アンノウン9






 小部屋から連れ出されたアキラが目にしたのは、がらんとして広い作業場のような部屋だった。見上げれば、天井がかなり高い位置にあり、屋根を支える鉄筋の骨組みがむき出しになっている。建物自体は平屋のようだった。
 建物の構造を見ながら、アキラはかってこの場所は何かの工場だったのではないかと考えた。工場の内部を見たことはない。だが、幼い頃に住んでいた土地には工場が多くあった。当時、幼いアキラが日々目にして想像していた間取りと、今いるこの場は似ている気がしたのだ。
 もっとも、がらんとした部屋は使われなくなって久しいようで、何のための場所だったのか知る手がかりは残されていなかった。長机や椅子、ソファなどが、置かれてはいるが、後になって持ち込まれたものであることは明らかだった。おそらく、この見捨てられた建物を利用することにした誘拐犯たちが持ち込んだものだろう。
 先に立って歩いていた派手なスーツの男は、ソファの前まで来ると急に立ち止まった。アキラを振り返り、ソファに座るように言う。
 アキラは本能的にこれから何が起こるのかを悟った。が、何も考えないようにして――何も気づかなかったふりをして、スーツの男の言葉に従った。後から入ってきた指輪の男がニヤニヤしながら、「なかなか素直だ」と言うのが聞こえる。男の声に含まれた情欲を感じ取ったが、これにもアキラは気づかなかったふりを通した。
 無表情で口を噤むアキラの前で、男二人は聞くに耐えない相談を始めた。それが終わると、“先”と決まったらしい派手なスーツの男が、アキラへと向き直る。スーツの男はアキラの肩を押してソファに押し倒すと、身体の上に乗り上げてきた。
「暴れるんじゃねぇぜ。大人しくしていりゃ、イイ思いをさせてやるよ」
 スーツの男はそう言って、アキラの制服のシャツの釦を外し始めた。アキラは名も知らぬ男の重みと衣服越しの体温をじっと受け止めながら、シキのそれを思った。他の男に抱かれるのに本当の想い人を思い浮かべるのは悪趣味な気もしたが、止めることはできなかった。
 シキのことを考えていなければ――自分の心の拠って立つ場所が何であるのかを確かめていなければ、気が狂いそうだった。結局のところ何を守るために身を差し出すのか見据えていなければ、心が折れてしまいそうだった。
 シャツの釦を外しきって、スーツの男の手が素肌の上を這い回り始める。アキラは思わず息を詰めた。

