アンノウン5
シキを殴った日の翌日。ユキヒトは授業が終わると早々に帰り支度を整え、教室を出た。この日は、本来ならば『学園の情報屋』として屋上で商売をするはずの日だった。が、問題を起こした直後とあっては、少しでも教師たちを刺激するような真似は避けなければならない。屋上での商売は休まざるを得なかった。もっとも、ユキヒトはお行儀よくただ帰宅するつもりなどなかったが。 廊下を歩いて脱靴場へ向かいかけたところで、ユキヒトはトウヤに出くわした。トウヤはどうやら昨日の今日でユキヒトのことを心配し、授業の後に様子を見に来たらしかった。それが、教室に着くまでに思いがけなく遭遇したものだから、ぎょっとした表情をしている。 「か、……帰るのか? ユキヒト」 「あぁ。見ての通りだ」 「マジか?」トウヤはユキヒトに顔を寄せ、声を低めて言った。「お前、今から『闘いに行きます』ってなカオしてるぜ。帰るって、本当だろうな? 目立つことは止せよ。せっかくシキが庇ってくれたんだから」 「俺はそこまで馬鹿じゃない」ユキヒトは答えた。 少なくとも、シキから与えられた慈悲がどれほどの価値を持つかは、十分に理解していた。これでもユキヒトは、ユキヒトなりにシキを尊敬しているのだ。シキの慈悲を無にするような真似は、できるはずがなかった。 しかし、トウヤはまだユキヒトの言葉を疑っているようだった。 「……分かった。だったら、俺も一緒に帰る。すぐ用意するから、待ってろよ」 トウヤは異常な早さで自分の教室に戻り、鞄を取るとすぐに戻ってきた。まるでユキヒトが先に帰ってしまって、問題を起こすのではないかと恐れているかのような態度だった。 (――信用、ないのな) 思わずユキヒトは内心で呟いた。が、口に出してトウヤを責める権利がないのは、寿分に承知していた。何しろ、昨日の一件が一件だからだ。 ユキヒトは大人しく、トウヤと共に学校を出た。 *** 下校途中。ユキヒトが通学路から外れようとすると、トウヤはぎょっとした顔で声を上げた。 「おっ、おい、ユキヒト。お前ん家はそっちじゃないだろ!? どこ行く気だよ。目立つことはするなって、さっきあれほど……」 「だから、目立つことなんかしない。……それともトウヤは、市立図書館へ行くのがとんでもない非行だって言うつもりか?」 皮肉な調子でユキヒトが告げた内容に、トウヤは鳩が豆鉄砲を食らったような表情をした。 「図書館?」 「そう。図書館だ。嘘だと思うんなら、一緒に来るか?」 「いや。お前を疑ってるわけじゃないんだけどさ……」 もごもごと言い訳しながらも、結局トウヤはユキヒトに従いて図書館へ来た。余程ユキヒトが無茶をするのではないかと疑っていたのだろう。 図書館へ着くと、トウヤはいったいどうするんだ?という目でユキヒトを見た。その表情にユキヒトは、ため息をついた。 「その顔。やっぱりトウヤ、俺が言ったことを信用してなかったのな」今度こそ、内心の言葉を口に出す。 「だから、そうじゃねぇけど。……だけどさ。だけど、本が見たいなら学校の図書室で十分じゃねぇか。何でわざわざ市立図書館まで来たんだ?」 「そりゃ、学校の図書館じゃ揃ってない資料があるからさ」 ユキヒトは書架の間をどんどん進み、新聞の保管されている棚の前へたどり着いた。そこでは新聞紙が、新聞社ごとに分類されて保管されていた。ユキヒトはその中から一紙を選び、八月半ばから九月現在までの新聞紙をごっそりと抜き出した。さすがにひと月あまりの分となると、かさが高い上に重い。 「トウヤ。半分持ってくれるか?」 「いいぜ。……どこへ持ってく?」 「あっち」 両手で新聞紙の束を抱えたユキヒトは、隅の方の閲覧席を顎で示した。そのままトウヤを追い越して、目的の席へと歩いていく。トウヤも黙って後からついてきた。 どさり。ユキヒトは閲覧席の机に新聞を投げ出した。後から来たトウヤも、ユキヒトが持ってきた新聞紙の山の脇に自分が運んできた分を置く。 「なぁ、新聞なんかどうするんだよ?」トウヤはひそひそ声で尋ねた。 「調べもの」ユキヒトは即答した。 