アンノウン8
アキラは、薄汚い古びた部屋で目を覚ました。 そこは、もうずっと使用されていなかったらしい。コンクリートが剥き出しになった床には、薄く埃が積もっている。壁の高い位置にある窓は、汚れで曇りきっていた。 そんな窓ガラスの汚れにも関わらず、明るい月の光が射し込んでいる。他に明かり一つない部屋では、月明かりだけが唯一の明かりだった。しかし、それも時が経ち、月が位置を変えれば失われてしまうだろう。 (夜か……。今は、何時なんだろう? それにここは……?) 窓を見上げながら、アキラはぼんやりと考えた。目覚めたばかりの血の巡りの悪い頭では、上手く状況が把握できない。 アキラは懸命に自分の置かれている状況を、思いだそうとした。 リンと下校途中、自分は不審な車に連れ込まれたのだ。車内で抵抗する間はなかった。自分がどうなったか理解するよりも先に、誰かに布で口元を押さえられたからだ。布から薬品らしき臭いを感じた途端、意識が遠のいた。次に気づいたときには、既にこの部屋の中にいたのだった。 気絶している間にどれほど時間が経ったのか。どんな道順でここへ連れて来られたのか。建物の外観はどんな風であったのか……。自分の状況を把握するための手がかりになりそうな情報は、全く記憶に残っていなかった。 (――リン……。そうだ! リンもあのとき一緒に……!) 記憶を辿るうちに、アキラは共に下校途中だったリンのことに思い至った。自分が車に連れ込まれた直後、リンも同じように引っ張り込まれるのを見た気がする。 アキラははっと身を起こした。薄暗い部屋の中を見渡せば、少し離れたところにある箱の陰に小柄なシルエットが倒れているのが分かった。リンに違いない。アキラは駆け寄って、相手に触れることはせず、顔を近づけて様子をうかがった。万が一リンが大怪我を負いでもしていれば、少しの振動も命取りになる危険性があるからだ。 幸いにも、アキラの心配は杞憂に終わった。リンは意識はないものの、どこも怪我をしている様子はなかった。 「リン……リン……!」 アキラが耳元で呼びかけると、リンはすぐに目を開けた。 「っ……カズ……じゃなくて……、アキラ……?」 「そう、アキラだ。大丈夫か、リン」 「うん……。でも、ここは……?」リンはゆっくりと身を起こした。眠たげな様子でのろのろと辺りを見回す。 月明かりの下、リンの表情が次第に厳しくなっていくのを、アキラは目の当たりにした。 「俺たちは、下校途中に車に連れ込まれたんだ。多分、誘拐されたんだと思う……。覚えてるか?」アキラは尋ねた。 「覚えてる。……ごめん、これはきっと俺のせいだ」リンは項垂れた。 リンのせい――アキラはすぐにその意味するところに思いいたった。今日の放課後、リンと会って話したのが、まさにその話題だったのだ。 親であるトシマ組の組長が銃撃を受け、負傷したこと。そのために組の力が不安定になっていること。そして、シキは家族や父の部下を守るため、代理の組長として働いているのだということ……。 全ての事情を明かした上で、リンはもう一度だけシキを許してやってくれないかと、アキラに頼んだ。シキの性格からして、自分に関わればアキラが危険に巻き込まれるだろうと判断して、離れようとしているに違いない。突き放すような態度は本心ではなく、そうすることで、アキラを守ろうとしたのだろうから、と。 放課後の中庭で話を聞かされたアキラは――リンの申し出に頷いた。シキの態度の急変については、リンの説明でようやく納得することができた。そういう事情ならば、シキのことを怨みはしない、と告げた。 『だけど』アキラは付け加えてリンに言った。『許すことと元の関係に戻れるかどうかは、また別の話だ』 おそらく、シキは一度決めたことは翻さない――意思が強いから。おそらく、自分も二度とはシキに近づかない――また傷つくのが怖いから。許すこととはまた別次元の問題だった。 そんな話をしていて、遅くなったのだ。 申し訳なさそうなリンに、アキラは頭を振ってみせた。 「たとえ俺たちをさらった奴らの狙いがリンだったとしても、それはリンが悪いわけじゃないさ」 「俺のせいだよ。兄貴からは危険だから送迎を付けるって言われてて、それを断り続けていたんだから。狙われることは、予測できたのに」 「いいさ。……送迎を断りたくなる気持ち、分かるよ。幼稚園の子どもじゃないんだから、って思うよな」 アキラはリンに苦笑してみせた。