(――シキっ……!)
 ――助けて。

「お前ら、何をしてる?」
 不意に低く深みのある声が響いた。
 途端、さほど大きくもないその声にむち打たれたかのように、スーツの男はびくりと動きを止めた。そそくさとアキラの身体から降り、ソファの脇に直立する。固く閉ざした目を開けたアキラが見れば、傍らにいた指輪の男も同じように姿勢を正し、ある方向を注視していた。
 アキラはソファの上で起きあがり、男たちの見ている方向へ目を向けた。がらんと広い部屋の入り口に立っていたのは、四十代半ばと思しき男だった。男は仕立てのいい黒いスーツを着て、威風堂々とした様子だった。男の左目から頬にかけて引きつれたような傷跡が走っているのが、いかにもヤクザ者らしい。
 傷の男の背後には、部下らしい男が二人、付き従っていた。部下はどちらも隙がなく、忠実そうだった。“いかにも下っ端”という感じの派手なスーツの男たちとは全く違っている。
 アキラは傷の男やその部下の様子から、傷の男が比較的高い地位にあるのではないか、と考えた。
「あっ……フジクラの兄貴……。これは、その……」
 今やアキラに手を出そうとしていた下っ端二人は、震え上がっていた。直立不動の姿勢で、必死に傷の男――名をフジクラというらしい――に向かって言い募る。
 しかし、傷の男は取り合わなかった。ソファの周囲を見て、下っ端二人と衣服を乱したアキラの図に全てを理解したらしい。つかつかと大股に歩み寄ると、次々に下っ端二人を殴りつけた。あっと言う間の出来事だった。
「馬鹿野郎どもが! そこの堅気の坊やを巻き込んだのは、俺たちの方だぞ? せめて全てが終わったら、無事に帰ってもらうのが筋ってもんだろうが!」
「っ……す……ませ……」指輪の男が痛みの呻きと共に謝る。
「俺は約束を破って組を奪った『あの男』とは違うんだ。無関係な一般人を傷つけるような卑怯な真似はしねぇ。俺の部下も、全員、同じだ。……分かるな?」
「はい……」
「わ、分かります……」
 下っ端二人は、殴られて切れたらしい鼻や唇から血を流しながら、何度も頷いた。そんな二人の様子にため息を吐き、フジクラは厳しい面もちを和らげた。
「分かったら、余所でちっと反省して来い。……いいな? 次はねぇってこと、頭に叩き込んどけよ?」
 フジクラは、背後に控えていた部下の一人を呼び寄せた。その部下に、下っ端二人を連れて行くように命じる。部下が下っ端たちと共に去ると、その場にはアキラとフジクラ、もう一人の部下の三人きりとなった。
 アキラはソファから立ち上がり、肌蹴たシャツの前を掻き合わせた。その動作に紛らわせて、こっそりとフジクラの様子を窺う。フジクラの先ほどの言葉から思えば、彼は一般人であるアキラを傷つけはしないはずだ。
 しかし、アキラは自分の推察を信じていいものか、自信が持てなかった。
 拉致されたときの、それを予想していたかのようなリンの反応。フジクラの下っ端がしようとしたこと。そして、自身の手下を、ほとんど事情を聞くこともなしに殴りつけたフジクラ……。ヤクザの世界はあまりに暴力に溢れていて、皆、それを当たり前のことと捉えている。母に守られてごく普通の世界で生きてきたアキラにとっては、あまりに異質な世界に思えた。
(あぁ、そうか……。だからこそ、シキは……)あれほど激しく、完膚なきまでに自分を拒んでみせたのか。
 ようやくアキラは、シキの心情が腑に落ちたような気がした。先ほどリンからシキが直面している事態を説明されたときも理解はしたが、今になってみれば理解の程度がまだ不十分だったことが分かる。
 ヤクザの世界に、グレーゾーンはない。
 少しでもヤクザの世界に関わってしまえば、その人間は日常の世界から滑り落ち、暴力の中で生きることになる。シキはある日を境に突然、ヤクザの世界に関わらねばならなくなった。おそらくあまりに急なことで、シキにはアキラと話し合う暇はなかったのだろう。
 それに。
(たとえシキが俺に事情を説明してくれたとしても、俺はシキの傍にいようと食い下がっただろう……)
 そういうときの自分の頑固さには、自信がある。
 あのとき――シキの元のバイト先“Meal of Duty”の裏口で会ったとき。シキに出来た精一杯が、アキラを突き放すことだったのだろう、とアキラは思った。それこそが、シキの最大限の誠意だったのだろう、と。


