アンノウン13






 目を覚ましたシキは、病室の中に人の気配があるのに気付いた。アキラではない。彼が去るのを見届けてから、眠りに落ちたことを覚えている。シキは頭を傾け、ベッドの傍らにいる相手に視線を投げた。驚いたことに、視界に入ってきたのは、父の姿だった。
「父上……」
 なぜこのような場所に父がいるのか、とシキはとっさに不審に思った。知る限りにおいて、父が息子たちに気遣いを見せたことはなかったからだ。もちろん、それは父が我が子を全く気に掛けていないということを意味しないのには、シキも気付いていた。己やリンは男子であるから、突き放すことで強く育てようとしているだけなのだ。ただ、そうした古臭いともいえるやり方を心情的に受け入れることができるかどうかは、また別の話だった。少なくとも、リンと父の不和の原因は、父の教育方針にあると言えるだろう。
「……いつから、そこに……?」シキは尋ねた。
「少し前だ。お前の友人を家に送り届け、ご両親に謝罪してきた。ご子息を巻き込んでしまい、申し訳ありませんでした、とな。つい先ほど、ここへ戻ってきたばかりだ」
「ありがとう、ございました……」
 シキは父に小さく頭を下げて見せた。警察の事情聴取に疲れたであろうアキラを、一人で帰らせたくないと考えていたのだ。それに、アキラの両親に謝りたい、とも。何か頼んだわけではなかったのだが、父が動けない己の代わりに手厚くアキラの面倒を見てくれたことは、本当にありがたかった。
 父はシキの感謝に、「いや」と素っ気なく首を横に振ってみせた。
「……あの、アキラという少年のことだが」
「はい」
「芯の強い真っ直ぐな人間のようだな。……リンから、お前と彼の経緯については聞かされている。彼は、お前にとってかけがえのない人間なのだろう……」
「……はい」
 父が何を言おうとしているのか、シキは全く読むことができなかった。だが、もはやアキラの存在も彼への想いも、隠すつもりはない。だから、ためらうことなく、父の言葉に頷いた。
 シキの様子に父は「そうか」と頷き、口を噤んだ。考え込むような少しの間の後に、もう一度声を発する。
「もしも、あの少年を望むならば、お前は儂から受け継ぐべき地位を諦めなければならない。……組は保守的な世界だ。同性をパートナーとすることは、世間では一般的になりつつあるが、組の首領としては受け入れられまい。たとえ、遠い昔に前例があろうとも、今は無理だ」
 シキはベッドの上で起き上がった。動いた拍子に撃たれた脇腹が痛む。だが、顔には出さなかった。今、己は父に試されていると感じたからだ。決して隙は見せられない。
 勝負時のポーカーフェイスは、得意だった。かつて己は何より大事な存在を冷たく拒絶してみせたことがあるのだ。そのときの内心の苦しさに比べれば、今の肉体の痛みなど、たやすく無視できる程度のものだった。
「俺は、今までに一度も、組長の地位を望んだことはありません。たとえその地位を得たとしても、あなたから継ぐそれは、俺の手で掴み取ったものではあり得ない。俺は、俺の手で得たものにしか、執着を感じない」シキは咽喉から声を押し出した。声が震えるのは辛うじて堪えたが、掠れたような音になった。
「そうだな」
「もちろん、父上の立場に伴う重責は、理解しているつもりです。後継者の不在が、組にとっての不安要素になるということも。……組が不安定であれば、他の勢力からの攻撃を受けやすくなる。抗争が起これば、堅気の人々に迷惑を掛けることになる」
「あぁ。それで、お前は我を殺し、儂の代役を務めてくれたのだったな。……だが、もはや儂は、お前に後を継げと強いるつもりはない。リンにもな。後継者の一人くらい、お前たちを犠牲にせずとも、儂が見つけよう」
「では……!」
 はっと息を呑み、シキは顔を上げた。父は己を跡継ぎの役目から解き放とうとしているのだと、分かった。けれども。
「待て、シキ。お前はしばらくの間とはいえ、組長代行として組の表に立っていた。理由もなく後継者から外せば、内外に怪しむ者が出よう。お前を後継者から外すには、親子の縁を切らねばならないだろう」
「分かりました」
「お前が選べ。……――話は変わるが、義父……お前の母方の祖父が、お前を引き受けて教育したいと言っていらした。高校卒業後の進路として、海外留学を手配して下さるそうだ。だが、今のところ、お前はこの申し出を受けることはできない。先方の条件は、お前が“ヤクザと縁を切ること”だそうだ」
 シキはまじまじと父の顔を見つめた。曖昧な言い方をしてはいるが、父はシキに一つのチャンスを提示してくれているのだ。生家と絶縁して、母親の実家からの援助を受けろ、と。
 また、父にシキへの援助を申し出た母方の祖父についても、シキは意外な思いだった。この夏、彼は別荘で祖父を待ち伏せて、援助してくれるように頼み込んだことがあった。だが、秋の初めに父が負傷し、不安定な組を支えなければならなくなったため、連絡を取ってはいなかったのだ。
 家から自由になることは、諦めていた。だが、まだ道は閉ざされていなかったのだ。
 呆然とするシキの膝に、父はUSBメモリスティックを放り投げた。
「父上、これはいったい……」
「リンから聞いた話だが。監禁中、あのアキラという少年に暴行を働きかけた人間がいるらしい。その者たちは、現場から逃走しており、いまだ警察に逮捕されてはいない。しかし、リンの誘拐事件についてはこれ以上に事を荒立てるべきでない、というのが組長としての儂の判断だ。シキ、お前も彼らについては、そのまま放っておけ――これは組長命令だ。くれぐれも、お前は儂の“意を汲んで”行動するように」
 用件を話し終えると、シキの父は病室を去って行った。
 部屋に一人残されたシキは、しばらくの間USBメモリを眺めていた。父がわざわざ自身の“意を汲んで”などと念押ししていった意味――おそらく、このUSBメモリに記録された人間への対処の仕方によって、己の意思を示せと言っているのだ。
 後継者から外れ、家を去るか。
 アキラを諦め、家に残って地位を継ぐか。
「フン……。答えは決まり切っている」
 シキは呟き、指先でUSBメモリを弾いた。


