領した連合国の意向で始まったことだった。そうして、身元調査の習慣は、戦後二十年経った今も廃止されず続いている。
 もしも、シキがT大なり他の大学なりに入学するためには、身元保証人の名前欄を埋めてくれる人物が必要であり、しかもそれは叩いて埃の出ない人間でなければならない。シキには、そうした心当たりは財界の大物であ母方の祖父しかなかった。
「……そんなとき、祖父が避暑で別荘に滞在するという噂を聞いた。同じ別荘地――つまりここに、うちも別荘を持っている。そこで俺は、この別荘地で祖父に接触しようとした」
「シキ、他のときではだめだったのか? あんたのお祖父さんが家にいるときの方が、連絡とか、取りやすいと思うけど」
「見ただろう? 先ほどの祖父の様子を。祖父は大事な娘を奪い去ったヤクザ、つまり俺の父と、その息子である俺を憎んでいる。――もう、俺の望みは消えた。祖父は明日、自宅へ戻る」
「でも……じゃあ、シキ、どうするんだ?」
「どうにかなるさ」
 シキは疲れたような笑みを浮かべた。どうにかなるとは、シキも本気で思っていないようだった。
 アキラはシキを慰められたら、と痛いほど思った。しかし、慰めの言葉など見あたらなかった。
「――なぁ、シキ、どうしてそんな大変なときに、俺を別荘に連れてきてくれたんだ? あんたの迷惑になったんじゃ……」
「迷惑になど、なるものか。お前を連れてきたのは、お前がもっと俺といたいという顔をしていたからだ」
 ちょっとからかうように言って、シキはこちらへ目を向けた。アキラは勝手に頬が熱くなるのを感じた。それに満足そうに小さく笑って、シキは再び川の流れへ視線を戻す。
「……俺も、同じ気持ちだった。それに、……どう言えばいいのだろうな……祖父に拒絶されることは目に見えていたのでな、お前の顔を見れば拒絶にも挫けずにいられるだろうと思った」
「シキ……」
「たとえ父の跡を継いでも、俺は今までと変わらないでお前と接するつもりだ。だが……できれば俺は、お前と同じ一般の世界で生きていたかった」
 シキは疲れたような笑みを浮かべた。どうにかなるとは、シキも本気で思っていないようだ。
 アキラはシキを慰められたら、と痛いほど思った。しかし、慰めの言葉など見あたらなかった。


 二人が別荘にたどり着く頃には、衣服は濡れそぼっていて、まるでプールに飛び込んでひと泳ぎしてきたような有様だった。別荘地は山間部で夜は涼しいため、濡れたままでは本当に風邪を引いてしまいそうだ。
 幸いにも、アキラはシキを迎えに出る前に風呂の湯を張り、いつでも入れる状態にしていた。偶然にも気の利く行動をしていた自分を内心で誉めながら、アキラはシキに風呂に入るように勧める。
「シキ、風呂に入って来いよ。すっかり雨に濡れただろ」
「いや、お前が先に入れ」
「だめだ。あんたが先。疲れてるだろうから」
「……分かった、入る」
 しかし、口ではそう言いながらも、シキは居間に立ったまま、動こうとはしない。少し心配になって、アキラは近づいていってシキの顔をのぞき込んだ。そのときだった。何の脈絡もなく、シキは腕を伸ばしてアキラを抱きしめた。
 突然の抱擁――多分、シキは甘えたがっている。一瞬のうちに、アキラはそう確信した。
 もしかしたら、その確信は間違っているのかもしれない。今までシキがアキラに甘えようとしたことは、ほとんどなかったからだ。それに、アキラは自分が他人の気持ちの機微を察するのを不得意とすることを、認識していた。直感など、とてもあてになるものではない。
 しかし、それでもいいと思った。
 間違っていてもいい。アキラは、自分がシキのためにできることなら、何でもしたいと感じていた。その思いを込めて、アキラはそっとシキに腕を回し、濡れたシャツ越しに背中を撫でた。






(2010/09/19)
前項/ 次項
目次