アンノウン3
ユキヒトは庭土の上に倒れ込んだシキを、呆然と見つめていた。殴ったのは自分だというのに、こうしてシキが他人に打ち負かされるということが、信じられなかった。 気づけば遠巻きに様子を見ていた生徒たちは、ぴたりと動きを止めて静まり返っていた。昼休みの中庭から人の声が絶えるというのは、普段の学園の活気を思えばあり得ない状況だ。ユキヒトは、自分がしたことの重大さを、今更ながらに実感させられる思いだった。 シキの生徒会長という肩書きは、単純に生徒会の代表者という言葉通りの意味ではない。シキは今まで、勉学でもスポーツでも常にトップにあり続けた。高等部の生徒たちに『目指すべき生徒としての在り方』を、自ら体現してきたのだ。学園の高等部の秩序そのものであったともいえる。 そんなシキを、ユキヒトは殴り飛ばした。これは、高等部の秩序を揺らがせたにも等しい行為だ。しかし、ユキヒトは後悔はしていなかった。 (――俺は間違っちゃいない) ユキヒトは内心で呟きながら、右手の拳を握りしめた。拳には未だにシキを殴った感触が残っている。他人を殴ったのはこれが初めてというわけでもないが、どうしてかシキを殴った感覚だけはやけに後に残る感じがした。 ざわざわざわ。水を打ったように静まり返っていた生徒たちが、やがて我に返ってざわめきだす。ざわめきは遠くへとさざ波めいて波及していくかのようだ。 そのとき、教師たちが三人、生徒たちをかき分けて中庭へ入ってきた。騒ぎに肝を潰した生徒の誰かが、職員室へ知らせに行ったのだろう。 「お前ら、どけ。道を開けろ」 中庭へ駆けつけた教師の中には、体育教師のキリヲがいた。彼が辺りをひと睨みすると、生徒たちが左右に分かれて道を開ける。残る二人の教師がその道を通って、ユキヒトたちの元へやって来た。ユキヒトのクラスの担任とシキのクラスの担任だった。 片方の教師がユキヒトの腕を捕らえ、もう片方がシキを助け起こす。その間キリヲは集まった生徒たちを追い払っていた。 「二人とも、職員室へ来るんだ」 教師たちに腕を引かれ、ユキヒトたちは職員室へと連行された。先を行くシキは、左頬こそ殴られたために赤くなっているが、取り澄ました無表情を保っている。そんなシキの背中を見つめ、ユキヒトは唇を噛んだ。 歩きだしたとき、生徒たちの中にトウヤとアキラの顔が垣間見えた。今、駆けつけたばかりらしい二人は、キリヲや生徒たちの人の波に阻まれてこちらへ来ることができないようだ。 ユキヒトは二人に向けて、声を出さずに唇だけを動かした――『心配するな』と。伝わったかどうかは分からない。しかし、今のユキヒトには他にどうすることもできなかった。 *** 教師たちに連れられて職員室へ入っていくと、そこもまた落ち着かない雰囲気が漂っていた。教師たちが自席で仕事をしたり、昼食を広げたりしているのは、普段の昼休みと変わらない光景だ。それでも、皆、目の前のことに集中できない様子で、時折ちらちらとユキヒトたちに視線を向けてくるのだった。 好奇心から職員室をのぞきに来た生徒たちは、皆、キリヲによって追い払われた。それでも、少し知恵の回る生徒などは『授業についての質問』と称して職員室へ入ろうとした。が、こちらも教師たちが廊下へ出て対応したため、目的を果たすことはできずに終わった。 どことなく慌ただしい空気の中、ユキヒトとシキは職員室の奥まで連れて行かれた。そこはくもりガラスをはめ込んだ衝立で囲われ、中にソファのセットが置かれて、応接スペースになっている。教師に言われたままに、ユキヒトとシキは応接セットのソファに腰を下ろした。二人が大人しくしているのを確認すると、教師たちは一旦、用を済ませるために立ち去ってしまう。 待つこと数分。やがて、ユキヒトの担任とシキの担任が応接スペースへと戻ってきた。二人とも、困惑しきった表情だ。 それもそうだろう、とユキヒトは思った。自分とシキは、学年もクラスも違う。同じ部活に所属するわけでもない。情報屋と情報提供者という関係は皆には極秘だ。今回のことは、教師たちの目からは何の接点もない者同士が唐突に始めた喧嘩にしか見えないだろう。 