アンノウン4






 シキは布団の上に横たわる父の傍に、じっと端座していた。普段は父の傍に控えている側近たちは、今は席を外している。父子の会話を邪魔せぬように気遣ったのかもしれない。
 夏の終わり頃から、シは母と共に、床に就いた父の代理として組に関する執務を行っている。今日、父がシキを呼んだ用件も、その執務に関する指示のためだった。
 指示を終えると、父はぐったりと力を抜き、目を閉じてしまった。話し疲れたらしい。夏の終わりに銃撃を受けた父は、銃弾に倒れて一命を取り留めて以来、弱くなったように思えた。
 かつては畏れ、嫌悪し、敬遠していた父。少し前までのシキならば、父の代理など間違っても引き受けなかっただろう。嗤いながら代理を拒絶し、組の窮状を遠くから見物しさえしたかもしれない。そう、それほどまでに、シキは父を憎んでいたのだ。
 幼い頃から、シキは己を抑えつける父を乗り越えて、いつか自由を手に入れてやろうと思っていた。リンのように表立って反抗することがなかったのは、小利口だたからだ。己にはまだ父を乗り越えるだけの力がないと、よく承知していた。
 それでも、成長するにつれて、子どもは力を付けていくもの。シキはあと少しで、父の意思を踏みつけてでも己の意思を通すだけの力を、持てるはずだった。しかし、ここへ来て父は唐突に憎むべき相手ではなくなってしまった。
 シキは焦燥の色の目立つ父の顔を眺めながら、半月ほど前の夏の日のことを思った。


***


 新学期を目前に控えたある日。シキは二つの決断を下した。家を出て祖父の援助で留学すること、その意思を父に伝えることの決断だった。
 シキは当初、黙って家を出るつもりだった。独力で進学してみせることで、父を見返してやるつもりだったのだ。そうすれば、組を継がずに済ませることができる。堅気の身のままでいれば、この先も何の負い目もなくアキラの傍にいられるだろう、と。
 しかし、別荘での一件によって、事態はシキの思惑を外れて転がり始めた。母方の祖父の提示した援助の条件は、留学だった。
 留学すれば、一時的にとはいえアキラと離れることになる。別荘で話を聞いていたアキラも、そのことは承知だったはずだ。それでも、アキラはシキに『留学しろ』と勧めた。自分自身を成長させる機会を捨ててはいけない、と諭しさえした。
 そのときのアキラの目には、シキへの絶対の信頼が見て取れた。アキラは、シキが留学して力を伸ばすべきだと心から信じているようだった。
 アキラの信頼の大きさに、シキは背中を押されるような気がした。別荘から戻ったシキは、とうとう留学を決断したのだ。それも、こそこそ隠れて留学することで、既成事実として己の意思を通そうとするのではない。アキラの絶対の信頼にふさわしく在れるよう、堂々と父に己の意思を告げるつもりだった。
 そこまではいい。問題は、いつ告げるかだ。
 翌日――八月二十五日は、父方の祖父の命日だった。
 父方の祖父は、シキがまだ物心付かぬうちに亡くなった。父の前の組長であり、組員たちから非常に慕われていたという。組では今でも前組長である祖父の命日には、組員たちが黙祷を捧げることになっている。また、シキの父もこの命日を重視しており、毎年、家族で墓参りに行く決まりだった。
 命日の前夜、八月二十四日。シキの父は組の用で外出しており、出先からシキに電話を掛けてきた。これは、今までになかったことだった。
 不審に思いながらシキが電話に出ると、父は唐突に用件を告げた。その内容は、翌日シキを跡継ぎにすると墓前に報告する、というものだった。シキはとっさに反論しようとしたが、父は有無を言わせず用件だけでさっさと電話を切ってしまった。
 通話の切れた電話を握りしめ、シキはしばらく呆然としていた。
 墓前で報告というのは、文字通りの意味だけでは済まない。重要な暗喩がそこに隠されている。父方の祖父の墓参りには、毎年、組の最も地位の高い幹部三名も同伴していた。彼らの前で祖父の墓に報告するということは、父の意思を組全体に通達するのにも等しいのだ。
 父がこれほどまでに早く、己を正式な後継者扱いし始めるとは、シキも予想していなかった。
(何もかも早すぎる……)
 シキは舌打ちしたい思いだった。それでも、ここで挫けるわけにはいかない。
 生きていくというのは、思い通りにならないことの連続なのだ。己はここ数年、優等生として振る舞うことで、教師や他の大人たちを自由に動かしてきた。そうすることで己の思い通りの状況を作り出し、ずっとその中でぬくぬくと微睡んでいたのだ。
 しかし、そんなことはただの『逃げ』だ。そう教えてくれたのは、アキラだった。アキラと出会い、心通じ合うまでの過程で、シキがコントロールできたものは――己自身の感情さえも――何一つなかった。制御できないまま進行していく”状況”の中で、無我夢中でアキラに手を伸ばし――手に入れた。だからこそアキラは大切で、己にとっては傍にいるために戦う価値のある存在なのだ。