こんな状況だというのに、頭は妙に冷静だった。このところ悩み続けていた問題――シキの態度の変化の理由について、解決はしないまでも回答が与えられたからかもしれない。 「そういえば、アキラは怪我はない……?」リンがおずおずと尋ねた。 「あぁ」アキラは頷く。「リンも、身体におかしなところはないな?」 「ちょっと頭が痛いけど、それだけ。どこも怪我してない」 よかった、と頷いたアキラは、その場に立ち上がった。自分もリンも身体を縛られていない――ということは、この部屋そのものに鍵が掛かっているのだろう。確認すれば、やはり部屋に唯一のドアは開かなかった。 窓ならば、アキラがリンを持ち上げてやれば、手が届きそうだ。しかし、窓の面積事態が小さいため、届いたところで小柄なリンすら通れそうにない。 もちろん、アキラたちが身につけていた鞄や携帯電話は、誘拐犯に奪われたようだった。 「脱出手段も外と連絡できる携帯もない、か」アキラはため息をついた。 「俺たちを浚ったのがウチの同業者なら、こういうことには慣れてるからね。下手に動かない方がいい。アキラ、俺がアキラを守るから、大人しくしていて。絶対家に帰れるようにするから」 「リン。俺はお前一人を危険にさらす気は――」 「駄目。これは俺の家の問題なんだ。堅気のアキラを巻き込むわけにはいかない」 リンが頑なに言うのに気圧されて、アキラは頷くしかなかった。 *** 『――申し訳ありません、シキ』 携帯電話から、カズイの張りつめた声が聞こえてくる。おそらく、カズイはこれ以上にない程に己を責めているのだろうと分かる声が。 「己を責めるな、カズイ。俺はお前にリンを頼むと言ったが、誘拐への対処まで責任を負わせたわけではない。これは明らかにお前の手には負えぬ事態だ」 『申し訳ありません』 「リンたちの誘拐は、おそらく、ウチの組に恨みを抱く者の仕業だろう。じきに相手が何か言ってくるはずだ。あとは俺に任せろ」 シキは辛抱強くカズイを宥め、通話を終えた。 事の起こりは、午後七時半頃に掛かってきた、一本の電話だった。その電話は、ユキヒトからのものだった。ユキヒトはシキに驚くべき情報をもたらしたのだ――今、同級生と共に、下校中のリンとアキラが連れ去られる場面を目撃した、と。 誘拐の現場に居合わせたユキヒトは、すぐに警察に連絡をしたそうだ。今は警官が現場検証に来るのを待っているのだという。 『――じきに、あんたの家にも警察からの連絡が行くと思う』 そう言ったユキヒトの言葉は、正しかった。しばらくすると、警察が家を訪ねてきて、リンが誘拐されたことを告げた。同時に、誘拐犯の心当たりはないかと尋ねられる。 心当たりは、もちろん、家業が家業だけに幾らでもあった。 シキは警察への対応は母親に任せ、自分はそっと家を出た。警察が動いているので下手な真似はできない。だが、せめて今回の誘拐が本当にトシマ組に関係する相手の仕業なのか。もしそうだとしたら、誰の仕業なのか、突き止めなければならない。シキは組長の代理として、その情報収集の指揮を執る必要があった。 家を出たシキが移ったのは、繁華街にある組の事務所だった。そこに入ったシキは、次々に組員たちに裏の世界の情報を集めるよう指示を出した。 ユキヒトから話を聞いたというカズイの電話が入ったのは、そんな矢先だった。 ぱちんと音を立てて携帯電話の蓋を閉じたシキは、深く息を吐いた。ユキヒトの連絡を受けてからシキはずっと私情を殺して、為すべきことを行ってきた。だが、先ほどの電話でカズイが動揺しているのを宥めるうちに、抑えていた己自身の感情が噴き出し始めているようだった。 今回の誘拐は、やはりリンを狙ったものだろう。アキラは、その場に居合わせたために、巻き込まれただけに違いない。 シキは、言うまでもなく、実の弟たるリンを心配していた。だが、そうは言ってもリンも極道の家に生まれた子どもだ。今回のような事態への心構えは、幼い頃からある程度は持つように教育されている。 しかし、巻き込まれたアキラは、一般人にすぎない。何の心構えもなく、心当たりもなく誘拐されて、どれほど怖がっていることだろうか。 (くそっ……) シキは思わず、縋るようにきつく携帯を握りしめた。 己がアキラから離れたのは、今日のような事態を恐れてのことだった。決し飽きたからでも嫌いになったからでもない。アキラのことが大切で、どうしても失うわけにはいかないと思ったからこそ――失えば己が正気でいられないと感じたからこそ、離れた。 