アンノウン6
図書館でトウヤと別れて帰宅してから、ユキヒトは教えてもらったばかりのトウヤの後輩の携帯に電話を掛けた。すぐに後輩にメールしておくとトウヤは言っていたから、もう相手にもユキヒトのことが伝わっている頃だろうと判断したのだ。 電話を掛けてみると、後輩はすぐに出た。ユキヒトの用件を聞き終えた彼は、あっさりと「いいよ」と言った。普通なら、チーマーのクラスメイトと関わりを持つなど、もう少し躊躇してもよさそうなものだ。が、後輩の態度には迷いがなかった。 ユキヒトはわずかに引っかかりを覚えた。それが電話口での相槌にも表れてしまったのかもしれない。後輩はユキヒトが尋ねるより先に、『俺、実はリンのチームに入ってるから、親しいんだ』と打ち明けてくれた。説明のようでいて、その実、自慢しているような口調だった。 「トウヤには言ってないのか?」ユキヒトは尋ねてみた。 『言ってないよ』後輩はやや決まり悪げな声を出した。『だって、トウヤ先輩、面倒見のいいタイプだろ? チームに入ったなんて打ち明けたら、心配して、チームを抜けろって言うんじゃないかと思って』 「だけど、内緒にされていたと後で知ったら、トウヤは悲しむと思うぞ」 『うっ……そうなんだよなぁ』 後輩は困りきった声で呻いた。チームに入ってイキがって見せていても、根は素直な少年なのだろう。短い沈黙の後に、『トウヤ先輩にはまだ言わないで。自分で言うから』と言った。 「了解。じゃあ、俺は黙ってる」 『アリガト。……ところで、センパイ、早速だけど今夜、出て来られる? リンと話したいなら、今夜が一番確実なチャンスなんだけど』 「今夜、か……」ユキヒトは呟いた。 後輩の言葉を繰り返した声は、自分でもそうと分かるほど翳っていた。ユキヒトはすぐに、自分が心の奥底で不安がっていることを悟った。深夜のチームの集会に参加したことが、万が一にも教師たちにバレたらどうなるか。今度こそ、確実に退学が待っている。 ――だから、どうした。 ユキヒトは腹の底にわだかまる自分の臆病な本音に、心の中で蹴りを入れた。自分はもう一度だけ、シキとアキラの間を取り持つと決めたのだ。そのためには、シキの弟であるリンと接触するより他に途はない。 自分は退学の瀬戸際にいる。その危険な状況を自覚するのはいい。しかし、必要なときにリスクを冒してチャンスに賭けることができないのでは、ただの臆病者で終わってしまう。 守りに入ってはいけない、とユキヒトは自分に言い聞かせた。シキはそうして――身を挺して――自身の退学と引き替えにしても――自分を助けようとしてくれたじゃないか。シキにできたことが、自分にできないはずはない。 『――今夜は都合が悪い?』ユキヒトの声の不安そうな調子を感じ取ったらしく、後輩が尋ねる。 「……いや、平気だ。今夜、連れて行ってくれ」ユキヒトは答えた。 『OK。じゃ、今夜九時に駅のロータリー前で待ち合わせってことで』 *** 約束の午後九時。待ち合わせの時間通りに駅前に現れた後輩は、すぐにユキヒトに合図して歩きだした。ユキヒトもそれに続く。 案内されたのは、街の外れにある廃ビルだった。もう何年も前にビルに入っていた企業が倒産して撤退し、以来ビルは放置されたままになっている。そのビルが街でも有名な若者の溜まり場になっていることは、ユキヒトも噂に聞いていた。もっとも、ビルに集まるのがリンのチームだということは、今日、知ったのだが。 「センパイ」 廃ビルの入り口で立ち止まった後輩が、ユキヒトを振り返った。唇をつり上げ、『不思議の国のアリス』に出てくるチェシャ猫のように笑っている。 「センパイ、意外と骨があるんだね。リンに紹介してくれって言ってたけど、実際に会うとなったら逃げ出すかなって思ってた。だって、センパイ、今、チェックメイト(王手詰み)状態なんだろ?」 後輩が何を言おうとしているのか、ユキヒトはすぐに理解した。ユキヒトがシキを殴った一件は――当然といえば当然なのだが――既に中等部にまで伝わっているらしい。後輩の表現を借りるならば、退学したらチェック(王手)されて負たことになるわけだ。 ユキヒトは後輩の言葉に、素っ気なく肩を竦めるに留めた。シキを殴った一件が、他人の好奇心を刺激するような出来事だとは承知している。しかし、からかいの言葉に余裕の態度で応じることは、今のユキヒトにはできそうもなかった。