アンノウン12 シキが撃たれた瞬間から、アキラは周囲の出来事をまるで別世界で起きているかのように感じていた。大人たちの怒号もリンの悲鳴も自分自身の絶叫さえも、ひどく遠く聞こえた。 バンともう一度銃声が響く。アキラは無我夢中でシキを抱きしめた。シキを守らなければならないのだということしか、考えられなかった。しかし、アキラは駆けつけた大人たちの手で、シキから引き離されてしまう。 ――この手にシキを取り戻さねば。 必死にもがいてシキの元へ戻ろうとするアキラを、不意に抱き留めた者があった。リンだ。うっかり暴れれば弾き飛ばしてしまいそうな華奢な体格に抱き付かれて、思わずアキラは動きを止める。 「リン……」 「アキラ! 落ち着いて。大丈夫……。大丈夫だから」 「だけど、シキが……シキが……!」 「兄貴は生きてる。心配ない。だから、ここはウチの親父たちに任せて。全て悪いようにはしないから」 「生きてる……。シキが……生きてる……」 リンの言葉を聞いた途端、膝から力が抜ける。アキラはその場にがくりと崩折れてしまった。 「そうだよ。兄貴は生きている。大丈夫」 宥めるようなリンの声。それでもアキラは不安を抑えることができずに、思う――或いは、声に出して訴えたのだったか――いずれとも判然としないけれども。 『シキは生きていなきゃ駄目だ。……遠く離れていたって、構わない。ともかく、生きていてさえくれればいいんだ。そうでないと、俺は……』 ――俺は、どうやって生きていけばいいのか、分からない。 *** シキと引き離されてからの記憶は、もやが掛かったかのように曖昧だった。後になって、アキラはそのとき自分が気絶していたのではないかと思ったほどだ。そう疑わずにはいられないほど、何一つ憶えていなかった。 しかし、リンに確認してみたところ、アキラは意識を失ってはいなかったという。ただ取り乱しきって、呆然としていたというだけで。 リンの話では、シキの負傷とそれに続く幾つかのハプニングにも関わらず、トシマ組の構成員たちは迅速に事に対処したのだそうだ。 アキラが聞いた二発目の銃声は、シキを撃ったタニグチではなく、フジクラが発したものだという。シキが銃弾を受けて皆が騒然とする中、トシマ組に対抗する姿勢を取っていたフジクラは仲間であるはずのタニグチに銃を向けたのだ。フジクラは一発でタニグチを射殺した後、自らの銃を捨てて両手を上げた。その間にもトシマ組の幹部たちがシキに駆け寄り、応急手当てを行った。アキラがシキと引き離されたのは、この時点であったらしい。 シキとリンの父親は、しかし、他の幹部のようにシキの傍へ駆けつけることはしなかった。やはり銃弾を受けた息子を案じているのか、ちらりと一瞥はしたものの、すぐに顔を上げてフジクラと対峙する。 『親父。俺が間違っていました。たとえ組の在り方に疑問を持ったとしても、こんなやり方をすべきではなかった。卑怯者を仲間に入れ、無関係の一般人を巻き込んだ時点で、俺には正義を叫ぶ権利はなくなっていた』 『フジクラ……』 『じきにここへ警察が来るでしょう。どうか行ってください。俺がここに残って、全ての落とし前をつけます』 『……分かった』とシキの父は重々しく頷いた。『……一つだけ言うならば、今回の誘拐はともかく、墓地で儂を銃撃したときの手際は見事だった』 リンは錯乱したアキラを宥めながら、二人の会話の一部始終を聞いていたのだそうだ。 間もなく、フジクラと父が打ち合わせした通り、トシマ組の面々は負傷したシキを抱え、その場を去って行った。廃工場に警察が到着したのが、その直後。リンとアキラは廃工場に残されていた。警察の保護を受けるためだ。 警察の包囲網が完成したところでフジクラはすぐに投降し、逮捕されたのだという。 保護されたとき、アキラはほとんど錯乱状態に陥りかけていた。そのため、警察の事情聴取には、主にリンが答えた。