「調べものって、何を?」 「シキの『家』に関する『何か』、だ」 「……そんなこと調べてどうするんだよ?」 「――トウヤ。お前もアキラとシキのこと、気づいてるんだろ? 二人がどういう関係だったのか」 「まぁ、薄々な」 「なら、最近、急にシキがアキラによそよそしくなったことも気づいてるよな? アキラも、シキの態度には戸惑ってるようだった。俺は、シキに何かあったんじゃないかと思う。その『何か』を知りたいんだ」 「単なる心変わりかもしれないだろ。……だいたい、何か事情があったとしても、第三者の俺たちに何ができる? あの生徒会長が自分でどうにかできなかったことを、俺たちが何とかできるはずがない。……他人のプライベートに首を突っ込むのは、止めておけ」 「嫌だ」ユキヒトは即答した。 ユキヒトの知るシキという男は、自分が心を許した相手を簡単に切り捨てられるような人間ではなかった。とりわけ、アキラは誰よりもシキの心の深くにいるようだった――二人の様子を見ていれば、ユキヒトにも自然とそれが伝わってきた。 それほどまでに心を許した相手を手放そうとするなど、シキらしくない真似だ。夏休みの間にシキは変わってしまったのかもしれない、とユキヒトは思ったものだった。 しかし、昨日、シキに庇われたことで気づかされたのだ。シキは、夏休み以前からどこも変わってはいない。だとすれば、シキがアキラを手放そうとするのは、彼を取り巻く事情が変化したためとしか思えなかった。 シキは一見して唯我独尊のようだが、実際には守るべきもののために簡単に自己を切り捨てることのできる人間なのだ――これまでも、生徒会長として自分のことより生徒全体を優先し続けてきたように。 「ユキヒト」トウヤは厳しい表情で言った。「たとえ、シキに何か事情があったとしても、あの生徒会長が自力でどうにかできなかった問題を、第三者の俺たちが解決できるわけがないだろ。今回のことは、お前が『情報屋』として“お客”に売るような――誰が誰を好きだとか、テストのヤマがどうだとかいうような――他愛ない情報とはわけが違うんだ。ガキのごっこ遊びの『情報屋』が、首を突っ込んでいいことじゃない」 珍しく容赦のないトウヤの言葉。 確かに、自分が普段やっている『情報屋』は、所詮は子どものごっこ遊びに過ぎない。“客”の生徒たちもユキヒト自身も承知の上で、楽しんでいる。 遊びの上での暗黙の了解をトウヤに面と向かって指摘されて、ユキヒトはひどく傷つけられた思いだった。どんな情報でも手に入れられる『情報屋』というのは虚構で、お前は無力な子どもに過ぎないのだと普段は無視している現実を引っ張り出されたような気がした。 「……トウヤ。俺は、シキにアキラへの気持ちを犠牲にさせたくないんだ」ユキヒトは掠れた声で、自分の本心を口にした。「アキラを見るとき、シキは幸せそうな表情をしてた。見たこともない顔だった。それで、分かったんだ……シキは何でもできるように見えるけど、俺たちと同じ、まだほんの高校生――ガキだったんだって」 「ユキヒト……」 「別れるっていうのが、シキとアキラの決めたことなら仕方がない。だけど、シキが一人で決めて、自分の気持ちを何かの犠牲にしようとするのは、間違ってると思うんだ。――昨日、俺はシキに救われた。その借りを返すために、シキとアキラのために何かしたいんだ」 ユキヒトの言葉に、トウヤは迷うような表情を見せた。そして、結局、困ったように『お前の好きにしたらいい』と呟いたのだった。 *** 一方、アキラは平穏な学園生活の中にあった。 ユキヒトとシキの事件は丸一日、校内を騒がせることとなった。が、双方に大した処分は下されず、当事者のシキもユキヒトも淡々と過ごしていたことから、その後、生徒たちも表立って話題にすることはなくなっていった。 学園高等部は、表面上は退屈な日常を取り戻したようだった。その中でアキラは機械的に授業を受け、学校と家とを往復し続けた。ゴールデンウィーク明けにシキに出会ったときから、自分の感情の波に翻弄される毎日が嘘のように、今は心は穏やかに凪いでいた――まるで死人のように。 