そこまで、あの一件について心の整理がついていないからだ。 しかし、後輩はユキヒトの態度を何か勘違いしたらしく、感心したように「クールだなぁ」と呟いた。その上、急に親しげな態度になって、ユキヒトを案内しようとする。 どうやら、懐かれたようだ。 (おいおい……) ユキヒトは内心うんざりしんがら、後輩に続いてビルの中へ入っていった。 ビルの廊下は真っ暗だった。後輩は携帯電話を取り出し、バックライトで行く先を照らした。最低限、足下が見えなくもない。後輩の手慣れた様子から察するに、彼はいつもこの方法でこの廊下を通っているようだった。 二人は廊下を進み、ドアの前にたどり着いた。軋むドアを開け、地下へ続く真っ暗な階段を下りていくと、そこは倉庫のような場所になっていた。荷物はとうに運び出されたようで、がらんとしたフロアが広がっている。フロアのあちこちには照明が置かれ、何人もの若者が散らばって好き好きに過ごしていた。雑談している者、ラジカセから音楽を流して聞き入る者、その音楽で踊っている者……。 ユキヒトは辺りを見渡した。シキの弟のリンは、意外にもすぐに見つけることができた。少し年長らしい少年二人と、フロアの奥のソファで談笑している。 かつてユキヒトは、リンを写真で見たことがあった。しかし、その少年がリンだと分かったのは、写真のおかげではなかった。 リンは、シキによく似ているのだ。 といっても、顔や容姿が似ているわけではない。金髪で小柄なリンは、姿形という点では黒髪長身のシキとは全く異なっていた。そうではなく、凛とした雰囲気が驚くほどシキと似通っている。ひと目見ただけで、リンもまたシキと同じく、顔を上げて何かと闘いながら生きている人間なのだと分かった。 「センパイ、来て。リンに紹介する」 後輩に促され、ユキヒトはリンたちのいるソファへ近づいていった。 「おい、ショウタ。そいつがリンに会わせたいって奴か?」 ソファの前に行くと、リンの左に座っていた赤毛の少年が後輩に尋ねた。ショウタというのは、後輩の名前だ。そうです、と後輩が頷くと、赤毛の少年はじろじろと無遠慮にユキヒトを見た。警戒心を、隠そうともしていない。 それに対して、リンの右隣の青灰色の髪をした少年は、泰然としていた。警戒しているのかもしれないが、それを露わにするわけでもない。かといって、にこにこと友好的な顔をするわけでもない。至って中立的な態度で、興味深そうな目をユキヒトに向けている。 (あ……。こいつ、ちょっとアキラに似てるかも) 青灰の髪の少年を見て、ユキヒトはふとそう思った。 二人の少年の間で、リンは冷然としてユキヒトを見つめていた。といっても、警戒心を抱いているという風ではない。まるでユキヒトの人間性を見通そうとするかのような、冷静な視線だった。 「話は先にショウタから電話で聞いてた。で、俺に何の用なの?」とリンは尋ねた。 ユキヒトは、偽りを即座に見透かしそうなリンの眼差しを、真っ向から受け止めた。 「俺は高等部一年のユキヒト。俺と同じ高等部一年で、アキラって奴のことは知ってるか?」 「知ってるよ。話したことがある。兄貴の――……友達だ」 言葉の微妙な表現と間の取り方から察するに、リンはシキとアキラの本当の間柄について、知っているようだった。 「そう、アキラはシキの友達だ」そう言いながらもユキヒトは、リンの暗喩を理解していることを示そうと、殊更大きく頷いてみせた。「その、シキとアキラの間が、最近ぎくしゃくしてる。二人が変になったのは、俺が見るにはシキのせいだ。シキに何かあったんじゃないか? 弟のお前なら、知ってるんじゃないかと思ったんだ」 「――……」 一瞬、リンははっとした表情になった。何か言いたげに唇を開く。が、すぐに思い直したように、リンは唇を引き結んでしまった。 「知らないよ。喧嘩なんか、アキラと兄貴との間の問題だろ。俺に聞くのはお門違いってもんだよ」 「だけど」ユキヒトは反論しようとした。 だが、できなかった。ユキヒトの言葉を遮るように、リンの隣の赤毛の少年が立ちはだかったのだ。少年は、最早、警戒心どころかむき出しの敵意をユキヒトに向けていた。 「リンは知らねぇっつってるだろ」 「トモユキ。突っかかるのは止せ」青灰色の髪の少年がたしなめる。 