そうすることで、己はアキラを守ったつもりでいた。 なのに、このような事態にアキラが巻き込まれてしまうとは。 (こんなことになるなら、離れなければよかったのか? ……だが、もし離れなかったとしても、同じことは起きていたかもしれないが……) シキはアキラと彼の両親に、申し訳なく思った。だが、今は起きたことを悔やんでいられる状況ではない。アキラとリンを、無事に取り返さなければならないのだ。 (何としても、取り返す……何を引き替えにしても) 心の中で、シキはそれしか知らないように何度も繰り返した。 *** 目覚めてからどれほど経っただろうか。不意にばちりと電灯がつき、アキラとリンを閉じ込めていた小部屋のドアが開いた。嫌な目付きの男が二人入ってきて、じろじろと無遠慮にアキラたちを眺める。男の一方は派手なスーツを着、もう一方は幾つものごつい指輪を嵌めていて、どちらも堅気の人間には見えなかった。 「お前ら、何の用?」 リンがアキラを背に庇うようにしながら尋ねる。しかし、男たちは答えなかった。秘密を貫き通そうというより、アキラやリンを軽んじているらしい態度だ。 「何の用?」 再びリンは言った。今度は、普段の明るさが嘘のような、冷え冷えとした声音。しかし、男たちは態度を変えなかった。アキラたちを無視して、二人だけで会話を始める。 「組長の息子は、そっちのチビの方で間違いないな」 「あぁ。写真で見た通りの姿だ」 「もう一人は部外者か。全く、拉致してくる役の奴らめ、下手なことしやがって。こんなことが兄貴にバレたら、何と言われるか……」 「何も言いやしねぇさ、部外者のガキの一人くらい。余計なオマケは、適当なトコに売っちまえばいい。見ろよ、そのガキ、なかなか綺麗な面してるじゃねぇか」 指輪の男が顎でアキラの方を示す。促された派手なスーツの男はアキラへ目を向けてほぅと感嘆したような息を漏らした。 「確かに。こりゃあ高く売れそうだ」 「アキラに手を出すなっ。手を出したら、殺してやる!」 リンが叫んだ。アキラは慌ててその肩を掴む。誘拐犯の男たちの話には怒りと嫌悪を感じていたが、反応に出して彼らを刺激するのは危険だと思ったのだ。 そうする間にも、男たちはアキラとリンに近づいてくる。そのとき、不意にリンが立ち上がって、男たちに殴り掛かった。アキラが止める間もない、あっという間の出来事だった。 しかし、男たちも素人ではない。反抗を予想していたらしく、スーツの男がリンを迎え打って逆に殴り付けた。もともとアキラを守ろうと体勢も不十分なままに跳びだしたらしいリンは、まともに相手の拳を受けて倒れ込む。 「うぅっ……くっ……」リンが呻く。 「リン!」 アキラはリンに駆け寄った。が、近づいてきた指輪の男に腕を捕まれ、強引に立たされる。 「兄ちゃん、ちょっと俺たちと遊んでもらおおうか」 指輪の男が睦言めいた口調で囁くその意味を、アキラはすぐに理解した。激しい嫌悪感がこみ上げてきたが、抵抗はできなかった。抵抗などすれば、自分のみならずリンまで危険な目に遭うに違いないのだ。 アキラはきつく目を閉じた。この身体にシキ以外の人間が触れることなど、到底、受け入れられることではない。しかし、それを自分はともかく、リンの身の安全と引き替えにすることはできないと思った。リンを無事にシキの元へ帰してやりたかった。 なぜなら、まだシキのことを想っているからだ。たとえ、以前のような関係に戻ることがないとしても、シキへの感情が消えたわけではない。自分の身と引き替えにして、愛した相手に大切な家族を失わせるなど、アキラのプライドにかけて、できることではなかった。 「アキラ……」 床に這いつくばったリンが、アキラへ向かって手を伸ばす。心配の色を湛えたリンの目に向かって、アキラは微笑してみせた。笑顔を作って強がりでもしなければ、これから自分の身に起こるであろう出来事に発狂してしまいそうだった。 「大丈夫だ、リン。だから、大人しくしていてくれ。俺は平気だから」 「いい覚悟だな、兄ちゃん」 指輪の男が低く嗤い、アキラの腰に腕を回して部屋の外へ促す。アキラは大人しく、誘導されるがままに従った。アキラの後ろには、リンを牽制するかのように、スーツの男が付いた。 「駄目だ……アキラ……」 リンの声が背中を追いかけてくる。それでもアキラは振り返らなかった。振り返れば、決意が鈍って恐怖がこみ上げそうな気がしていた。 (2011/06/11) 目次 |