 翌日の夕方。数日ぶりに父が帰宅するのを待って、シキの一家は祖父の墓のある霊園へと出かけた。組の主要幹部三人も一緒だ。しかし、父が霊園の静寂を乱すのを嫌うので、護衛は最小限に留められた。
 霊園に着くと、一行は表に車を待たせておいて、敷地へと入った。父は手ずから水を汲んだ桶と柄杓を提げ、墓の間の細い舗道を進んでいった。シキの母とリンの母が、それぞれ供花を一束ずつ抱いて後に続く。シキとリンがそれに従い、殿は幹部と護衛たちだった。
 辺りには人がおらず、しんと静かだった。盆の墓参りシーズンが終わっているからだろうか。あるいは、組が霊園側に人払いを頼んでおいたのかもしれない。西日に照らされた霊園に、蜩の鳴き声だけが響いていた。
 父は祖父の墓前へ進んで、持っていた桶から柄杓で墓を清めるための水を掬おうとした。が、ふと思いとどまった様子で、動きを止めて振り返る。
「――シキ」
「はい、父上」
「お前、今年は俺の代わりに、墓を清めるか?」
 何気ない問い。しかし、そこには重要な意味が含まれていた。
 墓参りの最初に墓を清めるのは、シキの家では家長の役割と決まっている。父はそれを交代するかと尋ねた。口調こそ気軽ではあったら、前日の電話の件と考え合わせると、ひどく意味深長だった。
 幹部たちもその意味に気づいたらしく、小声で囁きを交わしているのが聞こえてきた。
 シキはとっさに、どう答えるべきか判断が付かなかった。墓を清めることは、さほど手間な仕事でもない。しかし、今、父の申し出を受けてしまえば、この後も父のペースで物事を運ばれてしまうかもしれない。
 それだけは、阻止しなければ。
「――父上」
 呼びかけた瞬間。バンッと鋭い音が、蜩の声を引き裂いて辺りに響きわたった。
 シキはとっさに反応して、「伏せろっ!」とリンに向かって叫んだ。同時に己の前方にいた母二人の肩を掴み、地面に引き倒す。直後に、更に二発の轟音。それが銃声だったと気づくのに、数十秒の時が掛かった。
「……組長……」幹部の一人が呆然と呟く。
 はっとしたシキは顔を上げ、祖父の墓の前に立つ父を見た。父はいつもの厳格な表情でしっかりとそこに立っていた――と、次の瞬間、その身体がぐらりと傾ぐ。どさり、と倒れた父の腹部に、一瞬赤い染みが見えた。
「あなた!」
 シキの母が叫び、立ち上がろうとした。シキはとっさに彼女の肩を押さえ、その場に引き留めた。銃撃が終わったかどうかは分からないのだ。不用意に動くのは危険だった。
 顔を少し上げて周囲をうかがっても、刺客らしき人間の姿は見えなかった。遠距離からの狙撃か、あるいは現場から離脱したか。
 不意に啜り泣くような声が聞こえ、シキは振り返った。普段は勝ち気なリンの母親が、呆然と見開いた目から涙を流している。リンもまた、動けずにいる様子だった。
 最初に我に返ったのは、荒事に馴れた幹部連中だった。幹部たちは一度だけ目配せし合うと、それぞれに動き出した。二人が倒れた父の元へ駆け寄り、庇うように左右を固める。残る一人は、自らの銃を出し、護衛たちを叱咤していた。
「余所の組が刺客を寄越しやがった! 見つけ出せ! まだ遠くへいっちゃいないはずだ!」


 ――翌日、八月二十六日。
 霊園で左脇腹に銃弾を受けたシキの父は、病院へ運ばれた翌日に手術を受けた。その間、幹部たちは懸命に狙撃犯を探したが、とうとう、見つけることはできなかった。