「だが、カズイ……」 赤毛の少年――トモユキと青灰色の髪の少年――カズイが言い合いを始めそうな気配になった。そのとき、リンが立ち上がった。 「とにかく、ユキヒト“さん”、兄貴はうちの方では普段通りだ。何も起こってない。俺があんたに話すべきこともない。だから、もう行って」 「――……分かった」 おそらく、これはリンの意思表示なのだろうと思った。シキに『何か』があったとしても、話す気はないという意思の明示。 ユキヒトは踵を返し、地下室を後にした。階段を上り、暗い廊下を進む。後輩はついて来なかった。一人で暗い足下に何度か躓きながら、ユキヒトはリンに拒絶されたことを思った。 リンの態度を見るに、やはり家で何かがあったのだっと受け取ることができる。が、リンはその『何か』を言うことはできない、と言う。 いったい、どうすればいいのか。新聞や他のメディアでは、この街で起きた事件については何も触れられていなかった。今ではリンだけが頼みだったのに。 ――これでは行き止まりだ。ゲームオーバーだ。 「クソッ」 ユキヒトは絶望と苛立ちに、廃ビル壁を殴りつけた。前方には、出口が見え始めていた。出口の闇に色鮮やかなネオンの光が、華やかに浮かんでいる。その光を目印に、歩いていく。 と、そのときだ。タッタッタ、と背後で足音が聞こえた。誰かが階段を上ってくる足音らしい。 ユキヒトは振り返らず、そのまま歩き続けた。そうしてビルを出たとき、「待ってくれ」と落ち着きのある声が追いかけてきた。 今度は立ち止まって振り返る。廃ビルの出口に立った人物は、シルエットになっていて顔が見えない。ユキヒトは相手の顔を見ようと、目を細めた。 「待ってくれ」 追いかけてきた相手は、息を切らしながらビルを出てユキヒトに歩み寄った。ネオンの光に照らされて、その人物が地下でリンの隣にいた青灰色の髪の少年――確かカズイと呼ばれていた――だと分かった。 「お前は、さっきの」ユキヒトは呟いた。 「さっきは、リンとトモユキがすまないことをした」カズイは自分が二人の保護者だ、といいたげな口振りで謝った。「リンを悪く思わないでほしいんだ。知ってるだろうけど、リンの家庭は特殊だ。たとえばの話、リンの家庭に何かあれば、この街の裏の世界での秩序が激変する。裏の世界の激変は、表へも影響を及ぼすだろう。だから、リンは迂闊に他人に家庭の話ができないんだ」 「確かに、そうだな……」 「だが、あんたが調べてきたことをリンに言うだけなら、問題ないと思う。リンは黙ってあんたの話を聞くだろう。そうするように、俺がリンを説得する」 ユキヒトは、カズイが言わんとしていることを理解した。カズイは言っているのだ。リンは自分からは家庭の事情を明かすことはできない、と。それでも、ユキヒトがリンに事実を挙げて尋ねれば、リンはそれを認めるだろう――そういう形でしか、ユキヒトの質問には答えることができないのだ、と。 「何か分かったら、いつでも俺の携帯に掛けてくれ。俺が直接リンに取り次ぐから」 カズイはそう言って、ユキヒトの手に紙片を押しつけた。かと思うと、身を翻して廃ビルへと戻っていく。 一人になったユキヒトは、街灯の下へ行き、手の中でくしゃくしゃになっている紙片を広げてみた。紙片はコンビニのレシートのようだった。裏返すとペンで電話番号が走り書きしてある。カズイの番号だろう。カズイは、リンたちに遠慮しながらも、ユキヒトを追いかけてきてくれたらしかった。 ユキヒトは紙片を丁寧に折り畳み、ポケットに仕舞った。リンから話を聞くことはできなかったが、カズイが『リンの家庭には何か異変があったのだ』と暗に教えてもらえただけでも、収穫があったといえるだろう。だが――悔しいことに、今のユキヒトでは、その『異変』を探り出すのには力不足だった。 「っ……くそっ……」ユキヒトは低く呻いた。 どうしても、ここで諦めるわけにはいかない。ユキヒトは唇を噛み、自分の携帯を取り出した。携帯のアドレス帳を開き、登録されているある番号に電話を掛ける。相手はなかなか出ようとはしなかった。長いコール音の後にようやく通話が繋がる。 携帯の画面に通話中の表示が出ると、ユキヒトは相手が言葉を発するよりも先に言った。 「叔父貴……助けてくれ。……どうかあんたの力を貸してくれ、源泉の叔父貴」 (2011/04/28) 目次 |