リンの話した内容は、取り調べを受けたフジクラの供述とほぼ一致しており、警察はリンとフジクラの証言内容を事件の真相として採用した。 すなわち、リンの誘拐はフジクラが組長の座を欲して計画したという、偽りの真相だ。誘拐してみたはいいものの、人質の扱いと交渉相手であるリンの父親への対応を巡って、犯行グループ内で仲間割れが発生。逆上したフジクラはかっとなって仲間であるタニグチを射殺したが、一人では交渉を成功させる見込みはない。そこで、フジクラは諦めて警察へ投降したという真相が二人の証言を採用して描かれたのだった。一般人であるアキラはリンと共にいたため巻き添えを食らったという、この点に関しては真実そのものの説明が行われた。 おそらく、リンとフジクラの証言を最初から疑って現場検証をすれば、証言とは異なる事実を示す痕跡も発見されたにちがいない。だが、警察はまさか誘拐犯と人質は揃って同じ内容の偽証をするとは考えなかった。――いや、その可能性が疑われたとしてもおかしくはなかったが、トシマ組絡みの事件の場合、組とつながりのある内部の協力者などが、それとなく結論を組に有利なように誘導するのが常だということだった。そうした事柄を、アキラは後になってリンから説明された。 どんな裏取引があったにせよ、アキラは翌日の昼に警察の事情聴取から解放された。リンと一緒に警察署を出ると、少し離れたところでリンの家の車(高級車なのですぐそれと分かった)が彼らを待っていた。車中には――側近ではなく――リンとシキの父がいて、彼らを迎えた。 アキラはシキら兄弟の父に会うのは、初めてだった。ともかく何か挨拶しなければと、言葉を探す。けれど、考えてみても今この場に相応しい挨拶は思い浮かばなかった。 「……この度は、どうも……」 何の意味もない音の連なりを、無理矢理に押し出す。しかし、シキの父はあまりにも厳しい顔つきで黙っているものだから、アキラは彼が自分の態度に機嫌を損ねたのではないだろうかと怯えた。 と、不意にシキの父が身じろぎした。携帯電話を取り出し、アキラへと差し出す。 「――シキは知人の病院に入院している。ここから十分ほどの場所だ。どうか、シキに会ってやってほしい」 「はっ……はい……」 「ありがとう。……ところで、君の両親は君の身を案じているだろう。この携帯で、家に電話しておきなさい」 両親とは、警察に保護された直後、少しだけ会わせてもらっていた。二人はアキラの身を案じて、早朝に警察に駆けつけてきていたのだ。その後、彼らは家に帰って行った。シキの父の言う通り、アキラのことを気にしているに違いなかった。 アキラは礼を言い、妙な緊張に震える手で携帯を受け取った。そんなアキラの様子を、隣に座ったリンが面白そうに見ていた。 電話を掛けたとき、両親はそろって家にいた。さすがに父は出勤しただろうとばかり思っていたのだが、そうではなかったらしい。アキラは二人に心配を掛けたことを、改めて申し訳なく感じた。 「心配させて、ごめん。もうすぐ帰るから。少し寄って行きたいところがあるんだ。だけど、三十分後には必ず家に帰りつくよ」 両親にそう告げて電話を切ったとき、車がちょうど病院の前に停止した。 *** シキが運び込まれた病院は、シキの父の血縁者が経営しているのだという。そのため、これまでトシマ組の構成員に様々な便宜を図って来たのだとか。 今回は、シキもまたその恩恵に預かっていた。表向きは誘拐事件とは無関係に、ただ事故に遭った患者として入院したのだ。――と、アキラを病室へ案内してくれたリンが言っていた。 シキたち兄弟の父は、車を降りては来なかった。リンもまた、アキラを病室へ案内すると、中には入らず外で待っていると言って聞かなかった。アキラに気を遣ってくれたらしい。彼らの厚意をありがたく受け取って、アキラは一人でシキの病室へ入って行った。 シキは一人きりの病室で、静かに眠っていた。ベッドの傍らには点滴が置かれており、吊り下げられたパックから伸びたチューブがシキの身体に繋がっている。