きっと、これが日常。これが普通ということ。 (そうだ。これでよかったんだ) 何度となく、アキラは内心で呟いたものだった。 そして、金曜日がやって来た。ユキヒトがシキを殴った日から、四日が過ぎたその日の放課後。帰宅しようとしていたアキラは、隣のクラスの女子生徒に呼び止められた。 女子生徒はひどく緊張しているようだった。がちがちに強ばった表情で、用があるので一緒に来てほしいと言う。アキラはほとんど女子生徒の勢いに押し負かされる形で、彼女の後について行った。 アキラが連れて行かれたのは、中庭の片隅だった。中庭は、昼休みには生徒たちで賑わっている。しかし、放課後は生徒たちは帰宅したり、グラウンドで部活動をしたりで、中庭は人気がなくなりがちだった。特に、アキラが案内された辺りは庭木で死角になりがちで、よく恋愛の告白の場になっているという噂もあった。 案内して来た女子生徒の用件も、その噂の例から漏れないものだということがすぐに分かった。 「――入学式のことから、ずっと好きでした。あの……もしよければ、私と付き合ってもらえませんか?」 女子生徒はがちがちに緊張しながらも、そう言ってのけた。うっすらと予想していた事態ながらも、アキラはしばらく呆然として目を丸くしていた。 同い年の女の子からの告白。彼女の想いに応えると言えば、年相応の普通の恋愛を経験することができるだろう。もはや男同士だからと人目を忍ぶこともなければ、悩む必要もない。 それも、或いは幸せな未来なのかもしれない、とアキラは思った。 「俺は――」 数分後。アキラは涙を堪えた様子で走り去る女子生徒の背中を、ひとり見送っていた。 結局、彼女の告白を受け入れはしなかった。最初から、分かっていたからだ。付き合ってみれば、自分は彼女を大事にすることはできるだろう。楽しい交際になるだろう。――それでも、シキほどに強く想うことはできないということも、十分に承知していたのだ。 (シキのことを諦めたつもりで、俺はまだ捕らわれているのか……) アキラは女子生徒の立っていた地面を見据え、拳を握りしめた。 *** 放課後。中庭を横切って近道しようとしたトウヤは、庭木の間に立つアキラを発見した。傍らには、可愛らしい女子生徒。これはどう見ても告白を受けている最中、という場面だ。 邪魔になってはいけない、とトウヤはアキラに声を掛けずに通り過ぎようとした。が、次の瞬間、急に身を翻した女子生徒がこちらへ走って来た。女子生徒はトウヤには構わず、脇を通り過ぎて校舎へ入っていった。目には涙が浮かんでいる。 トウヤはやや気まずい思いで、その場に佇んでいた。と、そのとき庭木の茂み越しにこちらを見たアキラと視線が合う。ここで声を掛けないのも不自然な気がして、トウヤは「よぉ」と片手を上げてアキラに近づいていった。 「トウヤ……。見てたのか……」 アキラはぼんやりとした目でトウヤを見つめ返した。茫洋とした表情。しかし、トウヤにはそれがどこか痛々しく見えた。 「いや、見ることは見てたけど。悪いな。マズいとこに居合わせちまって……って……」 言い掛けた途中で、トウヤは言葉を失った。ぼんやりとこちらを見ていたアキラの目から、大粒の涙が零れ落ちたのだ。涙はすぐには止まらなかった。後から後から溢れてくる涙を拭いもせず――いっそ自分が泣いていることすら気づいていないかの様子で――アキラはじっと佇んでいた。 「――……告白、されたんだ」唐突に、アキラは呟くように言った。「でも、断った。……あの子がどれだけの勇気を振り絞ったか、それがどれだけ難しいことか、俺にもよく分かるんだ。でも、応えることはできなかった。彼女は可愛いし、すばらしい勇気を出したのに。どうしてだろう? ……どうしてか、やっぱり、駄目だったんだ。――吹っ切ったはずなのに、やっぱり……俺は、あいつでないと駄目なんだ。心が、そういう形になってしまったんだ……」 どうしてだろう、ともう一度ぼんやり呟き、アキラは首を傾げた。