「いったい、何が原因なんだ?」ユキヒトの担任が尋ねる。 しばらくの間があった。しかし、もちろんユキヒトもシキも質問に答えようとはしなかった。 「黙っていては分からないだろう」シキの担任も言う。 「……なぁ、本当に何があったんだ? ユキヒト。なぜシキ君を殴ったりした?」 と、ユキヒトの担任はユキヒトの方へ目を向けた。まるでユキヒト一人に非があるのだ、と考えているような態度だった。 そら、来た――ユキヒトは内心で呟いた。 何といっても、シキは生徒会長で、教師の信頼も厚い。対して自分は、成績はまぁまぁだが、素行不良気味でもある。シキと問題を起こせば教師たちがどちらの肩を持つかなんて、考えるまでもないことだ。 全て分かっていた。それでも、ユキヒトはシキを殴った。今のシキの態度が、アキラに対してあまりにも信義を欠いたものだからだ。 アキラがふさぎ込んでいる――そのことにユキヒトが気づいたのは、夏休みが明けて間もない頃だった。アキラを観察れば、原因はすぐに分かった。 シキだ。 いつの頃からか、アキラは廊下ですれ違ったり、生徒集会で集まったりしたとき、シキを目で追うようになっていた。シキもまた、さりげなくアキラを視界に捉えようとした。夏休み前までは、二人の眼差しは互いに相手に焦がれるような一途さを滲ませていた。 それが、夏休みが明けてからというもの、どこかちぐはぐになってしまった。アキラの目は、苦しげにシキを追い求めていた。一方シキはといえば、アキラを敢えて視界から外しているようだった。 シキとアキラの間に、何かあったのかもしれない。そんな疑いが決定的になったのは、先週の木曜日のことだ。 夜に買い物に出かけたユキヒトは、帰りに憔悴しきったアキラに出遭った。放っておけなくて家に送り届ける道すがら事情を聞き出そうとしたが、アキラはぼんやりとしたまま、何も打ち明けようとはしなかった。 アキラがそこまで弱った姿を見せるのは、余程のことだ。アキラは気丈な性格で、ユキヒトはちにも泣き言の類を零したことはないのだから。 何か事件にでも遭ったのではないか――。さすがに心配になったユキヒトは、アキラには申し訳ないと思いながらも、木曜の夜のアキラの足取りを調べた。学園の情報屋としての情報網のおかげで、調査はさほど難しくなかった。ユキヒトはアキラがシキのアルバイト先のバーにいたという情報を掴み、日曜の夜、バーの関係者の一人から話を聞くことに成功した。 バーの関係者であるウェイターの青年が明かした情報は、驚くべきものだった。シキがアキラを拒絶した、というのだ。 許せない、とユキヒトは思った。――といっても、シキがアキラを拒絶したことが許せないのではない。 二人はおそらく恋愛関係にあったのだろう。しかし、人は心変わりするもの。一度は好き合っても、やがて気持ちが離れていくことも起こり得る。その点については、ユキヒトもどうこう言うつもりはない。 そうではなく、シキがアキラの真摯な想いに対して、相応の礼儀を以て断らなかったことが許せないのだ。シキの方も一度はアキラを気に掛ける素振りを見せていたのだから、尚更に。 週明けの今日。 昼休みになるとすぐに、ユキヒトはシキを中庭へ呼び出した。アキラとの間に何があったのかと詰問した。対するシキの答えはただ一言――『お前には関係ない』。 次の瞬間、ユキヒトはシキに跳び掛かっていた。頭の片隅を内申書や処分のことがちらりと掠めたが、全て振り払ってシキを殴った。 内申書の評価。今回のことで受けるであろう処分。そして、それらが影響するであろう、自分の将来。 ユキヒトは、大人たち相手に上手く立ち回る方法を知っている。上っ面だけでも従順であること、いい成績を取ること、大きな問題を起こさないこと……。それらを利用して、実際に今まで上手くやってきた。 けれど、上手くやったからといって、何なのだ。 友人を蔑ろにされた。その友人――アキラは、心の底から満身創痍の態である。今、アキラの痛みに口先だけで同情していれば、『安定した未来』は手に入るのだろう。 けれど、そうやって手に入れた未来が何だというのだ。