 手術で一命を取り留めた父は、幹部と協議の上で、狙撃の事実を秘匿することに決めた。組に動揺を招くことを恐れたためである。また、正式に次期組長が決まっていないことから、現組長であるシキの父が執務を十分に行えないとなると、周囲の勢力からつけ込まれる可能性もあった。
 裏の世界には、表の世界のような法律や政府の秩序は及ばない。力の強さによって、独自に勢力同士の均衡が保たれている。今、父の組が弱体化すれば、別の勢力が父の組の領域を――シキたちの住まうこの街を中心とした一帯を侵そうとするのは間違いなかった。
 事態は逼迫していた。
 今日明日にでも、シキの家には刺客が送り込まれてくるかもしれない。或いは、街のどこかで余所の組がこの街で組が定めた不文律の秩序を破り、堅気を巻き込んだ争いを起こすか。昼間に歩けば、街は変わらず平穏な夏の終わりの午後に微睡んでいるように見える。しかし、今このとき、どんなことも起こり得るのだと、シキは知っていた。
 そして、明日に新学期を控えた夜。
 とうとう一つの問題が持ち上がった。縄張りの近い組――翁長組から、突然に組長同士の会合の申し入れがあったのだ。シキはそのことを、偶然に通り掛かった父の部屋の前で聞いてしまった。幹部たちが突然の申し入れに声高に憤っていたためだ。
「翁長の野郎! 急に組長を会合に出せとは、何かウチの内情を知ったに違いねぇ。……いや、組長を襲った刺客は、奴の仕業に決まってる!」一人の幹部が息巻く。
「落ち着け。決めつけで動けば大事になる。今は抗争を起こすわけにはいかないんだ、慎重に行動しなければ」と別の幹部が宥めている。
「――そうだ。お前ら、これしきのことで騒ぐな。会合には、俺が出る。ここで翁長につけ込まれる訳にはいかんからな」
 不意に父の重々しい声が聞こえてきて、シキははっと息を呑んだ。
 父はまだ入院しなければならないところを、自宅療養すると言って無理矢理に退院してきた。本来ならば、まだ絶対安静にしなければならない。会合に参加するなど、とんでもない話だった。
「組長! 無茶です! 第一この会合も、組長にトドメを刺すための罠かもしれねぇ」幹部たちが口々に言った。
「……何もドンパチに出ようと言った訳じゃない。会合なんざ、ただ椅子に座って、話すだけだ……。それに翁長も、そう無茶はするまい。この程度を怖がっていて、何が組長だってんだ」
 父の声は途切れがちで、普段より弱々しかった。しかし、そこには確かに強烈な意思の力が存在するように感じられた。束の間、シキは父の気迫に気圧されて、じっと息を詰めていた。そのことに気づいたとき、シキははっきりと悟った。
 ――負けた。
 ――己は未だ、到底この父には及ばない。
 ずっと恐れ、敬遠し続けてきた父。いつその支配下から抜け出してやろうとばかり、己は考えてきた。アキラの傍にいることばかり――己のことばかりで頭が一杯になっていた。
 しかし、父は、自身の生命が危ない状況で、我が身を顧みることなく組のために動こうとしている。人間としての父の器の大きさに、己は敗れたのだ、とシキは感じていた。
 呆然として、次いでシキは悔しくなった。このまま、父への敗北感を抱いたままで済ませてなるものか、と強く思う。その思いの命じるままにシキは父の部屋の襖を勢いよく引き開け、運命の言葉を口にした。

「――父上。俺が、代理として会合に出ます」


***


 シキは畳の上から立ち上がり、静かに眠る父の元を辞した。かつて、勢いよく開けて運命の言葉を口にした襖をそっと引き、廊下へ出る。
 廊下から見える中庭は、暮れの薄闇に沈んでいた。庭木の合間にぽつぽつと点る照明が、さながらアキラと見た蛍のようだった。もはや己がアキラに近づくことはない。父の後継者になるということは、そういうことだった。
 それでも、シキは後悔はしていなかった。
 父が弱ったあの状況では、いずれ余所の組が刺客を送り込んで来ただろう。刺客の狙いは、何も父だけとは限らない。家族である己や母たち、それにリンも、狙われる可能性は十分にあった。
 たとえアキラの傍にいたとしても、己が狙われればアキラを危険にさらすことになる。
 今でも目蓋の裏に焼き付いて離れぬ光景――墓場で倒れていく父――同じことがアキラに起きたとしたら。そして、もしもアキラが生命を落としてしまったら。想像するだけでも、シキには耐えられなかった。もし想像が現実になってしまったら、シキは己の頭を何度銃で撃ち抜いたとしても、己を許すことができないだろう。アキラを失うことは、シキにとって何よりの恐怖だった。それでも、アキラがこの世からいなくなることに比べれば、どうということもなかった。
 ただ、己の決定をアキラに知らせることはできなかった。そもそも、告げればアキラは本気でシキから離れようとはしない可能性が高い。そして、それ以上に――シキ自身が、アキラに話せば決意が鈍ることを恐れていた。
(アキラは……傷ついただろう)
 クラブの裏口で待っていたアキラを、アキラのためにシキに抗議をしにきたユキヒトのことを思う。しかし、どうすることもできなかった。どうすることもできないまま、日々の学業と父の代理の仕事に忙殺されていく日々。
(後悔はしない。アキラを傷付けてまで、選んだ道なのだから)
 己に言い聞かせるように、シキは心の中で呟いた。






(2011/03/20)
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