「――うちの者が失礼をしました」
 フジクラが近づいてきて、丁寧な言葉でアキラに謝罪した。アキラはその態度に戸惑いを感じ、とっさに軽く頭を下げることで応じた。男二人に身体をいいようにされかけたことは、謝罪されてそう簡単に受け入れられる事柄ではない。それに、一般人であるアキラはともかく、ヤクザの『関係者』であるリンをフジクラが傷つける可能性もある。
 気を許すことはできなかった。
「俺はフジクラといいます。巻き込んでしまって、申し訳ない」フジクラは丁寧な態度を崩さずに言った。「手荒な扱いは、こちらの本意でもない。君の友人も、あの部屋から出そう」
 フジクラは同じ部屋に残っていた部下に、リンを監禁部屋から連れ出すように命じた。部下はためらう素振りを見せたが、もう一度言われて、やっと監禁部屋のドアに向かった。
(そうだ。この格好じゃ、リンがびっくりする……)
 はっと思い至ったアキラは、慌てて自分のシャツの釦をはめた。
 直後。バンッと大きな音と共に、監禁部屋のドアが勢いよく開く。中から跳びだしてきたリンは、弾丸のようにフジクラへ向かって駆けていった。
「お前! よくもアキラを……!」
 低いリンの怒声に、アキラはリンが勘違いしているらしいことに気づいた。おそらくリンは、フジクラがアキラに害を成したのだと思いこんでいるのだろう。だからこそ、敵地ともいえるこの場で、無謀にも反撃に出ようとしているのだ。
「リン……。ちが……っ……!」
 アキラは制止の声を上げたが、リンの勢いは止まらなかった。そこで、とっさにリンの足を止めようと跳びつく。アキラはリンと二人、もつれ合うようにして床に倒れ込んだ。
「……ア、キラ……?」
 転倒の痛みに呻きらなが、リンが尋ねる。リンの身体に乗り上げるようにして倒れたアキラは、慌ててリンの上からどいた。
「すまない、リン……! 俺は平気だ。……あの人が……フジクラさんが、止めに入ってくれたから……」
「フジクラ、だって……?」
 驚いたように呟いて、リンは床の上で上体を起こした。アキラの視線を辿って、フジクラを見つめる。次の瞬間、リンはぱっと顔を輝かせ、腰を浮かせた。
「フジクラ! 助けに来てくれたの……!?」
 まるで仲間に向けるようなリンの反応。その言葉にアキラは驚き、リンを見つめた。
 なぜリンはフジクラに友好的な態度を示すのか。いや、友好的なだけではない。そもそもリンは、フジクラと面識もあるかのようだ。フジクラもまた、リンの態度を自然なものとして受け取っていた。
「リン坊ちゃん……」
「フジクラ! 助けに来てくれたんでしょ?」
「リン……。知り合い、なのか……?」アキラはおずおずと口を挟んだ。
「そうだよ、アキラ」リンは力強く頷く。「この人は、ウチの組の幹部なんだ。だから、もう大丈夫。俺たちは助かったんだ。きっとフジクラと一緒に、兄貴も来てるはず。――そうだよね、フジクラ。兄貴はどこにいるの?」
 リンは期待の眼差しをフジクラに投げかけた。が、フジクラは何も言わず、ただ黙って首を横に振った。彼の様子に、リンは真実を悟ったようだった。
「フジクラ……。助けに来てくれたんじゃ……ないの……?」
「リン坊ちゃん。違います。あなたの拉致を指示したのは俺だ。墓場で組長――あなたの父親を狙撃するように命じたのも、この俺だ」
 フジクラの言葉に、リンの顔から血の気が引く。大きな蒼い目に輝いていた希望の光が、さっと失望にかげっていった。アキラは傍らで、胸に痛みを覚えながらその様子を見ていた。
「ど……して……」リンは喘ぐように呟いた。
「組長は、約束を破った。俺はその不正を正さねばならない」
 そうしてフジクラが語ったのは、シキとリンの父親の組――トシマ組の伝統についてだった。もともと、トシマ組はシキの父祖が必ず組長を務めてきたわけではなかったらしい。
 トシマ組には、代々、組長の後継者を決めるにあたって一つの決まりがあった。後継者になるために、血筋・家柄は全く関係がない。唯一、重要なのは、後継者が組の中で最も強い人間であるということ。トシマ組始まって以来、その決まりは守られてきたのだという。組長候補は、自分が最強であることを組の人間に示さなければならない。候補者が複数いる場合は、候補者同士で実際に闘うことさえあったという。
「だが、今の組長はその伝統を破った。若――シキ坊ちゃんの力を我々に示すこともなく、後継者にしようとしている。先代組長の身内である俺には、この不正を正す義務がある」
「そんな! 兄貴は望んで後継者扱いされてるわけじゃない! 今だって……他に誰もいないから、組を守るために――」リンがフジクラに向かって叫ぶ。
「他に候補者が誰もいないというのは、事実ではない」フジクラはゆっくりと頭を振ってみせた。「組長が、最初から若以外の他の候補者を認めなかっただけです。このことからも、組長はトシマ組がトシマ組たりえた伝統を破壊しようとしていると分かる」
「不正を正すって、どうするつもりなんだ?」アキラは思わず口を挟んだ。「あんたは、リンを誘拐してどうするつもりなんだ?」

「若をおびき出す。二人には、その餌となってもらう」

 フジクラはきっぱりと言った。





(2011/06/26)
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