***


 ひと月後。シキは退院と同時に、フジクラの勢力の残党の行方を捜し出した。うち、アキラに暴行を働きかけたと思われる二名は他の組織に入り、少女売春の斡旋を行っていることが明らかになった。
 シキは組の意向に従い、他の残党は見逃した。が、売春に関わっていた二名には、容赦しなかった、匿名で警察に情報を流したのだ。シキのこの行動により、末端二名から芋蔓式に大規模な違法売春斡旋業者が摘発されることとなった。
 この事実を知ったシキの父は、“激怒して”彼を後継者から下ろすと組の集まりで宣言した。同時にシキには絶縁が申し渡されたのだった――。


***


 ――三月。
 まだ冷たい早春の風を受けながら、ユキヒトは屋上から中庭を見下ろしていた。かつて自分がシキを殴った中庭の一角。そこから視線を上げていけば、幾つかの教室の窓に胸に赤い造花を飾った三年生の姿が見える。
 今日は、卒業式なのだ。
 式典は、すでに終わっていた。
 ユキヒトたち一年生や二年生は、在校生として式に参加し、卒業生を見送った。もっとも、卒業式に一年生まで出ることになていたのは、式典の後片付けの人手が必要だからなのだろうが。その片付けも先ほど終わり、ありがたいことに在校生は昼までで学校から解放されたのだった。しかし、ユキヒトはすぐには帰宅せず、屋上へ上がってきた。何か用があったわけではない。ただ、真っ直ぐに帰る気分ではなかったのだ。
 ユキヒトは校舎の窓の中に、探すともなしにシキのクラスを探した。すぐに見つかった。窓際に、シキと並んで優秀だと言われた学級委員長の哲雄がいたのだ。その傍らには、ほっそりした黒髪の男子生徒が。二人は穏やかに談笑しているようだった。おそらく、教室ではちょっとした卒業パーティが開かれているのだろう。
 だが、その場にシキはいない。それは、最初からユキヒトも知っていた事実だった。
 シキは卒業パーティどころか、自身の卒業式にすら出席しなかった。卒業後、海外に留学することになった彼は、早々に海外へ渡ることが決まったのだ。シキは今日、この国を発っているはずだった。
 ユキヒトは屋上の手すりに寄り掛かり、そっと息を吐いた。吐息はまだ、寒さで白く濁る。ユキヒトは濁る吐息を眺めながら、鮮やかに学園に君臨し、去って行ったシキのことを思った。
 海外留学だって? アキラを置いて? だいたい、俺があんたが正直になれるようにあれほど骨を折ったっていうのに、あっさりアキラと離ればなれになるってどういうことなんだよ。人騒がせにも程があるだろ。
 何だかひどくもやもやした気分だった。あるいは、もどかしいような。
 トントントン。風の音に紛れて、階段を上る足音が聞こえた。ギィと重い音を立てて、金属製の扉が開く。屋上へ出てきたのは、トウヤだった。
「うぅ……寒っ……!」トウヤは肩をすくめ、ぶるりと身を震わせた。次いで、ユキヒトににっこりと笑ってみせる。「お、やっぱ、ココだったか」
「トウヤ」
「ココにいるだろうと思ったぜ。さっき食堂で暖かい缶コーヒー買ってきた。飲むだろ? 俺のおごりにしといてやるぜ」
 トウヤは近づいてくると、ブレザーのポケットから缶コーヒーを取り出し、うち一本をユキヒトに投げた。ユキヒトは危うげもなくそれをキャッチする。
「サンキュー」ユキヒトは危うげもなくキャッチして、礼を言った。
「どーいたしまして。……――今頃、生徒会長は空の上かなぁ? 出発、今日だろ?」
「あぁ……。でも、この時間ならまだ空港なんじゃないか。アキラも」
 アキラは今日、シキを見送るために学校を欠席しているのだった。
「そっか。でも、アキラは……いいのかな? せっかく仲が元通りになったのに、シキが海外留学だなんて」トウヤは首を傾げた。「あの二人、その……別れた、わけじゃないんだろ?」
「あぁ。それはない」ユキヒトは手すりの向こうの空を見上げた。「俺さ、シキの留学の噂を聞いたとき、アキラに尋ねたんだ。噂は本当か、シキが行ってしまってもいいのか、って。俺が口をはさむ問題じゃないが、聞かずにはいられなかった。……そうしたら、アキラは言ったんだ。シキの留学を、一番最初に背中を押したのは自分だ、ってさ」
「えぇっ!? なんでだよ? 恋人と、長い間、離ればなれになるのに」
「アキラは、自分たちは同性同士だから、男女の恋人同士のようにはいられないんだって言ってた」
 恋人というより、互いに背中を預け合っていく仲間のような関係なのだ、とアキラはシキとの関係について表現してみせた。
 男女の恋人同士ならば、最終的にはお互いを安住の地としてそこに留まる形もあり得るのかもしれない。しかし、自分もシキも、お互いを繋ぎ止め合ってお互いに留まってしまうには、あまりに若く未成熟だ――少なくとも、今はまだ。これから大人になるシキはまだ大きな可能性を秘めているし、自分自身も成長して社会人として社会を構成する義務がある。自分たちは恋愛感情に全てを費やすのではなく、自分が成長する道を見つけなければならない。だから、今は、離ればなれになって、お互いに自分の道を進まなければならないのだ、とも言っていた。
 ユキヒトがアキラの言葉を伝えると、トウヤはほぅとため息を吐いた。
「なんつーか、寂しいよな」
「寂しい? どういう意味だ、トウヤ」
「去年の春先には、拾われてきた子猫みたいに警戒して、大人しかったアキラがさ……俺たちの知らないところで大人になっちまったー、みたいな」
「あぁ、そうだな……」
 頷いて、ユキヒトは缶コーヒーのプルトップを開けた。飲み口に口を付ければ、ほとんど苦味のないカフェオレの甘さが下に広がる。ユキヒトは苦いコーヒーを好む性質だったが、今はカフェオレの甘さに心慰められる気がした。