そんな未来を歩いたって、友達のために怒ることもできない、つまらない大人になるだけじゃないか。 そんなものに、自分はなりたいわけではない。 たとえ自分のすることで自分の将来が不利になるとしても、そのくらいのハンデは簡単に乗り越えられる。乗り越えてみせる。 (――きっと、いつもの生徒会長も、そんな風に考えるだろう) シキを殴る瞬間に、ユキヒトはそう思った。喧嘩の相手に回していてさえ、生徒会長であるシキは、ユキヒトの意識の中でも目指すべき道の先にいるのだった。 あの中庭での出来事について、ユキヒトは教師たちに真実を説明する気はなかった。そのために自分に下される処分が重くなるとしても、だ。 しかし、黙ったままでは教師たちの追求は終わらないだろう。彼らは彼らが思い描く『答え』――すなわち、ユキヒトに非があったという事実――を見つけたがっている。そのことを感じ取ったユキヒトは、適当な嘘の事情を説明しようと口を開いた。 そのときだった。 「――非は俺にあります」静かなシキの声。 教師たちは驚いた顔でシキの方を見た。ユキヒトも数秒遅れてはっとして、隣に座るシキを振り返る。 シキは無表情で、その顔からは何を考えているのか読みとることができなかった。 「シキ。あんた、何を言って……」ユキヒトは言った。 「黙れ」シキはユキヒトを制し、教師たちを真っ直ぐに見つめた。「――今回のことの非は、俺にあります」 「ど、どういうことだ……?」シキの担任が慌てふためく。 「俺がユキヒトを侮辱し、挑発しました。殴れるものなら殴ってみろ、と言って。侮辱の内容については、あまりに酷い内容であるため、明かしたくありません。――今回の騒ぎの原因は俺です。どうか処分は俺一人に。謹慎でも退学でも、どのような処分でも受け入れます」 そう言うシキの目には威圧感があった。その場にいたユキヒトも教師たちも、思わず反論を飲み込んで黙り込むしかなかった。 その後、教師たちはシキとユキヒトに、形ばかりの小言を呉れた後で二人を解放した。喧嘩の処分はいずれ通知するという警告付きで。 ようやくユキヒトたちが職員室を出たときには、既に午後の授業が始まっていた。廊下には人の気配がなく、しんと静まり返っている。グラウンドで体育の授業が行われているようで、生徒たちの掛け声だけが微かに聞こえていた。 「――シキ。さっきのことだけど……」 ユキヒトはシキを呼び止めた。先ほど、シキが教師たちの前で騒ぎの責めを一身に受けようとした真意を、確かめたかったのだ。 しかし、シキはユキヒトを無視してさっさと歩いて行ってしまう。その背中には、はっきりした拒絶の気配があった。 *** 午後の授業が終わると、すぐにアキラはユキヒトのクラスへ向かった。本当はユキヒトたちが職員室から出てくるのを待っていたかったのだが、今日は教師たちの目が特に厳しく、迂闊に授業をサボることができなかったのだ。 空き教室の一つに隠れて教師たちをやり過ごすことも可能ではあったが、実行には移さなかった。無理にサボってユキヒトに会いに行っては、かえってユキヒトの立場が悪くなるだろう。アキラは、トウヤと二人してサボりを諦めるしかなかった。 そして、逸る気持ちで待った放課後。ユキヒトは、アキラが訪れたときには既に教室から姿を消していた。おそらく、クラスメイトに喧嘩の事情を聞かれることを、煩わしく思ったのだろう。クラスメイトの一人が、ユキヒトならチャイムと同時に教室を出た、と教えてくれた。 ユキヒトは、帰ったのかもしれない。そう思いながらも、アキラは屋上へ足を向けていた。普段ならば、ユキヒトは放課後には屋上にいるからだ。 人気のない暗い階段を上り、屋上のドアを開ける。眩しい午後の光が溢れだし、アキラの目を刺した。光に目が馴れると、屋上に広がるコンクリートの真ん中に、ぽつんと座って空を見上げている後ろ姿があった。 風に弄ばれる赤い髪。ユキヒトだ。やはり、帰宅したわけでなく、この場所にきていたのだ。 アキラは屋上に出ていこうとした。と、階段を上ってくる足音が聞こえる。振り返ると、階段の踊り場からトウヤが顔を見せたところだった。 