その様子に、トウヤは胸の痛みを覚えた。アキラは本当にシキのことを想っているのだ、と実感させられる。 おそらく、アキラにとってシキは初めての、そして心の底から深く想う相手なのだろう。トウヤも女の子と付き合った経験がないわけではないが、それは軽やかで楽しいだけの交際だった。アキラのような、心を根こそぎ持って行かれるかのような恋愛などしたことがない。 それはどんな気分なのだろう、とトウヤは思った。それほどの恋を失うことは、どれほどの苦しみだろうか、とも。 ――俺には、分からない。 いい加減な性格の自分だが、不思議と他人から頼られる兄貴分タイプでもあることは自覚している。先日のユキヒトのように、他人の嘆きに接する機会だって何度かあった。そのときには、トウヤは彼らを宥め、慰め、励ましてきた。そのための言葉はいつも自然に思い浮かんだというのに。今このとき、トウヤはアキラに何と言ってやればいいのか分からなかった。 トウヤはへの字になりかける唇の端を無理につり上げ、笑みを作った。アキラの肩に手を掛け、宥めるようにさする。 「大丈夫だ、アキラ……」トウヤは言った。 適切な言葉など、何一つ浮かばなかった。涙を流すほど真剣な恋愛をしたことがないのに、アキラの痛みや悲しみが理解できるはずもない。だから、言うべき言葉も思い浮かばないのだ。 それでもアキラを慰めなければ、とトウヤは思った。何が大丈夫なのかなんて分からないが、そう言うことしかできなかった。 「泣くな、アキラ。大丈夫。大丈夫だから……」 *** 調べものを始めて三日目の金曜日の放課後。ユキヒトは相変わらず、市立図書館に来ていた。 調べものは、難航していた。それも無理はないだろう。シキの父は暴力団組長だ。そんな家や暴力団の内情など、何かあったところで、そう簡単に報道されるものではないだろう。たとえば組が揺らぐような事態であれば、組員たちは必死に隠そうとするはずだ。 半ばお遊びに等しい『学園の情報屋』として扱う情報とは、わけが違う。覚悟していたことだが、まさしくトウヤに指摘された通りだった。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。シキとアキラにもう一度でも、話し合う機会を作ってやりたい――殴ったシキに庇われたユキヒトのプライドにかけて。それこそが、借りを返すということだと思うのだ。 ユキヒトは必死に調べものを続けていた。 と、不意に隣の席でガタンと音がした。顔を上げて見れば、トウヤが隣の席に腰掛けようとしているところだった。 「よぉ」と、隣の席に座ったトウヤは言った。 「トウヤ。どうしたんだ?」 「……俺も、お前に協力したい」 「何だよ、いきなり」 今回のユキヒトの調べものを、トウヤが快く思っていないことは分かっていた。シキの家――暴力団組長の家の事情など調べていては、危険な目に遭いかねないとユキヒトの身を案じての反対らしかった。それが、いきなり協力したいと言い出すとは……。 ユキヒトは不審に思って目を細めた。 「そんな疑うような目で見るなよ」トウヤは顔をしかめた。「確かに俺は、お前の調べものに反対だった。危険だと思ったからだ。……だけど、今日、アキラを見ていたら、お前がアキラとシキを心配する気持ちがよく分かった」 「……?」 「アキラがさ、今日、女の子に告白されてたんだ」 「それで?」 「断ってた。告白を断って……その後、泣いてた。『彼女の勇気は痛いほど分かるけど、自分は彼女を選べない……シキ以外は選べない』ってさ。俺は、そこまで誰かを想ったことはないから、アキラの苦しさは分からない。でも、あんなに全身全霊を掛けた恋なら、このまま終わるのは悲しすぎると思ったんだ」 「分かった、トウヤ。協力、助かる。それで、どう協力してくれるんだ?」 ユキヒトが尋ねると、トウヤは得意げににやりと笑った。 「シキの弟が中等部にいただろ? 俺の後輩が、シキの弟と同じクラスなんだ。だから――シキの弟に繋ぎをつけてやるよ」 (2011/04/10) 目次 |