 もやもやとしたような、もどかしいような。
 今の気分を、寂しいと言うのだと、ようやく気付いた。


***


 搭乗時間が迫っていた。
「それじゃ、元気で」アキラが言うと、
「あぁ……」とシキは曖昧に頷く。
 普段ははっきりした物言いのシキだが、ためらいがちな態度に仏頂面なのは、別れが寂しいからだ。一年足らずの長くもない付き合いだが、アキラはシキの表情がある程度読めるようになっていた。シキはもともと表情が変わりにくいのだが、喜怒哀楽の哀など心の脆さが前面に出るような感情を抱いている場合は、それを押し隠そうとしてかえって不機嫌そうな顔になったりするのだ。
「シキ。俺は、ずっとあんたが好きだから」
 宥めるように、アキラは言った。
“待っている”ではなく、“ずっと好きだ”と言ったのは、シキが留学している間を“待って”過ごすつもりはないからだ。いつかシキの隣に並んで歩ける人間になるために、しばらくは一人で歩いていく。“待つ”――同じ場所に居続ける――つもりはない。
 その思いは、シキが退院直前に家族と絶縁するつもりだと計画を打ち明けてくれたときから、ずっと抱いていた。シキにもすでに告げていた。
 だからだろう。シキは納得したように、表情の強張りを解き、微かな笑みを浮かべた。
「分かっている。……――長い休みには、帰ってくる」
「あぁ、楽しみにしてる」
 アキラはシキに左手を差し出した。シキがその手を掴んで、別れの握手をする形になる。
 口づけは、しなかった。空港での別れには人目があるため、しない約束をしていたのだ。代わりに、最後に二人きりで過ごした夜に飽きるほどキスをした――しかし、一向に飽きなかったけれど。
 やがて、シキは自分からそっと手を離し、アキラに背を向けた。もはや背後は振り返らず、凛と背筋を伸ばして搭乗口へと歩いて行く。アキラはじっと、その背中を見送っていた。
 紆余曲折あって、想い通じ合って、肌を合わせてもなお、シキの潔い背中は遠く、憧れずにはいられない。改めてそう思ったとき、温かな滴が頬を伝い落ちていく感触があった。けれど、アキラはそれを拭おうともしなかった。じっと瞬きもせずに、搭乗口を見つめていた。
 これは別れではない。自分はシキを“待つ”のではない。
 いつかシキと共に生きるために、経なければならない過程の一つ。
 唇を噛みしめて、そう自分自身を諭した。






(2011/10/30)
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