「――よぉ。アキラもこっち来たのか」 トウヤは小走りに階段を駆け上がって、アキラの隣に並んだ。二人して、屋上に入る。二人の足音が聞こえただろうに、ユキヒトは振り返らなかった。 「――ユキヒト」トウヤが声を掛ける。 「……庇われたんだ」と、ユキヒトは呟いた。 「え?」 「庇われたんだ、シキに」 ユキヒトは職員室での出来事を、淡々と二人に話して聞かせた。教師たちの前で、シキは『自分が問題を起こした』と主張したのだ、と。 アキラは呆然と、その話を聞いていた。シキは公正で、意外に情に篤い人間だ。ユキヒトを庇った行動も、理解できなくはない。しかし、それは最近の冷淡なシキの様子とはイメージがかけ離れていて――どのシキが真実の姿なのか分からなくなる。 と、そのとき。 「クソッ……」押し殺した声で、ユキヒトが吐き出した。次いで、その声に嗚咽の気配が混じる。「喧嘩を、吹っ掛けたのは、こっちだってのに……シキは……俺を庇ったんだ……。こんなこと……俺は、情けない……!」 馬鹿ユキヒト、とトウヤが優しい声で言い、ユキヒトの隣に腰を下ろした。宥めるように、震えるユキヒトの肩をぽんぽんと叩く。 「お前は、ダチのためにすべきだと思ったことをしたんだろ? 情けないなんてこと、あるもんか。そうだろ?」 アキラはトウヤとユキヒトを見つめながら、静かな気持ちで思った。シキとは、もう終わりなのだ、と。 考えてみれば、シキと離れ難いとはいっても、身体を繋ぐ以外の方法もあったのではないだろうか。ユキヒトとトウヤのように、お互いを支え合い、背中を預けあえるような関係が。しかし、アキラとシキが選択したのは、ユキヒトたちのような親友関係ではなかった。相手を欲するままに肌を合わせ――結局、離れ難いからと無意識のうちに相手に縋って、縛り付けようとした。 自分のみならず、ユキヒトまでシキを引き留めようとしてくれたが、それでも無理だったのだ。もう、自分とシキの関係が続く可能性はない。アキラは静かな気持ちで、目の前の現実を受け入れることにした。 「……ユキヒト」アキラが呼びかけると、ユキヒトとトウヤが振り返った。二人の目に、アキラは静かに笑いかける。「ありがとう。でも、もう終わりにする。ユキヒトのおかげで、諦めが付いたよ」 だから、ありがとう。 すまない。 呟く声音が、屋上を吹き抜ける風にもぎ取られ、飛ばされていく。けれども、アキラの顔に貼り付いた微笑は、風に飛ばされることもなくずっとそこに残っていた。 *** 「――まぁ!」 帰宅したシキの顔を見るなり、シキの母親は目を丸くして声を上げた。学校から戻り、部屋に鞄を置いてきたばかりの、自宅の廊下でのことだ。母の後ろに従っていた父の側近も、ぎょっとしてシキを見つめた。 「その顔は……喧嘩をしたのですか?」 「……そのようなところです」シキは素っ気なく答える。 「誰です! 若の顔に傷を付けたのは!?」 父の側近が勢い込んで尋ねる。母は右手を上げて、やんわりと側近を制した。 「この程度のこと、騒ぐほどでもありません。男の子は、喧嘩をするくらい元気がいいのが丁度よいのです。シキは、このところ元気がありませんでしたから、母は安心しましたよ」 「しかし、奥様……」 「さ、行きましょう」と母は側近に言う。次いで、再びシキに目を向けた。「シキ。帰って来たのなら丁度よかった。お父様に顔を見せにお行きなさい。ご用がおありのようよ」 「分かりました」 シキが頷くと、母は微笑して歩き出した。入れ違いに、シキは先ほど母が来た方向へ進んだ。廊下に面したある部屋の前で立ち止まり、襖を引き開ける。 中は畳敷きで広く、中央に布団が引いてあった。布団には、中年の男が横たわっている。腕には点滴を繋ぎ、元は厳めしく見えた男の顔つきはやや憔悴して疲れた様子だった。 シキが部屋の中へ進んでいくと、布団の両側に控えていた黒いスーツの男たちが深々と頭を下げる。シキは軽く頷くことでそれに応え、布団の側へ腰を下ろした。 「――父上」 静かな声で呼びかける。 布団に横たわっていた男が、目を開いた。 (2010/03/05) 目次 |