眠るシキの顔色はいつにも増して白く、アキラは不安になった。 本当に、シキは生きているのだろうか? 覚束ない足取りでベッドに近づいたアキラは、そっとシキの顔に顔を寄せた。口づけの前のような距離まで近づいて、ようやく彼の呼気を感じる。――あぁ、ちゃんと、生きている。安堵して震える息を吐き出した途端、胸の奥から熱い塊がこみ上げてくる。それは抑えようもなく咽喉を駆け上って目に達し、涙となって溢れた。 ぽたっ。ぽたっ。あっと思った瞬間には、時、既に遅し。涙の滴が落下して眠るシキの頬に当たる。そして、シキの長い睫が微かに震えた。 シキが目覚めてしまう。目覚めたシキはアキラを拒絶するかもしれない。 リンの話を聞いて、廃工場でのシキの態度を見て、そんなことは起こりえないということもアキラには分かっていた。けれど、シキの本心でなかったとはいえ拒絶を経験してしまった彼は、どうしても拒まれる恐怖を感じずにはいられないのだ。 しかし、その恐怖以上に、アキラはもう一度あの強い意思の宿ったシキの目を見たいと強く願ってしまった。離れなければと思うのに、身体は自分の望みの方に正直で、だからアキラは結局シキの目が開くのをぼんやりと見つめていた。 シキはゆっくりと瞼を上げ、目覚めたばかりのぼんやりした目でアキラを捉えた。 数秒の間。やがて、シキは口を開いた。 「これは、夢なのか……?」 「シキ?」 何のことか分からず、アキラは瞬きする。その拍子に目の縁に溜まっていた涙が滑り落ち、シキの頬を柔らかく打った。 「本物……なのか。夢のようだな。お前が、もう一度、俺の前に現れてくれるとは……。拒絶して……お前を傷つけたというのに……」 シキは右手を持ち上げ、アキラの頬に触れた。そして、もう一度、感極まったように「本物だ」と呟く。そんなシキの行動に、アキラは拒絶される恐怖を忘れ、驚きや戸惑いさえ飛び越えて、微笑した。 愛おしいと思った。 シキを好きだった。いつからだか、シキが自分ひとりのものであればいいと思っていた。別荘で、シキに留学を勧めたときですら、離れていても心はシキとつながっている自分を想像していた。だから、拒絶されたときにひどく傷ついた。けれど、今は違う。シキの存在が続いているのであれば、それでいい。自分のものでなくとも、シキが生きて――心のままに生きていてくれるのなら、それで。 たかが十数年生きただけで、世間で言う愛というのがどんな感情なのかよく分からないけれど。それでも、今のシキに対する感情こそが自分にとっては愛というものなのだと分かった。 「すまない……。アキラ……謝って許されることではないが、俺は……お前から離れることでお前を守ろうと思っていた……。だが、離れても、お前を守れなかった……」 「いいんだ」アキラは静かに言った。「リンから全て聞いた。あんたのこと、恨んでるわけじゃない。……あんたは、完璧に見えるけど、やっぱりまだ十八の子どもで。だから、最善の選択だと思ってしたことでも、やっぱり最善じゃなくて、誰かを傷つけることだってあるさ。きっと大人だって、同じような失敗はする。生きてるって、そういうもんなんだと思う。――俺は、あんたを許すよ。そして、あんたが許してくれるなら、まだ、あんたを想っていたい」 「なぜだ。……なぜ、そんなに簡単に俺を許す……」 シキはきつく目を閉じた。泣き出すのを堪えているような、そんな表情だとアキラは思った。 「分かったんだ。拒絶されたって、俺はあんたを大切に想うことは止められない。……でも、多分、もっと早くこの言葉を言っていたら、今回の俺たちの間に起きたことはもっと簡単だったんじゃないかと思う――」 「シキ。俺は、あんたが好きだよ。たぶん、愛してる」 途端、きつく閉じたシキの瞼の端に、涙が盛り上がる。 すまなかった、ともう一度呟くシキの唇に、アキラは笑みの形の唇をそっと触れさせた。 (2011/10/02) 目次 |